むせ返るような血臭が、そこかしこに満ちていた。
胃の奥から何かがせり上がってくる感覚が、ずっとしていた。
しかし、今はそれどころではない。
残り8分――。
その事実が、3年2組の教室に立ち尽くす5人の胸中に、少なくない焦りをもたらしていた。
「これは、まずいな……」
最初に口を開いたのは、定彦だった。数十分前にはあれほど冷静に大毅と杏子の諍いを仲裁していたというのに、その落ち着きは完全になくなっている。
いや、むしろ。ここで騒ぎ出さずに一声をあげられること自体が、まだ残った他の4人よりも幾許か冷静であることを物語っているのだろうか。
「今ので4人撃たれて……まだ、奇数だ」
「つまり、最低でも誰か一人は残らないといけない、ってこと……」
「いや、嫌だよ……死にたくない……っ!」
麻耶は絞り出すようにつぶやき、聖菜は静かに拳を握り締め、美友香は頭を抱えてしゃがみ込んだ。ずっと教室の後方の席に座っている遼平は、未だに一言も発さない。
「でも、どうにかして決めないといけない。じゃないと、全員が死ぬ」
「なんで、どうして……こんなことに……っ!」
定彦の言葉を受けて、弾かれたように美友香が立ち上がった。
「どうせ、どうせあたしなんでしょっ!? あたしは、奈波と恋人同士になった! でもその奈波は、ひとりで岡辺を追いかけて、教室を出て死んじゃった……! あたしは、恋人がいなくなったのっ!」
悲痛な声が響く。
しかし、その可能性は誰もが考えていた。それだけに、反論の声は上がらない。
「……あたしはもう出られない。一緒に出る恋人がいないから……。いや、違う……か。あたしの、あたしの本当の恋人は……俊介先輩だ……。会いたい……会いたいよ………俊介先輩……っ!」
「っ、まだ! まだわからないっ!」
しゃくり上げる美友香の泣き声を打ち消すように、叫び声が聞こえた。それまでひたすらに沈黙を貫いていた、市本遼平の声だった。
「まだ、わからないよ。だから小畠さん、生きるのを、諦めないで」
「は? あんた……今ごろしゃしゃり出てきて、なに言ってるの?」
「ご、ごめん……。僕、陰キャだから……」
涙目の美友香に睨まれ、遼平は委縮する。けれど、それでも遼平は言葉を続けた。
「で、でも……陰キャだけど、小畠さんの気持ちが、僕にはわかるんだ。僕にも、その、付き合ってる人がいるから……」
「は?」
美友香は足音うるさく遼平の席に近づくと、制服の袖を思い切り引っ張った。
「なに適当な嘘ついてんの、おいっ! あたしの気持ちが、あんたみたいなやつにわかってたまるかよっ!」
「っ、そうやって! 小畠さんたちはいつも見下すよね!」
引っ張られた拍子に椅子から転がり落ちた遼平は、すぐさま立ち上がると逆に美友香の腕を掴んだ。
「なんで嘘だって決めつけるの! 僕が陰キャだから? 陰キャだったら、誰とも付き合ってなさそうだから!?」
遼平の気迫に、美友香がたじろぐ。
「だから僕は、嫌いなんだよ……小畠さんみたいな人が。でも、教室の外にいる好きな人のために出たい気持ちだけはわかるんだ……だから、僕も覚悟を決める」
スッと遼平はひとつ深呼吸をして、言った。
「小畠さん。好きです。僕と、付き合ってください。付き合って、一緒に外に出て、本当の恋人に会いにいきましょう!」
これまで、遼平の口からは聞いたことのない声だった。それほどの声量で、一番遠くにいた聖菜の耳にまで届いていた。
こんな声が出せたのかと、聖菜は心の底から驚いていた。
「は……お前、マジで何言ってんの。あたしは、奈波と」
「恋人関係は、おそらく上書きできる」
遼平は反論の言葉を口にした美友香を遮った。
「さっき、岡辺さんは一度恋人関係になった水戸部くんのことを振った。そうしたら、水戸部くんは撃たれた。これはきっと逆にも当てはまると思う」
