柊吾は夜のうちに帰ってくるだろうか。確認するまで起きていたかったのだが、色々なことがあったからか体はくたびれていて。ソファでうとうとしたところで記憶は途切れ、電話の音で目が覚めた時、夏樹の体は自室のベッドの上にあった。
不思議に思いつつ珍しく朝早くから鳴る電話に手を伸ばし、表示された名前に慌てて姿勢を正す。社長の早川からの連絡は珍しいどころではない、初めてのことだった。
その電話の内容にも驚いた夏樹は、いよいよベッドの上で正座をし、会話が終わるとすぐにリビングへと駆けこんだ。
するとそこには晴人と、柊吾の姿もあった。ダイニングテーブルでコーヒーを飲む晴人が、おはようと手を振ってくれる。
「おはようございます!」
「よく寝られた?」
「うっす。あ、そういえばオレいつの間に自分の部屋行きました? 全然覚えとらんくて」
「あ~、それなら柊吾が運んだんだよ」
「……え? 椎名さんが運んだ?」
「そう、お姫様抱っこってやつ?」
柊吾に抱きかかえられて自分のベッドに寝た?
そんなことこれっぽっちも覚えていなくて、それは酷く勿体ないことのようで、夏樹はがっくりと項垂れる。
「全然覚えとらん……ショック」
「だって~柊吾」
ニヤリと笑った晴人がキッチンに立つ柊吾へと目をやったが、柊吾は顔を上げることなく朝食の準備を続けている。その様子が気になりつつ、夏樹は礼を述べる。
「えっと、椎名さん! 運んでもらってありがとうございます!」
「あー、うん、どういたしまして」
「……椎名さん?」
返事はしてくれたものの、柊吾は夏樹のほうを見ようともしない。
やはり昨日は出過ぎたことを言ってしまったのだろう、怒っているのかもしれない。運んでもらったらしいことを覚えていないと悔やみつつも、夜のうちに帰ってきたのだと内心喜んでしまったのだが。そんな場合ではなかったのだ。
「あ……あの、椎名さん。昨夜はその、ごめんなさい」
「え? あー、いや、ごめん夏樹。態度悪かったよな。昨日のことはその、嫌とか思ってないから。謝らなくていい」
「え……でも」
「いいんだよ夏樹、柊吾のそれは気にしなくても。ビギナーがどうしたらいいか困ってるだけ」
「晴人、ちょっとお前は黙れ」
「…………?」
やっと顔を上げてくれた柊吾の頬に、うっすら赤い色が見えた。相変わらず晴人はくすくすと笑っていて、柊吾はそれに腹を立てたかのように「それやめろ」と言っている。ひとまず、昨夜のことが尾を引いているわけではないということだろうか。
安堵した夏樹は握りしめていたスマートフォンにふと気づき、リビングに飛んできた理由を思い出す。
「そうだオレ、さっき社長から電話が掛かってきて!」
慌ててそう言うと、柊吾と晴人が顔を見合わせた。晴人の視線がすぐに夏樹へと返って、それで? と先を促してくれる。
「えっと、今日事務所に来てほしいって言われました。オレ何かしちゃったかなって思ったんですけど、いいことだから楽しみにおいでって」
「よかったじゃん夏樹~。てか叔父さん、善は急げだなとか言ってたけど早すぎじゃない? なー?」
「…………。夏樹、今日バイト入ってたよな。前も言ったけど、気にしないでそっち優先な。俺から伝えとくから」
「っ、椎名さん……」
何か同意を求められた柊吾は晴人にじとりとした視線を投げ、答えないままに夏樹へと目を向けた。夏樹も晴人の言わんとすることが理解できなかったのだが、相談しようと思っていたことが先回りで伝えられ、さすが椎名さんだ! と頭はいっぱいになる。
「ありがとうございます! 何だったか報告しますね!」
「ああ。それで? 何時だって?」
「十一時に来てほしいって言われました!」
「そっか。楽しみだな」
「へへ、はいっす」
じゃあ朝ごはんにしようと、柊吾が焼き立てのトーストやサラダを並べ始める。手伝いを買って出て、夏樹は三人分のグラスにジュースやミルクを注いでいく。
柊吾手製の朝食はとびきり美味しくて、前祝いだと晴人が言って乾杯をしてくれたのがくすぐったくて。
この乾杯に見合うように、またひとつステップを上がるように。何かを成し遂げたいと、夏樹は決意を新たにした。
事務所の最寄り駅へは乗換案内のアプリも必要ないし、そこからだって宝の地図みたいなマップはもう見なくたって平気だ。
エレベーターで五階へと上がり、顔見知りと言えるくらいになったスタッフたちへ挨拶をしながら奥へと向かう。
「社長、おはようございます!」
「おはよう南くん、待ってたよ」
座るようにと促されたのは、上京してきた日と同じソファだ。腰を下ろすと、早川の瞳がまっすぐに夏樹を映す。
「ではさっそく。南くんに、アクセサリーのブランドからオファーがあった。来年のカタログへの出演をお願いしたい、とのことだ」
「っ、マジですか!?」
「はは、“マジ”だよ。驚いた?」
「めちゃめちゃびっくりです……電話でいいことだよって言ってもらってたけど、やっぱりすごく緊張しちゃって……はは、嬉しすぎて今心臓バクバクしてます。あの、でも何でオレに?」
仕事が入っている柊吾と晴人は、夏樹より先にマンションを出た。柊吾は激励の言葉を改めて伝えてくれて、晴人はハグをしてくれたけれど。優しい人たちにもらった勇気は、ここに来るまでに使い果たしてしまったかと思うくらい、酷く緊張していた。
だが本当に“いいこと”だった、しかもとびきりの。安堵して、そして奮い立って。体中で心拍を打つみたいに息は上がっている。
「南くんが載ってる雑誌とかを見て任せたいと思った、とのことだよ。ピンとくるものがあったみたいだね」
「うわあ、すげー……」
「有り難いことだよね、南くんの努力が引き寄せたんだよ。よかったね」
「はい、嬉しいです! 社長や前田さんとか、ここの皆さんのおかげです!」
「ありがとう。私のおかげだと思ってはいないけど、そういう気持ちを忘れないでいられる子は伸びるから、南くんがまっすぐそう言ってくれて嬉しいよ」
じゃあ話を進めようと言って、早川はコーヒーをひとくち啜った。スタッフから南くんもどうぞと同じくコーヒーが差し出される。いつもならミルクや砂糖をたくさん入れて飲むところだが、今は喉を通る気がせず早川の話をじっと待つ。
「このカタログでは、男性と女性、女性同士、男性同士のふたりずつのページを設けたいらしい。全て恋人の設定。南くんにお願いしたいのは、男性同士のページとのことだ」
「はい。あの、それって何ていうブランドですか?」
「ああ、そのことなんだが……南くん、ブランドがどこか知ったら、君はどうする?」
