十月には秋のイメージがあるのに、まだまだ暑い日が続いている。それでも確実に移ろっていく季節と共に、夏樹にも変化が起きている。
晴人のバーターで、メンズファッション雑誌の撮影に初めて参加出来た。本当にささやかではあったが、スタッフに知ってもらえることが大切なのだと晴人も前田も言っていた。そうでなくとも全力で挑むつもりだったが、より一層集中することが出来た。
順調とはなかなか言い難いが、一歩を着実に進めたと思っている。
ただひとつ問題があるとすれば、柊吾のことだ。関係は良好だが、夏樹の心の中は大嵐が吹き荒れているのだ。
『気まずくなりたくない』と言ってくれた通り、柊吾は変わらず何かと気にかけてくれている。それを喜ぶべきだと思うのに、柊吾の変わらない笑顔に確かに安心するのに――自分とあんなことをしたところで意にも介さないのだと思うと、虚しさに叫び出したくなる。
気づいてしまった、冷蔵庫の前でそっと拭った涙の意味を。あの日は名前をつけられずにいた感情が、恋だったということを。知ってしまった柊吾の熱を、キスの味を忘れるなんて出来ない。
ただの同居人、世話係、憧れの人――その関係にはもう戻れない。
自分の気持ちを理解してからというもの、柊吾との出逢いは改めて煌めいた。だが今は、寂しさや苦しさがそれを凌駕している。憧れだけでいられた時のほうがよっぽど、まっすぐに好いていられた気がする。
「ありがとうございました」
アクセサリーを購入してくれた客を見送り、naturallyの店内へ戻る。平日の十五時過ぎ、客の姿はなく尊とふたりになった店内で、夏樹は小さくため息をついた。
「夏樹、なんかあった? 最近元気ない」
「あ……ごめんなさい、オレ暗かった? さっきのお客さん、嫌な思いしたかな」
「それは平気。嬉しそうに帰ってったじゃん。真っ先にそういうの気にするとこ、夏樹らしいな」
いくつかの指輪をショーケースの中に戻しながら、尊はそっと微笑んでくれた。口数が多いほうではないながら、いつだって夏樹に寄り添ってくれる。その優しさについ甘えたくなる。
「尊くん、オレ……好きな人、がいて」
「うん」
「……なんか色々、苦しくて」
綾乃と別れたことは、尊にも話してある。もう次の恋か、と思われても仕方がないと思ったが、すんなり頷いてくれたことに泣いてしまいそうだ。それでもどうにか絞り出したのは、何の相談にもなっていないものだった。
詳しく言えるわけがないのだ、その相手が尊もよく知る柊吾で、最近またセフレのところに行ってしまうのが辛いです――なんて。
夏の間、柊吾が夜に出掛けることはなくなっていたが、あの日――夏樹と触れ合って以降、また家を空ける日が出てきた。どこに行くのかなんて聞く気にはなれない。十中八九、セフレと会っているのだろうから。
柊吾がセフレなんて似合わないな、とモヤモヤしていた以前までとは訳が違う。好いた相手なのだ、行かないでと腕を掴んでしまいたい。だがそんな権利などあるはずない。恋心で夏樹の心境が変わったところで、そんなもの柊吾には関係ないのだ。
「恋ってさ、しんどいよな」
「え?」
「俺も色々悩んだし」
「尊くんも?」
「うん。でもそれも好きだからこそっつうか。苦しいのもセットって感じ?」
「苦しいのもセット……苦しいのもひっくるめて恋、ってこと?」
「だな」
尊には付き合って二年と少しになる彼氏がいること、その彼と一緒に暮らしたくて奮闘していること。来客が途絶えた店内で、尊はこっそり教えてくれた。見せてくれたロック画面には猫と一緒に彼氏が映っていて、それを眺める尊は今まで見たこともないような、柔らかな顔をしていた。
「夏樹も叶うといいな」
「うう、ありがとう……でも無理だよ」
「んー……俺はそうは思わないけど」
「へ……それってどういう」
尊の言っている意味が分からず問い返そうとした時、店の電話が鳴り始めた。尊が応対する間、ショーケースを磨いていようかと夏樹は思ったのだが。尊の口から柊吾の名前が出てきたことで、手はピタリと止まってしまう。
「椎名さんだった、今日は直帰するらしい」
「そうなんだ。出張だよね」
「うん。来年のカタログの打ち合わせって話だけど、追加で行くところが出来たらしい」
「へえ……カタログって椎名さんが担当してるんだっけ」
「いつもデザインは専門の業者に依頼してるけど、今回のは椎名さんが考えてるっぽい」
「椎名さんすげー」
カタログのデザインまで出来るなんて、と夏樹は感心する。それだけのセンスが柊吾にあって、naturallyのデザイナーや店長などからも信頼が厚いということだろう。憧れも恋の熱も増すばかりで、腫れぼったいため息が出る。
退勤まで顔を見られないのは寂しいが、家に帰れば会えるのだから平気だ。だが今夜だって、夕飯の後にいなくなってしまう可能性はある。そう思うと胸が詰まり、先ほどの尊の言葉を噛みしめる。
苦しいのも恋をしているから――尊のように笑える日は、自分には来ないだろうけれど。
「めっちゃ美味しかった! 尊くん、ご馳走様です!」
「どういたしまして」
ショップが閉店を迎えた後、尊と外で夕食をとった。そろそろ退勤だ、という頃に<今日は夕飯を食べて帰ることになった>と柊吾、それから晴人からも連絡があったのだ。
それを知った尊が誘ってくれて、ハンバーガーショップへと向かった。チェーン店のものではないハンバーガーは、夏樹にとって目新しい。つい瞳を輝かせると、尊はいつかのように「犬みたいだな」と笑った。
食事はもちろん、尊との時間も楽しかった。ふにゃくまのキーホルダーに尊が目を留めたのでひとしきり語れば、俺は興味ないなんて言われたけれど。「なるほどこれは夏樹のお気に入りだったんだな」と指先でトンと撫でてくれたりもした。
名残惜しさを覚えつつ、店を出たところで解散することになった。
「本当にひとりで帰れるか?」
「帰れるよ、もうこっち出てきて半年は経ったし!」
「それもそうか。でもま、気をつけてな」
「うん。尊くんも」
「おう。じゃあな」
手を振って別れた後、尊はすぐに電話をかけ始めた。今夜は恋人の彼と会う予定らしい。そんな日に誘ってもらったことを申し訳なく思ったのだが、それぞれ夕飯後の約束だったから助かった、と言われてしまった。スマートな先輩に頭が上がらない。
さあ帰ろうか。駅に向かって歩き出した夏樹を、けれどスマートフォンの通知が足止めさせる。ポケットから取り出し、ロック画面を確認した夏樹の眉がきゅっと上がる。
「え、美奈さん?」
メッセージの送り主は、六月に撮影で一緒になった美奈からだった。連絡先の交換こそしたが、実際に送られてきたのは初めてだ。社交辞令だったのかもと思ったんだよな、と既に懐かしく思いながらトーク画面を開くと、そこにあった文面に夏樹はそっと目を見開く。
