「お願い、もうやめて……」
声にもならない掠れた呟きに、高橋はハッと意識を引き戻す。
いつも強気な千夏のものだった。
腹に手を当て、背中を丸めて殴打に耐えながら懇願する。
高橋は狂気じみた笑みを顔に貼り付けて暴行を眺めている川島に囁く。
「おい、もういいんじゃないか?」
「高橋、お前甘いな。だからイジメのターゲットにされるんだ。
……でも、そうだな。同じ光景が続いて飽きてきたかもな。そろそろボクらは帰るとしようか」
地面に伏せて、ピクリとも動かない死体のようになった四人を見て、ふんと鼻を鳴らす。
「志恩さん、ボクたちはここで失礼するよ。後のことは任せる」
満足しきった様子で言い放った川島を振り向き、志恩が失笑を浮かべる。
「帰る、ですって?何を勘違いしているのやら。貴方たちに帰るなんて選択肢は初めからありませんよ」
それを聞いた途端、川島は細い目を見開いた。
「どういうことだ?ボクたちは現実に帰れるんじゃないのか?」
次第に顔色を真っ青に変化させる。
「そんな話いつしました?誰かを地獄に堕とした者は、今度は自分がその誰かに報復として地獄堕ちを望まれる。当然の心理ではないでしょうか。ねえ、皆さん、そうですよね?」
未だ苦痛の中にいる四人に向かって志恩が問いかける。
「……当たり前、だろうが、そんなの」
くぐもったうめき声混じりの声で洋介が答えた。
「冗談じゃない!まだイジメグループの残りの連中を地獄堕とししていないっていうのに!」
川島が唇をわななかせ、理性を失って絶叫する。
志恩のセリフに、高橋も困惑していた。
自分はこの『地獄』から、脱け出せないのか。
改めて四人を暴行する黒ずくめの『執行人』に目をやる。
『あれ』が、自分たちの成れの果てであると志恩は言った。
混乱して叫び出したい、そんな心境に陥った。
高橋は手をポケットに入れ、触れる物の感触を確かめた。
これを渡すのに、今が一番良いタイミングだろうと、地獄に来る前わざわざ一度部屋に戻って持ってきたものだ。
脱出する方法は、何か方法は──。
不意にパンッと志恩が手を打ち鳴らした。
「依頼人が飽きたらしいわ。もう仕事は終わりよ、撤収!」
その言葉を聞き届けるや、漆黒の執行人たちは何事もなかったようにぱらぱらと散って行く。
「うう……」
暴行が終わるや否や、傑が呻き声を上げ、身体を起こそうとするが、「ぐがっ!?」と奇声を上げ再び地面に倒れ伏す。
「ようやく理解してもらえたかしら、ここが地獄だってこと」
全員、身体の内部から皮膚を破って突き出さんばかりの痛みに意識朦朧としている。
その姿に、高橋はポケットの中のものをぐっと握り、 自分がここへやってきた目的を思い出し、カオスに陥りかけた思考を取り戻す。
「……お願い、やめて……」
大量の涙を流しながら、潰れた声で美保が言った。
「ボクはもう関係ないだろ、元の世界に戻せよ!」
川島が唾を飛ばして叫ぶ。
「困ったわねえ……」
やれやれとばかりに肩を竦め、志恩が呆れたように呟く。
「そうね……じゃあ、こうしましょうか。貴方たちには、これから私が用意した敵と戦ってもらう。
勝てばあのエレベーターの鍵を手に入れることができる。つまりエレベーターを動かして帰れるってこと。
制限時間は五時間。だらだらやってもつまらないものね。制限時間を過ぎたら問答無用で執行人になってもらう。
鍵を手に入れて一番最初にあのエレベーターホールに来た人だけを楽園へ送り返してあげるわ。そういうルールのゲームにしましょう」
まるで何回も復唱してきた台詞のように、歌うような滑らかさで志恩は言った
洋介が瞳に色濃く憎しみを込めて志恩を睨み据える。
洋介の視線を受けて志恩は口元だけで笑う。
「ああ、いやだ。本当に楽園の人間は愚かね。別にこんな馬鹿げたゲームなんてしなくたって私は構わないのよ?