「へ……えっと。ブランドの歴史調べたり、これまでのカタログを見たりして、どう映るのがいいか、何を求められているのか研究したいです」
「うん、そうだよね。そんな南くんが私は誇らしいよ。でも……このブランドは、アクセサリーや今回のカタログを通して自然体でいられること、自然な自分に似合うものを、ということを伝えたいらしい。だから撮影当日もまっさらな南くんでいられるように、ブランド名は伏せておいてほしいと言われている」
「…………」
カタログの構成を聞いた瞬間、夏樹の頭にはnaturallyのコンセプトが浮かんだ。伝えたいものにも通じるものがある。まさか、と浮かんだそれを、だが夏樹は早々に打ち消す。余計なことは考えない、それを求められているのだから。
ただ、絶対に成し遂げるという意志は強く胸に持っていよう。研究が出来なくても、現場ではたくさんのことを吸収して、それを体現出来るモデルになりたい。
「これは先方からの条件とも言えるよね。私としては正直、随分だなとも思ったんだけど」
「情報が何もないのは正直緊張しますけど……そうしたほうがいいものが出来るって、ブランドの方は思ってるってことっすよね。大丈夫です!」
「ふふ、頼もしいね。じゃあこの話、正式に引き受けるということでいいね」
「はい!」
「先方には私から連絡しておくよ」
「宜しくお願いします!」
早川に深くお辞儀をした後、感極まった夏樹は両手を突き上げた。やったー! とつい大きな声が出てしまえば、社内からは拍手とおめでとうの言葉たちが湧き上がる。
「あ……大声出してすみません、でもありがとうございます!」
「みんな南くんのことが大好きだからね」
「うう、オレも皆さん大好きっすー! オレ、頑張ります! でもやっぱ準備何も出来んのはそわそわするっすね」
「まあね。でも何も出来ないってこともないんじゃない?」
「え?」
「肌のコンディションを保つとか、そういう基本的なことは出来るはずだ」
「あ、確かに!」
柊吾からも常日頃言われていることのひとつだ。それが活かせるのは嬉しいし、さすが柊吾だと何だか夏樹まで鼻高々になる。今日からはより一層肌のケアに励もうと決意する。
ぬるくなったコーヒーを甘くして飲んで、しばらくの雑談の後、あまり長居するのもよくないだろうと立ち上がる。だが早川が夏樹を呼び止めた。
「南くん、この後用事なかったらお昼一緒にどうかな」
「へ……いいんですか?」
「もちろん。お寿司は好き?」
「っ、好きっす! 高級ランチだ……」
「はは、そうだね」
社長は昨夜もお寿司でしたよね? と先ほど帰社した前田が笑っている。フランクな雰囲気のこの事務所が好きだ。
事務所の外へ出る間際、夏樹は振り返り社内を見渡した。身に余るほどの環境が整っている、あとは自分の努力次第だと思い知らされる。
何よりもまずは、今日聞かされたばかりのカタログ撮影だ。指名での仕事は初めてで、自ずと力が入っている。必ず成功させるのだと意気ごみながら、早川と共に事務所を後にした。
豪華な寿司ランチの後、夏樹はnaturallyに顔を出した。気にするなと、応援しているからと笑ってくれる人たちだと分かっているが、だからこそ突然の欠勤を詫びたかった。
柊吾の姿は、スタッフルームにあった。ノックと共に扉を開くと、確認していたらしい書類を何故か慌てて隠されてしまったが、カタログの件を報告するとよかったなと喜んでくれた。
隣の椅子に腰を下ろした夏樹は、いつものように髪を撫でてもらえることを期待したが、生憎それは叶わなかった。寂しく思いつつ、かと言って撫でてくれと言えるわけもなく。必ずいいものにするとの決意を柊吾に表明することで、しくりと痛んだ胸を誤魔化した。
撮影日は十二月の頭に決定し、それまでの約一ヶ月を夏樹は慎重に過ごした。病気や怪我をしないように細心の注意を払いながら、肌を乾燥から守るため保湿に励んだ。太らないことも目標ではあったが、栄養バランスのとれた柊吾の手料理を食べているのだから、そんな心配は不要だった。自然体でとのことだったが、少しくらい筋肉をつけるのはどうかと晴人に相談すると、元々引き締まっているのだからと現状維持を勧められた。
その間、というよりはクラブの一件があってからというもの、柊吾の夏樹への態度はどこかよそよそしさが感じられた。髪を撫でられることは一切ないし、目を合わせてくれることも減ってしまった。確かに怒ってはいないようだが、どうにも寂しい。晴人に不安を打ち明けたこともあったが、大丈夫だからちょっと待ってあげてとのアドバイスを受けた。その意味はよく分からなかったが、晴人への信頼で心を保てている。
ついに迎えた、アクセサリーカタログ撮影の日。マンションを出る際、晴人がハグで見送ってくれた。柊吾の姿は見当たらず、勝負の朝に顔を見られなかったのは心残りだが、作り置いてくれていた柊吾手製の朝食はとびきり美味しかった。
前田の運転する車に乗りこみ、都内のスタジオに入る。案内された楽屋でディレクターと挨拶を交わす。
今日の今日まで、本当に前情報は一切夏樹に伝えられることはなかった。渡された絵コンテを片手に、ディレクターが話す大まかな流れを頭に叩きこむ。
「上半身は裸になってもらいます。男性同士ふたりのページなので相手の方もいますが、コンテを見てもらえば分かるようにあくまでも主役は南くんです。ただ、あまり気を張らずに。カメラマンの指示は聞きつつも、なるべく自然体でいることを意識してください」
「はい!」
自然体を意識する、というのは言葉に矛盾が生じている気もするが、そうディレクションされれば応じるのみだ。返事をしつつ、スタイリストの指示で上半身の服を全て脱ぎ、バスローブを羽織る。
「それじゃあスタジオで。今日は宜しくお願いします」
「はい! こちらこそ宜しくお願いします!」
ヘアメイクをされている時から最高潮に思えた心拍は、スタジオに入ると更に上昇した。カメラマンに先ほどのディレクター、他にも数人のスタッフたちが既に準備をしていて、緊張は留まるところを知らない。上擦ってしまった声でそれでもどうにか「宜しくお願いします!」と頭を下げて、カメラの前へ立つ。
カメラマンの最終調整が始まったが、まだ足りないものがここにはある。主役は南くんだ、とディレクターは言ってくれたが、実際のところの一番の主役はアクセサリーだと夏樹は思う。だが夏樹はまだ何も身につけていないし、相手役の男性モデルの姿も見当たらない。
不思議に思っていると、スタジオの奥で扉が開いた。そこから入ってきた人物の姿に、夏樹は大きく目を見張る。
「え……椎名さん?」
何故こんなところに?
