「いちばん近いコンビニはここね」
「マジでめっちゃ近いんすね!」
「こんなもんじゃない?」
「オレの実家だと、最寄りまで車で十分はかかりますよ」
「マジ? 俺からしたら逆に新しいわ」

 それじゃあさっそくと、晴人とふたりでマンションを出てきた。コンビニまでものの一分、いや体感十秒と言っても過言ではない。夏樹が持ったカゴに、缶の酒やつまみなどがどんどん追加されていく。

「夏樹はまだ未成年だよね。ジュース好きなの選んでいいよ」
「いいんすか?」
「もち。先輩の奢り~」
「ありがとうございます! えーっと、じゃあこれで」
「それ好きなの?」
「好きっす!」

 サイダーのペットボトルを一本取ると、同じものをもう三本晴人がカゴに入れた。それもプレゼントとニッと笑まれ、スマートな優しさが沁み渡る。

 マンションへと戻り、晴人の勧めで夏樹が開錠する。晴人とハイタッチをして、またひとつこの家の一員になった感覚が生まれる。
 中へ入ると、いい香りが漂ってきた。

「ただいま、です!」
「おう、おかえり」

 柊吾から放たれるおかえりの威力は凄まじく、眩む頭を押えながら耳の奥で味わう。

 広いリビングには大きなソファとローテーブルが設置されていて、ベランダへと続く窓からは東京の街がよく見える。柊吾が立っているカウンターキッチンは入ってすぐの右にあって、ダイニングテーブルには所狭しと料理が並べられていた。

「え、すご!」
「凄いっしょ~、これ全部柊吾の手作り! 朝から準備してたんだよ」
「なんでお前が自慢げなんだよ」

 晴人を腕で押しのけて、柊吾はまた新たな料理を運んできた。彩りも美しいサーモンのカルパッチョだ。

「ふたりとも早く手洗ってこい」
「はーい」
「っ、はい!」

 洗面所に走ってすぐに戻る。夏樹の前に晴人、その隣に柊吾が腰を下ろした。テーブルの上は和食に洋食、中華とバリエーション豊かだ。あまりにも豪勢で、いただきますと手を合わせてもどれから食べるか悩ましい。

「好み分かんないし色々作ったけど、嫌いなのある?」
「へ……いや! ないっす!」
「じゃあ適当によそうな」
「あ、はい……え!? 椎名さんが!?」

 見惚れていた夏樹に小さく笑って、柊吾が皿によそってくれた。先ほどのカルパッチョにサラダ、小ぶりに作られたハンバーグ。どれもが見た目から美味しいのに、柊吾から手渡されてしまえばこの世界でいちばんのご馳走に思える。

「はい、いっぱい食べな」
「ひえ……い、いただきます」
「あはは! 夏樹ほんとおもしろいな! 柊吾のこと好きすぎでしょ」
「めっっっちゃ好きです……うわこれうまっ!」

 憧れを口にしつつ、まずはと食べてみたのはハンバーグ。中からじゅわりと肉汁が溢れ出して、ソースも信じられないくらいに美味しい。ハンバーグと言えば実家では専らケチャップだったが、こちらの方が好きだ。思わず顔を上げると、頬杖をついている柊吾が美味いだろと得意げに笑った。

「柊吾の飯ほんと美味いよな! 俺料理とか絶対無理だからマジ尊敬してる」
「料理だけじゃねえじゃん」
「あっは、それな。柊吾がいないと生きていけませーん」
「ったく。夏樹、遠慮しなくていいからな。これはお前の歓迎会なんだから」
「うう、嬉しいっす……」

 感激の涙をすすりながら、柊吾の手料理に舌鼓を打つ。
 麻婆豆腐、唐揚げにおしゃれなパスタ。そして目に入れずにはいられない、柊吾の姿。夏樹にとってどれもが格別で、もったいない気持ちとたらふくになりたい欲で板挟みだ。

「なあ、夏樹の好きな食べ物ってなに?」
「へ……あ、えっと、オムライスっす!」
「オムライスな。今度作る」
「ひえ、楽しみすぎる……」

 柊吾と晴人は酒も飲み、歓迎会と銘打たれた食事は楽しく進んでゆく。気づけば外は暗くなり始めていて、ほとんど空になった皿を見て夏樹は席を立った。

「これ片しちゃいますね」
「え、マジで?」
「…………? オレも全然料理とかしたことなくて。これくらいしか出来ませんけど」
「ありがとな。コイツは片づけも全然やらねえから助かる」