貴方たちのように愚かな人間に情けをかける必要もないの。このまま執行人に成り果てるのを待つことだってできる」
「そ、んなの、困る……」
ヒュウ、という空気が抜けるような、笛が鳴るような吐息を含ませながら、美保の声が地を這う。
「そうよね、私の気が変わらないうちに始めたほうが良いと思うわ。ちなみに執行人も変わらず彷徨いているから、その襲撃にも気を付けてね。じゃあ、今から五時間、スタート!」
のろのろと地面に伏した状態から四人が立ち上がろうとする。
相変わらず赤黒い世界には、再び音がなくなり、四人の漏れるような荒い呼吸音のみが、世界を支配している。
ようやく全員が両足で地面を踏みしめたタイミングで、ザッザッと複数の足音が耳に届く。
視線を上げると広場目指して漆黒の執行人たちが群れをなしてやってくるところだった。
「ぼやぼやしてるとやられるわよ。さあ、散った散った!」
愉しそうな志恩の声が全員に重い足取りの一歩を踏ませる。
美保の喉から声にならない悲鳴が漏れる。
恐怖に戦慄し、逃げようとするが、痛みで足が動かない。
先に歩き始めた千夏の方に懸命に声を張り上げる。
「千夏ちゃん……待って……」
その声に振り向いた千夏が小さく舌打ちし、美保の左腕を自身の肩へと回し歩き出した。
美保と千夏は民家と思しき建物のブロック塀に背を預けて呼吸を整えていた。
この世界は、どこにでもある街の風景から、人間だけを消失させたゴーストタウンである。
周囲を見渡した千夏は、隣の美保に冷淡に言い放つ。
「あたし、洋介のところに行く」
「……え、大磯くんじゃなくて?待って、置いて行かないで……」
美保の懇願を無視して千夏が立ち上がる。
「あんた、足手まといだからついて来ないでよね」
伸ばされた美保の手を振り払って、千夏は背を向け歩き始めた。
すぐに一人分の足音が消え、ヒュウヒュウという美保の呼吸音だけが空間を支配した。
見捨てられた。
こんな時、誰かがいてくれたら……。
ううん、駄目。
すぐに他人に頼ってしまうところが自分の欠点なんだ。
いつも誰かが助けてくれるなんて都合のいい話があるわけない、自分の力で何とかしないと……。
動こうとすると胸が、足が軋みを上げる。
でも行かなければ、鍵を探しに行かなければ……。
その時だった。
突然、カラララ……という硬質な物がアスファルトを引きずる音が静けさを破った。
執行人が手にしていた鉄パイプの音だと瞬時に気付く。
逃げなければ。
袋小路だ。入り組んだ路地に逃げ場はない。
美保が固く目を閉じた時、鉄パイプを引きずる音と、ブーツの靴音がごく至近距離で止まった。
見つかった!
