高橋ミヤビの高校生活は、暴力で彩られていた。


「おらあっ」


 放課後、ひとけのない校舎裏。


 岸洋介の蹴りが高橋の腹に叩き込まれる。


 腹を押さえて高橋が地面に転がる。


 数ヶ月前から、イジメのターゲットが高橋に変わった。

 今までイジメられていた川島が、暴力に耐え兼ねてとうとう不登校になったからだ。


 八人ほどの不良グループの男子生徒の嗜虐的な笑みが高橋に降り注ぐ。


 洋介が高橋の胸ぐらを掴んで引き立たせ、拳を顔面に食らわせる。


「おい、顔はやめておけよ」


 座ったままの傑が指示を飛ばす。


「ったく、わかってるよ、うるせえなあ」


最近洋介は、露骨に傑への対抗心を露にしている。


「俺にいちいち命令すんじゃねえよ。
 ちっ、せっかく身体が温まってきたってのに興醒めだわ。お前ら、好きにやっていいぞ。俺はもう帰るから」


残ったグループのメンバーにそう吐き捨てると、鞄を掴んで歩き出す。


倒れ込む高橋を、残った男子生徒が取り囲む。


これから彼らの気がすむまで、何の落ち度もない高橋ミヤビはぼろ雑巾のように暴行を受け、財布の中から金を奪われ、時には万引きに付き合わされ、 発覚した際は罪を擦り付けられる。


高橋はそれらを甘んじて受け入れ、高校の教諭は彼を腫れ物のように扱い、『生い立ち』がそうさせるのだろうと、持て余していた。


ひとしきりストレス発散を兼ねた暴行の終わりを告げたのは、「教頭が来た!」という鋭い女子生徒の押し殺した声だった。


金井美保のものだった。


「やべえ」


「おい、逃げろ」


タバコの火を慌てて消し、グループの男子生徒と遠巻きに見ていた女子生徒が身を翻して走り去っていく。


痛みを押して起き上がった高橋に、美保がハンカチを差し出した。


「これ、使って」


校舎裏には、二人以外の姿はなく、自在に飛び交う鳥の鳴き声が上空から落ちてくる凪いだ空気が流れるのみの世界となっていた。


「……ありがとう」


高橋ミヤビはハンカチを受け取るが、口の端の血液を拭き取ることは躊躇われ、ぐっと握りしめるだけに留めた。


教頭が来たというのは、暴行を止めるための美保のはったりだったのだろう。


「じゃあ、またね」


高橋から顔を背け、美保はそそくさと立ち去ってしまった。


残された高橋は、再び仰向けに地面に転がり、美保の残したハンカチを眺めた。


殴られた顔がヒリヒリと痛む。


そんな顔で明日登校しても、クラスメイトは誰も気にも留めないのだろう。


大磯のグループに関しては、教師でさえも手を焼いている。


彼らの被害者が高橋のみに留まっていることは教師たちにとって願ってもない状況といえる。


人身御供というやつだ。


高橋はいつまでもいつまでも、青から夕焼けに変わる空を見つめていた。


自身からする鉄を含んだ血の匂いと、土の湿った埃っぽい匂いが高橋の鼻を刺激する。

大の字に寝転がったまま美保の残した花の香りのハンカチを握りしめ、瞼を閉じた。


それ以降、借りたハンカチを返す機会に恵まれず、早数日が過ぎていた。


こんな形で返すことになるとは思ってもみなかったが。


「ここは危険だ、さっき公園があった。そこへ行こう。執行人たちが彷徨いてるから、狭い道は逃げ場が失われるから不利だ」


朦朧とした顔で美保が言った。


「でも……わたし歩けなくて……」


その呟きを受けて高橋は暫し考え込み、やがて座り込む美保の背中と膝の裏に自分の手を差し入れる、お姫様抱っこの要領で抱え上げると言った。

「ごめんな、すぐだから」


「ひえっ!?」


あまりの驚きに美保の呼吸が止まる。


高橋は頬を赤く染めた美保の表情に気付くと、気まずそうに顔を背ける。


「……すぐだから」


「……うん」


生死がかかったこんな状況で浮かべる表情ではないと美保は自分を律するが、つられて紅潮する高橋の顔を見て、更に赤面する。


数分、誰もいない淀んだ空気の住宅街を歩くと、質素な公園に辿り着いた。


そこは、どこか川島に呼び出されたあの公園に似ていた。


ブランコ、砂場、ゾウの鼻に見立てた滑り台にベンチ。

二人はベンチのひとつに腰かけると、揃って一息ついていた。


「ありがとう、ミヤビくん……」


できる限りの大きな声を出したつもりだが、隣の高橋の耳にようやく届く程度のものにしかならなかった。


どこからか奪ってきたのであろう鉄パイプを、ベンチに立て掛けながら高橋が言った。


「ごめん……こんな大怪我させて……執行人にやられているのを、見てることしかできなくて……僕は何をしに来たんだろうな、情けない。
助けられなくて、遅れてしまって本当にごめん」