夏樹はつい息を飲んだのだが、驚いているのはどうやら自分だけのようだった。スタッフたち全員が柊吾と顔見知りなのだと伝わってくるし、ディレクターとは綿密に何かを話している。
呆気に取られている夏樹の元に、柊吾がやって来る。
「夏樹、おはよう」
「お、おはようございます……?」
「驚かせたよな、ごめん」
「…………」
眉を少し下げて微笑んだ柊吾は、手に持っていたベルベットのケースを開いた。そこにはイアリングに指輪、ネックレスやバングルが美しい姿で出番を待っていた。
「南夏樹くん」
「へ……は、はい!」
「naturallyの椎名柊吾です。カタログのモデルをどうしても夏樹に頼みたかった。ブランド隠してもらったりして、妙な依頼になったけど。改めて宜しくお願いします」
「椎名さん……」
様々なことが頭の中を巡りだす。早川から今回の話を聞いた時、naturallyみたいだと感じたのはどうやら間違っていなかったようだ。それと同時に薄暗い思いがどうしても芽生える。
初めての名指しでの仕事だと喜んだが――柊吾は夏樹の世話係を引き受けているし、心から応援してくれている。だから仕事を与えてくれたのだ、既に知り合いである自分に、言わば贔屓をして。
思わずくちびるを噛みしめ俯くと、柊吾がそっと夏樹の名前を呼ぶ。
「夏樹。知り合いだから情けでのオファーだって思ってる?」
「あ……えっと。はい。ごめんなさい」
「いや、謝らなくていい。俺が夏樹でもそう感じると思うし」
柊吾はそう言うと、背後のカメラマンたちを振り返って少し時間を貰えるようにと頼んだ。こちらを向き直し、真剣な瞳が夏樹を映す。
「このカタログのアイディアは一昨年くらいからあってさ、でも理想のモデルが見つからなくて。夏樹を初めて見た時……いいなって思った」
「え……」
「前に夏樹さ、オーディションで色気がないって落とされる、って言ってたろ。でも俺はそうは思わない。夏樹は確かに明るくて人懐っこくて――それでいて、ふとした時に強い目を見せたりすることもある。そのギャップは夏樹の武器だし、色気にも通ずるものがある」
「…………」
「夏樹、俺にとってnaturallyは宝物なんだ。情けだとか依怙贔屓を持ちこむつもりはない。ずっとあたためてきたこのアイディアを、夏樹の持つ武器に賭けたい。夏樹となら絶対にいいものが出来るって本気で思った。だから早川社長にオファーさせてもらったんだ。難しいかもしれないけど……信じてほしい」
「椎名さん……」
贔屓してくれたのだと一瞬でも感じたことを夏樹は心から恥じた。そんなもの、柊吾の真剣な瞳にはひとつも見えなかった。本当に純粋に、naturallyに必要としてくれているのだと伝わってきた。
自分のことをそんな風に評価してくれる人がいて、それが憧れ続けた柊吾だなんて。それこそ信じられないくらいだが、疑いようがない。こみ上げてくる涙を飲みこみ、夏樹は強く頷く。
「椎名さん、ありがとうございます。椎名さんが見出してくれたもの、ちゃんと表現出来るように頑張るから……こちらこそ宜しくお願いします!」
「よかった……ありがとう、夏樹」
改めてこの撮影へ臨む心を確認し合ってから、柊吾はケースに入っていたアクセサリーを夏樹に飾ってゆく。
「ピアス開けといたらよかったっすね」
「いや、そのままでいい。うちにはイヤリングの加工もあるんだし」
「それもそっか。……ん? 椎名さんがしてるピアス、もしかしてオレにつけてくれたのと同じデザインっすか?」
「うん、そうだな」
カタログに載せるものなのだから、どのアクセサリーもまだ店頭には並んでいない完全な新作だ。それを柊吾も身につけていて、繊細なデザインがよく似合っている。
「やっぱりかっこいいっすね」
「そうか? ありがとな。俺もいい出来だと思う」
「ピアスももちろんっすけど、椎名さんのことっす」
「……そ。あー、夏樹、ローブ脱いで。次ネックレスな」
「あ、はい……」
思わず褒めると、柊吾はそっけなく答えて顔を逸らしてしまった。ああ、まただ。晴人は大丈夫だと言ってくれるけれど、やはり気がかりだ。今までだったら夏樹が格好いいと零してしまう度、スマートにあしらうのが柊吾の常だったのに。
柊吾の態度を寂しく思っている内に、アクセサリーの装着が完了した。柊吾がそれをスタッフに伝えると、ディレクターが「それじゃあ撮影始めます!」と声を上げる。
「あれ、もうひとりモデルの人いるって聞いてるんですけど……」
まだ自分しかいないのだから、始めることは出来ないだろう。夏樹は首を傾げたのだが、照明が変わり、ヘアメイクの人が寄ってきて前髪を調整される。そしてその手は柊吾の髪にも伸びた。それを柊吾は意にも介さず、着ているシャツのボタンを外し、上半身裸になってしまう。
「え? ……椎名さん?」
「びっくりだよな。でもこの役は……夏樹の恋人役は、俺がやらせてもらう」
「っ、嘘……」
目の前の光景が示すのは、このカタログで表現する男同士の恋人たち、その主役である夏樹の相手役が柊吾だ、ということだ。理解が追いつかず、だが驚いた心は涙を勝手に浮かべ始める。
憧れ続けた男は、もう二度とモデルをやるつもりはないと言っていた。いつか共演出来たら、と描いた夏樹の夢は、夜空へと消えていった。そのはずだったのに。
まさかこんなかたちで叶うとは、それこそ夢にも思わなかったのだ。メイクをしているから駄目だと分かっているのに、涙が頬を伝ってしまう。慌てて拭おうとすると、カメラマンが声を張り上げた。
「南くんそのまま! そのままでこっち見て」
「え?」
「そう、椎名くんの肩越しに目線ちょうだい。いいよね、椎名くん」
「はい、続けてください」
今回の撮影のコンセプトが自然体だということを思い出す。泣いてしまうだなんて想定はされていなかっただろうが、これも自然体のひとつと捉えられたということだ。慌てて指示通りに目線を向け、途絶えることのないシャッター音の中で柊吾に問う。
「椎名さん、もう絶対モデルはしないって言ってたのに……えっと、なんで?」
「それは……俺のモデル姿また見たかったんだろ? 特等席じゃん」
「そ、そうだけど! はぐらかさんでよ」
「はは、そうだな。あー……顔出しなしでも引き受けてくれるモデルが見つからなくて? 写っても後ろ姿とか、せいぜい背後からの輪郭くらいだけだから。じゃあ俺がやろうかなって。まあその程度でも二度とやらないつもりだったけど……この一瞬くらい、夏樹が教えてくれた俺と共演って夢に乗っかってみようと思った」
「椎名さん……」
一旦カットがかかり、涙を流しているシーンはここまでということになった。慌ただしくメイクを直しヘアセットも少し変えて、次のカットへと移る。
「じゃあ南くん、次は椎名くんの背中に腕回してみて。バングルがこっちに見えるように。そう、いいね」
柊吾とカメラの前に立っている。その現実に浸る間もなく撮影は進んでいく。カメラマンの指示に必死に、だが自然に見えるようにと苦心しながらポーズをとる。
「椎名さん、あの」
「……柊吾」
「え?」
「俺たちは今恋人って設定だろ。名前で呼んでみてよ」
「へ……いや無理、オレ爆発する!」
「はは、でも呼んでほしい。夏樹」
「あ……」
