「ありがとうございました!」
買い物を終えた客が外へ出て、その瞬間にnaturallyの店内へと熱気が逃げこんでくる。夏樹が九州の出身だと知るとあっちはもっと暑いでしょとよく言われるが、暑さの種類が根本的に違うなと感じている。夏樹の地元では常にじめりとした空気が肌に纏わりつき、東京はと言えば照りつける日射しがもはや痛いくらいだ。
八月となった東京は、今日も今日とて尋常ではない気温を叩きだしていて、柊吾からは口酸っぱく水分補給を怠らないようにと言われている。加えて、日焼け予防も徹底するようにとのお達しも出ていて、夏樹は熱心に日焼け止めを塗っている。
「尊くん、さっきのお客さん嬉しそうだったね」
「そうだな。気に入ってもらえるのがあってよかった」
初めて出勤した日、基本的に雑用だと言われた夏樹だが、なんだかんだで店頭にも顔を出している。そうなると客に声を掛けられるもので、自然とアクセサリーの知識もついてきた。
夏樹の教育係である尊は淡々としているが、大切なことを的確に教えてくれる。そんな尊が夏樹は好きだ。兄のようでありながら、上京してきて知り合った中でいちばん歳が近いのも相まって、友人のような気安さもある。
「夏樹は明日から地元だっけ」
「あ、うん」
「こっち出てきて初めて帰んだよな? 楽しみだろ」
「んー、まあね」
「…………? そうでもない感じ?」
「うーん、友だちとかに会えるのは嬉しいんだけど。なんか気まずいって言うか……あんまり仕事出来てないし」
六月に女性向けファッション雑誌の撮影に参加して以降、モデルの仕事は鳴かず飛ばずの状態だ。オーディションも受けているが、なかなか通らない。
「顔は整ってるし元気で華もあるが、色気が感じられない」とは、審査員たちによく言われる夏樹への評価だ。SNSでの女の子たちからのコメントにも通ずるものがある。
色気がないのは自分でも重々分かっているのだが、打破する術は未だ見つからない。この先モデルとしてやっていきたい夏樹にとって、大きな課題であることは間違いなさそうだ。
「夏樹の気持ちも分かる気がするけど。ダチってそんな簡単に呆れたりするもんでもないだろ」
「……ん、そうだよね」
「なんかあったら俺でよければ聞く。まあ俺はダチ少ないほうだから、アドバイスとかは無理だけど」
「うう、尊くん優しい! ありがとう! 大好き!」
「ふ、そりゃどうも」
出発の日の朝。
予約している飛行機の便は、昼過ぎに出発の予定だ。もう少しゆっくり寝ていてもよかったのだが、仕事に出る柊吾を見送りたくていつも通りの時間に起きた。
ちなみに晴人は来年出版予定の写真集の撮影で、二日前から海外ロケに出掛けている。真夏の日本を抜け出してのオーストラリアは快適だと、満面の笑顔の写真つきメッセージが昨夜送られてきた。
「椎名さん、今日からひとりっすね」
「そうだな」
「…………」
「…………? 夏樹? どうかしたか?」
晴人の帰国予定まで一週間以上あるし、夏樹は三泊してくる予定だ。夏樹が帰るまでこの家は柊吾だけになるわけだが、柊吾がひとりを寂しがるタイプにはあまり思えない。ただ、セフレの元へは行きやすいだろうな、なんて夏樹は考えてしまう。
最近の柊吾は、夜に出掛けなくなった。六月に夏樹が初のモデル仕事を叶えた日からだ。撮影を終えて帰った時、随分と考えこんでいるように見えたが、それほど悔いているのだろうか。
夏樹は申し訳なさを覚えたが、かと言って出掛ける先はセフレの元なのだと思うと、気にしないで行ってください! とは言えなかった。勝手な自分が嫌いで、それでも夜へ送り出す言葉はやはり口から出てこないでいる。
黙りこんでしまった自分を誤魔化すように、夏樹は玄関のほうへと椎名の背中を押す。
「なんでもないっす! 椎名さん、気をつけていってらっしゃい」
「それは俺の台詞だな。夏樹、気をつけて帰るんだぞ」
「はいっす!」
「忘れ物はなさそうか?」
「大丈夫っすよ、昨日ちゃんとチェックしたんで」
「偉いな。あ、今日もちゃんと日焼け止め塗れよ」
「はーい」
「あとは、熱中症にならないようにちゃんと水分とって……」
「はは、椎名さん心配症っすね」
「あー……はは、ほんとだな。まあお前の世話係だし」
「へへ、そうっすね」
柊吾はこう言うが、生活能力ゼロの晴人のためによく動いているし、naturallyで見ていても面倒見のいいことがよく分かる。いつも人のことを見ている、優しい人だ。
見た目でひとめぼれした男のそんなところにまで、今の夏樹は憧れている。こういう人になりたいといつも思っている。
「お土産買ってきますね」
「そんなの気にしなくていいから。楽しんでこいよ」
「でも晴人さんにはリクエスト貰ってるし」
「アイツ……」
「はは、でもオレ椎名さんにも買いたいんで。受け取ってもらえたら嬉しいっす」
「ん、分かった。じゃあそれも楽しみにしてる」
「それも?」
「夏樹が無事に帰ってくるのがいちばんだろ」
「うわ、椎名さんかっこよかあ……」
「はいはい。じゃあ行ってくる。戸締り頼むな」
夏樹の髪をかき混ぜるように撫でて、柊吾は仕事へと出掛けていった。今日だってうんざりするほど暑いのに、柊吾の周りだけ涼やかに見えるほど爽やかな姿だった。柊吾の耳を飾るピアスたちがキラキラと光っていた様が、夏樹に鮮やかな残像を残す。帰省へ抱く少しの不安も、何だか大丈夫に思えてくるから不思議だ。
熊本の空港に到着した日の夜は、友人たちが夏樹のために集まってくれた。まだ酒が飲める歳ではないので、場所は高校時代もよく行ったファミリーレストランだ。都合がつかない者もいて残念だったが、みんなが再会を喜んでくれた。
「なあ夏樹の雑誌まだ? 次俺ね!」
「俺も俺も~はよ見して!」
一通り食事も済んで、今は夏樹が持ってきた雑誌を回し読みしているところだ。
今週発売されたばかりのその雑誌を、夏樹は折角だからと数冊購入してきた。あんなに膨大な数を撮影しても、掲載されている夏樹の写真はほんの4カットほどで。いざ友人たちを前にするとやはり躊躇いもあったのだが、夏樹の不安は杞憂だったのだとすぐに分かる反応だった。
「まだこれしか仕事出来とらんとけどね」
「それでもすげーよ! マジで!」
「なー! 夏樹、ずっとモデルになりたかって言いよったもんね。俺感動する……」
「また載ったら教えろよ! 俺絶対買うけん! てかこれも後で買う」
「うん、ありがと!」
尊の言っていた通りだ。気まずい想いなんて抱かなくてよかったのだ。東京に戻ったら、尊には相談ではなく明るい報告が出来る、尊もきっと喜んでくれる。そう思えることが友人との時間をより一層楽しいものにしてくれた。
そんな初日を過ごせたから、この三泊四日を余すことなく満喫することが出来る。そう思っていたのだが。
二日目の夜の九時も過ぎた頃。夏樹の姿は羽田空港にあった。自身に起きたことへのショックで、予定を早めて戻ってきてしまったのだ。
夜の匂い、いつまでも明るい街。東京で五感に流れこんでくるものは、未だ自分は異物だと感じるのに十分で。
けれど肌にも心にも馴染む地元に、もういたくない。そう思ってしまった時、夏樹の胸に浮かんだのは、この東京で出逢った人の顔だった。
会いたいな、優しさがくすぐったくて照れ笑いを零してしまうあの時間に浸りたい。その人はきっと、家にはいないだろうけれど。
重たい体を引きずってマンションへと到着する。空っぽのポストを横目にエントランスを抜ける。乗りこんだエレベーターは夏樹ひとりを乗せて、まっすぐに十階へと到着した。たった一晩しか経っていないのに、バッグの奥底に沈んでいた鍵に泣きそうになった。
