naturallyのカタログ撮影が終わった日の夜は、晴人がデリバリーのピザを注文して祝ってくれた。地元ではピザのCMこそ見ることはあっても、食べたことはなかったので憧れだったりする。美味しい、すごく。そのはずなのに、柊吾の不在の寂しさが勝った。
それでも口にはしなかった。晴人の気持ちを無下になどしたくなかったし、またセフレのところかもと頭を過ぎるのが辛くても、明日になれば会えると思っていたからだ。
だが朝になっても帰ってはこなかったし、naturallyにもその姿はなかった。シフト表では出勤の予定になっているのに、だ。
さすがにおかしい気がすると、夏樹は柊吾にメッセージを送った。返事が来るまで画面から目を離したくないくらいだったが、土曜なのもあって店は一日中混雑し、合間に確認する時間もなかった。
CLOSEの看板を出し、急いでスマートフォンをポケットから取り出す。返信がないどころか、既読の印すらそこにはなかった。
「店長、あの……」
「南くん、お疲れ様。どうかした?」
「お疲れ様っす。えっと……椎名さん今日来なかったっすけど、何か知ってますか?」
レジで精算をしていた店長に尋ねると、なんだそんなことか、と言わんばかりの顔で微笑まれる。
「椎名くんなら、今日から一週間お休み取ってるよ」
「え……一週間休み?」
「うん、厳密には“一週間くらい”だけど。昨夜電話がかかってきてね、急だけどどうしてもお願いしたいって。まあ僕としては、有休も全然使わない仕事バカの椎名くんが休みたいだなんて、むしろ大歓迎だったけど。どんなに好きな仕事でも休息は必要だからね。あれ、でも南くんって椎名くんと一緒に住んでるんじゃなかった?」
「あー、えっと、はい……そうなんすけど、何も聞いとらんくて」
連絡も入れられないような事態に陥っているわけではなさそうだ。夏樹は一先ずの安堵を覚える。だがすぐに不安はぶり返す。何故自分には教えてくれなかったのだろう。例えば旅行にでも行ったのなら、いってらっしゃいくらい言いたかった。
気持ちが晴れずにいる夏樹の名を、スタッフルームのほうから誰かが呼んだ。尊だ。
「ちょっとこっち来て」
他のスタッフの姿はもうなく、促されるまま椅子に腰を下ろす。すると向かいに座った尊が、夏樹の髪をくしゃりと撫でる。
「わっ」
「しんどそうな顔してる」
「う……尊くんにはいつもバレバレだね」
「まあな。椎名さんのことだろ」
「…………」
「俺さ、昨日もクローズまでで、最後閉めて帰ったんだけど。その後に会ったよ、椎名さんに」
「え……え! そうなの!?」
尊の話によると、昨日仕事を終え自宅に帰っている途中、柊吾から電話がかかってきたとのことだ。居場所を尋ねられ何事かと思いつつ答えると、そこにいてくれと無茶を言われ、結局その場で十分ほど待ったらしい。あの人に迷惑かけられんの初めてだったかも、と尊は笑う。
「夏樹は一応雑用ってことになってるから、ここの鍵閉めることもなかっただろうし。それに椎名さんから絶対言うなって言われてたから、俺もそれなりに頑張って隠してたんだけど」
「……えっと?」
「ここの鍵……これにさ、あの人キーホルダーつけてたんだよね。夏樹のスマホについてるくまと同じやつ」
「え……これ? ふにゃくまのこと?」
「そう、そのみどりの。昨夜それ取りに来たんだよ、わざわざ」
「…………」
夏樹がスマートフォンを取り出して見せると、尊はそれだと頷いた。夏に帰省した時、柊吾へのお土産に選び、おそろいにしたいと自分の分も購入したふにゃくまだ。
渡した時に『俺がつけてたらおかしい』と言っていたのを覚えているし、実際にあれ以降見かけたことは一度もなかった。捨ててしまうとは思えなかったから、デスクの引き出しの奥にでも眠っているのかな、なんて考えていたのだが。
実際はnaturallyの鍵につけていて、一週間の休みに入る直前の昨日、わざわざ取りに来た、なんて。まさかの話に夏樹は唖然とする。
「大事にされてんね、夏樹」
「……なにが? オレは、分からん。椎名さん、が、何考えとっとか」
「夏樹……」
頭が混乱し、涙がこみ上げてくる。泣いてばかりで情けないと思うのに、どうにも止まらない。
大事にされていると確かに思う、そんなことも分からないほど無神経ではない。だがそれを単純に喜ぶだけでいられないのも確かなのだ。
尊は笑ったりなどせず、そっと髪を撫でてくれる。尊の優しさに、つい弱音が零れていく。
「好き、って言ったら、ごめんって、言われた……いつも、いつも困らせとる。でも好きなの止められんで、もう、苦しい」
「うん、苦しいな」
「うん……」
ひとしきり泣いた後、尊が水を買ってきてくれた。尊自身はコーヒーを飲みながら、またひとつ柊吾のことを話し始める。
「ここに入ったばっかの頃、流れで椎名さんに相談したことがあってさ。しかも恋バナ」
「恋バナ?」
「そう。あの頃、彼氏とのこと……付き合ってんのになかなか次のステップに進めなくてさ、悩んでたんだけど。椎名さん、何て言ったと思う?」
「んー、分からん」
「急ぐもんでもないんじゃない、自分だったらそんな我慢できないけど――とか言ってた」
「わあ……」
失礼なのは承知の上で、柊吾らしいなと夏樹は思った。セフレがいるのはつまり、そういうことが好きだということで、自分ならすぐにする、という意味なのだろう。
だが、あの人は変わったと尊が続ける。
「そのふにゃくま? 取りに来た時にさ。急にその時の話されて。あれ撤回する、って」
「え、なんで?」
「本当に好きになったらすげー悩むし、色々躊躇するもんなんだな……だって。なあ夏樹、無責任なことは言えないけどさ。そんなに悲観することないと思う。俺はね」
「…………」
「夏樹に何も言わないで急に一週間休んで、一体何してんのかは知らないけど。わざわざくま取りに来た意味はあるんだと思う。人のこといつも想ってるところはマジじゃん、あの人。夏樹のこと大事なんだなって昨日もそれまでもずっと、俺は思ってたよ」
「うん……うん、そっか」
「はは、また泣いてる」
「うう、これは尊くんのせいじゃん~」
尊の言葉たちが、昨日から不安でいっぱいだった心に満ちてゆく。
尊の言う通りだと夏樹は思う。恋が実るかはさておいても、柊吾にもらってきた優しさはいつだって本物だった。だからこの一週間だって、きっと信じて待っていていいのだ。
おかえりと笑って、心配したんだとちょっと怒ってみせたら、悪かったと笑ってくれるのかもしれない。お土産話をせがんで、またたくさん笑って。
そうすれば、キスと好きのあとの『ごめん』も上手に昇華して、恋心をひとりで大事に出来るのかもしれない――そんな気がしてくる。
それからの毎日、夏樹は柊吾のことばかりを考えて過ごした。当たり前のように会えていた時より頭は柊吾でいっぱいで、逢いたい想いは募って毎晩少しだけ枕を濡らした。
晴人は柊吾のことを何も言わなかった。つまりそれは、この一週間の不在を知らされていたということだろう。その上で黙っていようと晴人が決めたのなら、夏樹もそれに倣うだけだ。出掛けることもせず、毎晩家にいてくれる晴人には感謝している。ふたり揃って料理は不得意だから、デリバリーや外食のみで過ごしている。柊吾が知ったらめまいを起こすかもしれない。
そうして迎えた一週間後。店長の話では休みは“一週間くらい”とのことだったから、夏樹は昨日あたりからずっと落ち着かないでいる。今日は帰ってきてくれるだろうか、まだだろうか。
夕方に帰宅すると、リビング奥の自室から晴人が出てきた。
「夏樹おかえり~」
「ただいまっす」
「夏樹、今日は俺出掛けるね。泊まりで」
「あ、そうなんすね。了解っす! 楽しんできてくださいね!」
「うん。夏樹」
「…………?」
そうか、今夜は出掛けてしまうのか。寂しくないと言ったら嘘になるが、自分のために恋人と会うのを我慢しているのかと思うと申し訳なさがあった。
見送ろうと後ろをついていくと、リビングの扉前で晴人は振り返り、夏樹の頬に両手を添えた。そしてそのまま押しつぶされてしまう。
「んぶっ!?」
「あは、面白い顔」
「ちょ、晴人さん〜ひどい」
「夏樹〜! 明日はいい報告楽しみにしてるな」
「……ん? なにが? っすか?」
晴人の言わんとしていることが全く分からず首を傾げるが、ただ意味深に微笑まれる。そのまま「じゃあね」と手を振って出掛けてしまった。
「なんやったんやろ」
傾げていた首をまた反対側に倒し、ひとり呟く。すると閉まったばかりの玄関がまた開く音がした。忘れ物でもしたのだろうか。また靴を脱いで行き来するのも面倒だろう。代わりに持っていってあげようとリビングを出る。
「晴人さーん? 何か忘れ物でもし……」
「……夏樹」
「っ、あ……椎名、さん?」
だが返ってきた声は予想と違った、柊吾だ。晴人だとばかり思っていたから、念入りにしていたはずの柊吾を迎える心の準備も、ゼロに戻ってしまったかのように言葉が出てこない。
突然いなくなってびっくりした。
どうして何も言ってくれなかったんだ。
どこに行ってたの?
