六時過ぎに玄関のチャイムが鳴り、こちらが答える前に鍵が開いて柊人が部屋の中をのぞきこんできた。
「おかえり」
 ソファーに座ったまま玄関から見えるように身を乗り出して笑顔を向けると、柊人の顔がみるみるうちに歪み、泣きそうな表情になる。
「なんだよ」
 そう苦笑する俺のところに靴を脱ぎすてた柊人が走り寄ってきて、そして目の前まで来たところでどうしていいのか分からないように立ち止まった後、俺の正面にゆっくり両膝をついて「ハグしていいかな」と、聞いてきた。
「うん」
 俺の答えを聞いた柊人がバッグを床に置き、壊れ物を扱うかのようにそっと背中に両腕を回してくる。
「……良かった。無事で」
「うん。ごめんな心配かけた」
「違う。お前が謝るようなことじゃない。俺、お前の様子がいつもとなんか違うって気づいてたのに、なのに」
 そう言ったきり言葉に詰まり、うつむいてしまった柊人の涙が俺の膝に落ちる。
 初めて見る涙に戸惑いつつも柊人の髪の毛をそっと撫でると、俺の背中に添えられた指先に少しだけ力が入る。
「剛士」
 震える声で名前を呼ばれ「なに?」と返す。
「俺と一緒に住んでくれないか」
「え」
 唐突な言葉に驚いて、思わず髪の毛を撫でていた手を止める。
「もっと広い部屋に一緒に引っ越して、俺と囲碁と暮らしてほしい」
「……」
 このタイミングでなければ、すぐにでも頷いていたところだった。それは俺が求めていた、ある意味一つのゴールでもあったから。
 でもこんな状況で同居と言われても、それは少し違う気がするわけで。
「……あのさ、柊人。俺が今回倒れたのは、俺の自己管理不足だから。別にお前が責任を感じる必要はないし、無理しなくても……」
「違う」
 柊人が顔をあげないまま首を横に振る。
「俺のエゴなんだ。俺がお前と住みたい。もう俺の目の届かないところで、あんなふうにお前が倒れているなんて、俺が耐えられない。もちろん、お前が結婚するまででいい。それまで、とにかく誰かと一緒に住むようになるまででいいから、俺と住んで欲しい。頼むから」
 柊人の言っていることがよく分からず、少し考える。俺が結婚するまでって、どういうことなんだろう。俺に他の人と結婚してほしいって思ってるとか、やっぱりそういうことなんだろうか。
 ちょっと落ち込みそうになるが、ダメだ、と思い直す。
 分からないときには、柊人に聞くべきなのだ。どういうことなのかって。俺たちにはきっと何か行き違いがあるはずで、だからこそお母さんもあれだけちゃんと話し合うように言っていたのだろうから。
 だとすれば、まずは自分が素直にどう思っているのかはっきりと伝えるのが先だろう。
 そう思った俺は、まだうつむいたままの柊人の髪の毛をまた撫でる。
「なあ柊人。俺、お前が無理してるんじゃないって言ってくれるなら、一緒に住みたいって思ってるよ」
 柊人がゆっくりと顔をあげ、涙で濡れた目で俺を見上げてくる。
「お前がどういう気持ちなのかは分からないけど、でも俺はお前のことが好きだから、一緒に住みたいって思ってる」
 俺の言葉を聞いて、目を見張る柊人を見て、思わず微笑んでしまう。
 あぁ、こういう気持ちが愛しいってことなんだな、と思いながら、俺はその頬に手を当てて繰り返す。
「好きだよ、柊人。俺、一度もちゃんと言ったことなかったけど、高校生のときからずっと、お前のことが好き」
「……それが、恋愛感情だって、どうやって分かる?」
 柊人が俺をじっと見つめたまま小さな声で聞いてくる。
「それは、親友に対するものじゃない? 家族に対するものとも違う?」
 俺の前では落ち着いていて頼りがいのある姿をいつも見せていた柊人の、不安気な姿に胸が締め付けられる。
 そんなふうにずっと思わせていたのか。
 でも、それも当然なのかもしれない。確かに俺の態度は、好きな相手にするようなものじゃなかったから。
「俺はさ、お前に一緒にいてほしくて、料理したり面倒みたりしてたから。だからきっとお前も俺といると楽だし居心地もいいんだと思う。でも、それは俺じゃなくてもいいんじゃないかな。俺じゃなくても、お前を大事にしてくれる人なら、その人でも」
「……それは正直分かんない。もしかしたらそうなのかもしれないけど、でも、実際にずっと隣にいて俺を大事にしてくれてたのはお前だから。他の人っていうのは今さら考えられないし」
 そう答え、俺は以前考えていたことをまだ不安そうな顔をしている柊人に向けてゆっくりと話す。
「それに例えばさ。月を見てたら、横にお前がいたらいいのになって、そう思う。そんなこと、他の人に対して思ったことないよ。お前だけ」
 頬に当てていた手を動かして、柊人の前髪をそっと指先でとかす。