 肩に寄りかかっていた晴人をぐいと押して、柊吾も皿を持ってキッチンへとやって来た。晴人は酔いが回っているのか顔が赤くなっていて、「だって俺が洗ったら割る自信ある」と何故か胸を張っている。

「あ、あの! 椎名さんも座っててください! オレ洗っちゃうんで!」
「いいのか? じゃあ、お願いするわ」
「任せてくださいっす!」

 そう言うと、柊吾の大きな手が夏樹の頭をポンと撫でた。あまりのことに、夏樹の肩は大きく跳ね上がる。くすくすと笑われてしまったが、その顔さえ格好いい。まだ洗い始めていなくてよかった、さっそく盛大に割ってしまうところだった。

 一通り洗い終わりテーブルへと戻ると、そこに置いておいたスマートフォンがチカチカとメッセージの着信を知らせていた。先ほどから何通か届いている、夏樹の上京を祝う友人たちからのそれだ。さっそく開いて確認していると、ナッツをつまみながらビールを飲む晴人が「彼女?」とからかってくる。

「地元の友だちっす。彼女からは来てないっすね」
「あ、いるんだ」
「っす。へへ、初彼女なんすよ~」
「マジか。遠距離だと寂しいんじゃない?」
「んー、でも中学からの夢がやっと叶い始めてるとこなので、ワクワクのほうが大きいんすよね」

 クラスメイトなどの近しい女子たちからは、いつも「顔はいいけど友だちって感じしかしないんだよね」と言われてきた。そんな中、彼女の綾乃(あやの)は人生で初めて告白をしてくれた女の子だ。嬉しさのあまり、二つ返事でOKをし付き合い始めた。半年ほどで遠距離となってしまったのは確かに申し訳ないが、頑張ってねと言ってくれている。

「晴人さんはいるんすか? 彼女」
「俺ー? 俺はねー、付き合ってもすぐフラれちゃうんだよねー。何でだろ」
「だらしないからだろ」
「俺一途だけど!?」
「そうじゃなくて、生活面が」
「うわ、グサッときた……」
「じゃあ少しずつ改めるんだな」
「うーん、それは無理!」

 柊吾と晴人の会話はリズミカルで、聞いているだけでも楽しい。少し気の抜けたサイダーを口に含み耳を傾けていると、電話の着信音が鳴り始めた。どうやら柊吾のスマートフォンのようだ。画面を一瞥した柊吾は、通話ボタンを押して立ち上がる。親しげに柊吾の名を呼ぶ男の声が漏れ聞こえる。

「もしもし? なに?」

 今から? と問い返しながら、暮れた街を映す窓のほうへと歩いていく。少し渋りながらも「分かった」と答えて通話を終えた柊吾が、またこちらへ戻ってきた。

「ちょっと出てくるわ。朝には戻る」
「りょうかーい」
「お友だちっすか?」

 そう問いかけると、柊吾は何故か苦々しく笑った。言いたくなさそうな本人の代わりに、晴人が口を開く。

「友だちっちゃ友だちだけど、ちょーっと違うよな」
「違う?」
「セフレだよ、セフレ」
「え……え!?」
「晴人、余計なこと言うな」
「セ、セフ……」
「あは、セフレって言うの恥ずかしい感じ? かわいい~」

 さっき聞こえてきたのは男の声ではなかったか。
 いや、問題はそこではない。セフレの意味はさすがに分かっても、夏樹にとってちっとも馴染みがないのだ。地元ではそんな言葉を実際に聞いたことはないし、どこかフィクションのようにすら思えていたのに。

 性欲を発散するだけの相手がいる?
 このどうしようもなく格好いい、憧れの男に?
 はいそうですかと受け入れることが出来ず、夏樹はくちびるを噛みしめて俯いた。

「夏樹? どしたー?」
「…………」

 黙りこくっていると、柊吾が動く気配がした。このまま行かせたくない、夏樹は咄嗟に立ち上がる。
 勢いに揺れた椅子が、ガタリと大きな音を立てた。

「あ、あの!」
「ん?」
「え、っと……せ、セフレ、ってことは、付き合ってはない、ってことっすよね」
「そうだな」
「……そういうこと、って、好きな人とするもんじゃないんすか」
「…………」