「そんな、の……」
「うん、もちろん推測。でもね、僕たちは何が何でも出ないといけない。だから、僕と付き合ってほしい」
震えつつも力強く言い放つと、遼平は聖菜たちの方へ目を向けた。
「みんな、ごめん。もう時間がないんだ。だからここは、恋愛のセオリー通りにいきたい」
「恋愛の、セオリー?」
定彦が訊く。遼平はこくりと頷いた。
「そう、セオリー。早い者勝ちだ。それと、勢い」
にへら、と遼平が恥ずかしそうに笑った。また聖奈が見たことのない、彼の表情だった。
同じような感想を抱いたのか、定彦は呆気にとられたように目を見張ってから、「なるほどね」と小さく肩をすくめた。
「それで、どう? 小畠さん」
遼平に向き直られた美友香もまた目を丸くしていた。目尻に浮かべた涙は未だに光っていたが、それ以上は流れていない。
「……本当に、付き合ってる人がいるの?」
「うん、いる」
「だれ」
「隣のクラスの、山下ちひろ」
「ハハッ、だれそれ。わかんないや……」
美友香は小さく笑うと、どこかすっきりとした表情で天を仰いだ。
「……わかった。恋人同士になろう。でも、この場限りね。絶対に」
「うん、約束」
美友香と遼平は指切りを交わすと、そのまま抱き合って唇を重ねた。何かを誓い合うような約束のキスは、聖奈の予想よりも随分と長かった。
そして二人は聖奈たちに一度向き直ってから頭を下げると、手を繋いだまま血の海となった床を踏み締め、廊下に出た。
銃声や破砕音は、鳴らなかった。
『はーい! 素晴らしい愛の覚悟を持った恋人同士でしたね~! ささっ、もう時間は残っていませんよ~! 人数は3人、残り時間は、あと4分でーす!』
――好きです。付き合ってください。
聖菜の耳にスピーカーの声は聞こえなかった。
――好きです。付き合ってください。
代わりに、いつかの真っ直ぐな声が、何度も何度も繰り返し響いていた。
胃の奥から何かがせり上がってくる感覚が、ずっとしていた。
しかし、今はそれどころではない。
残り8分――。
その事実が、3年2組の教室に立ち尽くす5人の胸中に、少なくない焦りをもたらしていた。
「これは、まずいな……」
最初に口を開いたのは、定彦だった。数十分前にはあれほど冷静に大毅と杏子の諍いを仲裁していたというのに、その落ち着きは完全になくなっている。
いや、むしろ。ここで騒ぎ出さずに一声をあげられること自体が、まだ残った他の4人よりも幾許か冷静であることを物語っているのだろうか。
「今ので4人撃たれて……まだ、奇数だ」
「つまり、最低でも誰か一人は残らないといけない、ってこと……」
「いや、嫌だよ……死にたくない……っ!」
麻耶は絞り出すようにつぶやき、聖菜は静かに拳を握り締め、美友香は頭を抱えてしゃがみ込んだ。ずっと教室の後方の席に座っている遼平は、未だに一言も発さない。
「でも、どうにかして決めないといけない。じゃないと、全員が死ぬ」
「なんで、どうして……こんなことに……っ!」
定彦の言葉を受けて、弾かれたように美友香が立ち上がった。
「どうせ、どうせあたしなんでしょっ!? あたしは、奈波と恋人同士になった! でもその奈波は、ひとりで岡辺を追いかけて、教室を出て死んじゃった……! あたしは、恋人がいなくなったのっ!」
悲痛な声が響く。
しかし、その可能性は誰もが考えていた。それだけに、反論の声は上がらない。
「……あたしはもう出られない。一緒に出る恋人がいないから……。いや、違う……か。あたしの、あたしの本当の恋人は……俊介先輩だ……。会いたい……会いたいよ………俊介先輩……っ!」
「っ、まだ! まだわからないっ!」
しゃくり上げる美友香の泣き声を打ち消すように、叫び声が聞こえた。それまでひたすらに沈黙を貫いていた、市本遼平の声だった。