<夏樹くん久しぶり! よかったら今から遊ばない?>
送信先を間違えたのかと一瞬思ったが、しっかり“夏樹くん”と明記されている。
思えば上京してからこっち、誰かと遊んだことはなかった。家には柊吾と晴人がいるし、naturallyに出勤すれば尊と話せる。それを寂しいと思ったこともない。
さてどうしたものか。美奈といえば思い出すのはまず、撮影時の目を見張るような仕事への取り組む姿勢。人気があるモデルはカメラが回っていないところでもプロとしての意識が高いのだと、感心させられたのをよく覚えている。
それからもうひとつ、晴人の忠告だ。男漁りが激しいタイプ、ぱくっと食われちゃうかもよ――晴人のことを疑うわけではないが、夏樹の記憶の中の美奈はやはりそんな風には見えなかった。仮にそうなのだとしても、自分がその対象になり得る気がしない。
それに何より、第一線で活躍する美奈から吸収出来るものが絶対にある。未だ燻っている状態の夏樹にとって、これは魅力的な誘いだった。
<美奈さんお久しぶりです! ぜひ!>
少しの緊張感を覚えながらそう返信すると、すぐに既読のマークがついた。そしてテンポよく返って来たのは、とある場所のホームページのURLだった。夏樹が今いる場所から五駅ほど先にあるようだ。
「クラブ? って行ったことなかけど……まあいっか」
電車に乗り、クラブの最寄り駅で降りる。マップとにらめっこしながら辿り着いたそこには、地下へと続く階段があった。本当にここで合ってるよな、と数回看板を確認して下りる。
意気ごんで来たはいいが、初めての場所にやはり緊張感は否めない。ごくりと息を飲んで扉を開く。するとその瞬間、爆音の音楽が夏樹の耳を劈いた。あまりの音量にびくりと体が跳ねてしまう。こういう派手な場に慣れていない、田舎者だと語っているようで恥ずかしくなる。周りに人がいなかったのは助かった。
大きく息を吐いて気を取り直し、中へと進む。エントランスがあり、入場料として二千円が必要とのことだ。払えないほどではないが、突然のことに少々懐は痛む。それでも何か得られるのならば安いものだろう。
支払いが済んだところで美奈に着いたと連絡を入れ、中へと進む。爆音の次に夏樹を刺激するのは、煌びやかな照明だ。加えて、ごった返す若者たち。踊る人たちがそこかしこに溢れていて、テレビでしか見たことのない世界に呆然とする。頭に浮かぶ文字は、場違い。ただそれだけだ。
許されるものならば、今すぐに帰りたい。二千円は無駄になるが、お腹が痛くなったとでも言ってそうしてしまおうか。そう思ったのだが、引き返すより先に美奈に見つかってしまった。
「夏樹くん!」
「あ、こんばんは!」
「ふふ、来てくれて嬉しい」
夏樹の腕に美奈の腕が絡まって、声が聞こえるようにと体をぐっと寄せられる。途端に感じるのは香水とアルコールの甘い匂いだ。もう酔っているのだろうか。
こんな場所では、モデルとしての教訓だとか、そう言った真剣な話が出来る気もしない。完全に見誤った。
とは言え、そそくさと逃げ帰るわけにもいかないだろう。美奈に腕を引かれるまま、夏樹は身を任せることしか出来ない。
「夏樹くん、何飲む?」
「えっと、じゃあ何かジュースを」
「え~? お酒飲まないの?」
「いやだってオレ、まだハタチになってないですし」
「ふふ、ちゃんとしてるんだね。偉いなあ。じゃあ……すみませーん、オレンジジュースひとつ」
バーカウンターのようなところに立ち寄り、お洒落なグラスに注がれたジュースを受け取る。オレンジジュースは柊吾と過ごした苦い朝を思い出してしまうのに。断るわけにもいかずそれを受け取ると、また美奈は夏樹の腕を引く。
「あの、美奈さんは踊ったりするんですか?」
「ううんー、私はそっちは見る専門。それよりお酒飲んだりするのが好きだよ。ねえ、こっち」
「あっ」
ぐいぐいと引っ張られ続け、奥まった場所にソファが見えた。そこで座って飲むのだろうか。もしかするとあそこでなら、話が出来るだろうか。
やっぱり来て正解だったのかもしれない、と気分が持ち直してきた、その時だった。
人にぶつからないようにと上に掲げるように持っていたオレンジジュースが、手首ごと何者かに捉えられる。何事だと振り返った夏樹は、驚きのあまり息が止まってしまった。
何故ここに柊吾がいるのだろう。
「夏樹」
「え……え、椎名さん!? なんでこんなとこに」
「それは俺のセリフ。はあ、ずっと嫌な予感はしてたんだけどな」
「…………? えっと?」
柊吾が何を言っているのか分からず首を傾げる。するともう片手に巻きついていた美奈が、まるで抱きつくように夏樹の胸元に顔を寄せてきた。
「夏樹くん、この人は?」
「あー、その……」
斜め上からの角度でも、美奈が柊吾に見惚れているのがよく分かる。そりゃそうだろう、椎名柊吾という男はとびきり格好いいのだから。
鼻高々に感じながら、だがそれ以上に急激な嫉妬を覚える。柊吾のことを知られたくないという、身勝手な独占欲だ。
どう答えたものかと思っている内に、右手のオレンジジュースが柊吾に奪われてしまった。そしてそのグラスを柊吾は美奈に押しつけてしまう。
「これ、君が飲んで」
「え? なん……」
「夏樹、出るぞ」
「えっ、椎名さん!? ちょ……あ、美奈さんすみません! じゃあまた!」
柊吾に腕を引かれるままに、夏樹はかろうじて美奈にそう告げた。呆気に取られている美奈の顔が、踊り続ける若者たちの波間に消える。
せっかく誘ってくれたのに申し訳なく思う、思いはするが、夏樹の頭の中は既に柊吾でいっぱいだった。
下りてきたばかりの階段を、柊吾と共に駆け上がる。夜の街の明かりに照らされて、柊吾の襟足の髪はこんな時でも綺麗だ。
見惚れている内に、クラブから少し離れた通りに出て立ち止まる。乱れた息に肩を揺らしながら、柊吾が苦々しげに口を開いた。掴まれているままの手首にきゅっと力が込められる。
「夏樹、あんなとこ行っちゃ駄目だ」
「あんなとこ? えっと、クラブが駄目ってことですか?」
「クラブがっつうか……あそこはちょっと特殊なんだよ。ナンパが多いし、遅くなってくるとVIPルームでヤる奴らも出てくる。それに……噂だけど、クスリのやり取りもあるらしい」
「え……」
「白瀬美奈、前からよくあそこで見かけててさ。夏樹が一緒に仕事したって聞いてから注視してたんだけど……あの子は純粋に遊んでるだけだと思う。でもあのクラブに出入りしてるってもし世間にバレたら、いいことはひとつもない」
「全然知らんかった……」
柊吾の話を聞いて、なんて危ない場所に踏みこんでしまったのだろうと肝が冷える。美奈にそのつもりはなかったとしても、知らず知らずのうちに誰かに酒でも飲まされて、危ない場所に連れこまれたら?