タイミングがいいのか悪いのか、ふたりともピアスが見えるように頬のラインをギリギリ見せてほしい、との指示が柊吾に入った。それを聞いた柊吾は、夏樹の顎に手を添え、夏樹の頬にキスをするふりで指示に応えていく。例えポーズでくちびるは当たっていないとしても、夏樹には刺激が強かった。思わず声が漏れると、その表情もいいね、本当に恋人みたいだと煽てられ、シャッターが切られていく。
「椎名さん、これ」
「柊吾」
「っ、柊吾、さん……これ、やばい」
「ん……俺もやばい」
撮影が進むにつれ、夏樹の中にあった緊張や驚き、柊吾と密着することへの恥じらいは徐々になくなっていった。
なんせ夢が叶っている真っ最中だ。夏樹はもちろん、柊吾やカメラマンを始めここにいる全員が共鳴するような、最高潮のボルテージ。こちらを睨むように、とのディレクションの際には柊吾を誰にも譲りたくないという想いで睨み、ヒートアップして柊吾の肩に齧りついた。
指を絡めて指輪の美しさを際立たせたり、ネックレスがぶつかるくらいの距離を横から撮影したり。クライマックスは、角度を工夫してキスをしているように見えるアングルを求められる。カメラの前に立つひとりのモデルである夏樹には、戸惑いは一切ない。スタッフたちが、感嘆の息を漏らしているのが分かる。柊吾さん、と名を呼び、夏樹、と返ってくる自分の名に酔いしれて――
カット! とのカメラマンの大きな声で撮影が全て終了したところで、夏樹はハッと我に返る。
「南くん! すごくよかったよ!」
スタッフたちが夏樹へと大歓声を送る。撮影は大成功で終えられたようだ。安堵したのと同時に息が上がり、それを整えながら目の前の柊吾へと視線を移す。撮影は終わったのだから、離れなければ。そう思うのに、興奮しきっている体は言うことを聞いてくれそうになかった。
「柊吾さん、あの」
「夏樹、こっち」
「へ……あっ」
ローブと服を引っ掴んだ柊吾は、夏樹の腕を取りスタッフたちに着替えてきますと声を掛ける。この後は別のペアでの撮影が予定されているようで、既にその準備を始めているスタッフたちはふたりのことなど気にも止めない。
柊吾が足早に向かったのは楽屋だった。中に入ると、扉が荒々しく閉められる。
「っ、柊吾さん」
「夏樹……」
うわ言のように夏樹の名を呼びながら、柊吾は夏樹を扉のすぐ横の壁に囲った。大きな体、長い腕。閉じこめられたその中で肩にぐりぐりと額を擦りつけられ、聞こえてくるのは柊吾の呼吸と自分の名前だけで。もう隠してなんていられなかった。
「柊吾さん、キスしたい」
「っ、夏樹……」
「さっき出来んくて寂しかった、オレ……んっ」
押しつけられるような荒っぽいキス。その一度で離れようとした柊吾を、今度は夏樹が逃さない。首を引き寄せて夏樹からもキスをすると、もうそこからはお互いに止められなかった。
興奮したままの体、絡む舌の熱さはあの夏の夜以上で。
このまま好きだと言えたらどんなに幸せだろう。受け入れてもらえると、このキスに期待をしてもいいだろうか。
顎を引き、離れたくちびるにそれでも舌先は甘えたがって。どうにか空けたすき間で、柊吾の名前を呼んでみる。
「柊吾、さん。オレ……」
「ん?」
「あの、柊吾さんのこと……好き……んんっ!?」
「……ごめん、夏樹。それは待っ……」
想いを伝えようとした口を、慌てた様子の柊吾に手で塞がれてしまった。そして続くのは、残酷な“ごめん”だった。
なんだ、自分だけだったのか。そうか、そうだよな。
夏樹はどん底まで一気に落ちかけ、だがまだ途切れてはいなかった柊吾の言葉を、乾いたノック音が遮る。こんなところを見られてはまずい。慌てて距離を取り、柊吾が返事をする。
「はい」
「あ、椎名さんこちらにいらっしゃったんですね。次の撮影の件で確認があるのですが……」
「すみません、すぐ行きます」
柊吾に用があったようだが、扉越しで伝えられたことに夏樹は安堵した。ふたりして服を羽織ることすら忘れていたからだ。
柊吾の返事にスタッフは去り、静寂が訪れる。
「俺、今日一日撮影につきっきりの予定なんだ。そろそろ行かなきゃ」
「っす」
「……夏樹、さっきの」
「あー、あれは気にせんでください! オレはその、大丈夫なんで! ね、行ってください、しゅ……椎名さん」
「夏樹……」
「ほらほら、何て顔してんすか! 最高にかっこいいカタログ、作ってきてください!」
「……ああ、行ってくる」
縋れるものならそうしたいが、柊吾には今日をとことんやり切って欲しかったし、何より改めて“ごめん”と言われることが夏樹は恐ろしかった。
躊躇っている柊吾の背にシャツを羽織らせ、ぐいぐいと背中を押す。名残惜しそうにこちらを見て、大きな手が夏樹の頭の上へと翳される。だが撫でられることはなく、きゅっと握りこんでそのままスタジオへと戻っていった。
ひとり楽屋に残された夏樹は、ずるずると壁伝いに座りこむ。大きく開いた足の間で頭を抱え、出てくるのは深いため息だ。
本来なら今は、撮影を駆け抜けられた達成感だとか、反省点に課題を見つけるべき時間で。分かっている、分かっているのにどうしても頭の中は柊吾だらけだった。
叶うはずのなかった、柊吾と共演の夢が叶った。久しぶりに触れた熱、ずっとずっと柊吾の視界に自分はいて、役だとしてもあの時間だけはふたりは恋人同士だった。
どうしようもなく好きだ、溢れ続ける想いはもうこの体だけでは抱えていられなくて、弾けそうなくらいに。
好きすぎて呼吸すら忘れそうなくちびるを指で辿る。まだキスの感覚が残っていて、忘れないようにと下くちびるを口内に引きこみ、柊吾の跡を舌でなぞる。そうすれば、熱い吐息が腹の奥から零れ出た。
体がおかしくなるほど恋をしている、そんな恋を柊吾に捧げている。息もおぼつかないほどに苦しい。けれど柊吾を想うこそなのならば、この苦しみもまた幸せと呼ぶのだろうか。
どうにか息を整えて、いつのまにか流れていた涙を拭って。挨拶を終えて戻ってきた前田に絶賛されながら、夏樹はマンションへと戻った。
柊吾は何時ごろ帰ってくるだろう。きっと今日のことを褒めてくれる。その後は気まずい空気が流れて、そうしたら自分たちはどうなるのだろう。何事もなかったようにまた毎日を始めるのだろうか。それともきちんと振られて、失恋を抱えて生きていくことになるだろうか。
どちらに転んでも、受け入れられる自分でいられたらいい。不安はたくさんあるけれど、それでも日々の生活に柊吾がいることは変わらない、それだけが夏樹が心を保てる理由だった――だったのに。
柊吾はその夜も、また明くる日も、マンションに戻ることはなかった。
不思議に思いつつ珍しく朝早くから鳴る電話に手を伸ばし、表示された名前に慌てて姿勢を正す。社長の早川からの連絡は珍しいどころではない、初めてのことだった。
その電話の内容にも驚いた夏樹は、いよいよベッドの上で正座をし、会話が終わるとすぐにリビングへと駆けこんだ。
するとそこには晴人と、柊吾の姿もあった。ダイニングテーブルでコーヒーを飲む晴人が、おはようと手を振ってくれる。
「おはようございます!」
「よく寝られた?」
「うっす。あ、そういえばオレいつの間に自分の部屋行きました? 全然覚えとらんくて」
「あ~、それなら柊吾が運んだんだよ」
「……え? 椎名さんが運んだ?」
「そう、お姫様抱っこってやつ?」
柊吾に抱きかかえられて自分のベッドに寝た?
