退屈な午後の補習を受けながら、金井美保は頬杖をつき、窓の外を眺めていた。


どこまでも広がる薄いブルーの空。


 浮かぶ白い雲。


 あの世界とは違う──。



あのあと、地獄から還ってきた美保が目覚めたのは、病院のベッドの上だった。


目を醒ました美保に、両親は涙目で喜び、妹は美保に抱き付いて離れようとしなかった。


事故に遭ったのだ、と説明された。


怪我の度合いは酷く、打撲も骨折も酷いものだったが、痛みは地獄で味わったものの、ほんのわずか、十分の一程度に過ぎなかった。


  高橋のことを訊いた。


 千夏のことも傑のことも。


 美保の恋人であった洋介のことも。


しかし周りの人間は不思議そうに首を傾げた。



ところが誰ひとりとして彼らの存在を覚えてはいなかった。


高橋たちは、初めからそんな人間は存在しないとされ、誰の記憶からも抹消されていた。


その現実を、美保は到底受け入れられなかった。


しかしそれも、事故の後遺症で混乱しているのだろうと捉えられた。


そうして、怪我も癒え学校に通い始めた今、志恩の言葉を噛みしめながら日常を送っていた。


彼女はこの世界を『楽園』と言った。


美保は改めてその言葉の正しさを思い知っていた。


この世界は穏やかで、凪いでいる。


命を脅かされることもなく、当たり前のように朝が来て、他愛のない日常が始まる──。


家に帰れば母親が温かい食事を作って待っていて、父親と妹と、揃って食卓を囲む。


そんな当たり前の日々が、こんなにも幸せで、かけがえのない温もりに溢れた世界だったのだ。


そんな些細な幸せにすら、あんな目に遭わなければ気付かなかったなんて、わたしは馬鹿だ。


目線を空から逸らし、自身の手に落とす。


千夏を殴り付けた感覚を、今でもはっきりとこの手は覚えている。


罪の感触。


大事な人に救われた、このちっぽけな命。



地獄から生還するには、美保のように多くの命を踏みにじる必要がある。


誰かの犠牲がなければ成り立たない命。


そんなふうにしてまで、生き残るほど自分自身の命に価値があるとは思えない。


けれど、生きるしかないのだ。


あの人が守ってくれたこの命を。







暗い自室のディスプレイから青白い光りが放たれている。


美保は届いたメールを食い入るように見つめていた。


数日前ネットで見つけた都市伝説めいた書き込みに従って、一通のメールを送信した。


そして今日、返信が届いた。


『地獄に連れて行ってください』


『承知しました。では今夜貴女の家の前でお待ちしております。 志恩』


きっとわたしは、あの時より少しだけ強くなったと思う。


 だからもう泣かない。


「……待っててね、ミヤビくん。今度はわたしがキミを助けに行くから」


美保は決意とともに、そう口にした。