そうでなくとも、柊吾の言う通り万が一誰かに撮られたり噂にでもなったら、本当のことを述べたとしたって信じてもらえないだろうことは想像に容易い。
「椎名さん、ありがとうございます。もし巻きこまれたりとかしてたら、オレすげー後悔してました」
「ん、何かある前でよかった」
「…………」
柊吾に連れ出してもらえてよかった。頭を撫でてくれる優しい手に身を委ね、だが夏樹の胸は晴れはしない。
柊吾は言った、あのクラブでよく美奈を見かけるのだと。それはつまり、柊吾も頻繁に出入りしているということだ。
そんな危険な場所に?
大きな不安と、押しこめていたモヤモヤがみるみる膨らんでいく。
「椎名さんは……」
「ん?」
「椎名さんは、あそこによく行くの?」
「あー……うん」
「なんで? 危ない場所なんすよね?」
「そうだけど……知り合いがあそこでDJしてて、よく呼ばれてさ」
「……それって、でも椎名さんだって危ないっすよね?」
「まあ、俺はほら、一般人だからそういう面倒はないし。奥は行かないようにしてるから、平気」
「っ、そやんと関係なかです!」
「……夏樹?」
柊吾にセフレがいると知った時の違和感の正体が、やっと分かった。
歪なのだ。周りの人たちにとことん優しいのに、自分自身のことは蔑ろにしているように見える。
「オレ、椎名さんが連れ出してくれてよかったです。でも、そんなところには椎名さんにも行ってほしくない」
「…………」
「っ、オレは熊本から出てきたばっかやけん、まだこの街のことも、店とかも詳しく知らん。だけん、そういう危ないことから椎名さんを守りたくても、オレには何も出来ん……だから、椎名さん自身がもっと椎名さんのこと大事にしてよ!」
「夏樹……」
柊吾への歯がゆさに、甘く鼓動していた手首を振りほどく。
夜が更けても賑やかな街では、大声を張り上げる夏樹に一瞬注目が集まっても、すぐに他のものへと移ろってゆく。忙しない通りに、夏樹のぐずぐずの鼻音はかき消される。
それでも柊吾はハッとしたように肩を揺らした。夏樹に手を伸ばしかけ、けれど空を掴んで彷徨う。何も言葉は返ってこない。
面倒だと思われたのかもしれない。だが言ったことは夏樹の胸の真実で、取り消したくはなかった。
「オレ、帰ります。椎名さんは?」
「俺は……まだ」
「っす。じゃあ、お先に失礼します。気をつけて帰ってきて下さいね」
自分に何があれば、柊吾を連れ出せたのだろう。いつも気にかけてもらう側で、優しくしてもらってばかりで、好きで仕方ないのは自分だけで。だから届かない、何も出来ないのだと思うと悔しくて仕方なかった。
柊吾の隣をすり抜け、人波に溶ける。
いっそ消えてしまいたくなる夜、どこもかしこも煌びやかな街はなんて酷なのだろうと夏樹は思う。
沈んだ気持ちは体まで重くする。引きずるように帰宅すると、リビングのソファに晴人の姿があった。おかえりと出迎えてくれて、夏樹は吸い寄せられるようにソファの下、ラグに腰を下ろす。今はひとりでいたくなかった。
「夏樹も外で食ってきたんだ?」
「っす。尊くん……naturallyの人とハンバーガー食べてきました。晴人さんは何食べたんすか?」
「俺はねー、寿司」
「高級だ」
「あは、だねー」
晴人は話術に長けていて、いつも楽しい気持ちにさせてくれる。いくらか心も解けて、だがふと会話が途切れた時。晴人は静かに夏樹に尋ねる。
「なんかあった?」
「へ……あー、はは、晴人さんには敵わないっすね」
「俺でよかったら聞くよ」
少しボリュームの落ちた晴人の声が心地いい。甘えてしまいたい欲求に抗えず、夏樹は口を開く。
「……椎名さんとさっき会ったんですけど」
「え、もしかしてあのクラブで?」
「晴人さんもあそこ知ってるんですか?」
「あー、うん、一回だけ行ったことある」
「そうなんすね。オレ、椎名さんにこんなとこ来ちゃ駄目だって言われました。危ないからって。教えてもらえて助かったなって思ったんですけど。オレ、そんなとこには椎名さんにも行ってほしくないです」
「夏樹……」
「……DJに知り合いがいるんだって椎名さん言ってましたけど、それって多分、セフレの人っすよね」
柊吾が危ないところに出入りしている。それだけでも夏樹にとっては衝撃で、ワガママを言えるのならすぐにでもやめてほしいと思った。
それに加えて、だ。夜道を歩きながら考えた。度々夜に出掛けていく柊吾の行き先があのクラブだったのなら、そのDJこそがセフレなのではないかと。危険な場所に呼び寄せる人と、と思うと余計に悲しくなった。
「夏樹、柊吾がセフレに会うの今もイヤ?」
「…………」
「大丈夫。俺しかいないんだし、言っても平気だよ」
「……嫌、です」
「そっか。やっぱセフレとかそういうのって、汚らわしいなって感じ?」
「それも正直あります。椎名さん、あんなに優しいのに何だか似合わないなって思ってたし。でも今は……それだけじゃなくて」
「うん」
恋愛に興味がない、でもそういうことはしたい。そうだと言うなら、セフレという存在はうってつけなのだろう。
でもやはり同じに思える。危険だとクラブから夏樹を遠ざけながら、そこに身を置くように。愛情深い柊吾がセフレを持つのは、自身を雑に扱っているように感じられる。それがただただ悲しい、どうにか出来ないものかと歯がゆく思ってしまう。柊吾のことが好きだからだ。
ソファに座っていた晴人が、夏樹の隣へと降りてきた。慰めるように肩を抱きトントンと撫でてくれて――この人になら打ち明けてもいいのではないか。そんな気がしてくる。
「晴人さん、オレ」
「うん」
「あの……びっくりするかもですけど、オレ、椎名さんのことが好き、なんです。だからその、椎名さんがセフレのとこ行くの、もうずっとしんどくて。そういう危ないところに椎名さんを呼ぶような人なら、もっと嫌です」
「うんうん、そっか」
「晴人さん……驚いたりとか引いたりとか、せんとですか?」
「んー? しないよ。だって俺知ってたし。やっと言ってくれて嬉しい」
「へ……え! なんで!?」
「だって夏樹、めっちゃ分かりやすいもん」
「ウソ……じゃあもしかして、椎名さんにもバレて……」
「ああ、それは大丈夫。アイツ、そういうの鈍感だし。鈍感っていうか、今までシャットダウンしてたっていうか?」
柊吾への想いに気づかれていた?