帰る場所はここだよな、そうだよな。大丈夫、と己に言い聞かせるように頷いて開錠する。
「ただいま……あれ?」
誰もいない真っ暗な部屋を見たら、また泣いてしまうかもしれないな。そう思ったのに。夏樹の目に映ったのは、廊下の先のガラスから漏れるリビングの明かりだった。
晴人は海外で撮影中だし、柊吾は出掛けているだろうに。もしや消し忘れてしまったのだろうか。
だが夏樹の予想はすぐに、開いたリビングの扉に覆されてしまった。いちばん会いたかった人が、少し目を丸くしてこちらへと歩いてくる。
「夏樹? 帰るのって明後日じゃ……」
「っ、椎名さん……」
柊吾と目が合った途端、夏樹の心はとうとう決壊してしまった。ひぐ、と鳴る喉がみっともないと思うのに、どうにも涙が止められない。柊吾が慌てて駆け寄ってくる。
「夏樹……」
「うー……」
戸惑っている様子が伝わってきて居た堪れなくなる。
大好きな人を困らせてしまっている。今すぐに泣き止みたいのに、制御が出来ない。
止まれと願いながらゴシゴシと目を擦ると、その手を柊吾に取られてしまった。それから頭をポンと撫でられる。
「おいで。おかえり、夏樹」
「椎名さん……」
リビングへと手を引かれソファへ腰を下ろすと、腹は空いてないかと聞いてくれた。昼のカフェでハンバーグを食べてから何も口にしていないのに、空腹はちっとも感じられない。
力なく首を横に振ると、キッチンへと向かった柊吾は、あたたかい紅茶を持って戻ってきた。
「はい。夏樹の好きなサイダーもあるけど、あったかいのにしてみた。落ち着くから」
柊吾は何も言わず、何も聞かず、ただそばにいてくれた。柊吾の存在が、夏樹の胸に柔らかく沁みこむ。
しばらくして、マグカップの白い湯気が見えなくなった頃。夏樹はぽつぽつと今日の出来事を語り始める。
「今日は彼女と会う約束をしてたんです。カフェ行って、ランチ食べて。でも彼女は注文したパスタ、全然食べなくて」
「うん」
「なんか……元気ないなとは思ってたんすよ。オレ、こっち来てから全然連絡してなかったからそのせいかなって思って。そう聞いたら、泣き出しちゃって……ごめんねって謝られました。何がなんだか分かんなくて……ハンカチってやっぱ持ってなきゃ駄目だなって、あたふたしてたら……オレの友だちが来たんです。偶然だなって思ったんですけど、まっすぐこっちに来て、彼女の隣に座って……」
入店してきたのは、昨夜は都合が合わないからと会えずじまいになった友人だった。彼女の綾乃が泣いている時ではあったが、顔を見られてつい嬉しく思ってしまったのも事実だ。だがその直後、夏樹は数々の衝撃を受け止めることになった。
綾乃とその友人はお互いを好いている――つまり浮気をされてしまった、ということだ。
「マジか……」
「……はい。オレ、すげーショックで……でもそのショックって、浮気された、ってやつじゃなくて」
「…………?」
「それよりも何て言うか……彼女が泣いてるのはオレに申し訳なく思ってるからで、友達がごめんって頭下げてるのもオレのせいなんだなって。ふたりは両想いで、幸せなはずなのに。それ見てたら、なんか……ふたりにこんな顔させて、邪魔者はオレで、オレが悪いよなって」
「いやそれは違うだろ。夏樹が裏切られたんだから怒っていい」
「ううん、違うんです。だってオレ、気づいちゃったんです。こんなに一生懸命になれるくらい、好きな訳じゃなかったなって……オレ、女子たちには友だち以上に見られないっていつも言われてたんすよ。でも綾乃ちゃん……元カノ、が、初めて告ってくれて。それがすごく嬉しくて、この子のこと好きになれたらすげー幸せじゃんってオーケーして。でもそうなれてなかったんすよね。中途半端で、そのまま東京に出て。オレが連絡もしないから寂しくて、その友だちに相談してたら好きになった、って。オレに縛られて苦しかったんだなって、可哀想なことしたなって思いました。恋ってふたりでするもんなのに、オレは出来てなかった」
綾乃と遊ぶ時間は楽しかった。放課後に寄り道をして、暗くなった道でこっそりキスをしたこともある。
でもそれも今思えば、恋人とはそういうものだと、それが正解で綾乃も嬉しいだろうと考えてしたことだった。恋心を抱いたかと聞かれたら、他の女子たちより情はあるが、答えるならノーになってしまうと振り返って思った。
失礼な話だ。自分なんかより何倍も、青ざめた顔で頭を下げる友人のほうが綾乃を想っている。比べるのすら烏滸がましい。そんなもの、ひと目で明白だった。
自分があの時軽々しく告白を受けなければ、ふたりはこんな風に苦しまずに済んだだろうに。自分のしでかしてしまったことがあまりにショックで、ただただ「オレのことは気にせんで!」とふたりに強く言って逃げてきてしまった。
話の脈絡も上手く繋げられないまま、それでも夏樹は洗いざらい柊吾へ話した。幻滅されてしまうかもしれない、それだけのことをしてしまった。だが柊吾は夏樹の髪をポンと撫で、それからその肩に夏樹の頭を引き寄せた。
「へ……椎名さん?」
「んー……まあ夏樹がどんだけ自分が悪いって言っても、夏樹がしんどい思いしてんのもほんとだし。夏樹を慰めたいとしか俺は思わない」
「…………」
肩の上で頭を撫で続けながら、柊吾のもう片手は夏樹の背中へと回った。まるで小さな子をあやすようにトントンと優しいリズムを刻まれ、また涙がこみ上げてきてしまう。
「うう、椎名さん優しすぎます」
「夏樹はお人好しすぎ。お前が彼氏だったのはマジなんだから怒りゃよかったのに。浮気されて自分が悪いって言うヤツ初めて見たわ」
「だって、オレ、オレ……綾乃ちゃんのことも、アイツのことも、苦しめたっ」
「ん。ほら、いっぱい苦しいの吐いていっぱい泣いとけ」
「うう、椎名さっ、オレ、もうアイツとも、友達じゃなくなっとかなぁ」
「大丈夫、大丈夫だ」
ひとしきり泣いて、ひとしきり自分を罵って。そうすると涙はようやく引っこんだ。
ほうっと息をついた夏樹を、柊吾が腰を屈めて覗きこむ。何だか恥ずかしくて俯いた時。夏樹の腹の虫が鳴いてしまった。
穴があったら入りたいとは、こういう時に使うのだろう。いよいよ顔を上げられなくなったが柊吾は笑うこともなく、何か食べるか? と優しく聞いてくれた。
「食べるなら作るけど」
「……椎名さんのごはん大好きだけど、今はそんな食べられんかも」
「分かった。じゃあちょっと待ってな」
そう言った柊吾はキッチンに行ってすぐに戻ってきた。その手にはチョコレートの箱があり、記されたロゴは疎い夏樹でも知っている高級チョコレートのブランドのものだった。
「貰いもんだけど、甘いの好きだろ」
「好きです。でもこやん高級なの、オレが食べてもよかとですか」
「当たり前。ほら」
「…………」
柊吾が開封してくれた箱の中には、見た目の美しいチョコレートが綺麗に並べられていた。ひとつひとつが仕切られていて、選ばれるのを待っているみたいだ。
香りもよく食べたいなと確かに思うのに、どれから手をつけていいのか分からない。どうしたものかと隣を見ると、柊吾がひとつのチョコレートを摘まみ上げた。それを夏樹の口の前へと差し出してくる。
「ほら」
「え」
「口開けろ」
「ええ、マジ?」
もしかして、チョコレートを取る元気もないと思われたのだろうか。柊吾の瞳はずっと優しい色をしていて、恥ずかしいからと断るのも違う気がする。