正体不明の人影が、武器を振りかぶり、ヒュッと風を切る音が美保の耳元でし、やがて打ち下ろされる──。
ドっと鈍い音がして、次いでドサッという音が耳に届く。
美保の身体に衝撃はない。
恐る恐る瞼を開くと、目の前に倒れ伏す執行人の姿があった。
「ミヤ……高橋くん……」
目線を上げるとそこには、鉄パイプを構え、肩で息をする高橋の姿があった。
恐怖心を忘れ、呆けた口調でその名を呼ぶ。
どうやら高橋が執行人から美保を守ってくれたらしい。
その腕が、小刻みに震えている。
高橋は決して暴力的な男ではない。
他人に暴力を振るった経験など、恐らくないだろう。
そんな高橋が、勇気を振り絞って美保のために執行人を殴り倒してくれたのだ。
「これ……」
高橋はポケットから何かを取り出し、座り込む美保にそれを手渡した。
「わたし、の……」
「そう。借りっぱなしになってて、返すタイミングがなくて……」
美保は手渡されたハンカチに視線を落とす。
「キミを助けに来たんだ、ミホ」
高橋ははにかむように言った。
声にもならない掠れた呟きに、高橋はハッと意識を引き戻す。
いつも強気な千夏のものだった。
腹に手を当て、背中を丸めて殴打に耐えながら懇願する。
高橋は狂気じみた笑みを顔に貼り付けて暴行を眺めている川島に囁く。
「おい、もういいんじゃないか?」
「高橋、お前甘いな。だからイジメのターゲットにされるんだ。
……でも、そうだな。同じ光景が続いて飽きてきたかもな。そろそろボクらは帰るとしようか」
地面に伏せて、ピクリとも動かない死体のようになった四人を見て、ふんと鼻を鳴らす。
「志恩さん、ボクたちはここで失礼するよ。後のことは任せる」
満足しきった様子で言い放った川島を振り向き、志恩が失笑を浮かべる。
「帰る、ですって?何を勘違いしているのやら。貴方たちに帰るなんて選択肢は初めからありませんよ」
それを聞いた途端、川島は細い目を見開いた。
「どういうことだ?ボクたちは現実に帰れるんじゃないのか?」
次第に顔色を真っ青に変化させる。
「そんな話いつしました?誰かを地獄に堕とした者は、今度は自分がその誰かに報復として地獄堕ちを望まれる。当然の心理ではないでしょうか。ねえ、皆さん、そうですよね?」
未だ苦痛の中にいる四人に向かって志恩が問いかける。
「……当たり前、だろうが、そんなの」
くぐもったうめき声混じりの声で洋介が答えた。
「冗談じゃない!まだイジメグループの残りの連中を地獄堕とししていないっていうのに!」
川島が唇をわななかせ、理性を失って絶叫する。
志恩のセリフに、高橋も困惑していた。
自分はこの『地獄』から、脱け出せないのか。
改めて四人を暴行する黒ずくめの『執行人』に目をやる。
『あれ』が、自分たちの成れの果てであると志恩は言った。
混乱して叫び出したい、そんな心境に陥った。
高橋は手をポケットに入れ、触れる物の感触を確かめた。
これを渡すのに、今が一番良いタイミングだろうと、地獄に来る前わざわざ一度部屋に戻って持ってきたものだ。
脱出する方法は、何か方法は──。
不意にパンッと志恩が手を打ち鳴らした。
「依頼人が飽きたらしいわ。もう仕事は終わりよ、撤収!」
その言葉を聞き届けるや、漆黒の執行人たちは何事もなかったようにぱらぱらと散って行く。
「うう……」
暴行が終わるや否や、傑が呻き声を上げ、身体を起こそうとするが、「ぐがっ!?」と奇声を上げ再び地面に倒れ伏す。
「ようやく理解してもらえたかしら、ここが地獄だってこと」
全員、身体の内部から皮膚を破って突き出さんばかりの痛みに意識朦朧としている。
その姿に、高橋はポケットの中のものをぐっと握り、 自分がここへやってきた目的を思い出し、カオスに陥りかけた思考を取り戻す。
「……お願い、やめて……」
大量の涙を流しながら、潰れた声で美保が言った。
「ボクはもう関係ないだろ、元の世界に戻せよ!」
川島が唾を飛ばして叫ぶ。
「困ったわねえ……」
やれやれとばかりに肩を竦め、志恩が呆れたように呟く。
「そうね……じゃあ、こうしましょうか。貴方たちには、これから私が用意した敵と戦ってもらう。
勝てばあのエレベーターの鍵を手に入れることができる。つまりエレベーターを動かして帰れるってこと。
制限時間は五時間。だらだらやってもつまらないものね。制限時間を過ぎたら問答無用で執行人になってもらう。
鍵を手に入れて一番最初にあのエレベーターホールに来た人だけを楽園へ送り返してあげるわ。そういうルールのゲームにしましょう」
まるで何回も復唱してきた台詞のように、歌うような滑らかさで志恩は言った
洋介が瞳に色濃く憎しみを込めて志恩を睨み据える。
洋介の視線を受けて志恩は口元だけで笑う。
「ああ、いやだ。本当に楽園の人間は愚かね。別にこんな馬鹿げたゲームなんてしなくたって私は構わないのよ?
