あれは、高校一年生の秋だった。

「西野、いや……聖奈、好きだ。俺と付き合ってくれないか?」

 入学してすぐの頃から仲良くしていた間中定彦から、生徒玄関横の銀杏の木の下で告白されたのは。
 聖奈は驚いた。それと同時に、ドキドキもしていた。
 あまり人付き合いが得意でない聖奈は、それまで片想いをしたことはあれど付き合ったことはなかった。いつも社交的な誰かに先を越され、仕方ないと諦める側だった。
 そんな聖奈は、告白をされたこともなかった。これが、初めての告白だった。
 聖奈は定彦をそういう目で見たことはなかったが、嫌いではなかった。それに、ずっと諦め続けていた過去の自分の恋愛を振り返れば、告白することがいかに怖くて勇気のいることかを知っていた。

「うん、いいよ。よろしくね、間中くん」

 特に断る理由もなかった聖奈は、定彦の告白を受け入れた。
 そこからは、楽しい日々が続いた。

「聖奈。今度の日曜日、水族館に行かないか?」
「うん、いいね。いこいこ!」

 最初こそ受け身な姿勢だった聖奈だが、定彦と一緒にいるうちに本当に好きになっていった。定彦と一緒にいる時間は心地良く、落ち着いていられた。
 一方で、水族館デートなんてした日は心臓が高鳴っていた。初めての恋人と積み重ねていく日常は、確実に聖奈の毎日に彩りを与えてくれていた。

「――好きです。付き合ってください」

 しかし、そんな日々は長くは続かなかった。
 高校一年生も終わる1月下旬。たまたま通りかかった誰もいない夕暮れ時の教室で、定彦は告白されていた。
 しかもその相手は、中学から仲良くしていた聖奈の友達、神崎麻耶だった。

「ずっと、ずっと好きだった! 小5の運動会で転んだ私を助けてくれた時から、ずっと! 中学は離れちゃったけど、私は今も、間中くんのことが好き」

 麻耶の声は、とても真っ直ぐだった。聖奈がその場の感情で受け入れ、付き合ったのとは全く違う強さがあった。すぐに、それが気持ちの強さなのだとわかった。
 聖奈は麻耶とは友達だったが、年頃の女の子がする恋バナはほとんどしなかった。する話といえば、二人とも好きな音楽や映画、最近SNSで見かけた話題のカフェなど、とりとめのないことばかりだった。
 それゆえに、聖奈は自身が定彦と付き合っていることを言わなかったし、麻耶もまた定彦のことが好きなのだと気づくことができなかった。
 だから麻耶は定彦に告白したんだろう。
 そんなふうに、聖奈は思った。

「いやでも、俺は……」
「知ってる。間中くんは……聖奈と付き合ってるんだよね?」

 しかし、違っていた。
 どう断ろうかと言い淀む定彦に、麻耶は信じられない言葉を返していた。

「だから、遠慮しなくていいよ。思いっきり振ってほしい。その方が、すっぱり諦められるから。そのために、私は告白したんだから。だから、お願い」

 麻耶は全てを知っていた。全てを知った上で、自身の気持ちの区切りをつけるためにあえて告白していた。それがどれほど辛く、悲しいことか。
 聖奈は続きを聞きたくなくて、気づかれないように急いでその場を後にした。
 どんな言葉で振ったのかはわからない。しかし、翌日見た麻耶の顔はとても晴々としていた。
 聖奈は悲しかった。許せなかった。
 自分だけが友達の気持ちに気づかず、のうのうと恋人との毎日を楽しんでいたことに。
 知らず知らずのうちに、中学からの大切な親友を傷つけていたことに。
 気持ちの強さが、圧倒的に麻耶に負けている事実に。
 それからしばらくして、聖奈は定彦と些細な喧嘩をして、それを口実に別れを切り出した。かなり粘られたが、最終的に聖奈が定彦を避ける形でフェードアウトした。高校2年生はクラスが分かれていたこともあって、疎遠になるのは難しくなかった。定彦もやがて接してこなくなり、完全に自然消滅した形となった、はずだった。
 まさか、高校3年生になって再び同じクラスになるどころか、こんなデスゲームの最終局面にまで巻き込まれてしまうなんて、思いもしていなかった。
 しかも、残り時間はあと4分しかない。
 もう迷っている暇はない。

「――聖奈と間中くん、早く出て!」

 聖奈が口開こうとしたまさにその時、鋭い声が横から差し込まれた。驚いて目を向けると、麻耶が涙を浮かべて聖奈を見据えていた。

「残り時間! もう3分ちょっとしかない! 悠長に話している時間はないから! 早く!」
「いや、なんで……私じゃないでしょ。むしろ出るのは、出ないといけないのは、麻耶と定彦でしょ!」

 無理やり自分の腕を掴む麻耶の手を、聖菜は強引に振りほどいた。
 聖菜は肩で息をする。その間、先に教室を出ていった恋人たちの顔が脳裏に浮かんだ。
 こんな状況だというのに、どこまでも真剣に告白をした人がいた。
 こんな状況だというのに、いつも通りふざけた調子で好意を伝えた人がいた。
 こんな状況だというのに、どこまでも初々しい様子で気持ちを伝えた人がいた。

