荒い呼吸を繰り返しながら、高橋ミヤビは鉄パイプを握り直した。


もう一人の高橋ミヤビも、好戦的な眼差しを逸らさない。


『これ』が、志恩が用意した敵だというのか?


何しろ相手は自分なのだ。


 自分と全く同じことを、当然相手も考えている。


だから不意打ちも裏をかくこともできない。


同じだけのダメージを受け、同じだけのダメージを与えている。


つまり決着がつかないのだ、いつまで経っても。


二人の闘いを眺めながら美保は腕時計に目を落とす。


 焦りがじわりと美保を包んだ。



 肩口にまともに一発食らった高橋は、痛みを押して相手の同じ位置に一撃を叩き込む。


同時に蹲る。


 自分と同じだけの痛みを、目の前の自分は受けている。


相手の行動パターンは把握できるが、それだけであり、トドメを刺せる攻撃は浴びせられない。


 出し抜く策はないのか。


 同じことを相手も考えているに違いない。


 なにしろ、敵は自分なのだから。


このまま打ち合い続けても、いたずらに時が過ぎていくばかりで、決着がつかない事態に陥ってしまう。


後ろに控える美保の焦燥感が痛いほど伝わってくる。


じゃり、と口の中に不快感が広がる。


 打ち身は全身に及ぶ。


この世界の鉄パイプは、高橋の知る何十倍もの威力がありそうだ。


次の一手をどうするか──。


じわりじわり、鈍痛が思考を鈍らせる。


打開する策……と考えていると、高橋の視界の端で、突然人影が動いた。美保だった。


「……っミホ、危な……」


引き留めようとする高橋の手を振り払い、美保は高橋の姿をした敵へとどんどん近付いていく。


そこに恐怖の欠片は感じられなかった。


「ミホ……何を……」


すると美保は頭ひとつぶん背の高いもう一人の高橋の身体を抱き締めた。


ゆっくりと優しい手つきで。


もう一人の高橋は、目を見開き、やがて顔をくしゃくしゃにして涙を流し始めた。


カラン、と音を立てて鉄パイプを地面に落とす。


その両腕を、華奢な美保の背中に回し、顔を肩に埋めて、もう一人の高橋は泣き続けた。


それを、呆然と眺めていた高橋の目の前で、音もなくもう一人の自分が姿を消した。


鈴のような音を立て、銀色の鍵が地面に落ちた。


ゆっくりと高橋を振り返り、美保は柔らかく微笑んだ。


「愛してほしかったんだよ、キミは」


美保は自慢気に胸を張って明るく笑った。


高橋は、両親からの無償の愛情も、親友との友情も知らない。


虐げられてきた人生に疲れ、期待することを諦めてしまった。


当たり前に得られるはずの、愛という存在を疑ってしまうほど、彼は善意に恵まれてこなかった。


 また、欲することもなかった。


そんな彼の意識を変えてくれたのが、美保という存在だった。


初めてだった。


この子のために何かしてあげたいと望むことは。


彼女の笑顔をずっと見ていたいと思うことは。


新しい世界を見せてくれた彼女に恩返しするつもりでこの『地獄』にやってきた。


しかし、こうしてまた、彼女に救われてしまった。


彼女を想うこの気持ちは、何と形容したらいいのかわからない。


ただ、他の誰とも違う特別な存在として、この瞳は彼女を捉えている。


これを愛と呼ぶなら、納得してしまうほどの強力な想い。


誰彼かまわず優しくしてあげたくなる、高揚した不思議な温もり溢れる気分。


気付くと、高橋は美保を抱き締めていた。


すがるように力を込めて。


「ちょっとミヤビくん、わたし一応怪我人なんだけど」


おどけた調子で美保が言う。


その表情に笑みが刻まれているだろうことは容易に想像がついた。


もうこの手を離したくない。ずっと隣にいてほしい。


 ずっと……。


高橋は思考を遮るように頭を振った。


今は目先のことに集中するべきだ。


 時間はあまり残っていない。


美保の身体からゆっくり手を剥がすと、その瞳を覗き込みながら言う。


「行くぞ」


「うん」


顔を真っ赤にした美保を抱えると、「預ける」と鍵を持たせた。


美保の表情が一瞬憂いを帯びる。


「大丈夫。守り抜くから」


弱々しい声だ、と自覚しながらもそう宣言せずにはいられない。


自分はどうなってもいい。美保を守り抜ければ──。