それはひとり?
もしかして誰かと一緒だった?
凄くすごく寂しかった――
全て夏樹の真の心なのに、どれも今この瞬間に選ぶには少し違う気がしてしまう。頭がこんがらがって俯いていると、柊吾が近づいてくる気配がする。リビングの前で突っ立ったままだった夏樹は、吸った息を止め勢いよく顔を上げる。
「椎名さん、オレ、オレ……会いたかったっ」
「夏樹……」
咄嗟に出てきた言葉は、何よりもまずは「会いたかった」だった。ほんの一週間が何週間も何ヶ月も、何年もかかったかのようで、辛くてただただ会いたかった。抱きついてしまいたい気持ちを、ぎゅっと手を握りこんで誤魔化す。
例えばこれが晴人だとか尊だとか、親愛だけならば躊躇なく出来るのに。一方的に恋焦がれる相手だと思うと、もう堪えるしか選択肢はないのだ。
こみ上げてくる涙を隠すように柊吾へ背を向け、リビングへ入る。
「ごめんなさい、おかえりなさいが先っすよね。椎名さんおかえりなさい。えっと、何か飲み……」
「夏樹」
「っ、え?」
「夏樹……俺も会いたかった」
柊吾みたいに食事を用意することは出来ないけれど、飲み物くらいならと、きっと疲れているだろう柊吾を労いたいと思った。思ったのに。
後ろから手を引かれたかと思うと、そのまま背後から腕が回ってきて抱きすくめられてしまった。肩に額を擦りつけられ、うわ言みたいにくり返される自分の名前。
ああもう。もう言いたくなかったのに、ひとりで大事に抱えていくだけの強さを、これから身につけていきたかったのに。こんな風にされたら溢れ出してしまう。
「っ、椎名さん……こんなことしたら駄目だよ」
「…………」
「だって、オレ、また言いたくなっちゃうじゃん。困らせるって分かってんのに、我慢、出来なくなるっ! ……好きなんだよぉ、だから、もうこういうの、せんで」
柊吾の手をどうにか引き剥がし振り向くと、そこには苦しそうにくちびるを噛んで今にも泣きだしそうに眉を寄せた顔があった。
なんで、なんでアンタがそんな顔すんだよ――
それはまるで、本当は離れたくないのに、柊吾のため、己のために無理やり離れた自分を見ているみたいだった。
柊吾への愛しさと同じくらい、虚しさが膨らんでいく。
優しい柊吾は、大事にしてくれている。同居人として、まだ二十歳にもなっていない少年を庇護する者として。
だから憂いているんだろう、どう言えば夏樹を傷つけずにこの想いを断れるのだろうかと。振られることはもう確定事項なのだ。
そう思うと、いっそ我慢することのほうが愚かな気さえしてくる。どうせ受け取ってはもらえないのだから、真正面からぶつかって、砕けてしまうのがきっといい。
「椎名さんが好きです。大好き。好きだから本当は、セフレのとこも行かんでほしい」
柊吾にとって、そういうことをしたい相手が自分だったらいいのに。自分だけだったらいいのに。
「椎名さん、めっちゃ優しいのに自分のことは大事にせんとこあるから、その分オレが大事にしたい。オレがしたって何にもならんかもだけど、ほっとする相手がオレだったらいいのに」
柊吾が絶望した日に戻れるのなら戻りたい。タイムスリップでその日の柊吾に逢いにいって、全部が大好きなんだよって、柊吾が持っていた愛への夢を守りたい。でもそんなことは叶わないから、今の柊吾に叫ぶことしか夏樹には出来ない。
「椎名さん、好き、幸せにするから、オレのこと好きになってよ!」
涙で顔はグズグズで、声もみっともなく震えている。それでもよかった。全てを今失ってでも、柊吾にそう伝えたかった。
だが静まり返った部屋が、現実を夏樹の胸へ突き刺す。もうこの家にはいられないかもしれない。何より、今気まずい思いをしているだろう柊吾をどうにかしてあげたい。離れなければと後ずさると、今度は正面から抱きしめられてしまう。
「っ、もう、椎名さん、駄目だって言ったじゃん」
「嫌だ」
「……好きなんだってば」
「うん」
「だけん、離して。もうオレからは離したくないけん、椎名さんが離してよ」
「でも……幸せにしてくれるんだろ?」
「……え?」
柊吾はそう言うと、背負っていたリュックを下ろし始める。解かれた抱擁に夏樹が再び離れようとすると、それを咎めるように視線が絡まった。ほとんど密着したままの状態でリュックの中から何かを取り出し、その拍子に何かが床に落ちる。夏樹がお土産に渡したキーホルダーだ。
「あ、ふにゃくま」
尊の言っていた通りだ、少しくたびれたふにゃくまが柊吾と共にした時間を物語っている。拾い上げて緑色の頭をそろりと撫でると、柊吾の手が重なった。
「あー……見られちゃったな。大事にしてる、ずっと」
「……椎名さん、そんなにふにゃくま気に入ってたんだ」
「ふにゃくまが、って言うか……」
ふにゃくまが夏樹から柊吾の手へと移り、リュックのポケットに仕舞われる。それを目で追っていると、今度は別のものが取り出された。淡いグレーの、手のひらより小さなベルベットの巾着袋だ。なにか躊躇うようにそれを手の中で遊ばせながら、柊吾が口を開く。
「何から言えばいいんだろうな。あー……セフレとはもうずっとしてない。夏樹が初めての撮影に行った日、家空けてた自分がすげーショックで。あれ以降、したいと思わなくなってさ」
「え……でも夜に出掛けてましたよね。こないだのクラブも、知り合いのDJって、セフレの人じゃないんすか」
「うん、気づくよな。でもそれは……もうやめるって言ったらタダで終わってやんのつまんねぇからって交換条件出されて……酒で勝負してた。アイツ強くて参ったけど……一週間前にそれも片付けてきた」
「なんすかそれ……ほんと自分の体大事にしてほしいっす」
「はは、うん。もう無茶しない」
もうずっとセフレとはそういう関係ではなかった。それが知れて心から安堵しながらも、よほど大量に酒を飲んだのだろうことが窺えて恐ろしくなった。
また浮かんでくる涙を必死に飲み下す夏樹の視界で、柊吾が巾着袋を解きはじめる。丁寧に開かれた口から出てきたのは、シルバーのリングだ。はい、とそれを手に乗せられ、何事かと思いつつマジマジと眺める。途中で二度ほどねじれていて、模様のようになっている。少し太めのデザインは、一目で心が惹かれてしまうほどに格好いい。
「自分がすげー重いヤツって分かって、ちょっと引いてる」
「…………?」
「夏樹のこと、傷つけたり泣かせたり、しんどい思いさせてばっかだったなって。俺に何が出来るだろう、どうしたら伝わるんだろうって考えたら、俺にはアクセサリーしかなくて。でも店に出してるものじゃ嫌でさ。カタログの撮影の後、居ても立っても居られなくなって……夏樹だけのこと考えてデザインしたかったから、いつもお願いしてる工房に行って、作ってきた」
「え……これオレに? え、椎名さんがデザインして作ったの?」
「そう」
「もしかして、この一週間で?」
「うん。……重いよな」
柊吾の話す内容を頭では理解できるのに、まるで夢物語のようでにわかには信じ難いものだった。けれど確かにここにある、柊吾が夏樹のためにデザインして手作りしたという、世界にひとつだけの指輪が。