「私はもう、定彦とは別れたの。今の私は、定彦のことが好きじゃないの!」

 聖菜は大好きな友達を、本気で睨み付けた。今度は、床で倒れている恋人になれなかった人たちの顔が浮かんだ。
 こんな状況だからこそ、本当の恋人の名前を必死に呼び続けて撃たれた友達がいた。
 こんな状況だからこそ、好きでもない相手の手をとりキスをして撃たれた人がいた。
 こんな状況だからこそ、自分の信じる気持ちを優先して撃たれた人たちがいた。
 聖菜は思った。
 自分は果たして、どちら側の人間なんだろうか、と。

「それに私は……教室から出るために、定彦のことをこの場だけでも好きになるなんてできない。好きになんかなりたくない。だから、私は教室から出ることはできない!」
「聖奈、俺はさ……」
「定彦は黙って!」

 大好きな元恋人の声を、努めて激しく遮った。
 聖菜は感じ取った。
 自分がどちら側の人間かなんて考えるまでもない。
 聖菜はこれまで、無意識のうちに麻耶の気持ちを踏みにじってきた。そんな自分が許せなかった。だから定彦と別れた。一方的に距離を置いた。そうして定彦のことも傷つけた。
 聖菜はどこまでも、自分がこれまで最低だと思い続けてきた自分の両親と同じことをしていたのだと思った。
 聖菜の母は不安症で、かつとても惚れやすい人だった。

 ――好きです。付き合ってください。

 大人は恋人になる時に告白なんてしないというが、聖菜の母は誰かに必要とされる「告白」を最上の喜びにしているような人だった。結婚してからもとっかえひっかえ浮気を繰り返し、家族を傷つけていた。
 おそらく本人は、そのことに全く気がついていなかった。浮気から帰ってきた翌日には、悪意なんて一片足りともない穏やかな表情で聖奈や父を買い物や遊びに誘っていたのだから。
 そしてそんな母の浮気癖に一番傷ついていたのは、他らなぬ父だった。
 真面目だった父は母の言動に愛想を尽かし、ギャンブルとお酒にハマった。母と話し合うこともせず、ただひたすらに自分の好きなことにのめり込んでいた。今思えば、それは父なりの逃避の手段だった。
 聖菜は、自分のことしか考えていない二人のことが大嫌いだった。
 にもかかわず、自分はそんな二人と、同じことをしていたのだ。自分が、この教室から出られる側の人間でないことは明らかだった。

「だからさ、麻耶。私の代わりに、麻耶が出てよ」

 聖菜は思った。自分なんかより、よっぽど麻耶の方が定彦の隣に相応しい。小学生の時から持ち続けている純粋な恋を、叶えてほしかった。

「ううん、聖奈。それは、できないよ。ねっ?」

 しかし、麻耶は聖奈の願いを受け入れようとはしなかった。それどころか、全てをわかっているかのように定彦の方を見た。

「聖奈、俺さ。やっぱりまだ、聖奈のこと諦められないんだ」
「え?」

 聖菜の口から呆けた声が漏れた。それでも、定彦は気に留めることなく言葉を続ける。

「聖奈。俺はまだ……聖菜のことが、好きだ。俺と付き合ってほしい」

 定彦の口から出た告白に、聖奈は息が止まるかと思った。

「そういうことだよ、聖奈。それに聖奈も、間中くんのこと嫌いになってないでしょ?」
「そ、んな……」
「人と人との縁はそんな簡単に切れるものじゃないんだよ、聖奈。だからさ、この三人が残っちゃったら、出る答えはひとつなんだ」

 麻耶は徐に聖奈に近づくと、優しく頭を撫でた。

「ほら、聖奈。早く」
「やだよ、麻耶。私、わ、たしは……麻耶と定彦に……」
「聖奈」

 くるりと聖奈の身体が定彦の方へ向いた。正確には、麻耶の手によって向かせられた。
 親切なのか野暮なのか、『残り時間はあと1分でーす』という声のあとに、定彦はもう一度あの言葉を言った。

「聖奈、好きです。俺と、付き合ってください」

 嫌だった。悲しかった。嬉しいと思ってしまうのが、愛しいと思ってしまうのが、堪らなく嫌で、悔しかった。

「ほら、聖奈」

 トンと麻耶に背中を押される。聖奈が言えることは、ひとつだけだった。

「わ、たし……も…………好き、です……」

 聖菜が答えると、定彦は足早に近づいてきて抱き締めた。そしてそっと、キスをした。

「ふふっ。おめでとう、聖菜! 間中くん!」

 ひとりの拍手が鳴る。たったひとりの拍手のはずなのに、後ろから聞こえてくる拍手はどこまでも深く、深く聖菜の心に沁みてきた。

「行こう、聖奈」
「幸せになってね、聖奈」

 ふたつの声に促されて、聖奈は足を前に踏み出す。
 ひとつの声は隣から聞こえる。
 ひとつの声は遠ざかっていく。

「聖奈、生きような。神崎のためにも」

 決意の声はすぐそばで。
 祝福の声は背中の方で。

「うん……う、ん…………っ!」

 聖奈は小さく頷くと、血だまりを乗り越えて勢いよく廊下に飛び出した。

『おめでとうございまーす! 最後のクリア者が出たので、これにて「告白ゲーム」は終了としまーす!』

 どこまでも楽しそうなスピーカーからの声と、破砕音とも爆発音ともつかない轟音が、どこか遠くで響いていた。