貴方たちのように愚かな人間に情けをかける必要もないの。このまま執行人に成り果てるのを待つことだってできる」
「そ、んなの、困る……」
ヒュウ、という空気が抜けるような、笛が鳴るような吐息を含ませながら、美保の声が地を這う。
「そうよね、私の気が変わらないうちに始めたほうが良いと思うわ。ちなみに執行人も変わらず彷徨いているから、その襲撃にも気を付けてね。じゃあ、今から五時間、スタート!」
のろのろと地面に伏した状態から四人が立ち上がろうとする。
相変わらず赤黒い世界には、再び音がなくなり、四人の漏れるような荒い呼吸音のみが、世界を支配している。
ようやく全員が両足で地面を踏みしめたタイミングで、ザッザッと複数の足音が耳に届く。
視線を上げると広場目指して漆黒の執行人たちが群れをなしてやってくるところだった。
「ぼやぼやしてるとやられるわよ。さあ、散った散った!」
愉しそうな志恩の声が全員に重い足取りの一歩を踏ませる。
美保の喉から声にならない悲鳴が漏れる。
恐怖に戦慄し、逃げようとするが、痛みで足が動かない。
先に歩き始めた千夏の方に懸命に声を張り上げる。
「千夏ちゃん……待って……」
その声に振り向いた千夏が小さく舌打ちし、美保の左腕を自身の肩へと回し歩き出した。
美保と千夏は民家と思しき建物のブロック塀に背を預けて呼吸を整えていた。
この世界は、どこにでもある街の風景から、人間だけを消失させたゴーストタウンである。
周囲を見渡した千夏は、隣の美保に冷淡に言い放つ。
「あたし、洋介のところに行く」
「……え、大磯くんじゃなくて?待って、置いて行かないで……」
美保の懇願を無視して千夏が立ち上がる。
「あんた、足手まといだからついて来ないでよね」
伸ばされた美保の手を振り払って、千夏は背を向け歩き始めた。
すぐに一人分の足音が消え、ヒュウヒュウという美保の呼吸音だけが空間を支配した。
見捨てられた。
こんな時、誰かがいてくれたら……。
ううん、駄目。
すぐに他人に頼ってしまうところが自分の欠点なんだ。
いつも誰かが助けてくれるなんて都合のいい話があるわけない、自分の力で何とかしないと……。
動こうとすると胸が、足が軋みを上げる。
でも行かなければ、鍵を探しに行かなければ……。
その時だった。
突然、カラララ……という硬質な物がアスファルトを引きずる音が静けさを破った。
執行人が手にしていた鉄パイプの音だと瞬時に気付く。
逃げなければ。
袋小路だ。入り組んだ路地に逃げ場はない。
美保が固く目を閉じた時、鉄パイプを引きずる音と、ブーツの靴音がごく至近距離で止まった。
見つかった!
正体不明の人影が、武器を振りかぶり、ヒュッと風を切る音が美保の耳元でし、やがて打ち下ろされる──。
ドっと鈍い音がして、次いでドサッという音が耳に届く。
美保の身体に衝撃はない。
恐る恐る瞼を開くと、目の前に倒れ伏す執行人の姿があった。
「ミヤ……高橋くん……」
目線を上げるとそこには、鉄パイプを構え、肩で息をする高橋の姿があった。
恐怖心を忘れ、呆けた口調でその名を呼ぶ。
どうやら高橋が執行人から美保を守ってくれたらしい。
その腕が、小刻みに震えている。
高橋は決して暴力的な男ではない。
他人に暴力を振るった経験など、恐らくないだろう。
そんな高橋が、勇気を振り絞って美保のために執行人を殴り倒してくれたのだ。
「これ……」
高橋はポケットから何かを取り出し、座り込む美保にそれを手渡した。
「わたし、の……」
「そう。借りっぱなしになってて、返すタイミングがなくて……」
美保は手渡されたハンカチに視線を落とす。
「キミを助けに来たんだ、ミホ」
高橋ははにかむように言った。