洋介は不敵な笑みを血塗れの口元に浮かべていた。


「誰だ、この爺さん。こいつを殺れば鍵とやらが手に入るのか?ラッキーだったな。こんなやつ俺の敵にもならねえよ!」


拾った鉄パイプを目の前に立つ年配の男の頭目掛けて振り下ろす。


その身体が鈍い音を立てて後方へと吹き飛ぶ。


しかし男はすぐさま立ち上がり、ぼろきれのようなスウェット姿で、虚ろな瞳の焦点を合わせる。


洋介の背後に立つ千夏に向けて。


「ちっ、しぶといな……こっちだって身体痛えのによ」


大きく振りかぶり、鉄パイプを老人に叩き込もうとした刹那、洋介の腕を千夏が掴んだ。


「……何だよ?!」


驚いている洋介の目に、顔色を真っ青にした千夏が映る。


その身体は小刻みに震え、今にも泣き出しそうだった。


「ごめんなさい……」


小さな呟きが洋介の耳に届き、眉をひそめて次の言葉を待っていると、続いて「許して……」という囁きが聞こえる。


いつもの千夏の勝ち気な態度からは考えられないか弱さだった。


そんな千夏の姿を見て、洋介はあるひとつの思考に行き当たる。

「あいつ……なのか?」



ごく小さく頷く。


再び老人に振り向いた洋介が顔をしかめる。


この老人について話すことは、何も今が初めてというわけではない。


その時の千夏は、こんなふうに怯えた反応は見せなかった。


「……こいつが」


「そうよ」


ごくりと喉を鳴らし、千夏が答える。


「あたしが、殺した男」



それは小学五年生の夏休みのこと。


麦わら帽子を被り、白いワンピースからこんがり小麦色に焼けた両腕を覗かせた千夏は、駄菓子屋の前でいつもの仲間とアイスクリームを頬張っていた。


手にしたアイスはものの数分で溶けていた。


長身で男勝りな性格の千夏は遊び仲間のリーダー的存在で、頼られることも多かった。


「お、今日もいるぞ『ヘンジン』」


頬にそばかすを散りばめた男子が面白いものを発見したとばかりに声を上げた。


数メートル先に、上下灰色のスウェットを着、こちらを睨み付けている年老いた男が立っていた。


近所では有名な偏屈を絵に描いたような変人で、男の家は溜めたものや、拾ってきた物で溢れ返っており、いわゆるゴミ屋敷と呼ばれる類いの近所迷惑な家だった。


落ち窪んだ虚ろな目で千夏たちを認めると、歯を剥いて威嚇してきた。


両親や近所の大人達は、悪臭や出火を懸念していた。


大人達の会話を聞いていた子供たちの間から、そんな提案がもたらされたのも、当然の帰結だったのかもしれない。


「ね、このゴミに火を点けたら燃えるかな?」


それは他愛のない、しかし子供特有の残酷さが滲み出た思い付きだった。


全員が、凶悪な笑みを交わし合う。


──火を点けてみよう。


話はトントン拍子で纏まり、夜、こっそり家を脱け出して男の家の前に集合する運びとなった。


イタズラを共有し合った子供たちの高揚感は、もはや後戻りすることは叶わないほどに高まり、彼らを興奮状態に陥れていた。


夜、家族が寝静まるのを待って、忍び足で玄関を出る。


よく晴れた夜だった。星が瞬き月が煌々と街を照らす。


本当にやるのだろうか。


人知れず千夏は腰が引けた思いだった。


しかしここまできて、あれだけ興奮した仲間に「やっぱりやめよう」などと言えば、千夏は小心者のリーダーとして信用をなくすことになるだろう。


大丈夫、きっとひどいことにはならない。


仲間の気が済むまで火遊びをして、何事もなくまた家路につく。


深夜のちょっとした冒険。


大人への階段を登るだけ。


千夏は自分にそう言い聞かせると駆け出した。


ゴミ屋敷は、静まり返っていた。


人の気配が感じられない。


集合した五人の仲間は、人の目がないことを確認すると、座り込んで、どのゴミに火を点けたらよく燃えるかと小声で相談を始める。


他人事のように眺める千夏をよそに、歩道にはみ出したビニール袋に火を点けることに決まったようだ。


ライターを取り出し、ゴミ袋の端に近付ける。


それはチリチリと音を立てると、一瞬消えたかに見えた。


内心千夏は安堵する。


しかし火は、地表を舐めるように燃え広がると、あっという間にゴミ袋を呑み込み、隣のゴミへと燃え移った。


呆然とする五人の前で、それは最早子供の手で消し止められる炎の勢いではなくなった。


ジリジリと、熱を放出しながら燃え進む炎、街灯のない周囲を月よりも明るく照らし、火の粉が宙に舞い上がった。


ボン、小さな破裂音がして、炎に照らされた五人はハッとする。


まずい、このままでは──。


「逃げろ!」


咄嗟に五人は身を翻して駆け出す。


背後ではもうもうと赤い炎と黒煙が上がり、もう全焼は免れまいという勢いだった。


千夏の心臓が早鐘を打つ。


どうしよう、こんなことになってしまって。


警察に捕まったら刑務所で何年も過ごすことになるのだろうか。


それとも、子供だから罪には問われない?