心臓がうるさくて、頬はあぶられているみたいに熱くなってきた。それでも意を決して口を開くと、口内にチョコレートが転がりこんだ。だがとろける甘さより、くちびるに当たった柊吾の指の熱が頭から離れない。
「美味い?」
「ん……」
「もう一個食べるか?」
「ん……」
体がくっつくくらい間近で、柊吾の手でチョコレートを食べさせられている。それにあてられた夏樹は柊吾の問いに生返事をしてしまう。こくんと頷いて、チョコレートを味わって。それを五度ほどくり返すと、いよいよ頭がぼうっとしてきた。それも無理がない、だってずっと憧れてきた人から甲斐甲斐しく介抱されているのだから。
そうして身を任せていると、何故か柊吾が慌て始める。
「夏樹? 何か顔赤くないか?」
「んー? ふふ、椎名さんのチョコ美味しい」
「もしかして……あー、マジか」
何か思い当たることがあったのか、柊吾はチョコレートの箱をひっくり返して頭を抱えてしまった。バツが悪そうにこちらを向いて、しゅんと下がった眉でごめん、なんて言う。
「これブランデー入りだったわ。もしかしなくても酔っぱらってるよな」
「…………? 椎名さん、もう一個」
「夏樹、ハタチになっても酒はほどほどにな。めっちゃ弱いぞ」
何を言われているのか理解が出来ず、夏樹は首を傾げる。だが分からなくたって、柊吾の言いつけはちゃんと守りたい。こくんと頷いて、もう一個をねだろうとした時。ダイニングテーブルに置いてあった柊吾のスマートフォンが、着信を知らせ始めた。
「……こんな時間に誰だ? あ、夏樹、もう食うなよ」
夏樹に釘を刺して柊吾は立ち上がる。
どうして離れてしまうんだろう。せっかく一緒に過ごしているのに、そばにいてくれないのは寂しい。だがそれはワガママだろうか。
ぐっと堪え、けれど電話に応える柊吾の言葉に夏樹は強くくちびるを噛む。
「今から? あー……」
こちらをちらりと見やり、すぐに目を逸らした柊吾は首のうしろを困ったように掻く。
こんな時間に呼ばれたのだろうか、それはもしかしなくてもセフレではないか。そもそも今日、夏樹は不在のはずだった。柊吾は出掛ける予定でいたのかもしれない。だとすれば、きっと行ってしまう。
これまでなら飲みこめたのに、今の夏樹には耐えられそうになかった。ぐるぐると考えこんでいる内に電話を終えた柊吾の元へ慌てて駆け寄り、その背中に強く抱きつく。
「わ、夏樹?」
「セ、セフレの人ですか」
「……は?」
「行かんでください。嫌だ……」
「夏樹、今のは」
「っ、やだぁ、椎名さん」
「夏樹……」
何か言おうとしている、そう分かるのに続く言葉が怖くて更にしがみついた。滲む涙が柊吾の背に染みこんでいく。
飛行機の予定を前倒しにしてまで帰って来たのは他でもない、柊吾に会いたかったからだ。元恋人と友人、自分のせいで悲壮な顔をするふたりから逃げ出して、そうしたら無性に柊吾の顔が見たくなった。急に予定を変更し、東京へ発つことを“帰る”と表現した夏樹に、家族たちは寂しそうにしていた。本当はあんな顔をさせたくなかった、だがそれ以上に、ここへ戻って柊吾の優しさに触れたかった。
でも分かっている。そんなものは自分の勝手で、柊吾を縛っていい理由になどならない。こんなことをしては嫌われてしまう可能性だってある。だがそれでも、どうしても――今夜柊吾が誰かを求めるのなら、それは自分がいいと駄々をこねるのを止められない。
「オレじゃだめ、ですか」
「は……? 夏樹、何言って……」
「セフレ、のとこ、行かんでほしい……どうしてもなら、オレにしてほしい。椎名さん……」
こんなことを言って柊吾の顔を見るのが怖い、自分の顔だって見られたくない。その一心で潜りこむように柊吾の背に額を擦りつけると、大きなため息が伝ってきた。
ああ、怒らせてしまった。強張った体をぎこちない動きで剥がす。そのまま逃げようとした夏樹を、だが柊吾がそうはさせなかった。
「夏樹、こっち」
「へ……」
手を引かれ、連れていかれたのは柊吾の部屋だった。
この家に越してきてもうすぐで半年になるが、入室するのはこれが初めてだ。壁にはnaturallyのポスターや数々のデザイン画が貼られている。デザイナーの人から回ってくるのだろうか。
こんな状況ではあるが思わず見入ってしまうと、柊吾はデスク前のチェアに腰を下ろし、あろうことかその膝の上に夏樹を座らせた。うなじに柊吾の息が当たり、思わず息を飲む。
「わっ、椎名さん!?」
「夏樹、ちゃんと聞いて。さっきの電話は夏樹が思ってるようなものじゃない、店長からだ」
「……店長?」
「そう。見といて」
そう言った柊吾は夏樹を抱いたまま、デスクの上のタブレットに手を伸ばした。それから夏樹の肩に顎を置いて操作する。これでは夏樹にも画面が丸見えだが、見ているように言われてしまった。
「これ……」
「客注のデータだな。明日でもいいと思うけど、店長は心配性なところあるから。目を通してないの思い出して、今すぐ送ってほしいって」
「…………」
「よし、これでオーケー」
データを手際よくメールに添付し、店長宛てに送信される。ものの一分ほどの出来事だった。
「分かった? 俺、どこも行かないから」
「っ、ごめんなさい、オレ、勘違いして。その……」
「別にいいよ。俺の日頃の行いのせいだし。まあ最近は、もうそういう気もないんだけど」
「へ……?」
とんでもない勘違いをして、とんでもないことを口走ってしまった。今すぐにこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。だが柊吾がそれを許さない。浮きかけた夏樹の体を抱き止め、肩甲骨の辺りに額を擦りつけられる。
「……さっき、どういうつもりで言った? 『オレにしてほしい』って」
「あ……えっと」
「まだ酔ってる?」
自分で言ったのだからきちんと覚えている。口から出たでまかせでもない。だがその大胆さに、改めて自分でも驚く。そうなってもいいと本気で思っている。
「酔ってないです」
「……オレはゲイだし、夏樹と出来るよ。でも夏樹は違うだろ。それに……そういうことは“好きな人とするもの”、なんだろ?」
「あっ」
ああ、どうしよう。夏樹は熱くなり始めた息を手で押える。だがその手も絡めとられてしまった。
先ほどの電話はセフレではなかった、勘違いだった。だが撤回はしたくない。それは何故だろう。大事なことだと思うのに頭が回らない、柊吾が言うように自分は酔っているのだろうか。
「どうする?」
「あ……オレ」
「……なんてな。これに懲りたらあんなこと、軽々しく言うんじゃ……」
「っ、やだ!」
「……夏樹?」
聞き分けのない子どもに言い聞かせるようにして、柊吾は夏樹を膝から下ろそうとした。いやだ、と咄嗟に思った。慌てて体を後ろに向け、柊吾の首にしがみつく。
好きな人とするものだと言ったのは自分だ。柊吾だってそれを覚えていた。だが、だから柊吾とするのはおかしい、という結論に夏樹は何故か至れない。
「椎名さん、やめんで……」
「……自分が何言ってるか分かってる?」
「分かってる」
「……こっち」
手を引かれるままにベッドのほうへ行くと、腰を下ろした柊吾の膝の上、今度は向かい合うようにして座らせられた。すぐ目の前の顔についうっとり見惚れると、首を傾げながら柊吾が小さく笑う。
「そんなに俺の顔好き?」
「うん、かっこいい」
「そう」
笑っているのに、どこか寂しそうなのは気のせいだろうか。切なさを覚えながら、好きなのは顔だけではないと知ってほしくて、柊吾の頬へ手を伸ばす。包みこむように添えて、下のまぶたをゆっくりと撫でる。