想定すらしていなかった事実に、夏樹は一気に青ざめた。
だが、柊吾は気づいていないと晴人が豪語する。幼なじみがそういうのだから、その点は安心していいのだろう。
それでもやはり狼狽えずにはいられない。よくよく考えてみれば誰かを好きになることも、こんなに苦しくなるのも夏樹にとっては初めてのことなのだ。体から恋が零れていたなんて、穴があったら入りたいくらいに恥ずかしい。
あわあわと慌てる夏樹の頭を、晴人がぽんと撫でる。顔を上げると、さっきまでのどこかおどけた顔とは打って変わって、真剣な表情がそこにはあった。
「ねえ夏樹」
「……はい」
「これはさ、柊吾が自分で言うまで夏樹の胸に仕舞っておいてほしいんだけど……聞いてくれる? 柊吾の……今までのこと」
「はい」
ありがとう、と言った晴人は、ローテーブルに置いてあったグラスを手に取った。炭酸水に浮かべてあった氷はすっかり溶けて、大きくなっていた水たまりが晴人の足に滴った。
「俺と柊吾はさ、実家が隣同士だったんだよね。小さい時から一緒に遊んでたし、家も行き来してたわけだけど――」
小学校に上がる前、柊吾の母親が病気で亡くなった。柊吾は深く落ちこむ日々だったが、それでも父親とふたりで支え合っていた。
柊吾の父は、仕事により一層励むようになった。家より会社にいる時間が多くなった父に柊吾は寂しそうだったが、父が頑張るのは自分のためだと分かっていたのだろう、と晴人は言う。
父を助けようと家事に励むようになり、みるみる上達していった。そんな柊吾を晴人の家族は気にかけ、よく夕飯に呼んだり泊まらせたりしていた、とのことだ。
「でもやっぱりさ、寂しいもんは寂しいよな。それでも柊吾は捻くれたりしなくて、その分、愛ってもんに人一倍憧れるようになった。恋愛ものの映画とかよく見てたし、いつか自分にも最愛の相手が出来るって、信じてたんだと思う。でも……違った、そんなのまやかしだったって、柊吾は思っちゃったんだよね」
そこまで一気に話して、晴人はふうと息を吐いた。空になったグラスが気になって、夏樹は立ち上がって冷蔵庫へ向かう。夏樹が好きだから、と柊吾が切らさないようにしてくれているサイダーを手に戻り、晴人のグラスに注いだ。
「ありがとう、夏樹は優しいね」
「いえ、オレも飲みたかったんで丁度よかったです」
そう言いつつ、夏樹はペットボトルのふたを閉じてそれをテーブルに置いた。狭苦しい喉に、ぱちぱち弾けるサイダーはきっと重い。
「じゃあ続きね」
「はい」
「夏樹が大事にしてる、柊吾の写真あるでしょ。あの一回こっきりの、モデルやった時のヤツ」
「はい」
「あれ、俺たちが高三の時だったんだけど、そりゃもう学校中が沸いたよね。既にモデルやってた俺は真新しさがないもんだから、柊吾の話で持ちきり。そんで、まあ元々モテてはいたんだけど、そこから桁違いでさ。話したこともない、柊吾からすれば顔すら知らない子たちが我先にって告白してくんの。そんで、真摯に対応してごめんねって言っても、急激に態度変える子もいたりして。それがさー、柊吾にはショックだったんだよね。なんだ顔だけじゃん、恋愛ってこんなもんか、って。愛とかやっぱり俺には縁がなさそう、って落胆しちゃったみたい。それからだよ、アイツがセフレ作るようになったの」
「オレがここに越してきた日、踏んだ地雷ってそういうことだったんすね。かっこいいって言って、セフレのことで勝手にショック受けて……」
傷を抉ってしまったのだなと、あの日のことが改めて胸を黒く蝕む。だが晴人は、「いや、今思えば夏樹はよくぞ言ってくれた」なんて言って不敵な笑みを覗かせる。
「俺もさ、柊吾がああいうとこ出入りしてセフレとヤッてんの、正直よく思ってなかった。でもそうなった経緯全部知っちゃってんから、やめろよとか言えなくてさ。それに、夏樹が言ったことに意味があると思う。じわじわ効いてきてんだよなー、多分」
「…………? どういう意味っすか?」
「うーん、それはちょっと俺からは言えないんだけどー……ねえ夏樹、これは俺の勝手な憶測なんだけどさ。柊吾、確かにセフレに会いにクラブ行ってるけど、今は多分、夏樹が考えてるようなことはしてないと思う」
「え?」
「夏樹は知らないよねー。柊吾が出掛ける時、絶対アイツのほう見ないようにしてるでしょ? 柊吾のヤツ、夏樹をじっと見てしんどそうにため息ついて、そんですげー嫌そうな顔で渋々出掛けてんだよ」
「そう、なんすか? なんで?」
「なんでだろうねえ? 前まではあんなんじゃなかったのにね」
柊吾の過去のこと、最近のこと。知らなかったものがたくさん晴人から出てきて、夏樹は整理するのに精いっぱいだ。
恋愛には興味がないと言った柊吾は、実は愛を求めている。柊吾自身が吐いたその言葉より、柊吾を表すものとして愛というワードはぴったりだと思った。
とことん優しくて、あったかくて。夏樹が好きになった柊吾は、愛に溢れた人だから。
「晴人さん」
「んー?」
「オレ、雑誌で初めて椎名さんを見た時、流れ星がここに落ちてきたみたいだ、って本気で思ったんです」
こちらを向いた晴人と目を合わせ、夏樹は心臓の上のシャツをぎゅっと握りこむ。
「東京に来たら会えるかなって、正直ちょっと期待もしてたら本当に会えて……本物はかっこいいだけじゃなくて、いや最高にかっこいいんすけど、すげー優しくて……椎名さんと並んでも恥ずかしくないような男になりたいな、って思ってます。目標みたいな人なんです。オレに何か出来るとは思わないですけど……そんな椎名さんには、幸せでいてほしいです」
「うん、そうだね。はは、夏樹ほんっといい子! 夏樹に話してよかった」
ぎゅっと抱きしめられて、大きな犬を愛でるみたいに髪をかき混ぜられる。くすぐったく思いながらも身を任せていると、体を離した晴人は何かを思いついたように片眉を上げる。
「夏樹にとっての柊吾ってさ、流れ星っていうよりあれみたいだよね。北極星」
「北極星?」
「そう。いつ見ても同じ場所にあるから、道しるべになる星」
「道しるべ……うわ、オレにとっての椎名さんだ」
「でしょ?」
日々の生活はもちろん、そのずっと前から、夏樹は柊吾からたくさんのものを貰っている。そんな柊吾に自分が返せるものは何だろう、出来ることを探したい。でもそれはきっと、簡単に見つかるものではない。だから今はせめて、毎日ほんのひとつでも笑顔を贈れたら、なんて思う。
もしもそれが出来たなら、柊吾はほんの一瞬でも幸せだと感じてくれるだろうか。