「な、なんで」
「……なんでだろうな」
「っ、もー! 言ってよぉ」
夏樹の頬を涙が伝う。
誰にどんな優しい言葉をかけられようと、柊吾が自分を……なんて自惚れることはどうしても出来なかった。それでもさすがに分かる、こんなプレゼントをもらっても気づけないほど馬鹿ではない。柊吾が願った通り、ちゃんとしっかり伝わっている。
だが言ってほしいのだ、その心を柊吾の声で教えてほしい。
「こういう気持ちになんの初めてでさ、誰にも言ったことないんだよ。あー……これすげー緊張するな。夏樹はすごいよ」
「うん、分かる。でも言ってほしい、言われたい」
「ん……好きだよ夏樹。俺も夏樹が好き」
「うー……」
「はは、泣きすぎ」
腰を屈めた柊吾が、夏樹の濡れた頬に口づけた。それから左手を取られ、人差し指に指輪が通される。自分のためにデザインされたことを実感する。ここが居場所だと最初から決められていたかのように、何もかもがぴったりだ。
「サイズ丁度っすね」
「そりゃあデザイナーだし。見たら分かる」
「デザイナー?」
「あー、うん。naturallyのも全部そう。俺のブランドだから」
「え……え!? マジ!?」
「店頭で接客もしたかったから隠すことにしたんだ。店長業務も雇いでああして入ってもらってる」
「マジっすか……ええー……椎名さん多才すぎる」
涙はすっかり引っこんで、手をくるくると回し色んな方向から指輪を観察する。柊吾からの気持ちもこの指輪も、一生ものの宝を手に入れてしまった気分、いや実際にそうだ。
箍が外れてしまったのかまた緩み始めた涙腺に鼻をすすると、柊吾に顔を覗きこまれる。
「指輪、そんなに喜んでもらえて嬉しいんだけどさ」
「…………?」
「キス、したいんですけど。いい?」
「へ……あっ」
額が合わさって、前髪のすき間も許さないかのように首を揺らして潜りこんでくる。もしかして、甘えられているのだろうか。胸がきゅうっと狭く苦しくなった途端、体が浮く感覚に夏樹は焦った。思わず目の前の柊吾にしがみつき、どうやら抱き上げられたようだと理解する。
「ちょ、椎名さん!?」
「名前で呼んでよ」
「あ……」
「撮影の後、椎名に戻った時結構ショックだった」
そのままソファへと向かい、夏樹を抱えたまま柊吾は腰を下ろした。拗ねたような顔がよく見えて、下がった眉を親指で辿る。
「だってあの時は……好きって言ったらごめんって、言われたから……恋人役の時間も終わってたし、元に戻さなきゃって」
「あれは……夏樹に好きって言う時は、ちゃんとした自分になってたかったから。待ってって言おうとしてた。ごめんな?」
「そうだったんすね。でも椎名さ……じゃなくて、柊吾さん、は、前からちゃんとしたかっこいい大人だったっすよ」
「夏樹は俺に甘すぎ」
「そんなことない。本当にかっこいいっす、心まで全部」
「夏樹……」
どちらからともなくくちびるが重なる。くちびるの柔らかさ、絡む舌の熱さ、柊吾が漏らす甘ったるい吐息。どれも初めてではないのに、今までとは驚くほどに感覚が違う。
好きな人に、自分も好かれている。互いに恋をしている。そう知っているだけでこうも違うのか。
「あっ……」
「夏樹……触っていい?」
柊吾に触ってほしい。だが夏樹は、頷きそうな自分を必死に抑える。
「ま、待って柊吾さん」
「ん……いくらなんでも急すぎだよな。ごめん」
「あ、違う! そうじゃなくて」
「…………? 夏樹?」
離れたくないとワガママを言う体をどうにか引き剥がし、夏樹はリビングから駆け足で去る。
柊吾に好かれていると、両想いだと自惚れることは確かに出来なかったが、そうなることを夢見る瞬間はたくさんあった。そうなれたらどんなに幸せだろうと空想して、色んな知識を収得したのだ。
浴室を出た夏樹は、一旦自室に寄って柊吾の部屋の前に立つ。緊張感は拭えない。バクバクとうるさい心臓に逆らうように、勢いまかせにノックをして入室する。
ベッドに座る柊吾の前に立つと、抱きしめられ額を肩に摺り寄せられた。
「……柊吾さん?」
「夏樹はさ、俺にかっこいいって言ってくれるけど、夏樹のほうが何倍もかっこいいよ」
「へ……そんなことは」
「あるよ。まっすぐなところ。……夏樹のこと、最初から可愛いと思ってて、今思えば好きにならないように必死にセーブしてたんだけど……あのクラブで会って叱られた時、ああもう無理だなって思った。好きにならないのは無理だ、って。かっこいいよ、夏樹は」
「いや、え……なんかすごい、恥ずかしい……」
無理はしないで欲しいと言う柊吾に、夏樹は最後までして欲しいとねだった。柊吾は優しいばかりで、涙が出るほど幸せな時間だった。
目が覚めると、カーテンの向こうは既に明るくなり始めていた。冬の朝なのにあたたかいのは、柊吾と共に眠ったからだ。仰向けの体には柊吾が抱きついていて、夏樹の肩口にすり寄るようにして今もよく眠っている。
「うわー、幸せすぎる……」
昨夜、柊吾と気持ちが重なって恋人になった。体を重ねた後は共に風呂に入って。自室に戻るべきかと迷った夏樹を、柊吾が有無を言わさずこの部屋に引きこんだ。
甘えんぼですね、とつい言ったら、『俺も思った、びっくりだよな。引いた?』と心配そうに問われてしまった。 そんなはずがない、いつも優しくしてくれる人を自分も甘やかせると思うと、こんなに嬉しいことはない。素直にそう伝えると、俺は宇宙一幸せ者だなと笑ってくれた。
「オレも宇宙一幸せっすよ」
眠っている柊吾の髪をそっと梳くと、指の間を金色が流れる。夏樹にとっての流れ星で、北極星。ずっといつまでもまばゆいのだろうと感じながら、そっと腕の中を抜け出す。
こんな風に迎えた朝、柊吾のためにコーヒーを淹れられるようになりたい。でも今はそれは叶わないから、ティーパックの紅茶でも作ってみようか。柊吾が起きたらコーヒーのことを話してみよう。
そうと決まればとベッドを下り、扉へ向かいかけたところで夏樹はふと足を止める。初めてこの部屋に入った時も見た、壁にたくさん貼られたデザイン画が目に入ったからだ。あの時は、デザイナーの人から預かっているのだろうかとか、そんな風に思ったのを覚えている。
だがnaturallyのデザイナーは柊吾自身だった。指輪にピアス、バングル……数々のアクセサリーたちが柊吾から生まれたのだと思うと、より一層宝物のように思える。
「夏樹」
「わっ」
どれくらい見入っていただろうか。背後から柊吾に抱きしめられてつい驚いてしまった。足音に全く気がつかなかった。
「隣にいないから夢だったかと思って焦った」
「夢じゃないですよ。夢みたいに幸せですけど」
「ん、俺も。デザイン画見てたのか?」
「あ、はい。勝手にすみません。すげーかっこいいっすね、これ全部柊吾さんが描いたんすよね」
「うん」
「すげー……あの、柊吾さん」
「ん?」
デザイン画たちには全て、コンセプトだとか表現したいものが文字でも書きこまれている。それらを見ていると、ひとつの欲求が夏樹の中に芽生えていた。