「出逢って椎名さんのこと色々知ったら、もっとかっこいいって思いました。オレ、周りみんな優しい人ばっかりで幸せ者だなって思うんですけど。椎名さんがいちばんあったかい」
「夏樹……」
「だから今日も、あのカフェから逃げ出した時……椎名さんに会いたくなって、帰ってきちゃいました」
「っ、夏樹」
下くちびるをきゅっと噛んだかと思うと、柊吾は夏樹の首筋に額を摺り寄せた――
――――――――
柊吾に触れられて、キスをした。
柊吾はとことん優しかった、いつもそうなのだろうか。柊吾の“いつも”に負けたくない、なんて思ってしまったのを夏樹は覚えている。
抗えない眠気を必死に堪えながら、夏樹は口を開いた。
「椎名さん……」
「んー?」
「今日、会えて、うれしかった」
「……うん、俺もだよ」
「今度、は、絶対最後までする……」
そこまで言ったところで柊吾に凭れかかる。眠りに吸いこまれてしまったから、額に降ってきたキスを一生知ることは出来ない。
「今度、って……ふ、ばあか」
心が竦んだ日の夜。柊吾に満たされ夢を見る。それは青ざめた友人たちのものじゃない、柊吾の夢だった。幸せなまま眠りについて幸せな夢を見ているから、起きてもきっと幸せだろうと、夏樹は夢の中でもそう思った。
翌朝。
目を覚ました夏樹は、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。勢いよく起き上がり、辺りを見渡す。そうだ、ここは柊吾の部屋で、昨夜は柊吾と――そこまで思い出し、シーツを手繰り寄せ顔を埋める。
なんてことを言って、なんてことをしてしまったのか。思い出せば思い出すほど血液が体を駆け回り、恥ずかしさに居た堪れなくなる。叫び出したいのを必死に堪え、体を縮こめて。けれど後悔だけは一ミリもない自分に、夏樹はひとつ深呼吸をする。
恋人との終わりを迎えたその日に、別の人に体をさらけ出した。ふしだらだと自分でも思うけれど、幸せな時間だった。
柊吾はどうだろうか。しなければよかったと悔いてはいないだろうか。そう考えると居ても立っても居られず、ベッドから飛び降りる。リビングへと駆けこむとそこには求めていた人の姿があった。
「椎名さん!」
「おう、おはよ」
「へへ、おはようっす」
「朝ごはん、食べるよな?」
「あ、はい。さすがにお腹空きました」
「そりゃよかった。ちょっと待ってて」
変わらない笑顔に安堵を覚える。心配は無用のようだ。
そうだと分かれば今度は、照れくさい気持ちが生まれてくる。それでも「はい」と返事をしてから、リビングに全ての荷物を置きっぱなしにしていたことに気づく。今日はまだ熊本にいる予定だったから、バイトも入れていない。片づけは後程取り掛かるとして、でもこれだけはと空港で買い物をした紙バッグを引き寄せる。柊吾に渡したいものがあった。
「椎名さん! お土産渡してもいいっすか?」
「土産? マジ? よくあんな状態で買ってこれたな」
「あー、はは。だって椎名さんに会いたい一心だったから、忘れようもないっすよ」
晴人に頼まれていた酒のつまみをソファ前のローテーブルに置き、柊吾用の土産を持ってキッチンへ戻る。これっす! と勢いよく見せると、柊吾は目を丸くした。
「え、それ?」
「ふにゃくまっす! 椎名さん、前にいいじゃんって言ってくれたけん、絶対これだーって思って。ちなみにオレの分もあります!」
「はは、マジか。ぬいぐるみのキーホルダー?」
「っす! オレはスマホにつけようと思ってます」
「夏樹はいいけど、俺がつけてたらさすがにおかしくない?」
「えー? 別に平気っすよ! ふにゃくま可愛いし!」
「俺に“可愛い”は似合う気がしないけど……でもありがとな」
そう言って柊吾はふにゃくまを受け取り、とりあえず、とパンツのポケットに仕舞ってくれた。
朝食が出来たようで、ダイニングのチェアに腰を下ろすとプレートが出てきた。カットされたホットサンドからはハムとチーズが覗いていて、ゆでたまごとミニトマトのサラダ、オレンジジュース。数日ぶりの柊吾の手料理に、お腹がぎゅるぎゅるとそれを求める。
「いただきます!」
「どうぞ」
大きく出てしまった声を柊吾に笑われ、それを気恥ずかしく思いながらも食事の手は止まらない。まともに食べるのは昨日のランチぶりだ。ちゃんと美味しいと思える時間を柊吾と迎えられた。日常を過ごせることにほっとする。
穏やかな朝を噛みしめていると、柊吾がそうだ、と口を開いた。
本当に何気ない、まるで今日の天気でも確認するような口ぶりだったから、夏樹は何を言われているのかすぐには分からなかった。
「昨日のことだけど、ごめんな」
「……へ? ごめんって……何がっすか?」
「昨夜の、色々。大人なんだから俺が止めなきゃいけなかったのに、悪かった」
「…………」
どうして謝られているのだろう。幸せな夜だったと今の今まで思っていたし、求めたのは夏樹だ。柊吾にそんなことを言わせてしまったと、胸がざわつき始める。こみ上げそうな涙に苦しい喉を堪え、どうにか口を開く。
「え、っと、謝られる意味が分かんないっす。なんで? 謝るとしたら、それはオレのほうっすよね」
「ううん、俺だ」
「っ、なんで……」
「夏樹はさ、そういうのは好きな人同士でするもんだ、って言ってたじゃん。分かってんのにな……あー、ほら、俺もたまってたから? つい、な」
「…………」
「夏樹と気まずくなりたくないし、なかったことにしてくれると助かる」
柊吾の言葉に絶句し、頭が混乱し始める。以前夏樹が言ったことを柊吾は昨夜も気にしていた。ちゃんと覚えているし、好きな人同士がするものだと今もそう思っている。
だが昨夜、それを理由にやっぱりやめようという気にはなれなかった。つまり自分は、柊吾のことをそういう意味で好きなのだろうか。長年抱いた憧れは強く、今すぐここでそうだと判断するにはあまりに眩しい。
それに、だ。仮に自分がそうだとしても、柊吾も同じはずがない。恋愛に興味がないと言っていたし、現にたまっていたからつい、と今言われたばかりだ。
何事もなかったように収めるのが最善だ、そうしたいのだと柊吾は示しているのだろう。これからも、今まで通りの関係でいられるように。
「え、っと……分かりました! なかったことにっすね! 了解っす!」
「うん、ありがとな」
「でも……一個だけお願いがあります」
「ん?」
「椎名さんがそう言うなら、オレ謝らんときます。でも、椎名さんも謝らんでください。ちゃんとなかったことにする、するけどオレは、幸せだったから……謝ってほしくなかです」
「……うん、分かった」
「へへ、あざす! えーっと、オレ、ジュースのおかわり入れてくるっす! 椎名さんは?」
「じゃあ俺ももらおうかな」
「はーい!」
逃げるようにふたつのグラスを持ってキッチンへ行き、ダイニングへ背を向けて冷蔵庫を開ける。
大丈夫、大丈夫だ。この先気まずくならないようにと言ってくれたのだから、嫌われたわけではないはずだ。だから大丈夫だ。
紙パックから注いだら、丁度ふたり分でジュースは終わった。冷蔵庫の冷気で頬が冷えて、このジュースみたいに涙もこれっきりで終わらせることが出来る。バレないように拭ったら、いつものように笑うのだ。
「お待たせっす! 椎名さん今日仕事っすか?」
「うん、これ食べたら出るわ。夕飯何がいいか連絡して、それ作るから」
「オムライスがいいっす!」
「はは、もう決まったな」
「へへ、椎名さん特製の楽しみにしてるっす!」
大丈夫になりたい。大丈夫、そう出来る。夏樹はただただ、必死に願った。