そんなことこれっぽっちも覚えていなくて、それは酷く勿体ないことのようで、夏樹はがっくりと項垂れる。
「全然覚えとらん……ショック」
「だって~柊吾」
ニヤリと笑った晴人がキッチンに立つ柊吾へと目をやったが、柊吾は顔を上げることなく朝食の準備を続けている。その様子が気になりつつ、夏樹は礼を述べる。
「えっと、椎名さん! 運んでもらってありがとうございます!」
「あー、うん、どういたしまして」
「……椎名さん?」
返事はしてくれたものの、柊吾は夏樹のほうを見ようともしない。
やはり昨日は出過ぎたことを言ってしまったのだろう、怒っているのかもしれない。運んでもらったらしいことを覚えていないと悔やみつつも、夜のうちに帰ってきたのだと内心喜んでしまったのだが。そんな場合ではなかったのだ。
「あ……あの、椎名さん。昨夜はその、ごめんなさい」
「え? あー、いや、ごめん夏樹。態度悪かったよな。昨日のことはその、嫌とか思ってないから。謝らなくていい」
「え……でも」
「いいんだよ夏樹、柊吾のそれは気にしなくても。ビギナーがどうしたらいいか困ってるだけ」
「晴人、ちょっとお前は黙れ」
「…………?」
やっと顔を上げてくれた柊吾の頬に、うっすら赤い色が見えた。相変わらず晴人はくすくすと笑っていて、柊吾はそれに腹を立てたかのように「それやめろ」と言っている。ひとまず、昨夜のことが尾を引いているわけではないということだろうか。
安堵した夏樹は握りしめていたスマートフォンにふと気づき、リビングに飛んできた理由を思い出す。
「そうだオレ、さっき社長から電話が掛かってきて!」
慌ててそう言うと、柊吾と晴人が顔を見合わせた。晴人の視線がすぐに夏樹へと返って、それで? と先を促してくれる。
「えっと、今日事務所に来てほしいって言われました。オレ何かしちゃったかなって思ったんですけど、いいことだから楽しみにおいでって」
「よかったじゃん夏樹~。てか叔父さん、善は急げだなとか言ってたけど早すぎじゃない? なー?」
「…………。夏樹、今日バイト入ってたよな。前も言ったけど、気にしないでそっち優先な。俺から伝えとくから」
「っ、椎名さん……」
何か同意を求められた柊吾は晴人にじとりとした視線を投げ、答えないままに夏樹へと目を向けた。夏樹も晴人の言わんとすることが理解できなかったのだが、相談しようと思っていたことが先回りで伝えられ、さすが椎名さんだ! と頭はいっぱいになる。
「ありがとうございます! 何だったか報告しますね!」
「ああ。それで? 何時だって?」
「十一時に来てほしいって言われました!」
「そっか。楽しみだな」
「へへ、はいっす」
じゃあ朝ごはんにしようと、柊吾が焼き立てのトーストやサラダを並べ始める。手伝いを買って出て、夏樹は三人分のグラスにジュースやミルクを注いでいく。
柊吾手製の朝食はとびきり美味しくて、前祝いだと晴人が言って乾杯をしてくれたのがくすぐったくて。
この乾杯に見合うように、またひとつステップを上がるように。何かを成し遂げたいと、夏樹は決意を新たにした。
事務所の最寄り駅へは乗換案内のアプリも必要ないし、そこからだって宝の地図みたいなマップはもう見なくたって平気だ。
エレベーターで五階へと上がり、顔見知りと言えるくらいになったスタッフたちへ挨拶をしながら奥へと向かう。
「社長、おはようございます!」
「おはよう南くん、待ってたよ」
座るようにと促されたのは、上京してきた日と同じソファだ。腰を下ろすと、早川の瞳がまっすぐに夏樹を映す。
「ではさっそく。南くんに、アクセサリーのブランドからオファーがあった。来年のカタログへの出演をお願いしたい、とのことだ」
「っ、マジですか!?」
「はは、“マジ”だよ。驚いた?」
「めちゃめちゃびっくりです……電話でいいことだよって言ってもらってたけど、やっぱりすごく緊張しちゃって……はは、嬉しすぎて今心臓バクバクしてます。あの、でも何でオレに?」
仕事が入っている柊吾と晴人は、夏樹より先にマンションを出た。柊吾は激励の言葉を改めて伝えてくれて、晴人はハグをしてくれたけれど。優しい人たちにもらった勇気は、ここに来るまでに使い果たしてしまったかと思うくらい、酷く緊張していた。
だが本当に“いいこと”だった、しかもとびきりの。安堵して、そして奮い立って。体中で心拍を打つみたいに息は上がっている。
「南くんが載ってる雑誌とかを見て任せたいと思った、とのことだよ。ピンとくるものがあったみたいだね」
「うわあ、すげー……」
「有り難いことだよね、南くんの努力が引き寄せたんだよ。よかったね」
「はい、嬉しいです! 社長や前田さんとか、ここの皆さんのおかげです!」
「ありがとう。私のおかげだと思ってはいないけど、そういう気持ちを忘れないでいられる子は伸びるから、南くんがまっすぐそう言ってくれて嬉しいよ」
じゃあ話を進めようと言って、早川はコーヒーをひとくち啜った。スタッフから南くんもどうぞと同じくコーヒーが差し出される。いつもならミルクや砂糖をたくさん入れて飲むところだが、今は喉を通る気がせず早川の話をじっと待つ。
「このカタログでは、男性と女性、女性同士、男性同士のふたりずつのページを設けたいらしい。全て恋人の設定。南くんにお願いしたいのは、男性同士のページとのことだ」
「はい。あの、それって何ていうブランドですか?」
「ああ、そのことなんだが……南くん、ブランドがどこか知ったら、君はどうする?」
「へ……えっと。ブランドの歴史調べたり、これまでのカタログを見たりして、どう映るのがいいか、何を求められているのか研究したいです」
「うん、そうだよね。そんな南くんが私は誇らしいよ。でも……このブランドは、アクセサリーや今回のカタログを通して自然体でいられること、自然な自分に似合うものを、ということを伝えたいらしい。だから撮影当日もまっさらな南くんでいられるように、ブランド名は伏せておいてほしいと言われている」
「…………」
