「おはようございます」
 十月の後半、俺は自転車を停めて、玄関前で車椅子に乗って待機していた田仲さんと奥さんに挨拶をした。
 今日は、コーヒーを飲みに行くという外出訓練を行うことになっていた。奥さんから、できればこのあたりの日がいいというお願いをこっそりと受けて、理由は分からないながらもちょうどいい時期だったので、今日の外出訓練に向けて計画を立て、家でのリハビリも行ってきた。
 先週念のためにコーヒーショップの下見にもいったが、今の田仲さんなら倒れないように見守るだけで独りで中まで入ることができそうである。
 いつもより、少しだけおしゃれをした田仲さんの車椅子を奥さんが押す隣を一緒に歩く。
 この移動時間は訓練の中には含まれていない。
 今日はあくまでも「コーヒーショップに入るときの歩行訓練」が目的だからだ。
 あとの時間はサービスになるが、これも患者さんのために必要ということで、センター長からは許可も下りている。
「いい天気ですね」
「本当に。涼しいから歩いていても気持ちがいいですし。昨日も車椅子でこの人と散歩したんですけど、公園のほうだとそろそろ紅葉も始まってましたよ」
「もうそんな時期なんですね」
「本当にあっという間ね」
 そんな会話を交わしながらのんびりと歩く。田仲さんも穏やかな顔で車椅子に座っていて気持ちが良さそうだ。
 十分ほどでスーパーの前につき、田仲さんがゆっくりと立ち上がったところで、奥さんに車椅子を先に店内に運び込んでもらう。下見のときに、車椅子をレジで預かってもらえるようにすでに交渉済みだ。
「じゃあ行きましょうか」
 そう声をかけて、クラッチを持って歩き出す田仲さんがバランスを崩したときにすぐ支えられるよう、右後ろをついていく。
 段差のところでは少しだけ右手を支えるがほとんど体重がかかってこず、ちゃんと田仲さん自身でバランスを取っているのが分かる。
 二段の段差を上り終えたところで、ほっとため息をついた田仲さんに「ばっちりです。脚の支えがだいぶ強くなりましたね」と声をかけると、安心したようにようやく笑顔を見せてくれた。
 
 田仲さんが奥さんと向かい合ってソファー席に座ったところで「じゃあ、帰るときにまたお声がけくださいね。僕、あっちでコーヒー飲んでいますので」と言って、一足先にレジに行って注文をし、ホットコーヒーを受け取ってカウンター席へと向かう。せっかくの久々のデートを邪魔をしたくはない。
 奥さんがメニューを見ながら、田仲さんに何かを聞いて、田仲さんがそれに対して頷くのを横目でさりげなく見る。
 奥さんも頷き返し、注文するために立ち上がった。
 その後姿を見送った田仲さんが、少し落ち着かない様子で周囲を見回す。
 久々に外出すると、視覚や聴覚からの刺激が強すぎて具合が悪くなることがある。
 田仲さんもそうなる可能性は十分にあるので、様子を観察しつつ手元のコーヒーをゆっくりと飲んでいると、三分もしないうちに奥さんが帰ってきて、田仲さんにカップを渡した。それを一口飲んだ田仲さんの顔が、とても嬉しそうでこちらまでつられて笑顔になる。
――この調子なら大丈夫そうだな。
 そう思った俺は田仲さん夫婦から目を離し、窓の外へと目を向けた。

