街のどこからでも見えるタワーが漸く近くに、大きく見える位置に戻ってくるまで、数十分を要した。
高橋の耳にアスファルトを踏み鳴らす靴音が届き、美保とともに身をすくませた。
執行人か?
恐る恐る角から顔を出すと、そこにいたのは洋介と千夏だった。
「千夏ちゃん!無事で良かった……!」
高橋の腕から地面に降り立ち、感極まった美保が二人に近付こうとしたその時。
「危ない!」
高橋が叫びながら美保を突き飛ばした。
直後、風を切る音を伴わせた鉄パイプが美保が立っていた位置に正確に叩き付けられた。
「ちっ、時間ねえのによ。悪いが、俺たちは何がなんでも現実に戻らなきゃならねえ。
邪魔するなら容赦しねえぞ」
楽園へ帰れるのは、エレベーターに最初に辿り着いた者だけ。
仲間同士の争いになることは少し考えればわかることだった。
呆然と洋介の顔を見やる美保の前に、鉄パイプを構えた高橋が立ち塞がる。
「やる気か?俺にやられてばかりだったお前が?いいぜ、来いよ」
挑発するように洋介が不敵に笑い、すぐさま鉄パイプを振り下ろす。
横にずれてそれをかわした高橋は、洋介の頭部目掛けて鉄パイプを振り下ろす。
察知した洋介は片手で持った鉄パイプで高橋のそれを弾き飛ばした。
やはり、力では敵わないということか。
無力感に襲われる高橋は、早くも諦めの境地に達しようとしていた。
暴行を受けていた、あの日常と同じ感覚だった。
鉄パイプが手から離れ、地面に転がる。
誰も傷付けたくない。
殴りたくない。
ならば、これでいいじゃないか。
みぞおちに蹴りを入れられ、息が詰まった高橋の身体が無様に倒れる。
そこを逃すまいと追加の殴打が高橋を襲う。
何十回と容赦なく鉄パイプの餌食となった高橋の虚ろな瞳が、真っ赤な空を映し出す。
あれは血の色だろうか。
「千夏、お前も手伝え」
鉄パイプを渡された千夏は素直に頷く。
それを高橋に振りかぶろうとしたその時──。
「ああっ」
千夏のくぐもった悲鳴が響いた。
そのままずるずると座り込んでしまう。
「なっ」
絶句した洋介の視線の先を辿った高橋も驚愕に目を見開いた。
そこには、鉄パイプを震える手で持ち、肩で息をする美保の姿があった。
負傷している千夏の背中を、力一杯殴り付けたのだ。
高橋は見えない手で頬を張られたかのごとく覚醒した。
美保にあんなことをさせてしまった。
守り抜くと誓ったのに。
幸い、洋介から受けた攻撃は、恐らく執行人によって下された暴行よりはるかに軽いものだったのだろう。
彼らよりは身体が自由に動く。
洋介が美保に気を取られた隙に、高橋は鉄パイプを持ち直し立ち上がる。
目を閉じ集中して痛みを排除する。
痛みを意識の隅に追いやることなど到底できそうもないが、それでもやるしかない。
「うわああああっ!」
絶叫しながら鉄パイプを振り下ろす。
相手は重度の怪我人だ。
それなら自分に勝機はあるだろう。
鉄パイプが洋介の肩口に直撃した。
続いて横から薙ぐようにパイプを操り耳の辺りを強打する。
元々負傷していた頭部を狙い、息もつかせぬ早業で脳天を渾身の力を込めて殴り付けた。
どこからこんな力が湧いてくるのか。
高橋にも理解できなかった。
呻きながら頭を押さえ、洋介が蹲る。
鉄パイプを持つ手が痺れ、己が取った行動を改めて思い知らされる。
かつてこれほどの激情を感じたことがあっただろうか。
自分の中に眠っていた感情に戸惑いながら、高橋は洋介に打撃を食らわせる。
高橋の傍らでは、目を閉じ、大きく息を吸い込むと「ごめんね」と呟き、美保が千夏の背中を殴り付けた。
「っくうっ……」
千夏が更に背を丸めて倒れ込む。
──これで暫くは動けまい。