でも両親からはひどい叱責を受けるだろう。


 勘当されたらどうしよう。


今更のように千夏に強い後悔が覆い被さる。


 やらなければよかった。


必死の思いでひたすら走り続けた千夏たちの耳にかすかなサイレンの音が届いた──。


気付くと、千夏は自室で布団を被って震えていた。


あのあと、どうやって家まで戻ってきたのかは、記憶にない。


夜の間中鳴り止まないサイレンの音が、千夏にこれが現実だと思い知らせる。


『ヘンジン』はどうなったのだろうか。


火の手に気付いて逃げ出しただろうか。


いつまでもたっても明けない夜は、千夏の心を苛んだ。


「千夏、起きて」


ノックの音とともに、母親の声がした。


 朝七時。


 起床時間だ。


どうやら少し微睡んでいたらしい。


か細く返事をすると着替え、リビングへと向かう。


父親は食卓で新聞を広げ、母親は朝食の皿を並べていた。


「おはよう、千夏」


「……おはよう、パパ」


千夏は、そわそわした心地で椅子に座った。


「昨日の夜の騒ぎのせいで寝不足だな」


「そうねえ、一晩中火が消えなくてね。火の粉がこっちまで飛んでこないかって心配したわ」


両親の会話に心臓が飛び跳ねる。


それで、それでどうなったの、あの『ヘンジン』と家は。


「お前は知らないよな、千夏。昨日の夜あのゴミ屋敷が燃えてな。あの『ヘンジン』が死んだんだ」


「近所ではいつこんなことになってもおかしくないって話題だったけど……。やっぱりって感じよね」


淡々と交わされる会話。そこに一切の同情はない。


千夏は戦慄した。


──死んだ。自分たちのせいで。


まさか本当に死ぬなんて思っていなかった。


殺した。あたしは人殺しだ──。


呆然と震える千夏をよそに、両親の会話は続く。


「隣のお宅に延焼しなかったのがせめてもの救いよね。本当に迷惑だったんだから。千夏、寝ぼけてないでご飯食べちゃって、片付かないから」


何かを食べる気分には、到底なれなかった。


 溢れる恐怖を両親に悟られぬよう必死に隠した。


あの日から、共犯者とも言うべき五人の仲間が集まることはなくなった。


全員なに食わぬ顔で日々を生き、別のグループとつるんだりして日常は過ぎて行った。


夏休みが終わる頃、火事は失火であると結論付けられた。


うず高く積み上がったゴミから発火し、燃え広がったとされた。


沈みがちだった千夏の心は時間の経過とともに上昇していった。


警察は自分たちを逮捕しに来なかった。


それどころか、火事の原因が放火であることさえ気付いていない。


大丈夫だ、逃げおおせる。


それに、 あれは自分が言い出したことではない。


 自分はあくまでも共犯であり主犯ではない。


そう、あれはいわば不幸な事故みたいなものだ。


あたしは、悪くない。


 少なくとも一番の悪人ではない。


いつしか火事の記憶は頭の隅に追いやられ、千夏の罪悪感を刺激することも少なくなっていった。


火事に関わった五人は、一切その話をしないまま、それぞれ別の学校へ進学していった。




高校二年生の夏。


学校の不良グループのリーダー、大磯傑の恋人に収まっていた時のことだった。


 同級生の岸洋介に呼び出された。


リーダーとして高みの見物を決め込んでいる傑とは真逆で、洋介は粗野で暴力を好む男だった。


同じグループに属していながら、二人きりになったことはない。


そんな彼からの呼び出しに、首を傾げながら待ち合わせ場所に向かうと、不敵な笑みを浮かべる洋介が立っていた。