 だってそうだろう。好きだから触れたくて、体を重ねたくなるのではないのか。快楽だけを追うようなそんな虚しい関係を、柊吾に持っていてほしくない。
 だが頭では分かっている、他人が踏みこむべきではないことで、個人の自由だと。それでも――
 名前も知らず憧れていた頃とも、今日出逢って知った椎名柊吾という男とも、それはどこか違和感がある。似合わない、と感じてしまう。

「こんなかっこいい椎名さんが、そういうことしてるって思ったら、その……すげーショックです」

 警笛を鳴らす脳みそがやめておけと引き止める。それでも耐えきれずそう言うと、広いリビングに沈黙が響き渡った。キンと耳が痛むような、居心地の悪い静寂だ。
 それを破るのは晴人の小さな「あちゃー」という声で、そのすぐ後に柊吾の舌打ちが夏樹の心臓を鋭く刺した。体が大きく震える。

「それってなに、せっかく憧れてたのにーってやつ?」
「あ……えっと」

 端的に言えばそうなるのだろうか。だが柊吾のトーンの落ちた低い声が、頷くことを戸惑わせる。言葉が続かない夏樹に、今度は煩わしそうなため息が届く。

「俺、そういうの大っ嫌いなんだよね。そもそも恋愛とか興味ないし、でも溜まるもんは溜まるし。俺のことなんか何も知らねえくせに、見た目だけで好きだとか言って? はっ、理想押しつけてんじゃねえよ」
「っ!」

 険のある言葉たちに思わず体が竦み上がった。その反応も苛立たせてしまったのかもしれない、センターパートの前髪がぐしゃりと握りこまれるのが見えた。それから柊吾は夏樹のすぐそばにやって来る。光のない瞳で睨み下ろし、そのままマンションから出ていってしまった。



「柊吾のさ、地雷なんだよね」
「ぐすっ……地雷?」

 激しい音で扉が閉まるのを聞いた後、夏樹の目からは堰を切ったように涙が溢れ出してしまった。椅子の上で抱いた膝はびしゃびしゃだ。こんなに泣いたのはいつぶりだろう。卒業式でも、彼女と最後に会った日にも泣かなかったのに。

 そんな夏樹を晴人は少しも茶化したりしなかった。まあ座りなよと促して、ビールを手放し夏樹の隣へ座り直して。頭を撫でてくれる手があたたかくてほっとする。

「見た目だけで期待されて、ってのに敏感なんだよね。自分への好意も信用してないし。まあ、勝手に詳しく教えるわけにいかないんだけどさ」
「ん……そっすね。晴人さんいい人っす」
「はは、ありがとう。でも、アイツ今頃後悔してると思う」
「え?」
「夏樹に酷いこと言っちゃったーって凹んでそう」
「地雷踏み抜いたオレが百悪いのに?」
「知らないから避けようがなかったでしょ」

 慰めてくれる晴人の言葉が、また涙を誘う。だが全て自分のせいだ。初対面なのに歓迎会だと言ってあんなにたくさんの料理を用意してくれた、優しい柊吾を怒らせたのは自分なのだ。

「すぐには難しいかもだけどさ、仲直りしてやってよ」
「……してくれますかね」
「大丈夫だよ。優しいヤツだし、気にしてるに一票。まあ、あそこまで怒ってる柊吾は初めて見たし、多分だけど」
「うう、怖い……」

 雑誌の紙面で射抜かれた時。それはまばゆい流れ星が心臓に落っこちてきたような、衝撃的な出逢いだった。胸の中で大事に抱えてきた美しい光を、夏樹は今日、ついにこの目で捉えてしまった。奇跡のような日を、大切に持っていられたら良かったのに。自分の手で粉々に砕け散らせてしまうなんて。
 出来るものなら時間を巻き戻して、口を滑らせないようにやり直したい。もしも神様が現れて、何でもひとつ願いを叶えようとひげを撫でたなら、絶対にそう乞うのに。
 だがそんなことは、どうしたって起こり得ない。

「明日話してみます」
「うん」
「スルーされたらどうしよう……」
「大丈夫大丈夫! 多分ね」
「多分じゃダメとですよぉ……」

 例え許してもらえなくても、それは受け入れなければならないとそう思う。ただ、あの睨みながらもどこか切ない想いを覚えた瞳が、少しでも和らいでくれたらと。夏樹は願わずにはいられなかった。