買い物を終えた客が外へ出て、その瞬間にnaturallyの店内へと熱気が逃げこんでくる。夏樹が九州の出身だと知るとあっちはもっと暑いでしょとよく言われるが、暑さの種類が根本的に違うなと感じている。夏樹の地元では常にじめりとした空気が肌に纏わりつき、東京はと言えば照りつける日射しがもはや痛いくらいだ。
八月となった東京は、今日も今日とて尋常ではない気温を叩きだしていて、柊吾からは口酸っぱく水分補給を怠らないようにと言われている。加えて、日焼け予防も徹底するようにとのお達しも出ていて、夏樹は熱心に日焼け止めを塗っている。
「尊くん、さっきのお客さん嬉しそうだったね」
「そうだな。気に入ってもらえるのがあってよかった」
初めて出勤した日、基本的に雑用だと言われた夏樹だが、なんだかんだで店頭にも顔を出している。そうなると客に声を掛けられるもので、自然とアクセサリーの知識もついてきた。
夏樹の教育係である尊は淡々としているが、大切なことを的確に教えてくれる。そんな尊が夏樹は好きだ。兄のようでありながら、上京してきて知り合った中でいちばん歳が近いのも相まって、友人のような気安さもある。
「夏樹は明日から地元だっけ」
「あ、うん」
「こっち出てきて初めて帰んだよな? 楽しみだろ」
「んー、まあね」
「…………? そうでもない感じ?」
「うーん、友だちとかに会えるのは嬉しいんだけど。なんか気まずいって言うか……あんまり仕事出来てないし」
六月に女性向けファッション雑誌の撮影に参加して以降、モデルの仕事は鳴かず飛ばずの状態だ。オーディションも受けているが、なかなか通らない。
「顔は整ってるし元気で華もあるが、色気が感じられない」とは、審査員たちによく言われる夏樹への評価だ。SNSでの女の子たちからのコメントにも通ずるものがある。
色気がないのは自分でも重々分かっているのだが、打破する術は未だ見つからない。この先モデルとしてやっていきたい夏樹にとって、大きな課題であることは間違いなさそうだ。
「夏樹の気持ちも分かる気がするけど。ダチってそんな簡単に呆れたりするもんでもないだろ」
「……ん、そうだよね」
「なんかあったら俺でよければ聞く。まあ俺はダチ少ないほうだから、アドバイスとかは無理だけど」
「うう、尊くん優しい! ありがとう! 大好き!」
「ふ、そりゃどうも」
出発の日の朝。
予約している飛行機の便は、昼過ぎに出発の予定だ。もう少しゆっくり寝ていてもよかったのだが、仕事に出る柊吾を見送りたくていつも通りの時間に起きた。
ちなみに晴人は来年出版予定の写真集の撮影で、二日前から海外ロケに出掛けている。真夏の日本を抜け出してのオーストラリアは快適だと、満面の笑顔の写真つきメッセージが昨夜送られてきた。
「椎名さん、今日からひとりっすね」
「そうだな」
「…………」
「…………? 夏樹? どうかしたか?」
晴人の帰国予定まで一週間以上あるし、夏樹は三泊してくる予定だ。夏樹が帰るまでこの家は柊吾だけになるわけだが、柊吾がひとりを寂しがるタイプにはあまり思えない。ただ、セフレの元へは行きやすいだろうな、なんて夏樹は考えてしまう。
最近の柊吾は、夜に出掛けなくなった。六月に夏樹が初のモデル仕事を叶えた日からだ。撮影を終えて帰った時、随分と考えこんでいるように見えたが、それほど悔いているのだろうか。
夏樹は申し訳なさを覚えたが、かと言って出掛ける先はセフレの元なのだと思うと、気にしないで行ってください! とは言えなかった。勝手な自分が嫌いで、それでも夜へ送り出す言葉はやはり口から出てこないでいる。
黙りこんでしまった自分を誤魔化すように、夏樹は玄関のほうへと椎名の背中を押す。
「なんでもないっす! 椎名さん、気をつけていってらっしゃい」
「それは俺の台詞だな。夏樹、気をつけて帰るんだぞ」
「はいっす!」
「忘れ物はなさそうか?」
「大丈夫っすよ、昨日ちゃんとチェックしたんで」
「偉いな。あ、今日もちゃんと日焼け止め塗れよ」
「はーい」
「あとは、熱中症にならないようにちゃんと水分とって……」
「はは、椎名さん心配症っすね」
「あー……はは、ほんとだな。まあお前の世話係だし」
「へへ、そうっすね」
柊吾はこう言うが、生活能力ゼロの晴人のためによく動いているし、naturallyで見ていても面倒見のいいことがよく分かる。いつも人のことを見ている、優しい人だ。
見た目でひとめぼれした男のそんなところにまで、今の夏樹は憧れている。こういう人になりたいといつも思っている。
「お土産買ってきますね」
「そんなの気にしなくていいから。楽しんでこいよ」
「でも晴人さんにはリクエスト貰ってるし」
「アイツ……」
「はは、でもオレ椎名さんにも買いたいんで。受け取ってもらえたら嬉しいっす」
「ん、分かった。じゃあそれも楽しみにしてる」
「それも?」
「夏樹が無事に帰ってくるのがいちばんだろ」
「うわ、椎名さんかっこよかあ……」
「はいはい。じゃあ行ってくる。戸締り頼むな」
夏樹の髪をかき混ぜるように撫でて、柊吾は仕事へと出掛けていった。今日だってうんざりするほど暑いのに、柊吾の周りだけ涼やかに見えるほど爽やかな姿だった。柊吾の耳を飾るピアスたちがキラキラと光っていた様が、夏樹に鮮やかな残像を残す。帰省へ抱く少しの不安も、何だか大丈夫に思えてくるから不思議だ。
熊本の空港に到着した日の夜は、友人たちが夏樹のために集まってくれた。まだ酒が飲める歳ではないので、場所は高校時代もよく行ったファミリーレストランだ。都合がつかない者もいて残念だったが、みんなが再会を喜んでくれた。
「なあ夏樹の雑誌まだ? 次俺ね!」
「俺も俺も~はよ見して!」
一通り食事も済んで、今は夏樹が持ってきた雑誌を回し読みしているところだ。
今週発売されたばかりのその雑誌を、夏樹は折角だからと数冊購入してきた。あんなに膨大な数を撮影しても、掲載されている夏樹の写真はほんの4カットほどで。いざ友人たちを前にするとやはり躊躇いもあったのだが、夏樹の不安は杞憂だったのだとすぐに分かる反応だった。
「まだこれしか仕事出来とらんとけどね」
「それでもすげーよ! マジで!」
「なー! 夏樹、ずっとモデルになりたかって言いよったもんね。俺感動する……」
「また載ったら教えろよ! 俺絶対買うけん! てかこれも後で買う」
「うん、ありがと!」
尊の言っていた通りだ。気まずい想いなんて抱かなくてよかったのだ。東京に戻ったら、尊には相談ではなく明るい報告が出来る、尊もきっと喜んでくれる。そう思えることが友人との時間をより一層楽しいものにしてくれた。
そんな初日を過ごせたから、この三泊四日を余すことなく満喫することが出来る。そう思っていたのだが。
二日目の夜の九時も過ぎた頃。夏樹の姿は羽田空港にあった。自身に起きたことへのショックで、予定を早めて戻ってきてしまったのだ。
夜の匂い、いつまでも明るい街。東京で五感に流れこんでくるものは、未だ自分は異物だと感じるのに十分で。
けれど肌にも心にも馴染む地元に、もういたくない。そう思ってしまった時、夏樹の胸に浮かんだのは、この東京で出逢った人の顔だった。
会いたいな、優しさがくすぐったくて照れ笑いを零してしまうあの時間に浸りたい。その人はきっと、家にはいないだろうけれど。
重たい体を引きずってマンションへと到着する。空っぽのポストを横目にエントランスを抜ける。乗りこんだエレベーターは夏樹ひとりを乗せて、まっすぐに十階へと到着した。たった一晩しか経っていないのに、バッグの奥底に沈んでいた鍵に泣きそうになった。