「昨日もらったこの指輪も、こういうデザイン画ってあるんすか?」
「うん、ある」
「っ、見たい」
「分かった。待ってて」
すぐに頷いてくれた柊吾は、夏樹を抱えてチェアに腰を下ろす。昨日のリュックを開け、ふにゃくまをデスクに丁寧に置き、それから出てきたのは小ぶりなスケッチブックだ。
開かれたページには、夏樹の手に光る指輪とそっくりのデザインが描かれている。左上にはタイトルのように“Natsuki”と記され、指輪のねじれた部分は“N”を表現していることが記されている。
「ここんとこ、オレのイニシャルだったんだ……」
「うん」
「泣きそう」
「はは、泣いたら拭いたげるし、どうぞ」
「うう……これ、いつデザインしたんすか」
「工房に行く電車の中だな。何回も描き直した」
柊吾の言う通り、スケッチブックはところどころ黒くなっていて、何度も消しゴムをかけては描いたのだとよく分かった。イラストの部分を食い入るように見つめ、次に右下のメモの部分に目を向ける。
“lodestar”と書いて、丸で囲ってある。
「ロードスター?」
「ああ、ロードスターは北極星のことだ」
「っ、北極星?」
「北極星ってさ、いつも同じ場所にあるから、旅人の目印になったりするだろ。俺にとっての夏樹はそういう、道しるべみたいなものだから。デザイン画には書きこめてないけど……ほら、ここに星マーク彫ってある」
夏樹の指で光るそれを引き抜き、柊吾は内側に秘められた北極星を教えてくれた。Nを表すねじれデザインの裏側に、星印が刻まれている。
「すげー……しゅ、柊吾さん! あの、オレも!」
「ん?」
「オレ、柊吾さんが載ってる雑誌見た時、流れ星が落っこちてきたみたいだって思って、そんくらい衝撃的で。実際逢ったら中身までかっこよくて、優しくて……柊吾さんと並んでも恥ずかしくないくらい、オレもかっこいい男になりたいって思うようになって。そしたら晴人さんが、夏樹にとって柊吾は北極星だねって」
「……マジか」
晴人にそう例えてもらったことを夏樹は大切に想っていた。夏樹にとって柊吾は、流れ星であり北極星。柊吾の存在がより強く輝きをもった気がしたのだ。
それと同じことを柊吾も自分に感じているなんて、奇跡じゃなかったら何だというのだろう。
「でもなんでオレが柊吾さんの道しるべ? オレ何もしとらん……」
「そんなことない、俺は夏樹に色んなことを教えられてる。叱られたのもそうだし、恋愛はふたりでするものって言ってたのもかなり効いた。誰かを好きになったこともないのに、ひとりで勝手に夢見て、勝手に幻滅して……そういう情けないところがあったから。夏樹は俺のロードスターだ」
「うう、柊吾さん……」
「でも流れ星もいいな。俺にとっても、夏樹を初めて見た時そういう感覚あったかも」
「ええ、マジっすか? 全然そんな感じせんかったですけど。むしろオレがぐいぐい行っちゃって、困ってたっつうか……」
「ああ、オレが初めて夏樹を見たの、ここで会った時じゃないし」
「え……え!? どういう意味っすか!?」
柊吾の腕の中で振り返り、両肩を掴んで前のめりになると、柊吾は薄らと頬を染め夏樹を膝から下ろしてしまった。ざっくりと編まれたカーディガンを夏樹に羽織らせ、部屋から出てしまう。
「コーヒーでも飲むか。夏樹は? 紅茶にする?」
「オレも柊吾さんと同じやつ飲んでみたい……って柊吾さん! さっきの教えてよぉ!」
冷たい廊下につま先を躍らせながら、キッチンへ向かう恋人を追いかける。コーヒーの淹れ方を教わるのは、今日はおあずけだ。
「恥ずかしいから言いたくないかも」
「いやいや無理無理! 教えてくれるまでオレ一生しつこくしますよ!?」
「マジか……んー。え、本当に聞きたい?」
「本当に聞きたい!」
「……夏樹が事務所に送った写真、あるじゃん」
「はい」
「naturallyのことで事務所行った時にたまたま見てさ」
「え!?」
「あ、naturallyのことでってのは、早川社長の出資でブランド立ち上げられたからさ。たまに経営のことで相談に行ったりしてて。そんで、なんつうか……夏樹の写真にすげー惹かれて。この子いいな、って言ったら、じゃあ入れるって社長が即決してた」
「ええ~……オレ、腰抜けそう」
柊吾は紛うことなく夏樹にとって道しるべだ。柊吾がいたから今の自分がある。
だがまさか、事務所への所属も柊吾が一役買っていた――憧れの男に見出されていた、なんて。そんな運命みたいなことが起きていたとは、考えてもみなかった。
あまりのことに夏樹は目を丸くし、本当に体から力が抜け始めた。だが柊吾が片手で抱き止め、夏樹を見下ろしながらこう言う。
「な? 夏樹も流れ星みたいだろ」
「……っ!」
その笑顔は星が舞ったように眩しくて、夏樹はいよいよ目眩を覚える。キラキラ、パチパチ、例えるならばそんな音で今も夏樹に降ってくるのだ、柊吾の光が。
流れ星は一瞬だけれど、何度だって夏樹に落ちてくる。そのひとつひとつが夏樹の胸の真ん中で、ロードスターとして輝く。
自分のことも同じ星に例えてくれる柊吾に、果たして同じだけのものを見せられるのか。自信はないけれど、確信できることはある。そうあれるようにいつまでもどこまでも、走り続けられる。そう思える力を柊吾が与えてくれるから。
「柊吾さん!」
「んー?」
「大好き!」
「っ、ん……俺も」
それでも口にはしなかった。晴人の気持ちを無下になどしたくなかったし、またセフレのところかもと頭を過ぎるのが辛くても、明日になれば会えると思っていたからだ。
だが朝になっても帰ってはこなかったし、naturallyにもその姿はなかった。シフト表では出勤の予定になっているのに、だ。
さすがにおかしい気がすると、夏樹は柊吾にメッセージを送った。返事が来るまで画面から目を離したくないくらいだったが、土曜なのもあって店は一日中混雑し、合間に確認する時間もなかった。
CLOSEの看板を出し、急いでスマートフォンをポケットから取り出す。返信がないどころか、既読の印すらそこにはなかった。
「店長、あの……」
「南くん、お疲れ様。どうかした?」
「お疲れ様っす。えっと……椎名さん今日来なかったっすけど、何か知ってますか?」
レジで精算をしていた店長に尋ねると、なんだそんなことか、と言わんばかりの顔で微笑まれる。
「椎名くんなら、今日から一週間お休み取ってるよ」
「え……一週間休み?」
「うん、厳密には“一週間くらい”だけど。昨夜電話がかかってきてね、急だけどどうしてもお願いしたいって。まあ僕としては、有休も全然使わない仕事バカの椎名くんが休みたいだなんて、むしろ大歓迎だったけど。どんなに好きな仕事でも休息は必要だからね。あれ、でも南くんって椎名くんと一緒に住んでるんじゃなかった?」
「あー、えっと、はい……そうなんすけど、何も聞いとらんくて」
連絡も入れられないような事態に陥っているわけではなさそうだ。夏樹は一先ずの安堵を覚える。だがすぐに不安はぶり返す。何故自分には教えてくれなかったのだろう。例えば旅行にでも行ったのなら、いってらっしゃいくらい言いたかった。