カタログの構成を聞いた瞬間、夏樹の頭にはnaturallyのコンセプトが浮かんだ。伝えたいものにも通じるものがある。まさか、と浮かんだそれを、だが夏樹は早々に打ち消す。余計なことは考えない、それを求められているのだから。
ただ、絶対に成し遂げるという意志は強く胸に持っていよう。研究が出来なくても、現場ではたくさんのことを吸収して、それを体現出来るモデルになりたい。
「これは先方からの条件とも言えるよね。私としては正直、随分だなとも思ったんだけど」
「情報が何もないのは正直緊張しますけど……そうしたほうがいいものが出来るって、ブランドの方は思ってるってことっすよね。大丈夫です!」
「ふふ、頼もしいね。じゃあこの話、正式に引き受けるということでいいね」
「はい!」
「先方には私から連絡しておくよ」
「宜しくお願いします!」
早川に深くお辞儀をした後、感極まった夏樹は両手を突き上げた。やったー! とつい大きな声が出てしまえば、社内からは拍手とおめでとうの言葉たちが湧き上がる。
「あ……大声出してすみません、でもありがとうございます!」
「みんな南くんのことが大好きだからね」
「うう、オレも皆さん大好きっすー! オレ、頑張ります! でもやっぱ準備何も出来んのはそわそわするっすね」
「まあね。でも何も出来ないってこともないんじゃない?」
「え?」
「肌のコンディションを保つとか、そういう基本的なことは出来るはずだ」
「あ、確かに!」
柊吾からも常日頃言われていることのひとつだ。それが活かせるのは嬉しいし、さすが柊吾だと何だか夏樹まで鼻高々になる。今日からはより一層肌のケアに励もうと決意する。
ぬるくなったコーヒーを甘くして飲んで、しばらくの雑談の後、あまり長居するのもよくないだろうと立ち上がる。だが早川が夏樹を呼び止めた。
「南くん、この後用事なかったらお昼一緒にどうかな」
「へ……いいんですか?」
「もちろん。お寿司は好き?」
「っ、好きっす! 高級ランチだ……」
「はは、そうだね」
社長は昨夜もお寿司でしたよね? と先ほど帰社した前田が笑っている。フランクな雰囲気のこの事務所が好きだ。
事務所の外へ出る間際、夏樹は振り返り社内を見渡した。身に余るほどの環境が整っている、あとは自分の努力次第だと思い知らされる。
何よりもまずは、今日聞かされたばかりのカタログ撮影だ。指名での仕事は初めてで、自ずと力が入っている。必ず成功させるのだと意気ごみながら、早川と共に事務所を後にした。
豪華な寿司ランチの後、夏樹はnaturallyに顔を出した。気にするなと、応援しているからと笑ってくれる人たちだと分かっているが、だからこそ突然の欠勤を詫びたかった。
柊吾の姿は、スタッフルームにあった。ノックと共に扉を開くと、確認していたらしい書類を何故か慌てて隠されてしまったが、カタログの件を報告するとよかったなと喜んでくれた。
隣の椅子に腰を下ろした夏樹は、いつものように髪を撫でてもらえることを期待したが、生憎それは叶わなかった。寂しく思いつつ、かと言って撫でてくれと言えるわけもなく。必ずいいものにするとの決意を柊吾に表明することで、しくりと痛んだ胸を誤魔化した。
撮影日は十二月の頭に決定し、それまでの約一ヶ月を夏樹は慎重に過ごした。病気や怪我をしないように細心の注意を払いながら、肌を乾燥から守るため保湿に励んだ。太らないことも目標ではあったが、栄養バランスのとれた柊吾の手料理を食べているのだから、そんな心配は不要だった。自然体でとのことだったが、少しくらい筋肉をつけるのはどうかと晴人に相談すると、元々引き締まっているのだからと現状維持を勧められた。
その間、というよりはクラブの一件があってからというもの、柊吾の夏樹への態度はどこかよそよそしさが感じられた。髪を撫でられることは一切ないし、目を合わせてくれることも減ってしまった。確かに怒ってはいないようだが、どうにも寂しい。晴人に不安を打ち明けたこともあったが、大丈夫だからちょっと待ってあげてとのアドバイスを受けた。その意味はよく分からなかったが、晴人への信頼で心を保てている。
ついに迎えた、アクセサリーカタログ撮影の日。マンションを出る際、晴人がハグで見送ってくれた。柊吾の姿は見当たらず、勝負の朝に顔を見られなかったのは心残りだが、作り置いてくれていた柊吾手製の朝食はとびきり美味しかった。
前田の運転する車に乗りこみ、都内のスタジオに入る。案内された楽屋でディレクターと挨拶を交わす。
今日の今日まで、本当に前情報は一切夏樹に伝えられることはなかった。渡された絵コンテを片手に、ディレクターが話す大まかな流れを頭に叩きこむ。
「上半身は裸になってもらいます。男性同士ふたりのページなので相手の方もいますが、コンテを見てもらえば分かるようにあくまでも主役は南くんです。ただ、あまり気を張らずに。カメラマンの指示は聞きつつも、なるべく自然体でいることを意識してください」
「はい!」
自然体を意識する、というのは言葉に矛盾が生じている気もするが、そうディレクションされれば応じるのみだ。返事をしつつ、スタイリストの指示で上半身の服を全て脱ぎ、バスローブを羽織る。
「それじゃあスタジオで。今日は宜しくお願いします」
「はい! こちらこそ宜しくお願いします!」
ヘアメイクをされている時から最高潮に思えた心拍は、スタジオに入ると更に上昇した。カメラマンに先ほどのディレクター、他にも数人のスタッフたちが既に準備をしていて、緊張は留まるところを知らない。上擦ってしまった声でそれでもどうにか「宜しくお願いします!」と頭を下げて、カメラの前へ立つ。
カメラマンの最終調整が始まったが、まだ足りないものがここにはある。主役は南くんだ、とディレクターは言ってくれたが、実際のところの一番の主役はアクセサリーだと夏樹は思う。だが夏樹はまだ何も身につけていないし、相手役の男性モデルの姿も見当たらない。
不思議に思っていると、スタジオの奥で扉が開いた。そこから入ってきた人物の姿に、夏樹は大きく目を見張る。
「え……椎名さん?」
何故こんなところに?