二人は顔を見合わせると、エレベーターのあるタワーに向けて歩き出そうとした。
「……っさせるかよっ……」
高橋の背中に洋介が追い縋った。
頭から血を流し、よろよろと弱々しいながらもしっかりと両足を地面につけて高橋の服を引っ張って足止めしようとしている。
厄介なほどにしぶとい男だった。
千夏も再び立ち上がろうと震える足で地を踏みしめる。
高橋は腕時計を見下ろす。
五時間が迫っていた。
不安そうな表情の目を見据え、高橋は美保に言った。
「ミホ、先に行け」
泣き出しそうに美保が首を横に振った。
語気を荒らげる。
「いいから早く行け!」
びくん、と身体を震わせると美保は小さく頷き言った。
「……ミヤビくんも、来るんだよね?」
「ああ、行く。だから早く」
鍵を握りしめた美保が足を引きずりながらタワーへ向かって歩き始める。
それを見届けた高橋の髪が引っ張られ、足をかけて転倒させられる。
無様に伏した頭上から、「千夏、美保を追え」という声が降ってくる。
歩き出そうとする千夏が視界に入り、咄嗟にその足を両手で掴む。
「きゃあ!?何するのよ!」
振り払おうとする千夏から決して手を離さない高橋の背に洋介の飛び蹴りが見舞われる。
しかし高橋は怯まない。
こんな痛み、毎日のように受けてきた。
千夏の足を支えにして中腰にまで姿勢を立て直すと、反転して彼女の背に身を隠す。
そこへ洋介の一撃が千夏を直撃する。
数瞬前までそこにいた高橋への攻撃だった。
頭への全力の鉄パイプでの攻撃が命中し、千夏は音もなく倒れる。
「……千夏っ」
千夏に駆け寄り彼女のもとにひざまずいた洋介の頭に高橋の鉄パイプが叩き込まれる。
「ぐっ……う……」
頭蓋骨が陥没した音がした。
動かなくなった二人から視線を剥がそうとしたその時。
タワーまであと少しに迫っていた美保の甲高い悲鳴が響き、高橋ははっと振り返る。
タワーの正面玄関の入り口から、美保目掛けて人影が襲いかかっていた。
川島だった。
「鍵を渡せえー!」
鬼のような形相で絶叫しながら美保目掛けて突進してくる。
「ミホ!」
高橋は駆け出していた。
今にも手が触れそうな位置にまで美保に迫っていた川島に体当たりし、小柄な身体を吹き飛ばす。
高橋を睨み付ける川島の目は、獰猛な光りに満ちていた。狂気の色だ。
「ミホ、早くエレベーターに乗れ!」
暴れる川島をタワーから遠ざけながら促す。
無我夢中だった。
美保は迷った素振りで高橋を見つめていたが、三段の階段を駆け上がり、開きっぱなしのガラス扉をくぐり、エレベーターホールへと到着する。
左のエレベーターの扉は開いていて、中に立つ志恩の姿が見えた。
「ミヤビくん、後ろ!」
振り返った美保はそう叫び、戻ってこようとする。
「来るな!」
エレベーターホールへ足を踏み入れた千夏を目にして高橋は覚悟を決めて絶叫する。
「志恩さん、頼む、ミホを連れて行ってくれ!」
「駄目だよ、ミヤビくん!そんなの……一緒に……」
「了解しました」
千夏が美保にあと1メートルと迫る。
「最初にここへ戻って来たのは貴女です、さあ、鍵を」
小さな震える手のひらから、志恩が鍵を奪い、エレベーターの鍵穴に差し込む。
志恩が美保の手を引いてエレベーター内に押し込み、千夏の手があと少しで届く刹那、音もなく扉が閉じていった。
「ミヤビくん!」
閉まり行く扉から最期に美保がその目に焼き付けた光景は、川島と洋介を決して力があるわけでもない高橋が、タワーへの侵入を食い止めている姿だった。
美保の頬を大粒の涙が伝った。
嗚咽が漏れる。
この世界に来た時と同じように音もなく永遠に上昇し続けるエレベーターの中にしゃがみ込み、志恩の存在も忘れて美保は泣きじゃくった。