「先生、ありがとうございました。またお願いできますか」
 三十分ほど経った頃、そう奥さんが呼びにきて俺はカウンター席を離れて田仲さんのところへと向かう。
「田仲さんもホットコーヒー飲みました? あ、カップが大きいからカフェオレかな」
 そう話しかけつつ、少し座面の位置が低いソファーからの立ち上がりを手伝おうと田仲さんのそばによると、そんな俺を見上げて田仲さんが左手で突然横の方を指さした。
 その指の示す方向を見ると、そこには店内へと続く扉があった。
「……お店のほうに行きたいんですか?」
 俺の問いに田仲さんが大きく頷く。
 もともと多めに時間を取っているので大丈夫だろうと俺も頷き返す。
「いいですよ。行きましょうか」
「何買いたいの?」
 奥さんが不思議そうに訊ねて一緒に立ち上がろうとすると、田仲さんはそちらに左手を向けて、手のひらを下にして座れ、というようなジェスチャーをする。
「あら、私はここで待ってたほうがいいの?」
 その奥さんの言葉に、また頷く田仲さんを見て、あぁ、もしかしたらトイレかな、と思う。ここのコーヒーショップの中にはトイレがないから、スーパーの方へ行くしかない。
「じゃあ、奥さんにはちょっと待っていていただいて。行ってきますね」
 そう声をかけて立ち上がりを手伝い、また右斜め後ろに立って田仲さんが歩くのを見守る。
 スーパーへの出入り口には段差がないので、ドアを開けるのだけ手伝い、また右斜め後ろを歩いていると、田仲さんはトイレの標識が出ているのとは違う方向へと足を進めた。
――あれ、トイレじゃないのか。
 もしくは、トイレの位置を失認している可能性もあるかなと考えながらとりあえずあとをついていくと、田仲さんがスーパーの正面口の近くで立ち止まった。
 そこは、花の売り場だった。
 決して大きくはないコーナーだったが、十種類以上の花と、小さな花束などが置かれていて、田仲さんは少しキョロキョロとした後、黄色のぱっと明るい色の花がメインで使われている花束と俺を交互に見てくる。
「これを買いたいってことですか?」
 俺の問いに照れくさそうに笑う田仲さんに「了解です」と笑い返して、その花束を代わりに手に取ると、田仲さんが深々と頭を下げてくれる。
 その後、レジ台に寄りかかりながら左のポケットからむき身の千円札を取り出して支払いをした田仲さんは、おつりをそのままポケットに突っ込むと、袋に入れてもらって見えなくなった花束を左手首に引っ掛けて、またコーヒーショップに向けて二十メートルほどの距離をゆっくりとクラッチに頼って歩き出した。
 その後姿を眺めながら、かっこいいな、と思う。
 さっきの花束は、間違いなく奥さんへのプレゼントだろう。明るく元気な奥さんによく似合う花だった。
 以前、奥さんは自分のエゴで一緒にいるんだと言っていたけど、きっと田仲さんはそのことも分かって、そのうえで今の状況を諦めているのではなく納得して前向きに受け入れているのだろうと今なら確信できる。
 そうでなければ、花を贈ろうなんてきっと思えないだろう。
 コーヒーショップのドアを開けると、中で奥さんがほっとしたように笑うのが見えた。
 そんな奥さんのもとに、ビニール袋を提げた田仲さんがゆっくりと近づく。
「あら、買いたいものがあったの?そうね、たまには自分で選びたいわよね。先生が一緒だったら歩くのも安心だし良かった……」
 そうニコニコしながら言っていた奥さんが、向かいのソファーに腰かけてビニール袋の中からごそごそと花束を出した田仲さんを見て言葉に詰まる。
「ん」
 それだけ言って、奥さんに左手で花束を田仲さんが渡す。
「もう、こんなとこで恥ずかしいじゃない」
 冗談っぽく言いながら花束を手に取った奥さんの目は確かに潤んでいて、田仲さんがそんな奥さんににやりと笑いかける。
 感動的と思われる光景ではあったが、それ以上夫婦は特に会話を交わすこともなく余韻にひたることもなく、奥さんはすぐに明るく「じゃあ、先生またお願いできますか」と言って、花束を再びビニール袋の中に仕舞って預けていた車椅子をレジの横に取りにいき、俺は田仲さんを立ち上がらせた。
 喜んでもらえて良かったですね、と声をかけようかと思ったが、なんとなく無粋な気がしてやめることにした。
 さっきの花束には、愛情だとか感謝だとかねぎらいだとか、そして許しだとか、きっと二人にしか分からないような気持がたくさんこもっているのだろうから。

 その後、また家に向かって車椅子に座る田仲さんと奥さんと並んで歩いていると「実は明日はね」と奥さんが話しかけてきた。
「私たちの結婚記念日なの」
「あ! そうなんですか。おめでとうございます」
 だからこの辺の日付でコーヒーを飲みに行きたいと言っていたのか、と合点する。
「ありがとうございます。だから明日こそは『愛してるぞ』のイラストを使ってもらおうと思ってたんですけどね。今年は花束もらっちゃったから、それは来年の楽しみにとっておくことにしました」
 奥さんの言葉を聞いて、ふっふっふっと、田仲さんが肩を揺らして笑う。
 来年の楽しみ、ということは、奥さんはあと一年一緒にいると宣言したようなもので、宣言を聞いて笑った田仲さんはそれを受け入れたということなのだろう。そして、こんなやりとりを繰り返しながら、出来得る限り、この夫婦は一緒に過ごしていくのだろう。
 笑う田仲さんの肩を、こちらも笑いながら軽く叩く奥さんを見ながら俺も穏やかな気持ちで歩き続ける。
 前は、こんなふうに言葉にしなくても通じ合うような仲になりたいと思ったし、田仲さんたちと比較したときに自分の愛情の身勝手さに落ち込んだりもした。
 でも、田仲さんご夫婦は素敵だけど、自分たちも同じようになる必要はない、と今は思える。世の中には素敵な夫婦やカップルの形は数多くあるわけで、俺と剛士だって、俺たちなりのやり方で関係性を作っていけばいいのだろうから。
 今朝、俺がベッドを出ようとしたら寝ぼけながら「あと五分」と抱き着いてきた剛士をふと思い出し、にやけそうになるのをこらえる。
 剛士が倒れてから、俺と囲碁はずっと剛士の部屋に寝泊まりをしている。あの日見た、部屋で倒れている剛士が少しトラウマのようになっていて、隣の家で寝ようとしても落ち着かないためだ。
 剛士にそのことを正直に話して一緒に寝てもいいか聞いたところ『もちろんいいよ』と即答してくれて、さらに『嬉しい』とまで笑顔で言ってくれた。
 以前の気まぐれでたまにデレる剛士も可愛かったが、素直に愛情を表現してくるダーリンもたまらなく可愛い。
 だから、言葉にしなくても通じる関係性よりも、言葉にしてよりいっそう愛情を深めていくそんな関係を俺たちは築いていければいいと思う。
「それじゃあ、おつかれさまでした。また来週うかがいますね」
「ありがとうございました」
 家の前で奥さんが頭を下げる隣で、田仲さんも笑顔で頭を下げる。
「田仲さん、訓練ついでにコーヒーを飲みに行くの、またやりましょうね。花を買いに行くのもいつでもお付き合いさせてもらいますし」
 そう声をかけると、田仲さんはにやりとして左手の親指を立ててくれた。