「消えろ、この野郎!」


千夏の意識が引き戻される。


今は昔話に浸っている場合ではない。


幾度目かの攻撃を受け、老人がぐにゃりと崩れる。


しかし数分もしないうちに再生される。


「クソッどうなってんだよ。
 これじゃ埒があかねえ!」


洋介が悪態をつく。


怪我をしている身だ。


苛立ちながら、何度も何度も鉄パイプで殴打を続ける。


「クソッどうして武器がこれしかねえんだよ!」


拾った鉄パイプを振り回しながら容赦なく老人を攻撃する。


手応えはあるものの、相手はダメージを受けた様子はない。


髪を掻きむしる洋介の手を、千夏が掴む。


「……もう、やめて……」


千夏は両膝を折って地面に付けると、震える視線を老人に向ける。


「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」


やがて耐え切れなくなったのか、地面に突っ伏する。


「でも……許してください。
 あたしには、生き延びる資格はないと思っています。
 ……そんなことわかってる……でも、あたしは生きて楽園に戻らなければならない……」


千夏は両手で腹を押さえた。


「……この子のために」


空気が、静止した。


千夏が鼻を啜る微かな気配しかしなかった。


「……この子?」


小さく頷く。


 洋介は絶句した。


 それでも言葉を続ける。


「俺の、子供なのか?」


「そうよ。三ヶ月だって。
 あんたと付き合うようになってから傑とはしてない」


千夏の怪我が背中に集中している理由に、洋介は漸く思い至った。


あれは、腹を庇っていたのだ。


 洋介との子供を。


「命の重さなんて考えたこともなかった。
 ……でも子供ができて、守りたいものができてわかった。
 誰もが誰かの子供で、誰かの親なんだって……失われていい命なんてないんだってことが。
 かけがえのない命なんだってことが」


ひざまずいた千夏の切れ長の瞳から、一粒の涙が流れ落ち、アスファルトに染みを作った。


「……だから、生きさせてください……」


消え入るような千夏の声。


その瞬間老人が陽炎のように揺らいだ気がした。


洋介もそれを見てとり、鉄パイプを振りかぶった。


全力の殴打を受けた老人は吹き飛び、塀に激突して四散するように消え去った。


カラン、と老人が立っていた位置に、銀色の鍵が音を響かせながら転がった。


「あれは……」


洋介が身を屈めてそれを拾う。


志恩が言っていたエレベーターの鍵に違いなかった。


千夏は腹を押さえたまま、まだ動かない。


洋介は千夏に近寄ると、その腕を掴んだ。


 潤んだ目で顔を上げると、洋介は千夏を抱え上げる。


「どうするの?」


「決まってんだろ、生き延びるんだよ。俺とお前と、俺たちのガキで」


洋介はエレベーター目指して走り始めた。


消え去る刹那、老人が千夏に向けて、微笑んだ気がした。