「まだ、わからないよ。だから小畠さん、生きるのを、諦めないで」
「は? あんた……今ごろしゃしゃり出てきて、なに言ってるの?」
「ご、ごめん……。僕、陰キャだから……」
涙目の美友香に睨まれ、遼平は委縮する。けれど、それでも遼平は言葉を続けた。
「で、でも……陰キャだけど、小畠さんの気持ちが、僕にはわかるんだ。僕にも、その、付き合ってる人がいるから……」
「は?」
美友香は足音うるさく遼平の席に近づくと、制服の袖を思い切り引っ張った。
「なに適当な嘘ついてんの、おいっ! あたしの気持ちが、あんたみたいなやつにわかってたまるかよっ!」
「っ、そうやって! 小畠さんたちはいつも見下すよね!」
引っ張られた拍子に椅子から転がり落ちた遼平は、すぐさま立ち上がると逆に美友香の腕を掴んだ。
「なんで嘘だって決めつけるの! 僕が陰キャだから? 陰キャだったら、誰とも付き合ってなさそうだから!?」
遼平の気迫に、美友香がたじろぐ。
「だから僕は、嫌いなんだよ……小畠さんみたいな人が。でも、教室の外にいる好きな人のために出たい気持ちだけはわかるんだ……だから、僕も覚悟を決める」
スッと遼平はひとつ深呼吸をして、言った。
「小畠さん。好きです。僕と、付き合ってください。付き合って、一緒に外に出て、本当の恋人に会いにいきましょう!」
これまで、遼平の口からは聞いたことのない声だった。それほどの声量で、一番遠くにいた聖菜の耳にまで届いていた。
こんな声が出せたのかと、聖菜は心の底から驚いていた。
「は……お前、マジで何言ってんの。あたしは、奈波と」
「恋人関係は、おそらく上書きできる」
遼平は反論の言葉を口にした美友香を遮った。
「さっき、岡辺さんは一度恋人関係になった水戸部くんのことを振った。そうしたら、水戸部くんは撃たれた。これはきっと逆にも当てはまると思う」
「そんな、の……」
「うん、もちろん推測。でもね、僕たちは何が何でも出ないといけない。だから、僕と付き合ってほしい」
震えつつも力強く言い放つと、遼平は聖菜たちの方へ目を向けた。
「みんな、ごめん。もう時間がないんだ。だからここは、恋愛のセオリー通りにいきたい」
「恋愛の、セオリー?」
定彦が訊く。遼平はこくりと頷いた。
「そう、セオリー。早い者勝ちだ。それと、勢い」
にへら、と遼平が恥ずかしそうに笑った。また聖奈が見たことのない、彼の表情だった。
同じような感想を抱いたのか、定彦は呆気にとられたように目を見張ってから、「なるほどね」と小さく肩をすくめた。
「それで、どう? 小畠さん」
遼平に向き直られた美友香もまた目を丸くしていた。目尻に浮かべた涙は未だに光っていたが、それ以上は流れていない。
「……本当に、付き合ってる人がいるの?」
「うん、いる」
「だれ」
「隣のクラスの、山下ちひろ」
「ハハッ、だれそれ。わかんないや……」
美友香は小さく笑うと、どこかすっきりとした表情で天を仰いだ。
「……わかった。恋人同士になろう。でも、この場限りね。絶対に」
「うん、約束」
美友香と遼平は指切りを交わすと、そのまま抱き合って唇を重ねた。何かを誓い合うような約束のキスは、聖奈の予想よりも随分と長かった。
そして二人は聖奈たちに一度向き直ってから頭を下げると、手を繋いだまま血の海となった床を踏み締め、廊下に出た。
銃声や破砕音は、鳴らなかった。
『はーい! 素晴らしい愛の覚悟を持った恋人同士でしたね~! ささっ、もう時間は残っていませんよ~! 人数は3人、残り時間は、あと4分でーす!』
――好きです。付き合ってください。
聖菜の耳にスピーカーの声は聞こえなかった。
――好きです。付き合ってください。
代わりに、いつかの真っ直ぐな声が、何度も何度も繰り返し響いていた。