晴人のバーターで、メンズファッション雑誌の撮影に初めて参加出来た。本当にささやかではあったが、スタッフに知ってもらえることが大切なのだと晴人も前田も言っていた。そうでなくとも全力で挑むつもりだったが、より一層集中することが出来た。
順調とはなかなか言い難いが、一歩を着実に進めたと思っている。
ただひとつ問題があるとすれば、柊吾のことだ。関係は良好だが、夏樹の心の中は大嵐が吹き荒れているのだ。
『気まずくなりたくない』と言ってくれた通り、柊吾は変わらず何かと気にかけてくれている。それを喜ぶべきだと思うのに、柊吾の変わらない笑顔に確かに安心するのに――自分とあんなことをしたところで意にも介さないのだと思うと、虚しさに叫び出したくなる。
気づいてしまった、冷蔵庫の前でそっと拭った涙の意味を。あの日は名前をつけられずにいた感情が、恋だったということを。知ってしまった柊吾の熱を、キスの味を忘れるなんて出来ない。
ただの同居人、世話係、憧れの人――その関係にはもう戻れない。
自分の気持ちを理解してからというもの、柊吾との出逢いは改めて煌めいた。だが今は、寂しさや苦しさがそれを凌駕している。憧れだけでいられた時のほうがよっぽど、まっすぐに好いていられた気がする。
「ありがとうございました」
アクセサリーを購入してくれた客を見送り、naturallyの店内へ戻る。平日の十五時過ぎ、客の姿はなく尊とふたりになった店内で、夏樹は小さくため息をついた。
「夏樹、なんかあった? 最近元気ない」
「あ……ごめんなさい、オレ暗かった? さっきのお客さん、嫌な思いしたかな」
「それは平気。嬉しそうに帰ってったじゃん。真っ先にそういうの気にするとこ、夏樹らしいな」
いくつかの指輪をショーケースの中に戻しながら、尊はそっと微笑んでくれた。口数が多いほうではないながら、いつだって夏樹に寄り添ってくれる。その優しさについ甘えたくなる。
「尊くん、オレ……好きな人、がいて」
「うん」
「……なんか色々、苦しくて」
綾乃と別れたことは、尊にも話してある。もう次の恋か、と思われても仕方がないと思ったが、すんなり頷いてくれたことに泣いてしまいそうだ。それでもどうにか絞り出したのは、何の相談にもなっていないものだった。
詳しく言えるわけがないのだ、その相手が尊もよく知る柊吾で、最近またセフレのところに行ってしまうのが辛いです――なんて。
夏の間、柊吾が夜に出掛けることはなくなっていたが、あの日――夏樹と触れ合って以降、また家を空ける日が出てきた。どこに行くのかなんて聞く気にはなれない。十中八九、セフレと会っているのだろうから。
柊吾がセフレなんて似合わないな、とモヤモヤしていた以前までとは訳が違う。好いた相手なのだ、行かないでと腕を掴んでしまいたい。だがそんな権利などあるはずない。恋心で夏樹の心境が変わったところで、そんなもの柊吾には関係ないのだ。
「恋ってさ、しんどいよな」
「え?」
「俺も色々悩んだし」
「尊くんも?」
「うん。でもそれも好きだからこそっつうか。苦しいのもセットって感じ?」
「苦しいのもセット……苦しいのもひっくるめて恋、ってこと?」
「だな」
尊には付き合って二年と少しになる彼氏がいること、その彼と一緒に暮らしたくて奮闘していること。来客が途絶えた店内で、尊はこっそり教えてくれた。見せてくれたロック画面には猫と一緒に彼氏が映っていて、それを眺める尊は今まで見たこともないような、柔らかな顔をしていた。
「夏樹も叶うといいな」
「うう、ありがとう……でも無理だよ」
「んー……俺はそうは思わないけど」
「へ……それってどういう」
尊の言っている意味が分からず問い返そうとした時、店の電話が鳴り始めた。尊が応対する間、ショーケースを磨いていようかと夏樹は思ったのだが。尊の口から柊吾の名前が出てきたことで、手はピタリと止まってしまう。
「椎名さんだった、今日は直帰するらしい」
「そうなんだ。出張だよね」
「うん。来年のカタログの打ち合わせって話だけど、追加で行くところが出来たらしい」
「へえ……カタログって椎名さんが担当してるんだっけ」
「いつもデザインは専門の業者に依頼してるけど、今回のは椎名さんが考えてるっぽい」
「椎名さんすげー」
カタログのデザインまで出来るなんて、と夏樹は感心する。それだけのセンスが柊吾にあって、naturallyのデザイナーや店長などからも信頼が厚いということだろう。憧れも恋の熱も増すばかりで、腫れぼったいため息が出る。
退勤まで顔を見られないのは寂しいが、家に帰れば会えるのだから平気だ。だが今夜だって、夕飯の後にいなくなってしまう可能性はある。そう思うと胸が詰まり、先ほどの尊の言葉を噛みしめる。
苦しいのも恋をしているから――尊のように笑える日は、自分には来ないだろうけれど。
「めっちゃ美味しかった! 尊くん、ご馳走様です!」
「どういたしまして」
ショップが閉店を迎えた後、尊と外で夕食をとった。そろそろ退勤だ、という頃に<今日は夕飯を食べて帰ることになった>と柊吾、それから晴人からも連絡があったのだ。
それを知った尊が誘ってくれて、ハンバーガーショップへと向かった。チェーン店のものではないハンバーガーは、夏樹にとって目新しい。つい瞳を輝かせると、尊はいつかのように「犬みたいだな」と笑った。
食事はもちろん、尊との時間も楽しかった。ふにゃくまのキーホルダーに尊が目を留めたのでひとしきり語れば、俺は興味ないなんて言われたけれど。「なるほどこれは夏樹のお気に入りだったんだな」と指先でトンと撫でてくれたりもした。
名残惜しさを覚えつつ、店を出たところで解散することになった。
「本当にひとりで帰れるか?」
「帰れるよ、もうこっち出てきて半年は経ったし!」
「それもそうか。でもま、気をつけてな」
「うん。尊くんも」
「おう。じゃあな」
手を振って別れた後、尊はすぐに電話をかけ始めた。今夜は恋人の彼と会う予定らしい。そんな日に誘ってもらったことを申し訳なく思ったのだが、それぞれ夕飯後の約束だったから助かった、と言われてしまった。スマートな先輩に頭が上がらない。
さあ帰ろうか。駅に向かって歩き出した夏樹を、けれどスマートフォンの通知が足止めさせる。ポケットから取り出し、ロック画面を確認した夏樹の眉がきゅっと上がる。
「え、美奈さん?」
メッセージの送り主は、六月に撮影で一緒になった美奈からだった。連絡先の交換こそしたが、実際に送られてきたのは初めてだ。社交辞令だったのかもと思ったんだよな、と既に懐かしく思いながらトーク画面を開くと、そこにあった文面に夏樹はそっと目を見開く。
<夏樹くん久しぶり! よかったら今から遊ばない?>
送信先を間違えたのかと一瞬思ったが、しっかり“夏樹くん”と明記されている。