帰る場所はここだよな、そうだよな。大丈夫、と己に言い聞かせるように頷いて開錠する。
「ただいま……あれ?」
誰もいない真っ暗な部屋を見たら、また泣いてしまうかもしれないな。そう思ったのに。夏樹の目に映ったのは、廊下の先のガラスから漏れるリビングの明かりだった。
晴人は海外で撮影中だし、柊吾は出掛けているだろうに。もしや消し忘れてしまったのだろうか。
だが夏樹の予想はすぐに、開いたリビングの扉に覆されてしまった。いちばん会いたかった人が、少し目を丸くしてこちらへと歩いてくる。
「夏樹? 帰るのって明後日じゃ……」
「っ、椎名さん……」
柊吾と目が合った途端、夏樹の心はとうとう決壊してしまった。ひぐ、と鳴る喉がみっともないと思うのに、どうにも涙が止められない。柊吾が慌てて駆け寄ってくる。
「夏樹……」
「うー……」
戸惑っている様子が伝わってきて居た堪れなくなる。
大好きな人を困らせてしまっている。今すぐに泣き止みたいのに、制御が出来ない。
止まれと願いながらゴシゴシと目を擦ると、その手を柊吾に取られてしまった。それから頭をポンと撫でられる。
「おいで。おかえり、夏樹」
「椎名さん……」
リビングへと手を引かれソファへ腰を下ろすと、腹は空いてないかと聞いてくれた。昼のカフェでハンバーグを食べてから何も口にしていないのに、空腹はちっとも感じられない。
力なく首を横に振ると、キッチンへと向かった柊吾は、あたたかい紅茶を持って戻ってきた。
「はい。夏樹の好きなサイダーもあるけど、あったかいのにしてみた。落ち着くから」
柊吾は何も言わず、何も聞かず、ただそばにいてくれた。柊吾の存在が、夏樹の胸に柔らかく沁みこむ。
しばらくして、マグカップの白い湯気が見えなくなった頃。夏樹はぽつぽつと今日の出来事を語り始める。
「今日は彼女と会う約束をしてたんです。カフェ行って、ランチ食べて。でも彼女は注文したパスタ、全然食べなくて」
「うん」
「なんか……元気ないなとは思ってたんすよ。オレ、こっち来てから全然連絡してなかったからそのせいかなって思って。そう聞いたら、泣き出しちゃって……ごめんねって謝られました。何がなんだか分かんなくて……ハンカチってやっぱ持ってなきゃ駄目だなって、あたふたしてたら……オレの友だちが来たんです。偶然だなって思ったんですけど、まっすぐこっちに来て、彼女の隣に座って……」
入店してきたのは、昨夜は都合が合わないからと会えずじまいになった友人だった。彼女の綾乃が泣いている時ではあったが、顔を見られてつい嬉しく思ってしまったのも事実だ。だがその直後、夏樹は数々の衝撃を受け止めることになった。
綾乃とその友人はお互いを好いている――つまり浮気をされてしまった、ということだ。
「マジか……」
「……はい。オレ、すげーショックで……でもそのショックって、浮気された、ってやつじゃなくて」
「…………?」
「それよりも何て言うか……彼女が泣いてるのはオレに申し訳なく思ってるからで、友達がごめんって頭下げてるのもオレのせいなんだなって。ふたりは両想いで、幸せなはずなのに。それ見てたら、なんか……ふたりにこんな顔させて、邪魔者はオレで、オレが悪いよなって」
「いやそれは違うだろ。夏樹が裏切られたんだから怒っていい」
「ううん、違うんです。だってオレ、気づいちゃったんです。こんなに一生懸命になれるくらい、好きな訳じゃなかったなって……オレ、女子たちには友だち以上に見られないっていつも言われてたんすよ。でも綾乃ちゃん……元カノ、が、初めて告ってくれて。それがすごく嬉しくて、この子のこと好きになれたらすげー幸せじゃんってオーケーして。でもそうなれてなかったんすよね。中途半端で、そのまま東京に出て。オレが連絡もしないから寂しくて、その友だちに相談してたら好きになった、って。オレに縛られて苦しかったんだなって、可哀想なことしたなって思いました。恋ってふたりでするもんなのに、オレは出来てなかった」
綾乃と遊ぶ時間は楽しかった。放課後に寄り道をして、暗くなった道でこっそりキスをしたこともある。
でもそれも今思えば、恋人とはそういうものだと、それが正解で綾乃も嬉しいだろうと考えてしたことだった。恋心を抱いたかと聞かれたら、他の女子たちより情はあるが、答えるならノーになってしまうと振り返って思った。
失礼な話だ。自分なんかより何倍も、青ざめた顔で頭を下げる友人のほうが綾乃を想っている。比べるのすら烏滸がましい。そんなもの、ひと目で明白だった。
自分があの時軽々しく告白を受けなければ、ふたりはこんな風に苦しまずに済んだだろうに。自分のしでかしてしまったことがあまりにショックで、ただただ「オレのことは気にせんで!」とふたりに強く言って逃げてきてしまった。
話の脈絡も上手く繋げられないまま、それでも夏樹は洗いざらい柊吾へ話した。幻滅されてしまうかもしれない、それだけのことをしてしまった。だが柊吾は夏樹の髪をポンと撫で、それからその肩に夏樹の頭を引き寄せた。
「へ……椎名さん?」
「んー……まあ夏樹がどんだけ自分が悪いって言っても、夏樹がしんどい思いしてんのもほんとだし。夏樹を慰めたいとしか俺は思わない」
「…………」
肩の上で頭を撫で続けながら、柊吾のもう片手は夏樹の背中へと回った。まるで小さな子をあやすようにトントンと優しいリズムを刻まれ、また涙がこみ上げてきてしまう。
「うう、椎名さん優しすぎます」
「夏樹はお人好しすぎ。お前が彼氏だったのはマジなんだから怒りゃよかったのに。浮気されて自分が悪いって言うヤツ初めて見たわ」
「だって、オレ、オレ……綾乃ちゃんのことも、アイツのことも、苦しめたっ」
「ん。ほら、いっぱい苦しいの吐いていっぱい泣いとけ」
「うう、椎名さっ、オレ、もうアイツとも、友達じゃなくなっとかなぁ」
「大丈夫、大丈夫だ」
ひとしきり泣いて、ひとしきり自分を罵って。そうすると涙はようやく引っこんだ。
ほうっと息をついた夏樹を、柊吾が腰を屈めて覗きこむ。何だか恥ずかしくて俯いた時。夏樹の腹の虫が鳴いてしまった。
穴があったら入りたいとは、こういう時に使うのだろう。いよいよ顔を上げられなくなったが柊吾は笑うこともなく、何か食べるか? と優しく聞いてくれた。
「食べるなら作るけど」
「……椎名さんのごはん大好きだけど、今はそんな食べられんかも」
「分かった。じゃあちょっと待ってな」
そう言った柊吾はキッチンに行ってすぐに戻ってきた。その手にはチョコレートの箱があり、記されたロゴは疎い夏樹でも知っている高級チョコレートのブランドのものだった。
「貰いもんだけど、甘いの好きだろ」
「好きです。でもこやん高級なの、オレが食べてもよかとですか」
「当たり前。ほら」
「…………」
柊吾が開封してくれた箱の中には、見た目の美しいチョコレートが綺麗に並べられていた。ひとつひとつが仕切られていて、選ばれるのを待っているみたいだ。
香りもよく食べたいなと確かに思うのに、どれから手をつけていいのか分からない。どうしたものかと隣を見ると、柊吾がひとつのチョコレートを摘まみ上げた。それを夏樹の口の前へと差し出してくる。
「ほら」
「え」
「口開けろ」
「ええ、マジ?」
もしかして、チョコレートを取る元気もないと思われたのだろうか。柊吾の瞳はずっと優しい色をしていて、恥ずかしいからと断るのも違う気がする。