気持ちが晴れずにいる夏樹の名を、スタッフルームのほうから誰かが呼んだ。尊だ。
「ちょっとこっち来て」
他のスタッフの姿はもうなく、促されるまま椅子に腰を下ろす。すると向かいに座った尊が、夏樹の髪をくしゃりと撫でる。
「わっ」
「しんどそうな顔してる」
「う……尊くんにはいつもバレバレだね」
「まあな。椎名さんのことだろ」
「…………」
「俺さ、昨日もクローズまでで、最後閉めて帰ったんだけど。その後に会ったよ、椎名さんに」
「え……え! そうなの!?」
尊の話によると、昨日仕事を終え自宅に帰っている途中、柊吾から電話がかかってきたとのことだ。居場所を尋ねられ何事かと思いつつ答えると、そこにいてくれと無茶を言われ、結局その場で十分ほど待ったらしい。あの人に迷惑かけられんの初めてだったかも、と尊は笑う。
「夏樹は一応雑用ってことになってるから、ここの鍵閉めることもなかっただろうし。それに椎名さんから絶対言うなって言われてたから、俺もそれなりに頑張って隠してたんだけど」
「……えっと?」
「ここの鍵……これにさ、あの人キーホルダーつけてたんだよね。夏樹のスマホについてるくまと同じやつ」
「え……これ? ふにゃくまのこと?」
「そう、そのみどりの。昨夜それ取りに来たんだよ、わざわざ」
「…………」
夏樹がスマートフォンを取り出して見せると、尊はそれだと頷いた。夏に帰省した時、柊吾へのお土産に選び、おそろいにしたいと自分の分も購入したふにゃくまだ。
渡した時に『俺がつけてたらおかしい』と言っていたのを覚えているし、実際にあれ以降見かけたことは一度もなかった。捨ててしまうとは思えなかったから、デスクの引き出しの奥にでも眠っているのかな、なんて考えていたのだが。
実際はnaturallyの鍵につけていて、一週間の休みに入る直前の昨日、わざわざ取りに来た、なんて。まさかの話に夏樹は唖然とする。
「大事にされてんね、夏樹」
「……なにが? オレは、分からん。椎名さん、が、何考えとっとか」
「夏樹……」
頭が混乱し、涙がこみ上げてくる。泣いてばかりで情けないと思うのに、どうにも止まらない。
大事にされていると確かに思う、そんなことも分からないほど無神経ではない。だがそれを単純に喜ぶだけでいられないのも確かなのだ。
尊は笑ったりなどせず、そっと髪を撫でてくれる。尊の優しさに、つい弱音が零れていく。
「好き、って言ったら、ごめんって、言われた……いつも、いつも困らせとる。でも好きなの止められんで、もう、苦しい」
「うん、苦しいな」
「うん……」
ひとしきり泣いた後、尊が水を買ってきてくれた。尊自身はコーヒーを飲みながら、またひとつ柊吾のことを話し始める。
「ここに入ったばっかの頃、流れで椎名さんに相談したことがあってさ。しかも恋バナ」
「恋バナ?」
「そう。あの頃、彼氏とのこと……付き合ってんのになかなか次のステップに進めなくてさ、悩んでたんだけど。椎名さん、何て言ったと思う?」
「んー、分からん」
「急ぐもんでもないんじゃない、自分だったらそんな我慢できないけど――とか言ってた」
「わあ……」
失礼なのは承知の上で、柊吾らしいなと夏樹は思った。セフレがいるのはつまり、そういうことが好きだということで、自分ならすぐにする、という意味なのだろう。
だが、あの人は変わったと尊が続ける。
「そのふにゃくま? 取りに来た時にさ。急にその時の話されて。あれ撤回する、って」
「え、なんで?」
「本当に好きになったらすげー悩むし、色々躊躇するもんなんだな……だって。なあ夏樹、無責任なことは言えないけどさ。そんなに悲観することないと思う。俺はね」
「…………」
「夏樹に何も言わないで急に一週間休んで、一体何してんのかは知らないけど。わざわざくま取りに来た意味はあるんだと思う。人のこといつも想ってるところはマジじゃん、あの人。夏樹のこと大事なんだなって昨日もそれまでもずっと、俺は思ってたよ」
「うん……うん、そっか」
「はは、また泣いてる」
「うう、これは尊くんのせいじゃん~」
尊の言葉たちが、昨日から不安でいっぱいだった心に満ちてゆく。
尊の言う通りだと夏樹は思う。恋が実るかはさておいても、柊吾にもらってきた優しさはいつだって本物だった。だからこの一週間だって、きっと信じて待っていていいのだ。
おかえりと笑って、心配したんだとちょっと怒ってみせたら、悪かったと笑ってくれるのかもしれない。お土産話をせがんで、またたくさん笑って。
そうすれば、キスと好きのあとの『ごめん』も上手に昇華して、恋心をひとりで大事に出来るのかもしれない――そんな気がしてくる。
それからの毎日、夏樹は柊吾のことばかりを考えて過ごした。当たり前のように会えていた時より頭は柊吾でいっぱいで、逢いたい想いは募って毎晩少しだけ枕を濡らした。
晴人は柊吾のことを何も言わなかった。つまりそれは、この一週間の不在を知らされていたということだろう。その上で黙っていようと晴人が決めたのなら、夏樹もそれに倣うだけだ。出掛けることもせず、毎晩家にいてくれる晴人には感謝している。ふたり揃って料理は不得意だから、デリバリーや外食のみで過ごしている。柊吾が知ったらめまいを起こすかもしれない。
そうして迎えた一週間後。店長の話では休みは“一週間くらい”とのことだったから、夏樹は昨日あたりからずっと落ち着かないでいる。今日は帰ってきてくれるだろうか、まだだろうか。
夕方に帰宅すると、リビング奥の自室から晴人が出てきた。
「夏樹おかえり~」
「ただいまっす」
「夏樹、今日は俺出掛けるね。泊まりで」
「あ、そうなんすね。了解っす! 楽しんできてくださいね!」
「うん。夏樹」
「…………?」
そうか、今夜は出掛けてしまうのか。寂しくないと言ったら嘘になるが、自分のために恋人と会うのを我慢しているのかと思うと申し訳なさがあった。
見送ろうと後ろをついていくと、リビングの扉前で晴人は振り返り、夏樹の頬に両手を添えた。そしてそのまま押しつぶされてしまう。
「んぶっ!?」
「あは、面白い顔」
「ちょ、晴人さん〜ひどい」
「夏樹〜! 明日はいい報告楽しみにしてるな」
「……ん? なにが? っすか?」
晴人の言わんとしていることが全く分からず首を傾げるが、ただ意味深に微笑まれる。そのまま「じゃあね」と手を振って出掛けてしまった。
「なんやったんやろ」
傾げていた首をまた反対側に倒し、ひとり呟く。すると閉まったばかりの玄関がまた開く音がした。忘れ物でもしたのだろうか。また靴を脱いで行き来するのも面倒だろう。代わりに持っていってあげようとリビングを出る。
「晴人さーん? 何か忘れ物でもし……」
「……夏樹」
「っ、あ……椎名、さん?」
だが返ってきた声は予想と違った、柊吾だ。晴人だとばかり思っていたから、念入りにしていたはずの柊吾を迎える心の準備も、ゼロに戻ってしまったかのように言葉が出てこない。
突然いなくなってびっくりした。
どうして何も言ってくれなかったんだ。
どこに行ってたの?