夏樹はつい息を飲んだのだが、驚いているのはどうやら自分だけのようだった。スタッフたち全員が柊吾と顔見知りなのだと伝わってくるし、ディレクターとは綿密に何かを話している。
呆気に取られている夏樹の元に、柊吾がやって来る。
「夏樹、おはよう」
「お、おはようございます……?」
「驚かせたよな、ごめん」
「…………」
眉を少し下げて微笑んだ柊吾は、手に持っていたベルベットのケースを開いた。そこにはイアリングに指輪、ネックレスやバングルが美しい姿で出番を待っていた。
「南夏樹くん」
「へ……は、はい!」
「naturallyの椎名柊吾です。カタログのモデルをどうしても夏樹に頼みたかった。ブランド隠してもらったりして、妙な依頼になったけど。改めて宜しくお願いします」
「椎名さん……」
様々なことが頭の中を巡りだす。早川から今回の話を聞いた時、naturallyみたいだと感じたのはどうやら間違っていなかったようだ。それと同時に薄暗い思いがどうしても芽生える。
初めての名指しでの仕事だと喜んだが――柊吾は夏樹の世話係を引き受けているし、心から応援してくれている。だから仕事を与えてくれたのだ、既に知り合いである自分に、言わば贔屓をして。
思わずくちびるを噛みしめ俯くと、柊吾がそっと夏樹の名前を呼ぶ。
「夏樹。知り合いだから情けでのオファーだって思ってる?」
「あ……えっと。はい。ごめんなさい」
「いや、謝らなくていい。俺が夏樹でもそう感じると思うし」
柊吾はそう言うと、背後のカメラマンたちを振り返って少し時間を貰えるようにと頼んだ。こちらを向き直し、真剣な瞳が夏樹を映す。
「このカタログのアイディアは一昨年くらいからあってさ、でも理想のモデルが見つからなくて。夏樹を初めて見た時……いいなって思った」
「え……」
「前に夏樹さ、オーディションで色気がないって落とされる、って言ってたろ。でも俺はそうは思わない。夏樹は確かに明るくて人懐っこくて――それでいて、ふとした時に強い目を見せたりすることもある。そのギャップは夏樹の武器だし、色気にも通ずるものがある」
「…………」
「夏樹、俺にとってnaturallyは宝物なんだ。情けだとか依怙贔屓を持ちこむつもりはない。ずっとあたためてきたこのアイディアを、夏樹の持つ武器に賭けたい。夏樹となら絶対にいいものが出来るって本気で思った。だから早川社長にオファーさせてもらったんだ。難しいかもしれないけど……信じてほしい」
「椎名さん……」
贔屓してくれたのだと一瞬でも感じたことを夏樹は心から恥じた。そんなもの、柊吾の真剣な瞳にはひとつも見えなかった。本当に純粋に、naturallyに必要としてくれているのだと伝わってきた。
自分のことをそんな風に評価してくれる人がいて、それが憧れ続けた柊吾だなんて。それこそ信じられないくらいだが、疑いようがない。こみ上げてくる涙を飲みこみ、夏樹は強く頷く。
「椎名さん、ありがとうございます。椎名さんが見出してくれたもの、ちゃんと表現出来るように頑張るから……こちらこそ宜しくお願いします!」
「よかった……ありがとう、夏樹」
改めてこの撮影へ臨む心を確認し合ってから、柊吾はケースに入っていたアクセサリーを夏樹に飾ってゆく。
「ピアス開けといたらよかったっすね」
「いや、そのままでいい。うちにはイヤリングの加工もあるんだし」
「それもそっか。……ん? 椎名さんがしてるピアス、もしかしてオレにつけてくれたのと同じデザインっすか?」
「うん、そうだな」
カタログに載せるものなのだから、どのアクセサリーもまだ店頭には並んでいない完全な新作だ。それを柊吾も身につけていて、繊細なデザインがよく似合っている。
「やっぱりかっこいいっすね」
「そうか? ありがとな。俺もいい出来だと思う」
「ピアスももちろんっすけど、椎名さんのことっす」
「……そ。あー、夏樹、ローブ脱いで。次ネックレスな」
「あ、はい……」
思わず褒めると、柊吾はそっけなく答えて顔を逸らしてしまった。ああ、まただ。晴人は大丈夫だと言ってくれるけれど、やはり気がかりだ。今までだったら夏樹が格好いいと零してしまう度、スマートにあしらうのが柊吾の常だったのに。
柊吾の態度を寂しく思っている内に、アクセサリーの装着が完了した。柊吾がそれをスタッフに伝えると、ディレクターが「それじゃあ撮影始めます!」と声を上げる。
「あれ、もうひとりモデルの人いるって聞いてるんですけど……」
まだ自分しかいないのだから、始めることは出来ないだろう。夏樹は首を傾げたのだが、照明が変わり、ヘアメイクの人が寄ってきて前髪を調整される。そしてその手は柊吾の髪にも伸びた。それを柊吾は意にも介さず、着ているシャツのボタンを外し、上半身裸になってしまう。
「え? ……椎名さん?」
「びっくりだよな。でもこの役は……夏樹の恋人役は、俺がやらせてもらう」
「っ、嘘……」
目の前の光景が示すのは、このカタログで表現する男同士の恋人たち、その主役である夏樹の相手役が柊吾だ、ということだ。理解が追いつかず、だが驚いた心は涙を勝手に浮かべ始める。
憧れ続けた男は、もう二度とモデルをやるつもりはないと言っていた。いつか共演出来たら、と描いた夏樹の夢は、夜空へと消えていった。そのはずだったのに。
まさかこんなかたちで叶うとは、それこそ夢にも思わなかったのだ。メイクをしているから駄目だと分かっているのに、涙が頬を伝ってしまう。慌てて拭おうとすると、カメラマンが声を張り上げた。
「南くんそのまま! そのままでこっち見て」
「え?」
「そう、椎名くんの肩越しに目線ちょうだい。いいよね、椎名くん」
「はい、続けてください」
今回の撮影のコンセプトが自然体だということを思い出す。泣いてしまうだなんて想定はされていなかっただろうが、これも自然体のひとつと捉えられたということだ。慌てて指示通りに目線を向け、途絶えることのないシャッター音の中で柊吾に問う。
「椎名さん、もう絶対モデルはしないって言ってたのに……えっと、なんで?」
「それは……俺のモデル姿また見たかったんだろ? 特等席じゃん」
「そ、そうだけど! はぐらかさんでよ」
「はは、そうだな。あー……顔出しなしでも引き受けてくれるモデルが見つからなくて? 写っても後ろ姿とか、せいぜい背後からの輪郭くらいだけだから。じゃあ俺がやろうかなって。まあその程度でも二度とやらないつもりだったけど……この一瞬くらい、夏樹が教えてくれた俺と共演って夢に乗っかってみようと思った」
「椎名さん……」
一旦カットがかかり、涙を流しているシーンはここまでということになった。慌ただしくメイクを直しヘアセットも少し変えて、次のカットへと移る。
「じゃあ南くん、次は椎名くんの背中に腕回してみて。バングルがこっちに見えるように。そう、いいね」