思えば上京してからこっち、誰かと遊んだことはなかった。家には柊吾と晴人がいるし、naturallyに出勤すれば尊と話せる。それを寂しいと思ったこともない。
さてどうしたものか。美奈といえば思い出すのはまず、撮影時の目を見張るような仕事への取り組む姿勢。人気があるモデルはカメラが回っていないところでもプロとしての意識が高いのだと、感心させられたのをよく覚えている。
それからもうひとつ、晴人の忠告だ。男漁りが激しいタイプ、ぱくっと食われちゃうかもよ――晴人のことを疑うわけではないが、夏樹の記憶の中の美奈はやはりそんな風には見えなかった。仮にそうなのだとしても、自分がその対象になり得る気がしない。
それに何より、第一線で活躍する美奈から吸収出来るものが絶対にある。未だ燻っている状態の夏樹にとって、これは魅力的な誘いだった。
<美奈さんお久しぶりです! ぜひ!>
少しの緊張感を覚えながらそう返信すると、すぐに既読のマークがついた。そしてテンポよく返って来たのは、とある場所のホームページのURLだった。夏樹が今いる場所から五駅ほど先にあるようだ。
「クラブ? って行ったことなかけど……まあいっか」
電車に乗り、クラブの最寄り駅で降りる。マップとにらめっこしながら辿り着いたそこには、地下へと続く階段があった。本当にここで合ってるよな、と数回看板を確認して下りる。
意気ごんで来たはいいが、初めての場所にやはり緊張感は否めない。ごくりと息を飲んで扉を開く。するとその瞬間、爆音の音楽が夏樹の耳を劈いた。あまりの音量にびくりと体が跳ねてしまう。こういう派手な場に慣れていない、田舎者だと語っているようで恥ずかしくなる。周りに人がいなかったのは助かった。
大きく息を吐いて気を取り直し、中へと進む。エントランスがあり、入場料として二千円が必要とのことだ。払えないほどではないが、突然のことに少々懐は痛む。それでも何か得られるのならば安いものだろう。
支払いが済んだところで美奈に着いたと連絡を入れ、中へと進む。爆音の次に夏樹を刺激するのは、煌びやかな照明だ。加えて、ごった返す若者たち。踊る人たちがそこかしこに溢れていて、テレビでしか見たことのない世界に呆然とする。頭に浮かぶ文字は、場違い。ただそれだけだ。
許されるものならば、今すぐに帰りたい。二千円は無駄になるが、お腹が痛くなったとでも言ってそうしてしまおうか。そう思ったのだが、引き返すより先に美奈に見つかってしまった。
「夏樹くん!」
「あ、こんばんは!」
「ふふ、来てくれて嬉しい」
夏樹の腕に美奈の腕が絡まって、声が聞こえるようにと体をぐっと寄せられる。途端に感じるのは香水とアルコールの甘い匂いだ。もう酔っているのだろうか。
こんな場所では、モデルとしての教訓だとか、そう言った真剣な話が出来る気もしない。完全に見誤った。
とは言え、そそくさと逃げ帰るわけにもいかないだろう。美奈に腕を引かれるまま、夏樹は身を任せることしか出来ない。
「夏樹くん、何飲む?」
「えっと、じゃあ何かジュースを」
「え~? お酒飲まないの?」
「いやだってオレ、まだハタチになってないですし」
「ふふ、ちゃんとしてるんだね。偉いなあ。じゃあ……すみませーん、オレンジジュースひとつ」
バーカウンターのようなところに立ち寄り、お洒落なグラスに注がれたジュースを受け取る。オレンジジュースは柊吾と過ごした苦い朝を思い出してしまうのに。断るわけにもいかずそれを受け取ると、また美奈は夏樹の腕を引く。
「あの、美奈さんは踊ったりするんですか?」
「ううんー、私はそっちは見る専門。それよりお酒飲んだりするのが好きだよ。ねえ、こっち」
「あっ」
ぐいぐいと引っ張られ続け、奥まった場所にソファが見えた。そこで座って飲むのだろうか。もしかするとあそこでなら、話が出来るだろうか。
やっぱり来て正解だったのかもしれない、と気分が持ち直してきた、その時だった。
人にぶつからないようにと上に掲げるように持っていたオレンジジュースが、手首ごと何者かに捉えられる。何事だと振り返った夏樹は、驚きのあまり息が止まってしまった。
何故ここに柊吾がいるのだろう。
「夏樹」
「え……え、椎名さん!? なんでこんなとこに」
「それは俺のセリフ。はあ、ずっと嫌な予感はしてたんだけどな」
「…………? えっと?」
柊吾が何を言っているのか分からず首を傾げる。するともう片手に巻きついていた美奈が、まるで抱きつくように夏樹の胸元に顔を寄せてきた。
「夏樹くん、この人は?」
「あー、その……」
斜め上からの角度でも、美奈が柊吾に見惚れているのがよく分かる。そりゃそうだろう、椎名柊吾という男はとびきり格好いいのだから。
鼻高々に感じながら、だがそれ以上に急激な嫉妬を覚える。柊吾のことを知られたくないという、身勝手な独占欲だ。
どう答えたものかと思っている内に、右手のオレンジジュースが柊吾に奪われてしまった。そしてそのグラスを柊吾は美奈に押しつけてしまう。
「これ、君が飲んで」
「え? なん……」
「夏樹、出るぞ」
「えっ、椎名さん!? ちょ……あ、美奈さんすみません! じゃあまた!」
柊吾に腕を引かれるままに、夏樹はかろうじて美奈にそう告げた。呆気に取られている美奈の顔が、踊り続ける若者たちの波間に消える。
せっかく誘ってくれたのに申し訳なく思う、思いはするが、夏樹の頭の中は既に柊吾でいっぱいだった。
下りてきたばかりの階段を、柊吾と共に駆け上がる。夜の街の明かりに照らされて、柊吾の襟足の髪はこんな時でも綺麗だ。
見惚れている内に、クラブから少し離れた通りに出て立ち止まる。乱れた息に肩を揺らしながら、柊吾が苦々しげに口を開いた。掴まれているままの手首にきゅっと力が込められる。
「夏樹、あんなとこ行っちゃ駄目だ」
「あんなとこ? えっと、クラブが駄目ってことですか?」
「クラブがっつうか……あそこはちょっと特殊なんだよ。ナンパが多いし、遅くなってくるとVIPルームでヤる奴らも出てくる。それに……噂だけど、クスリのやり取りもあるらしい」
「え……」
「白瀬美奈、前からよくあそこで見かけててさ。夏樹が一緒に仕事したって聞いてから注視してたんだけど……あの子は純粋に遊んでるだけだと思う。でもあのクラブに出入りしてるってもし世間にバレたら、いいことはひとつもない」
「全然知らんかった……」
柊吾の話を聞いて、なんて危ない場所に踏みこんでしまったのだろうと肝が冷える。美奈にそのつもりはなかったとしても、知らず知らずのうちに誰かに酒でも飲まされて、危ない場所に連れこまれたら?