それはひとり?
もしかして誰かと一緒だった?
凄くすごく寂しかった――
全て夏樹の真の心なのに、どれも今この瞬間に選ぶには少し違う気がしてしまう。頭がこんがらがって俯いていると、柊吾が近づいてくる気配がする。リビングの前で突っ立ったままだった夏樹は、吸った息を止め勢いよく顔を上げる。
「椎名さん、オレ、オレ……会いたかったっ」
「夏樹……」
咄嗟に出てきた言葉は、何よりもまずは「会いたかった」だった。ほんの一週間が何週間も何ヶ月も、何年もかかったかのようで、辛くてただただ会いたかった。抱きついてしまいたい気持ちを、ぎゅっと手を握りこんで誤魔化す。
例えばこれが晴人だとか尊だとか、親愛だけならば躊躇なく出来るのに。一方的に恋焦がれる相手だと思うと、もう堪えるしか選択肢はないのだ。
こみ上げてくる涙を隠すように柊吾へ背を向け、リビングへ入る。
「ごめんなさい、おかえりなさいが先っすよね。椎名さんおかえりなさい。えっと、何か飲み……」
「夏樹」
「っ、え?」
「夏樹……俺も会いたかった」
柊吾みたいに食事を用意することは出来ないけれど、飲み物くらいならと、きっと疲れているだろう柊吾を労いたいと思った。思ったのに。
後ろから手を引かれたかと思うと、そのまま背後から腕が回ってきて抱きすくめられてしまった。肩に額を擦りつけられ、うわ言みたいにくり返される自分の名前。
ああもう。もう言いたくなかったのに、ひとりで大事に抱えていくだけの強さを、これから身につけていきたかったのに。こんな風にされたら溢れ出してしまう。
「っ、椎名さん……こんなことしたら駄目だよ」
「…………」
「だって、オレ、また言いたくなっちゃうじゃん。困らせるって分かってんのに、我慢、出来なくなるっ! ……好きなんだよぉ、だから、もうこういうの、せんで」
柊吾の手をどうにか引き剥がし振り向くと、そこには苦しそうにくちびるを噛んで今にも泣きだしそうに眉を寄せた顔があった。
なんで、なんでアンタがそんな顔すんだよ――
それはまるで、本当は離れたくないのに、柊吾のため、己のために無理やり離れた自分を見ているみたいだった。
柊吾への愛しさと同じくらい、虚しさが膨らんでいく。
優しい柊吾は、大事にしてくれている。同居人として、まだ二十歳にもなっていない少年を庇護する者として。
だから憂いているんだろう、どう言えば夏樹を傷つけずにこの想いを断れるのだろうかと。振られることはもう確定事項なのだ。
そう思うと、いっそ我慢することのほうが愚かな気さえしてくる。どうせ受け取ってはもらえないのだから、真正面からぶつかって、砕けてしまうのがきっといい。
「椎名さんが好きです。大好き。好きだから本当は、セフレのとこも行かんでほしい」
柊吾にとって、そういうことをしたい相手が自分だったらいいのに。自分だけだったらいいのに。
「椎名さん、めっちゃ優しいのに自分のことは大事にせんとこあるから、その分オレが大事にしたい。オレがしたって何にもならんかもだけど、ほっとする相手がオレだったらいいのに」
柊吾が絶望した日に戻れるのなら戻りたい。タイムスリップでその日の柊吾に逢いにいって、全部が大好きなんだよって、柊吾が持っていた愛への夢を守りたい。でもそんなことは叶わないから、今の柊吾に叫ぶことしか夏樹には出来ない。
「椎名さん、好き、幸せにするから、オレのこと好きになってよ!」
涙で顔はグズグズで、声もみっともなく震えている。それでもよかった。全てを今失ってでも、柊吾にそう伝えたかった。
だが静まり返った部屋が、現実を夏樹の胸へ突き刺す。もうこの家にはいられないかもしれない。何より、今気まずい思いをしているだろう柊吾をどうにかしてあげたい。離れなければと後ずさると、今度は正面から抱きしめられてしまう。
「っ、もう、椎名さん、駄目だって言ったじゃん」
「嫌だ」
「……好きなんだってば」
「うん」
「だけん、離して。もうオレからは離したくないけん、椎名さんが離してよ」
「でも……幸せにしてくれるんだろ?」
「……え?」
柊吾はそう言うと、背負っていたリュックを下ろし始める。解かれた抱擁に夏樹が再び離れようとすると、それを咎めるように視線が絡まった。ほとんど密着したままの状態でリュックの中から何かを取り出し、その拍子に何かが床に落ちる。夏樹がお土産に渡したキーホルダーだ。
「あ、ふにゃくま」
尊の言っていた通りだ、少しくたびれたふにゃくまが柊吾と共にした時間を物語っている。拾い上げて緑色の頭をそろりと撫でると、柊吾の手が重なった。
「あー……見られちゃったな。大事にしてる、ずっと」
「……椎名さん、そんなにふにゃくま気に入ってたんだ」
「ふにゃくまが、って言うか……」
ふにゃくまが夏樹から柊吾の手へと移り、リュックのポケットに仕舞われる。それを目で追っていると、今度は別のものが取り出された。淡いグレーの、手のひらより小さなベルベットの巾着袋だ。なにか躊躇うようにそれを手の中で遊ばせながら、柊吾が口を開く。
「何から言えばいいんだろうな。あー……セフレとはもうずっとしてない。夏樹が初めての撮影に行った日、家空けてた自分がすげーショックで。あれ以降、したいと思わなくなってさ」
「え……でも夜に出掛けてましたよね。こないだのクラブも、知り合いのDJって、セフレの人じゃないんすか」
「うん、気づくよな。でもそれは……もうやめるって言ったらタダで終わってやんのつまんねぇからって交換条件出されて……酒で勝負してた。アイツ強くて参ったけど……一週間前にそれも片付けてきた」
「なんすかそれ……ほんと自分の体大事にしてほしいっす」
「はは、うん。もう無茶しない」
もうずっとセフレとはそういう関係ではなかった。それが知れて心から安堵しながらも、よほど大量に酒を飲んだのだろうことが窺えて恐ろしくなった。
また浮かんでくる涙を必死に飲み下す夏樹の視界で、柊吾が巾着袋を解きはじめる。丁寧に開かれた口から出てきたのは、シルバーのリングだ。はい、とそれを手に乗せられ、何事かと思いつつマジマジと眺める。途中で二度ほどねじれていて、模様のようになっている。少し太めのデザインは、一目で心が惹かれてしまうほどに格好いい。
「自分がすげー重いヤツって分かって、ちょっと引いてる」
「…………?」