心臓がうるさくて、頬はあぶられているみたいに熱くなってきた。それでも意を決して口を開くと、口内にチョコレートが転がりこんだ。だがとろける甘さより、くちびるに当たった柊吾の指の熱が頭から離れない。
「美味い?」
「ん……」
「もう一個食べるか?」
「ん……」
体がくっつくくらい間近で、柊吾の手でチョコレートを食べさせられている。それにあてられた夏樹は柊吾の問いに生返事をしてしまう。こくんと頷いて、チョコレートを味わって。それを五度ほどくり返すと、いよいよ頭がぼうっとしてきた。それも無理がない、だってずっと憧れてきた人から甲斐甲斐しく介抱されているのだから。
そうして身を任せていると、何故か柊吾が慌て始める。
「夏樹? 何か顔赤くないか?」
「んー? ふふ、椎名さんのチョコ美味しい」
「もしかして……あー、マジか」
何か思い当たることがあったのか、柊吾はチョコレートの箱をひっくり返して頭を抱えてしまった。バツが悪そうにこちらを向いて、しゅんと下がった眉でごめん、なんて言う。
「これブランデー入りだったわ。もしかしなくても酔っぱらってるよな」
「…………? 椎名さん、もう一個」
「夏樹、ハタチになっても酒はほどほどにな。めっちゃ弱いぞ」
何を言われているのか理解が出来ず、夏樹は首を傾げる。だが分からなくたって、柊吾の言いつけはちゃんと守りたい。こくんと頷いて、もう一個をねだろうとした時。ダイニングテーブルに置いてあった柊吾のスマートフォンが、着信を知らせ始めた。
「……こんな時間に誰だ? あ、夏樹、もう食うなよ」
夏樹に釘を刺して柊吾は立ち上がる。
どうして離れてしまうんだろう。せっかく一緒に過ごしているのに、そばにいてくれないのは寂しい。だがそれはワガママだろうか。
ぐっと堪え、けれど電話に応える柊吾の言葉に夏樹は強くくちびるを噛む。
「今から? あー……」
こちらをちらりと見やり、すぐに目を逸らした柊吾は首のうしろを困ったように掻く。
こんな時間に呼ばれたのだろうか、それはもしかしなくてもセフレではないか。そもそも今日、夏樹は不在のはずだった。柊吾は出掛ける予定でいたのかもしれない。だとすれば、きっと行ってしまう。
これまでなら飲みこめたのに、今の夏樹には耐えられそうになかった。ぐるぐると考えこんでいる内に電話を終えた柊吾の元へ慌てて駆け寄り、その背中に強く抱きつく。
「わ、夏樹?」
「セ、セフレの人ですか」
「……は?」
「行かんでください。嫌だ……」
「夏樹、今のは」
「っ、やだぁ、椎名さん」
「夏樹……」
何か言おうとしている、そう分かるのに続く言葉が怖くて更にしがみついた。滲む涙が柊吾の背に染みこんでいく。
飛行機の予定を前倒しにしてまで帰って来たのは他でもない、柊吾に会いたかったからだ。元恋人と友人、自分のせいで悲壮な顔をするふたりから逃げ出して、そうしたら無性に柊吾の顔が見たくなった。急に予定を変更し、東京へ発つことを“帰る”と表現した夏樹に、家族たちは寂しそうにしていた。本当はあんな顔をさせたくなかった、だがそれ以上に、ここへ戻って柊吾の優しさに触れたかった。
でも分かっている。そんなものは自分の勝手で、柊吾を縛っていい理由になどならない。こんなことをしては嫌われてしまう可能性だってある。だがそれでも、どうしても――今夜柊吾が誰かを求めるのなら、それは自分がいいと駄々をこねるのを止められない。
「オレじゃだめ、ですか」
「は……? 夏樹、何言って……」
「セフレ、のとこ、行かんでほしい……どうしてもなら、オレにしてほしい。椎名さん……」
こんなことを言って柊吾の顔を見るのが怖い、自分の顔だって見られたくない。その一心で潜りこむように柊吾の背に額を擦りつけると、大きなため息が伝ってきた。
ああ、怒らせてしまった。強張った体をぎこちない動きで剥がす。そのまま逃げようとした夏樹を、だが柊吾がそうはさせなかった。
「夏樹、こっち」
「へ……」
手を引かれ、連れていかれたのは柊吾の部屋だった。
この家に越してきてもうすぐで半年になるが、入室するのはこれが初めてだ。壁にはnaturallyのポスターや数々のデザイン画が貼られている。デザイナーの人から回ってくるのだろうか。
こんな状況ではあるが思わず見入ってしまうと、柊吾はデスク前のチェアに腰を下ろし、あろうことかその膝の上に夏樹を座らせた。うなじに柊吾の息が当たり、思わず息を飲む。
「わっ、椎名さん!?」
「夏樹、ちゃんと聞いて。さっきの電話は夏樹が思ってるようなものじゃない、店長からだ」
「……店長?」
「そう。見といて」
そう言った柊吾は夏樹を抱いたまま、デスクの上のタブレットに手を伸ばした。それから夏樹の肩に顎を置いて操作する。これでは夏樹にも画面が丸見えだが、見ているように言われてしまった。
「これ……」
「客注のデータだな。明日でもいいと思うけど、店長は心配性なところあるから。目を通してないの思い出して、今すぐ送ってほしいって」
「…………」
「よし、これでオーケー」
データを手際よくメールに添付し、店長宛てに送信される。ものの一分ほどの出来事だった。
「分かった? 俺、どこも行かないから」
「っ、ごめんなさい、オレ、勘違いして。その……」
「別にいいよ。俺の日頃の行いのせいだし。まあ最近は、もうそういう気もないんだけど」
「へ……?」
とんでもない勘違いをして、とんでもないことを口走ってしまった。今すぐにこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。だが柊吾がそれを許さない。浮きかけた夏樹の体を抱き止め、肩甲骨の辺りに額を擦りつけられる。
「……さっき、どういうつもりで言った? 『オレにしてほしい』って」
「あ……えっと」
「まだ酔ってる?」
自分で言ったのだからきちんと覚えている。口から出たでまかせでもない。だがその大胆さに、改めて自分でも驚く。そうなってもいいと本気で思っている。
「酔ってないです」
「……オレはゲイだし、夏樹と出来るよ。でも夏樹は違うだろ。それに……そういうことは“好きな人とするもの”、なんだろ?」
「あっ」
ああ、どうしよう。夏樹は熱くなり始めた息を手で押える。だがその手も絡めとられてしまった。
先ほどの電話はセフレではなかった、勘違いだった。だが撤回はしたくない。それは何故だろう。大事なことだと思うのに頭が回らない、柊吾が言うように自分は酔っているのだろうか。
「どうする?」
「あ……オレ」
「……なんてな。これに懲りたらあんなこと、軽々しく言うんじゃ……」
「っ、やだ!」
「……夏樹?」
聞き分けのない子どもに言い聞かせるようにして、柊吾は夏樹を膝から下ろそうとした。いやだ、と咄嗟に思った。慌てて体を後ろに向け、柊吾の首にしがみつく。
好きな人とするものだと言ったのは自分だ。柊吾だってそれを覚えていた。だが、だから柊吾とするのはおかしい、という結論に夏樹は何故か至れない。
「椎名さん、やめんで……」
「……自分が何言ってるか分かってる?」
「分かってる」
「……こっち」
手を引かれるままにベッドのほうへ行くと、腰を下ろした柊吾の膝の上、今度は向かい合うようにして座らせられた。すぐ目の前の顔についうっとり見惚れると、首を傾げながら柊吾が小さく笑う。
「そんなに俺の顔好き?」
「うん、かっこいい」
「そう」
笑っているのに、どこか寂しそうなのは気のせいだろうか。切なさを覚えながら、好きなのは顔だけではないと知ってほしくて、柊吾の頬へ手を伸ばす。包みこむように添えて、下のまぶたをゆっくりと撫でる。