「来たな」


「何の用よ、わざわざこんなところに呼び出して」


世界から忘れられてしまったような、人気のない部室棟の片隅。


不機嫌さを全面に出して腰に手を当て、洋介を睨み付ける。


洋介はだらしなく着崩した制服のポケットに両手を突っ込んで、千夏を上から下まで値踏みするように眺め回した。


いつもと違う態度に不吉なものを察して千夏のうなじを冷や汗が流れる。


呼吸が浅くなり、目も泳ぐ。


「千夏、お前さあ……」


顔を覗き込むようにして、洋介が言った。


「ヒトゴロシ、なんだって?」


千夏の身体を形容しがたい衝撃が走る。


あまりの不意打ちに言葉を失った。


石のように硬くなる身体は、否定することも肯定することも許さなかった。


沈黙する千夏に、洋介は満足しきった様子で話を続けた。


「別の高校にさあ、遊び仲間がいるんだよね。
 で、その中の一人が酔って小学生の時、放火で人殺しをして、誰にもバレなかったって武勇伝をすごい自慢してきたんだよね。
どうせ酔っぱらって大袈裟に言ったんだろうって仲間は思ってたんだけどさあ……」


そこまで言って言葉を区切ると、意味ありげに口元を歪ませる。


 愉しくて仕方ないというように。


「どういうわけか、その実行犯のリーダーの名前に聞き覚えがあってさあ」


セミの大合唱が遠くなる。


 目眩がする。


 息苦しい。


 冷や汗が伝い落ちる。


 目の前が、暗くなる。


「お前なんだろ、アキタチナツって」


あの時の仲間が、事件の顛末を武勇伝として洋介に語って聞かせた──。


あの時集まった全員が、千夏のように罪悪感からあの事件のことは誰にも喋らないと思っていた。


当事者の一人として、あの火事の真相は墓場まで持って行こうと決めていた。


しかしそうではない人間もいた──。


「……で、どうしろと?」


やっとのことで唇を動かして千夏は呟く。


「どうしろ、ねえ。話が早くて助かる」


洋介が満面の笑みで考える素振りを見せながら、顎に指を当てる。


「俺の女になれ」


「はあ?」


眉をひそめて問い返す。


「あんたには美保がいるでしょ」


すると洋介にしては珍しく苦笑した。


「ああ……あいつはブランドみたいなもんだよ。
 あいつ、学校イチの美少女って言われてるだろ。
 美保と付き合うのは、ブランドのアイテム持ってるのと一緒なんだよ。
でも付き合ってみたら、すぐ泣くし面倒な女でさあ……それに」


空を仰いで燃え盛る太陽に目を細めると続けた。


「傑の野郎の女を奪うなんて最高の気分だろ。
 いつも命令して手を下さないあのクソ野郎が、俺に自分の女を奪われてたなんて知ったらあいつのプライドはどうなるだろうなあ。楽しみで仕方ないぜ。
 ま、それが人殺しを黙ってやる条件」


千夏は長い溜め息をついた。


もっと深刻な脅しを受けることを覚悟していた千夏の身体から、一気に力が抜ける。


安堵といってよかった。


洋介が単純で良かった。


 少し言うことを聞いてやればこの男は簡単に満足するだろう。


「……わかった、あんたの言う通りにする。
 それで黙っててくれるのね?」


「もちろん。俺があいつに言うまでは、このことは隠しておけよな」


洋介は屈託なく笑った。


正直、単細胞だと思った。


 馬鹿とも、能天気ともいえる。


しかしその笑顔を、眩しいとも思った。


千夏が失ってしまったもの。


 心からの笑顔。


羨ましい、と一瞬だけ思ってしまった。


手が届かないものを持つ彼を。