「夏樹のこと、傷つけたり泣かせたり、しんどい思いさせてばっかだったなって。俺に何が出来るだろう、どうしたら伝わるんだろうって考えたら、俺にはアクセサリーしかなくて。でも店に出してるものじゃ嫌でさ。カタログの撮影の後、居ても立っても居られなくなって……夏樹だけのこと考えてデザインしたかったから、いつもお願いしてる工房に行って、作ってきた」
「え……これオレに? え、椎名さんがデザインして作ったの?」
「そう」
「もしかして、この一週間で?」
「うん。……重いよな」
柊吾の話す内容を頭では理解できるのに、まるで夢物語のようでにわかには信じ難いものだった。けれど確かにここにある、柊吾が夏樹のためにデザインして手作りしたという、世界にひとつだけの指輪が。
「な、なんで」
「……なんでだろうな」
「っ、もー! 言ってよぉ」
夏樹の頬を涙が伝う。
誰にどんな優しい言葉をかけられようと、柊吾が自分を……なんて自惚れることはどうしても出来なかった。それでもさすがに分かる、こんなプレゼントをもらっても気づけないほど馬鹿ではない。柊吾が願った通り、ちゃんとしっかり伝わっている。
だが言ってほしいのだ、その心を柊吾の声で教えてほしい。
「こういう気持ちになんの初めてでさ、誰にも言ったことないんだよ。あー……これすげー緊張するな。夏樹はすごいよ」
「うん、分かる。でも言ってほしい、言われたい」
「ん……好きだよ夏樹。俺も夏樹が好き」
「うー……」
「はは、泣きすぎ」
腰を屈めた柊吾が、夏樹の濡れた頬に口づけた。それから左手を取られ、人差し指に指輪が通される。自分のためにデザインされたことを実感する。ここが居場所だと最初から決められていたかのように、何もかもがぴったりだ。
「サイズ丁度っすね」
「そりゃあデザイナーだし。見たら分かる」
「デザイナー?」
「あー、うん。naturallyのも全部そう。俺のブランドだから」
「え……え!? マジ!?」
「店頭で接客もしたかったから隠すことにしたんだ。店長業務も雇いでああして入ってもらってる」
「マジっすか……ええー……椎名さん多才すぎる」
涙はすっかり引っこんで、手をくるくると回し色んな方向から指輪を観察する。柊吾からの気持ちもこの指輪も、一生ものの宝を手に入れてしまった気分、いや実際にそうだ。
箍が外れてしまったのかまた緩み始めた涙腺に鼻をすすると、柊吾に顔を覗きこまれる。
「指輪、そんなに喜んでもらえて嬉しいんだけどさ」
「…………?」
「キス、したいんですけど。いい?」
「へ……あっ」
額が合わさって、前髪のすき間も許さないかのように首を揺らして潜りこんでくる。もしかして、甘えられているのだろうか。胸がきゅうっと狭く苦しくなった途端、体が浮く感覚に夏樹は焦った。思わず目の前の柊吾にしがみつき、どうやら抱き上げられたようだと理解する。
「ちょ、椎名さん!?」
「名前で呼んでよ」
「あ……」
「撮影の後、椎名に戻った時結構ショックだった」
そのままソファへと向かい、夏樹を抱えたまま柊吾は腰を下ろした。拗ねたような顔がよく見えて、下がった眉を親指で辿る。
「だってあの時は……好きって言ったらごめんって、言われたから……恋人役の時間も終わってたし、元に戻さなきゃって」
「あれは……夏樹に好きって言う時は、ちゃんとした自分になってたかったから。待ってって言おうとしてた。ごめんな?」
「そうだったんすね。でも椎名さ……じゃなくて、柊吾さん、は、前からちゃんとしたかっこいい大人だったっすよ」
「夏樹は俺に甘すぎ」
「そんなことない。本当にかっこいいっす、心まで全部」
「夏樹……」
どちらからともなくくちびるが重なる。くちびるの柔らかさ、絡む舌の熱さ、柊吾が漏らす甘ったるい吐息。どれも初めてではないのに、今までとは驚くほどに感覚が違う。
好きな人に、自分も好かれている。互いに恋をしている。そう知っているだけでこうも違うのか。
「あっ……」
「夏樹……触っていい?」
柊吾に触ってほしい。だが夏樹は、頷きそうな自分を必死に抑える。
「ま、待って柊吾さん」
「ん……いくらなんでも急すぎだよな。ごめん」
「あ、違う! そうじゃなくて」
「…………? 夏樹?」
離れたくないとワガママを言う体をどうにか引き剥がし、夏樹はリビングから駆け足で去る。
柊吾に好かれていると、両想いだと自惚れることは確かに出来なかったが、そうなることを夢見る瞬間はたくさんあった。そうなれたらどんなに幸せだろうと空想して、色んな知識を収得したのだ。
浴室を出た夏樹は、一旦自室に寄って柊吾の部屋の前に立つ。緊張感は拭えない。バクバクとうるさい心臓に逆らうように、勢いまかせにノックをして入室する。
ベッドに座る柊吾の前に立つと、抱きしめられ額を肩に摺り寄せられた。
「……柊吾さん?」
「夏樹はさ、俺にかっこいいって言ってくれるけど、夏樹のほうが何倍もかっこいいよ」
「へ……そんなことは」
「あるよ。まっすぐなところ。……夏樹のこと、最初から可愛いと思ってて、今思えば好きにならないように必死にセーブしてたんだけど……あのクラブで会って叱られた時、ああもう無理だなって思った。好きにならないのは無理だ、って。かっこいいよ、夏樹は」
「いや、え……なんかすごい、恥ずかしい……」
無理はしないで欲しいと言う柊吾に、夏樹は最後までして欲しいとねだった。柊吾は優しいばかりで、涙が出るほど幸せな時間だった。
目が覚めると、カーテンの向こうは既に明るくなり始めていた。冬の朝なのにあたたかいのは、柊吾と共に眠ったからだ。仰向けの体には柊吾が抱きついていて、夏樹の肩口にすり寄るようにして今もよく眠っている。
「うわー、幸せすぎる……」
昨夜、柊吾と気持ちが重なって恋人になった。体を重ねた後は共に風呂に入って。自室に戻るべきかと迷った夏樹を、柊吾が有無を言わさずこの部屋に引きこんだ。
甘えんぼですね、とつい言ったら、『俺も思った、びっくりだよな。引いた?』と心配そうに問われてしまった。 そんなはずがない、いつも優しくしてくれる人を自分も甘やかせると思うと、こんなに嬉しいことはない。素直にそう伝えると、俺は宇宙一幸せ者だなと笑ってくれた。
「オレも宇宙一幸せっすよ」
眠っている柊吾の髪をそっと梳くと、指の間を金色が流れる。夏樹にとっての流れ星で、北極星。ずっといつまでもまばゆいのだろうと感じながら、そっと腕の中を抜け出す。
こんな風に迎えた朝、柊吾のためにコーヒーを淹れられるようになりたい。でも今はそれは叶わないから、ティーパックの紅茶でも作ってみようか。柊吾が起きたらコーヒーのことを話してみよう。