そうでなくとも、柊吾の言う通り万が一誰かに撮られたり噂にでもなったら、本当のことを述べたとしたって信じてもらえないだろうことは想像に容易い。
「椎名さん、ありがとうございます。もし巻きこまれたりとかしてたら、オレすげー後悔してました」
「ん、何かある前でよかった」
「…………」
柊吾に連れ出してもらえてよかった。頭を撫でてくれる優しい手に身を委ね、だが夏樹の胸は晴れはしない。
柊吾は言った、あのクラブでよく美奈を見かけるのだと。それはつまり、柊吾も頻繁に出入りしているということだ。
そんな危険な場所に?
大きな不安と、押しこめていたモヤモヤがみるみる膨らんでいく。
「椎名さんは……」
「ん?」
「椎名さんは、あそこによく行くの?」
「あー……うん」
「なんで? 危ない場所なんすよね?」
「そうだけど……知り合いがあそこでDJしてて、よく呼ばれてさ」
「……それって、でも椎名さんだって危ないっすよね?」
「まあ、俺はほら、一般人だからそういう面倒はないし。奥は行かないようにしてるから、平気」
「っ、そやんと関係なかです!」
「……夏樹?」
柊吾にセフレがいると知った時の違和感の正体が、やっと分かった。
歪なのだ。周りの人たちにとことん優しいのに、自分自身のことは蔑ろにしているように見える。
「オレ、椎名さんが連れ出してくれてよかったです。でも、そんなところには椎名さんにも行ってほしくない」
「…………」
「っ、オレは熊本から出てきたばっかやけん、まだこの街のことも、店とかも詳しく知らん。だけん、そういう危ないことから椎名さんを守りたくても、オレには何も出来ん……だから、椎名さん自身がもっと椎名さんのこと大事にしてよ!」
「夏樹……」
柊吾への歯がゆさに、甘く鼓動していた手首を振りほどく。
夜が更けても賑やかな街では、大声を張り上げる夏樹に一瞬注目が集まっても、すぐに他のものへと移ろってゆく。忙しない通りに、夏樹のぐずぐずの鼻音はかき消される。
それでも柊吾はハッとしたように肩を揺らした。夏樹に手を伸ばしかけ、けれど空を掴んで彷徨う。何も言葉は返ってこない。
面倒だと思われたのかもしれない。だが言ったことは夏樹の胸の真実で、取り消したくはなかった。
「オレ、帰ります。椎名さんは?」
「俺は……まだ」
「っす。じゃあ、お先に失礼します。気をつけて帰ってきて下さいね」
自分に何があれば、柊吾を連れ出せたのだろう。いつも気にかけてもらう側で、優しくしてもらってばかりで、好きで仕方ないのは自分だけで。だから届かない、何も出来ないのだと思うと悔しくて仕方なかった。
柊吾の隣をすり抜け、人波に溶ける。
いっそ消えてしまいたくなる夜、どこもかしこも煌びやかな街はなんて酷なのだろうと夏樹は思う。
沈んだ気持ちは体まで重くする。引きずるように帰宅すると、リビングのソファに晴人の姿があった。おかえりと出迎えてくれて、夏樹は吸い寄せられるようにソファの下、ラグに腰を下ろす。今はひとりでいたくなかった。
「夏樹も外で食ってきたんだ?」
「っす。尊くん……naturallyの人とハンバーガー食べてきました。晴人さんは何食べたんすか?」
「俺はねー、寿司」
「高級だ」
「あは、だねー」
晴人は話術に長けていて、いつも楽しい気持ちにさせてくれる。いくらか心も解けて、だがふと会話が途切れた時。晴人は静かに夏樹に尋ねる。
「なんかあった?」
「へ……あー、はは、晴人さんには敵わないっすね」
「俺でよかったら聞くよ」
少しボリュームの落ちた晴人の声が心地いい。甘えてしまいたい欲求に抗えず、夏樹は口を開く。
「……椎名さんとさっき会ったんですけど」
「え、もしかしてあのクラブで?」
「晴人さんもあそこ知ってるんですか?」
「あー、うん、一回だけ行ったことある」
「そうなんすね。オレ、椎名さんにこんなとこ来ちゃ駄目だって言われました。危ないからって。教えてもらえて助かったなって思ったんですけど。オレ、そんなとこには椎名さんにも行ってほしくないです」
「夏樹……」
「……DJに知り合いがいるんだって椎名さん言ってましたけど、それって多分、セフレの人っすよね」
柊吾が危ないところに出入りしている。それだけでも夏樹にとっては衝撃で、ワガママを言えるのならすぐにでもやめてほしいと思った。
それに加えて、だ。夜道を歩きながら考えた。度々夜に出掛けていく柊吾の行き先があのクラブだったのなら、そのDJこそがセフレなのではないかと。危険な場所に呼び寄せる人と、と思うと余計に悲しくなった。
「夏樹、柊吾がセフレに会うの今もイヤ?」
「…………」
「大丈夫。俺しかいないんだし、言っても平気だよ」
「……嫌、です」
「そっか。やっぱセフレとかそういうのって、汚らわしいなって感じ?」
「それも正直あります。椎名さん、あんなに優しいのに何だか似合わないなって思ってたし。でも今は……それだけじゃなくて」
「うん」
恋愛に興味がない、でもそういうことはしたい。そうだと言うなら、セフレという存在はうってつけなのだろう。
でもやはり同じに思える。危険だとクラブから夏樹を遠ざけながら、そこに身を置くように。愛情深い柊吾がセフレを持つのは、自身を雑に扱っているように感じられる。それがただただ悲しい、どうにか出来ないものかと歯がゆく思ってしまう。柊吾のことが好きだからだ。
ソファに座っていた晴人が、夏樹の隣へと降りてきた。慰めるように肩を抱きトントンと撫でてくれて――この人になら打ち明けてもいいのではないか。そんな気がしてくる。
「晴人さん、オレ」
「うん」
「あの……びっくりするかもですけど、オレ、椎名さんのことが好き、なんです。だからその、椎名さんがセフレのとこ行くの、もうずっとしんどくて。そういう危ないところに椎名さんを呼ぶような人なら、もっと嫌です」
「うんうん、そっか」
「晴人さん……驚いたりとか引いたりとか、せんとですか?」
「んー? しないよ。だって俺知ってたし。やっと言ってくれて嬉しい」
「へ……え! なんで!?」
「だって夏樹、めっちゃ分かりやすいもん」
「ウソ……じゃあもしかして、椎名さんにもバレて……」
「ああ、それは大丈夫。アイツ、そういうの鈍感だし。鈍感っていうか、今までシャットダウンしてたっていうか?」
柊吾への想いに気づかれていた?