柊吾とカメラの前に立っている。その現実に浸る間もなく撮影は進んでいく。カメラマンの指示に必死に、だが自然に見えるようにと苦心しながらポーズをとる。
「椎名さん、あの」
「……柊吾」
「え?」
「俺たちは今恋人って設定だろ。名前で呼んでみてよ」
「へ……いや無理、オレ爆発する!」
「はは、でも呼んでほしい。夏樹」
「あ……」
タイミングがいいのか悪いのか、ふたりともピアスが見えるように頬のラインをギリギリ見せてほしい、との指示が柊吾に入った。それを聞いた柊吾は、夏樹の顎に手を添え、夏樹の頬にキスをするふりで指示に応えていく。例えポーズでくちびるは当たっていないとしても、夏樹には刺激が強かった。思わず声が漏れると、その表情もいいね、本当に恋人みたいだと煽てられ、シャッターが切られていく。
「椎名さん、これ」
「柊吾」
「っ、柊吾、さん……これ、やばい」
「ん……俺もやばい」
撮影が進むにつれ、夏樹の中にあった緊張や驚き、柊吾と密着することへの恥じらいは徐々になくなっていった。
なんせ夢が叶っている真っ最中だ。夏樹はもちろん、柊吾やカメラマンを始めここにいる全員が共鳴するような、最高潮のボルテージ。こちらを睨むように、とのディレクションの際には柊吾を誰にも譲りたくないという想いで睨み、ヒートアップして柊吾の肩に齧りついた。
指を絡めて指輪の美しさを際立たせたり、ネックレスがぶつかるくらいの距離を横から撮影したり。クライマックスは、角度を工夫してキスをしているように見えるアングルを求められる。カメラの前に立つひとりのモデルである夏樹には、戸惑いは一切ない。スタッフたちが、感嘆の息を漏らしているのが分かる。柊吾さん、と名を呼び、夏樹、と返ってくる自分の名に酔いしれて――
カット! とのカメラマンの大きな声で撮影が全て終了したところで、夏樹はハッと我に返る。
「南くん! すごくよかったよ!」
スタッフたちが夏樹へと大歓声を送る。撮影は大成功で終えられたようだ。安堵したのと同時に息が上がり、それを整えながら目の前の柊吾へと視線を移す。撮影は終わったのだから、離れなければ。そう思うのに、興奮しきっている体は言うことを聞いてくれそうになかった。
「柊吾さん、あの」
「夏樹、こっち」
「へ……あっ」
ローブと服を引っ掴んだ柊吾は、夏樹の腕を取りスタッフたちに着替えてきますと声を掛ける。この後は別のペアでの撮影が予定されているようで、既にその準備を始めているスタッフたちはふたりのことなど気にも止めない。
柊吾が足早に向かったのは楽屋だった。中に入ると、扉が荒々しく閉められる。
「っ、柊吾さん」
「夏樹……」
うわ言のように夏樹の名を呼びながら、柊吾は夏樹を扉のすぐ横の壁に囲った。大きな体、長い腕。閉じこめられたその中で肩にぐりぐりと額を擦りつけられ、聞こえてくるのは柊吾の呼吸と自分の名前だけで。もう隠してなんていられなかった。
「柊吾さん、キスしたい」
「っ、夏樹……」
「さっき出来んくて寂しかった、オレ……んっ」
押しつけられるような荒っぽいキス。その一度で離れようとした柊吾を、今度は夏樹が逃さない。首を引き寄せて夏樹からもキスをすると、もうそこからはお互いに止められなかった。
興奮したままの体、絡む舌の熱さはあの夏の夜以上で。
このまま好きだと言えたらどんなに幸せだろう。受け入れてもらえると、このキスに期待をしてもいいだろうか。
顎を引き、離れたくちびるにそれでも舌先は甘えたがって。どうにか空けたすき間で、柊吾の名前を呼んでみる。
「柊吾、さん。オレ……」
「ん?」
「あの、柊吾さんのこと……好き……んんっ!?」
「……ごめん、夏樹。それは待っ……」
想いを伝えようとした口を、慌てた様子の柊吾に手で塞がれてしまった。そして続くのは、残酷な“ごめん”だった。
なんだ、自分だけだったのか。そうか、そうだよな。
夏樹はどん底まで一気に落ちかけ、だがまだ途切れてはいなかった柊吾の言葉を、乾いたノック音が遮る。こんなところを見られてはまずい。慌てて距離を取り、柊吾が返事をする。
「はい」
「あ、椎名さんこちらにいらっしゃったんですね。次の撮影の件で確認があるのですが……」
「すみません、すぐ行きます」
柊吾に用があったようだが、扉越しで伝えられたことに夏樹は安堵した。ふたりして服を羽織ることすら忘れていたからだ。
柊吾の返事にスタッフは去り、静寂が訪れる。
「俺、今日一日撮影につきっきりの予定なんだ。そろそろ行かなきゃ」
「っす」
「……夏樹、さっきの」
「あー、あれは気にせんでください! オレはその、大丈夫なんで! ね、行ってください、しゅ……椎名さん」
「夏樹……」
「ほらほら、何て顔してんすか! 最高にかっこいいカタログ、作ってきてください!」
「……ああ、行ってくる」
縋れるものならそうしたいが、柊吾には今日をとことんやり切って欲しかったし、何より改めて“ごめん”と言われることが夏樹は恐ろしかった。
躊躇っている柊吾の背にシャツを羽織らせ、ぐいぐいと背中を押す。名残惜しそうにこちらを見て、大きな手が夏樹の頭の上へと翳される。だが撫でられることはなく、きゅっと握りこんでそのままスタジオへと戻っていった。
ひとり楽屋に残された夏樹は、ずるずると壁伝いに座りこむ。大きく開いた足の間で頭を抱え、出てくるのは深いため息だ。
本来なら今は、撮影を駆け抜けられた達成感だとか、反省点に課題を見つけるべき時間で。分かっている、分かっているのにどうしても頭の中は柊吾だらけだった。
叶うはずのなかった、柊吾と共演の夢が叶った。久しぶりに触れた熱、ずっとずっと柊吾の視界に自分はいて、役だとしてもあの時間だけはふたりは恋人同士だった。
どうしようもなく好きだ、溢れ続ける想いはもうこの体だけでは抱えていられなくて、弾けそうなくらいに。
好きすぎて呼吸すら忘れそうなくちびるを指で辿る。まだキスの感覚が残っていて、忘れないようにと下くちびるを口内に引きこみ、柊吾の跡を舌でなぞる。そうすれば、熱い吐息が腹の奥から零れ出た。
体がおかしくなるほど恋をしている、そんな恋を柊吾に捧げている。息もおぼつかないほどに苦しい。けれど柊吾を想うこそなのならば、この苦しみもまた幸せと呼ぶのだろうか。
どうにか息を整えて、いつのまにか流れていた涙を拭って。挨拶を終えて戻ってきた前田に絶賛されながら、夏樹はマンションへと戻った。
柊吾は何時ごろ帰ってくるだろう。きっと今日のことを褒めてくれる。その後は気まずい空気が流れて、そうしたら自分たちはどうなるのだろう。何事もなかったようにまた毎日を始めるのだろうか。それともきちんと振られて、失恋を抱えて生きていくことになるだろうか。
どちらに転んでも、受け入れられる自分でいられたらいい。不安はたくさんあるけれど、それでも日々の生活に柊吾がいることは変わらない、それだけが夏樹が心を保てる理由だった――だったのに。
柊吾はその夜も、また明くる日も、マンションに戻ることはなかった。