「出逢って椎名さんのこと色々知ったら、もっとかっこいいって思いました。オレ、周りみんな優しい人ばっかりで幸せ者だなって思うんですけど。椎名さんがいちばんあったかい」
「夏樹……」
「だから今日も、あのカフェから逃げ出した時……椎名さんに会いたくなって、帰ってきちゃいました」
「っ、夏樹」
下くちびるをきゅっと噛んだかと思うと、柊吾は夏樹の首筋に額を摺り寄せた――
――――――――
柊吾に触れられて、キスをした。
柊吾はとことん優しかった、いつもそうなのだろうか。柊吾の“いつも”に負けたくない、なんて思ってしまったのを夏樹は覚えている。
抗えない眠気を必死に堪えながら、夏樹は口を開いた。
「椎名さん……」
「んー?」
「今日、会えて、うれしかった」
「……うん、俺もだよ」
「今度、は、絶対最後までする……」
そこまで言ったところで柊吾に凭れかかる。眠りに吸いこまれてしまったから、額に降ってきたキスを一生知ることは出来ない。
「今度、って……ふ、ばあか」
心が竦んだ日の夜。柊吾に満たされ夢を見る。それは青ざめた友人たちのものじゃない、柊吾の夢だった。幸せなまま眠りについて幸せな夢を見ているから、起きてもきっと幸せだろうと、夏樹は夢の中でもそう思った。
翌朝。
目を覚ました夏樹は、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。勢いよく起き上がり、辺りを見渡す。そうだ、ここは柊吾の部屋で、昨夜は柊吾と――そこまで思い出し、シーツを手繰り寄せ顔を埋める。
なんてことを言って、なんてことをしてしまったのか。思い出せば思い出すほど血液が体を駆け回り、恥ずかしさに居た堪れなくなる。叫び出したいのを必死に堪え、体を縮こめて。けれど後悔だけは一ミリもない自分に、夏樹はひとつ深呼吸をする。
恋人との終わりを迎えたその日に、別の人に体をさらけ出した。ふしだらだと自分でも思うけれど、幸せな時間だった。
柊吾はどうだろうか。しなければよかったと悔いてはいないだろうか。そう考えると居ても立っても居られず、ベッドから飛び降りる。リビングへと駆けこむとそこには求めていた人の姿があった。
「椎名さん!」
「おう、おはよ」
「へへ、おはようっす」
「朝ごはん、食べるよな?」
「あ、はい。さすがにお腹空きました」
「そりゃよかった。ちょっと待ってて」
変わらない笑顔に安堵を覚える。心配は無用のようだ。
そうだと分かれば今度は、照れくさい気持ちが生まれてくる。それでも「はい」と返事をしてから、リビングに全ての荷物を置きっぱなしにしていたことに気づく。今日はまだ熊本にいる予定だったから、バイトも入れていない。片づけは後程取り掛かるとして、でもこれだけはと空港で買い物をした紙バッグを引き寄せる。柊吾に渡したいものがあった。
「椎名さん! お土産渡してもいいっすか?」
「土産? マジ? よくあんな状態で買ってこれたな」
「あー、はは。だって椎名さんに会いたい一心だったから、忘れようもないっすよ」
晴人に頼まれていた酒のつまみをソファ前のローテーブルに置き、柊吾用の土産を持ってキッチンへ戻る。これっす! と勢いよく見せると、柊吾は目を丸くした。
「え、それ?」
「ふにゃくまっす! 椎名さん、前にいいじゃんって言ってくれたけん、絶対これだーって思って。ちなみにオレの分もあります!」
「はは、マジか。ぬいぐるみのキーホルダー?」
「っす! オレはスマホにつけようと思ってます」
「夏樹はいいけど、俺がつけてたらさすがにおかしくない?」
「えー? 別に平気っすよ! ふにゃくま可愛いし!」
「俺に“可愛い”は似合う気がしないけど……でもありがとな」
そう言って柊吾はふにゃくまを受け取り、とりあえず、とパンツのポケットに仕舞ってくれた。
朝食が出来たようで、ダイニングのチェアに腰を下ろすとプレートが出てきた。カットされたホットサンドからはハムとチーズが覗いていて、ゆでたまごとミニトマトのサラダ、オレンジジュース。数日ぶりの柊吾の手料理に、お腹がぎゅるぎゅるとそれを求める。
「いただきます!」
「どうぞ」
大きく出てしまった声を柊吾に笑われ、それを気恥ずかしく思いながらも食事の手は止まらない。まともに食べるのは昨日のランチぶりだ。ちゃんと美味しいと思える時間を柊吾と迎えられた。日常を過ごせることにほっとする。
穏やかな朝を噛みしめていると、柊吾がそうだ、と口を開いた。
本当に何気ない、まるで今日の天気でも確認するような口ぶりだったから、夏樹は何を言われているのかすぐには分からなかった。
「昨日のことだけど、ごめんな」
「……へ? ごめんって……何がっすか?」
「昨夜の、色々。大人なんだから俺が止めなきゃいけなかったのに、悪かった」
「…………」
どうして謝られているのだろう。幸せな夜だったと今の今まで思っていたし、求めたのは夏樹だ。柊吾にそんなことを言わせてしまったと、胸がざわつき始める。こみ上げそうな涙に苦しい喉を堪え、どうにか口を開く。
「え、っと、謝られる意味が分かんないっす。なんで? 謝るとしたら、それはオレのほうっすよね」
「ううん、俺だ」
「っ、なんで……」
「夏樹はさ、そういうのは好きな人同士でするもんだ、って言ってたじゃん。分かってんのにな……あー、ほら、俺もたまってたから? つい、な」
「…………」
「夏樹と気まずくなりたくないし、なかったことにしてくれると助かる」
柊吾の言葉に絶句し、頭が混乱し始める。以前夏樹が言ったことを柊吾は昨夜も気にしていた。ちゃんと覚えているし、好きな人同士がするものだと今もそう思っている。
だが昨夜、それを理由にやっぱりやめようという気にはなれなかった。つまり自分は、柊吾のことをそういう意味で好きなのだろうか。長年抱いた憧れは強く、今すぐここでそうだと判断するにはあまりに眩しい。
それに、だ。仮に自分がそうだとしても、柊吾も同じはずがない。恋愛に興味がないと言っていたし、現にたまっていたからつい、と今言われたばかりだ。
何事もなかったように収めるのが最善だ、そうしたいのだと柊吾は示しているのだろう。これからも、今まで通りの関係でいられるように。
「え、っと……分かりました! なかったことにっすね! 了解っす!」
「うん、ありがとな」
「でも……一個だけお願いがあります」
「ん?」
「椎名さんがそう言うなら、オレ謝らんときます。でも、椎名さんも謝らんでください。ちゃんとなかったことにする、するけどオレは、幸せだったから……謝ってほしくなかです」
「……うん、分かった」
「へへ、あざす! えーっと、オレ、ジュースのおかわり入れてくるっす! 椎名さんは?」
「じゃあ俺ももらおうかな」
「はーい!」
逃げるようにふたつのグラスを持ってキッチンへ行き、ダイニングへ背を向けて冷蔵庫を開ける。
大丈夫、大丈夫だ。この先気まずくならないようにと言ってくれたのだから、嫌われたわけではないはずだ。だから大丈夫だ。
紙パックから注いだら、丁度ふたり分でジュースは終わった。冷蔵庫の冷気で頬が冷えて、このジュースみたいに涙もこれっきりで終わらせることが出来る。バレないように拭ったら、いつものように笑うのだ。
「お待たせっす! 椎名さん今日仕事っすか?」
「うん、これ食べたら出るわ。夕飯何がいいか連絡して、それ作るから」
「オムライスがいいっす!」
「はは、もう決まったな」
「へへ、椎名さん特製の楽しみにしてるっす!」
大丈夫になりたい。大丈夫、そう出来る。夏樹はただただ、必死に願った。