そうと決まればとベッドを下り、扉へ向かいかけたところで夏樹はふと足を止める。初めてこの部屋に入った時も見た、壁にたくさん貼られたデザイン画が目に入ったからだ。あの時は、デザイナーの人から預かっているのだろうかとか、そんな風に思ったのを覚えている。
だがnaturallyのデザイナーは柊吾自身だった。指輪にピアス、バングル……数々のアクセサリーたちが柊吾から生まれたのだと思うと、より一層宝物のように思える。
「夏樹」
「わっ」
どれくらい見入っていただろうか。背後から柊吾に抱きしめられてつい驚いてしまった。足音に全く気がつかなかった。
「隣にいないから夢だったかと思って焦った」
「夢じゃないですよ。夢みたいに幸せですけど」
「ん、俺も。デザイン画見てたのか?」
「あ、はい。勝手にすみません。すげーかっこいいっすね、これ全部柊吾さんが描いたんすよね」
「うん」
「すげー……あの、柊吾さん」
「ん?」
デザイン画たちには全て、コンセプトだとか表現したいものが文字でも書きこまれている。それらを見ていると、ひとつの欲求が夏樹の中に芽生えていた。
「昨日もらったこの指輪も、こういうデザイン画ってあるんすか?」
「うん、ある」
「っ、見たい」
「分かった。待ってて」
すぐに頷いてくれた柊吾は、夏樹を抱えてチェアに腰を下ろす。昨日のリュックを開け、ふにゃくまをデスクに丁寧に置き、それから出てきたのは小ぶりなスケッチブックだ。
開かれたページには、夏樹の手に光る指輪とそっくりのデザインが描かれている。左上にはタイトルのように“Natsuki”と記され、指輪のねじれた部分は“N”を表現していることが記されている。
「ここんとこ、オレのイニシャルだったんだ……」
「うん」
「泣きそう」
「はは、泣いたら拭いたげるし、どうぞ」
「うう……これ、いつデザインしたんすか」
「工房に行く電車の中だな。何回も描き直した」
柊吾の言う通り、スケッチブックはところどころ黒くなっていて、何度も消しゴムをかけては描いたのだとよく分かった。イラストの部分を食い入るように見つめ、次に右下のメモの部分に目を向ける。
“lodestar”と書いて、丸で囲ってある。
「ロードスター?」
「ああ、ロードスターは北極星のことだ」
「っ、北極星?」
「北極星ってさ、いつも同じ場所にあるから、旅人の目印になったりするだろ。俺にとっての夏樹はそういう、道しるべみたいなものだから。デザイン画には書きこめてないけど……ほら、ここに星マーク彫ってある」
夏樹の指で光るそれを引き抜き、柊吾は内側に秘められた北極星を教えてくれた。Nを表すねじれデザインの裏側に、星印が刻まれている。
「すげー……しゅ、柊吾さん! あの、オレも!」
「ん?」
「オレ、柊吾さんが載ってる雑誌見た時、流れ星が落っこちてきたみたいだって思って、そんくらい衝撃的で。実際逢ったら中身までかっこよくて、優しくて……柊吾さんと並んでも恥ずかしくないくらい、オレもかっこいい男になりたいって思うようになって。そしたら晴人さんが、夏樹にとって柊吾は北極星だねって」
「……マジか」
晴人にそう例えてもらったことを夏樹は大切に想っていた。夏樹にとって柊吾は、流れ星であり北極星。柊吾の存在がより強く輝きをもった気がしたのだ。
それと同じことを柊吾も自分に感じているなんて、奇跡じゃなかったら何だというのだろう。
「でもなんでオレが柊吾さんの道しるべ? オレ何もしとらん……」
「そんなことない、俺は夏樹に色んなことを教えられてる。叱られたのもそうだし、恋愛はふたりでするものって言ってたのもかなり効いた。誰かを好きになったこともないのに、ひとりで勝手に夢見て、勝手に幻滅して……そういう情けないところがあったから。夏樹は俺のロードスターだ」
「うう、柊吾さん……」
「でも流れ星もいいな。俺にとっても、夏樹を初めて見た時そういう感覚あったかも」
「ええ、マジっすか? 全然そんな感じせんかったですけど。むしろオレがぐいぐい行っちゃって、困ってたっつうか……」
「ああ、オレが初めて夏樹を見たの、ここで会った時じゃないし」
「え……え!? どういう意味っすか!?」
柊吾の腕の中で振り返り、両肩を掴んで前のめりになると、柊吾は薄らと頬を染め夏樹を膝から下ろしてしまった。ざっくりと編まれたカーディガンを夏樹に羽織らせ、部屋から出てしまう。
「コーヒーでも飲むか。夏樹は? 紅茶にする?」
「オレも柊吾さんと同じやつ飲んでみたい……って柊吾さん! さっきの教えてよぉ!」
冷たい廊下につま先を躍らせながら、キッチンへ向かう恋人を追いかける。コーヒーの淹れ方を教わるのは、今日はおあずけだ。
「恥ずかしいから言いたくないかも」
「いやいや無理無理! 教えてくれるまでオレ一生しつこくしますよ!?」
「マジか……んー。え、本当に聞きたい?」
「本当に聞きたい!」
「……夏樹が事務所に送った写真、あるじゃん」
「はい」
「naturallyのことで事務所行った時にたまたま見てさ」
「え!?」
「あ、naturallyのことでってのは、早川社長の出資でブランド立ち上げられたからさ。たまに経営のことで相談に行ったりしてて。そんで、なんつうか……夏樹の写真にすげー惹かれて。この子いいな、って言ったら、じゃあ入れるって社長が即決してた」
「ええ~……オレ、腰抜けそう」
柊吾は紛うことなく夏樹にとって道しるべだ。柊吾がいたから今の自分がある。
だがまさか、事務所への所属も柊吾が一役買っていた――憧れの男に見出されていた、なんて。そんな運命みたいなことが起きていたとは、考えてもみなかった。
あまりのことに夏樹は目を丸くし、本当に体から力が抜け始めた。だが柊吾が片手で抱き止め、夏樹を見下ろしながらこう言う。
「な? 夏樹も流れ星みたいだろ」
「……っ!」
その笑顔は星が舞ったように眩しくて、夏樹はいよいよ目眩を覚える。キラキラ、パチパチ、例えるならばそんな音で今も夏樹に降ってくるのだ、柊吾の光が。
流れ星は一瞬だけれど、何度だって夏樹に落ちてくる。そのひとつひとつが夏樹の胸の真ん中で、ロードスターとして輝く。
自分のことも同じ星に例えてくれる柊吾に、果たして同じだけのものを見せられるのか。自信はないけれど、確信できることはある。そうあれるようにいつまでもどこまでも、走り続けられる。そう思える力を柊吾が与えてくれるから。
「柊吾さん!」
「んー?」
「大好き!」
「っ、ん……俺も」