高橋の言葉に美保は大きく首を振る。


「あの時、もっと強く川島を止めるべきだったんだ。なのに、僕はキミたちが地獄に堕とされるのを止めることすらできなかった」


あの時、狂気に満ちていた川島から地獄に堕とす四人に美保が含まれていることを知らされ、彼女を救うために高橋はこの異世界にやってくる決意をしたのだった。


「そんな……助けてもらう資格なんて、わたしにはない……ミヤビくんがイジメられている時、わたしは見ていることしかできなくて・・・」


申し訳なさそうに視線を落とす。


「そんなことないよ。ミホは何回も僕を救ってくれたじゃないか」


「ねえ、ミヤビくん……」


美保は上目遣いで高橋を見やり、ぽつんと言った。


「どうして、イジメられっこのフリなんてしてるの?」


すると高橋は苦笑して暫し考え込んだ。


「フリ、か。べつにフリなんてしてるつもりもなかったけど……そうだな。そうかもしれない。
川島が学校に来なくなって、大磯たちのストレスが溜まってただろ。ガス抜きが必要だったんだよ。
それなら、僕が適役だと思ったんだ。多分クラスの誰より殴られ慣れてると思うから」


静かに淡々と話す高橋の言葉を聞いて、美保の表情がぐっと強張る。


震える唇を開く。


「あのね、そのことなんだけど」


「ん?」


「……わたし、ずっと後悔してた。
 わたしがしたことは、ミヤビくんのために良かったのかどうか……。もしかしたらミヤビくんを逆に苦しめてしまったんじゃないかって」


「ミホ……」


美保が何のことを指して話しているのかは、すぐにわかった。



小学生の時。


美保の家は高橋家の隣だった。


美保とミヤビは同い年で、学校へも一緒に通う仲だった。


そんな美保だから、気付いてしまった。


いや、周りの大人達はとっくに気付いていたのだろう。


しかし誰も声を上げようとはしなかった。


高橋家では、一人息子のミヤビへの、父からの虐待が日常的に続いていた。


そのことについて、高橋は美保に何を言うでもなかった。


他のクラスメイトと同じように笑顔で会話をし、どこにでもいる普通の小学生として何ら変わりはなかった。


暗い表情など、微塵も見せたことはない。


しかし美保は心配だった。


心優しいこの幼馴染みが、いつか限界に達して壊れてしまうのではないかと。


もう二度と、笑ってくれなくなるのではないかと。


そう考えると恐怖に震え、小学五年生のある日、ついに美保は担任の教師へ、高橋家の暴力について相談してしまった。


事は瞬く間に大問題となり、暴力があったと認められると、高橋は児童相談所に保護され、両親から引き離された。


それからわずか一ヶ月で高橋は施設へ入るため転校していき、両親は近所の目から逃げるように引っ越していった。


「ミヤビくんは何も言わなかったから……もしかしたら本当はご両親と一緒にいたかったんじゃないかとか、わたしのせいで家族を引き離してしまって……わたしがしたことは間違いだったんじゃないかって」