想定すらしていなかった事実に、夏樹は一気に青ざめた。
だが、柊吾は気づいていないと晴人が豪語する。幼なじみがそういうのだから、その点は安心していいのだろう。
それでもやはり狼狽えずにはいられない。よくよく考えてみれば誰かを好きになることも、こんなに苦しくなるのも夏樹にとっては初めてのことなのだ。体から恋が零れていたなんて、穴があったら入りたいくらいに恥ずかしい。
あわあわと慌てる夏樹の頭を、晴人がぽんと撫でる。顔を上げると、さっきまでのどこかおどけた顔とは打って変わって、真剣な表情がそこにはあった。
「ねえ夏樹」
「……はい」
「これはさ、柊吾が自分で言うまで夏樹の胸に仕舞っておいてほしいんだけど……聞いてくれる? 柊吾の……今までのこと」
「はい」
ありがとう、と言った晴人は、ローテーブルに置いてあったグラスを手に取った。炭酸水に浮かべてあった氷はすっかり溶けて、大きくなっていた水たまりが晴人の足に滴った。
「俺と柊吾はさ、実家が隣同士だったんだよね。小さい時から一緒に遊んでたし、家も行き来してたわけだけど――」
小学校に上がる前、柊吾の母親が病気で亡くなった。柊吾は深く落ちこむ日々だったが、それでも父親とふたりで支え合っていた。
柊吾の父は、仕事により一層励むようになった。家より会社にいる時間が多くなった父に柊吾は寂しそうだったが、父が頑張るのは自分のためだと分かっていたのだろう、と晴人は言う。
父を助けようと家事に励むようになり、みるみる上達していった。そんな柊吾を晴人の家族は気にかけ、よく夕飯に呼んだり泊まらせたりしていた、とのことだ。
「でもやっぱりさ、寂しいもんは寂しいよな。それでも柊吾は捻くれたりしなくて、その分、愛ってもんに人一倍憧れるようになった。恋愛ものの映画とかよく見てたし、いつか自分にも最愛の相手が出来るって、信じてたんだと思う。でも……違った、そんなのまやかしだったって、柊吾は思っちゃったんだよね」
そこまで一気に話して、晴人はふうと息を吐いた。空になったグラスが気になって、夏樹は立ち上がって冷蔵庫へ向かう。夏樹が好きだから、と柊吾が切らさないようにしてくれているサイダーを手に戻り、晴人のグラスに注いだ。
「ありがとう、夏樹は優しいね」
「いえ、オレも飲みたかったんで丁度よかったです」
そう言いつつ、夏樹はペットボトルのふたを閉じてそれをテーブルに置いた。狭苦しい喉に、ぱちぱち弾けるサイダーはきっと重い。
「じゃあ続きね」
「はい」
「夏樹が大事にしてる、柊吾の写真あるでしょ。あの一回こっきりの、モデルやった時のヤツ」
「はい」
「あれ、俺たちが高三の時だったんだけど、そりゃもう学校中が沸いたよね。既にモデルやってた俺は真新しさがないもんだから、柊吾の話で持ちきり。そんで、まあ元々モテてはいたんだけど、そこから桁違いでさ。話したこともない、柊吾からすれば顔すら知らない子たちが我先にって告白してくんの。そんで、真摯に対応してごめんねって言っても、急激に態度変える子もいたりして。それがさー、柊吾にはショックだったんだよね。なんだ顔だけじゃん、恋愛ってこんなもんか、って。愛とかやっぱり俺には縁がなさそう、って落胆しちゃったみたい。それからだよ、アイツがセフレ作るようになったの」
「オレがここに越してきた日、踏んだ地雷ってそういうことだったんすね。かっこいいって言って、セフレのことで勝手にショック受けて……」
傷を抉ってしまったのだなと、あの日のことが改めて胸を黒く蝕む。だが晴人は、「いや、今思えば夏樹はよくぞ言ってくれた」なんて言って不敵な笑みを覗かせる。
「俺もさ、柊吾がああいうとこ出入りしてセフレとヤッてんの、正直よく思ってなかった。でもそうなった経緯全部知っちゃってんから、やめろよとか言えなくてさ。それに、夏樹が言ったことに意味があると思う。じわじわ効いてきてんだよなー、多分」
「…………? どういう意味っすか?」
「うーん、それはちょっと俺からは言えないんだけどー……ねえ夏樹、これは俺の勝手な憶測なんだけどさ。柊吾、確かにセフレに会いにクラブ行ってるけど、今は多分、夏樹が考えてるようなことはしてないと思う」
「え?」
「夏樹は知らないよねー。柊吾が出掛ける時、絶対アイツのほう見ないようにしてるでしょ? 柊吾のヤツ、夏樹をじっと見てしんどそうにため息ついて、そんですげー嫌そうな顔で渋々出掛けてんだよ」
「そう、なんすか? なんで?」
「なんでだろうねえ? 前まではあんなんじゃなかったのにね」
柊吾の過去のこと、最近のこと。知らなかったものがたくさん晴人から出てきて、夏樹は整理するのに精いっぱいだ。
恋愛には興味がないと言った柊吾は、実は愛を求めている。柊吾自身が吐いたその言葉より、柊吾を表すものとして愛というワードはぴったりだと思った。
とことん優しくて、あったかくて。夏樹が好きになった柊吾は、愛に溢れた人だから。
「晴人さん」
「んー?」
「オレ、雑誌で初めて椎名さんを見た時、流れ星がここに落ちてきたみたいだ、って本気で思ったんです」
こちらを向いた晴人と目を合わせ、夏樹は心臓の上のシャツをぎゅっと握りこむ。
「東京に来たら会えるかなって、正直ちょっと期待もしてたら本当に会えて……本物はかっこいいだけじゃなくて、いや最高にかっこいいんすけど、すげー優しくて……椎名さんと並んでも恥ずかしくないような男になりたいな、って思ってます。目標みたいな人なんです。オレに何か出来るとは思わないですけど……そんな椎名さんには、幸せでいてほしいです」
「うん、そうだね。はは、夏樹ほんっといい子! 夏樹に話してよかった」
ぎゅっと抱きしめられて、大きな犬を愛でるみたいに髪をかき混ぜられる。くすぐったく思いながらも身を任せていると、体を離した晴人は何かを思いついたように片眉を上げる。
「夏樹にとっての柊吾ってさ、流れ星っていうよりあれみたいだよね。北極星」
「北極星?」
「そう。いつ見ても同じ場所にあるから、道しるべになる星」
「道しるべ……うわ、オレにとっての椎名さんだ」
「でしょ?」
日々の生活はもちろん、そのずっと前から、夏樹は柊吾からたくさんのものを貰っている。そんな柊吾に自分が返せるものは何だろう、出来ることを探したい。でもそれはきっと、簡単に見つかるものではない。だから今はせめて、毎日ほんのひとつでも笑顔を贈れたら、なんて思う。
もしもそれが出来たなら、柊吾はほんの一瞬でも幸せだと感じてくれるだろうか。