教師に告げ口のように暴力のことを話してしまったことを、美保はずっと悔やんでいた。


もしかしたら高橋は、自分を恨んでいるのかも知れない。


高橋とそんな別れ方をしてしまい、それ以来美保は正体の分からない胸の痛みに悩まされていた。


いつか会って謝りたい。


そんな思いに捕らわれて数年が過ぎ──高校の入学式で、少し頼りない線の細い少年に成長した高橋ミヤビと再会した。


驚いた。


すぐにでも声を掛けて謝ろうと思った。


しかし、怖かった。


彼に冷たい目で、許さないと言われたらどうしようと。


結局謝るという行為で救われるのは、美保の心の痛みのみであり、完全なる自己満足でしかない。


謝れば許されるだろう、そんな甘えた希望的観測が破られた際の耐え難い苦痛を味わうのが怖くて、傷付きたくなくて、美保はずっと二の足を踏んでいた。


結局は自分の身が一番大事で辛いことがあると逃げ道に走ってしまう。


入学後、同じクラスになるも、彼とは一言も言葉を交わさないまま一年はあっという間に過ぎ去り、二年生になってしまった。


高橋が自分のことを覚えているのかどうかを確認することさえできなかった。


進級してすぐ、洋介に告白された。


彼に対して特別な感情は持ち合わせていなかったが、押しの強いアプローチに断ることができず、不良グループの筆頭である彼との交際を押しきられる形で承諾してしまった。


時を同じくして、それまで洋介たちのイジメのターゲットであった川島善彦が不登校になった。


日頃の鬱憤の捌け口になっていた川島の代わりに、大磯たちが目をつけたのが高橋ミヤビだった。


物静かで、クラスでも目立たない高橋は抵抗する素振りも見せず、格好のターゲットといえた。


止めなくては、と美保は思った。


けれど彼女にそんな発言権はなく、また声を上げる勇気も、美保にはなかった。


洋介の恋人という地位になったことで、美保は不良グループの一員になってしまった。


これでは、高橋を救うことなどできようもない。


グループに逆らったら、美保自身どうなるかわかったものではない。


ここでもまた、保身だ。


うんざりする。


罪悪感を少しでも薄くするため、暴行がエスカレートしそうになるのを阻止し、それとなく洋介たちを高橋から遠ざけるため高橋の動向を探ったりしていた。


けれど、それだけ。


美保にできるのは、そんな些細なことだけだった。


いや、そんなの、高橋の救いになどなっていないだろう。


結果、高校生活もあと三ヶ月となった今の今まで、高橋がイジメられているのを眺めるだけだった。


見殺しにしたようなものの美保を、今、高橋は救ってくれ、謝ってくれさえした。


隣に座り、薄く微笑むと、高橋はゆっくりと首を振った。


「あの時、僕が何も言わなかったのは、諦めていたからだ。自分が悪いんだって、親に好まれる子供になれない自分が悪かったんだって、そう思ってた。全部全部自分が悪い。親はひとつも悪くない、と思ってたんだ。あの頃は……」


高橋の長い睫毛が伏せられる。


「でも……施設に行って、色んな大人と会って、その考えが変わったんだ。自分が悪いなんて思うな、君が悪いところなんてなにもない。悪いのは両親だ、って慰めてくれる大人も大勢いた。
閉ざされていた世界に光りが射した気がした。自分を責めるだけだった世界の扉を、開けてくれたのはミホだったんだよ。
視界のすべてが鮮やかに色づいていった。
 春みたいだった。暖かくて優しい……ミホが教えてくれた新しい世界だった」


美保は目を見開いた。


柔らかく微笑む高橋の表情に、胸が締め付けられて痛い。


許さないはずがなかった。


 この心優しい幼馴染みが。


美保は高橋を信じ切れなかった自分を恥じた。


ああ、と声が漏れそうになる。


優しく暖かい彼の笑顔をずっと見ていたいと思ってしまった。


こんな自分を許し受け入れてくれた彼を。

「だから、今度は自分が助ける番だと思った。無鉄砲だとは思ったけど、行動せざるを得なかった。見捨てるなんてできなかった。僕みたいな役立たずに何ができるのかなんて分からなかったけど……キミだけは、僕が助けるから」


「ミヤビくん……」


泣くんじゃねえ!と洋介の怒声が頭の中で木霊する。


彼と違い、高橋は泣きじゃくる美保を責めたりはしなかった。


少し困ったような笑顔で少しだけ目線を外し、ただ泣き止むのを待ってくれる。


しゃくりあげるたびに折れた肋骨が痛むが、こみ上げる涙を止めることはできなかった。


とうとう美保は大声で泣きじゃくった。


どれだけそうしていただろう。


赤黒い世界に静寂が戻った頃、硬質な何かが地面を引きずる音が近付いてきて、二人ははっとした。


高橋は片手を立て掛けた鉄パイプに伸ばした。


やがて足音とともに公園の入口へと姿を現した人物を見て、二人は息を呑んだ。


鉄パイプを手にした、もう一人の高橋ミヤビがそこには立っていた。