「それにさ。こうやって意味もなく触りたいって思うのもお前だけ。それじゃ、好きなことの証明にならないかな」
「……じゃあ、真田さんは?」
 突然出てきた名前に「なにが?」と聞き返すと「真田さんのことはどう思ってる?」と柊人が真剣な顔でまた聞いてくる。
「真田さん? いい子だとは思ってるけど……」
 そう言いかけたところで、はっとする。
「なあ、もしかして、俺と真田さんのこと疑ってたの?」
「……うん」
「そういうことか……」
 柊人が帰ってきた日、突然態度が変わったのは俺が真田さんの話をしたからか、とようやく合点する。
 小さくため息をついて、俺は柊人に言う。
「あのね、真田さんはそういうのでは全然なくてさ。むしろ、俺と柊人のことを応援してくれてたっていうか」
「応援?」
「今だから言うけど、俺、春頃、お前のことコンビニで待ち伏せてて。で、お前がバスから降りてくると慌ててコンビニから出ていくのを見てて、真田さんは俺がお前に片想いしてるって思ってたんだって」
「あー……、やっぱりあれ、待ち伏せだったんだ。でもなんでわざわざ」
「えーっとね」
 本当に話さなければいけないことが山ほどある。
 なぜ待ち伏せしていたのかを話すには、まずは復縁の方法について勉強したことを話さなくてはいけないし、そのためには俺が柊人に捨てられると思ったことから話さないといけないし。
 でも、長くなったとしても誤解をとくためにもちゃんと最初から話そうと思った俺は「柊人、とりあえずソファー座ってよ」と声をかける。
「たぶん、すごい長くなるし。膝痛くなるよ」
「ん」
 目の前で素直に頷いた柊人が俺から腕を離し、手で自分の目を拭いながら立ち上がり隣に腰かけてくる。
 ソファーに横並びで座るなんていつ以来だろう。
 前みたいに寄りかかったりしてもいいだろうか、と思っていると柊人が肩に腕を回してきた。
 引き寄せられるままに大人しく肩口のところに頭を寄りかからせて、ほっと息を吐く。ようやく自分の本当の居場所に帰ってこられたような、そんな気持ちになりながら俺は口を開いた。
「まずはさ。囲碁が来てすぐのときに……」
 そう言いかけて「あ」となる。
「どうした」
「囲碁が待ってるんじゃないの」
「まあ大丈夫だろうけど、でもそうだな。夕飯も作んなきゃいけないし、長くなるなら俺の部屋に行って続きは話そうか」
「うん」
「でもその前に」
 そう言って黙った柊人のほうを見ると、思いのほか顔が近くにあってドキリとする。
 そんな俺とまだ赤さの残る目を合わせたまま、柊人が小さい声で訊ねてきた。
「キスしていい?」
「……柊人が俺のこと好きで、俺のこと捨てないって言うなら」
 俺も小さい声でそう答えると、ふっと柊人の顔がほころんだ。
「大好きだし、俺から捨てることなんて一生ないよ」
 迷わず答えてくれた柊人の唇が、数秒だけ優しく触れてくる。
 すぐに離れたその感触が物足りなくて、俺は嬉しそうにニコニコしている柊人の首に腕を回して引き寄せ、自分からキスをする。
 びっくりしたように固まった柊人も、すぐに肩を抱いていた腕に力をこめて応えてくれたが、「ちょちょちょちょちょっと待って」と舌を挿しこもうとした俺から口を離して慌てたように言う。
「なに」
「あのさ。剛士からキスしてくれるとかすげー嬉しいし、俺感動してるんだけど」
「うん」
「あの、俺、もうずっと我慢してきてるんで、その、これ以上となると、ちょっといろいろ困ったことになるかなって」
「別にいいけど」
「退院してきたばっかで何言ってんだよ」
 困ったように言いながらも幸せそうに口元を緩ませた柊人が、俺をもう一度引き寄せて抱きしめる。
「全然待てるからさ、またゆっくりしよ」
「俺が待てないって言ったら」
「……なんなの、剛士。お前そういう煽るようなことを言うキャラじゃなかっただろ」
「素直に言うことが大事だなって思うようになったからさ」
「そっか」
 耳もとで柊人が笑う。
「嬉しいけど、でも今日はダメ。お前の体力が戻ったらな」
「……分かった」
「じゃあ、俺ん家行こう。囲碁もさ。お前としばらく会ってないからかな。なんか元気なさそうにしてて」
「ほんと?」
「ほんと」
 抱きしめていた俺を離した柊人が立ち上がり、床からバッグを拾い上げる。
「抱っこしていってやろうか?」
「いやいや、さすがに歩けるし」
 俺も笑って立ち上がり、差し出しされた柊人の手を握って一緒に玄関に向かった。



 その日、俺と柊人は今までにないほどいろいろなことを話した。
 柊人が、俺に対する態度に悩んでいるということも初めて知った。
 面白いことに、俺が頼りすぎてるかもと思っていたのに対し、柊人は干渉しすぎているのではないかと思っていた。
 お互い、相手にされていることに対してまったく嫌だとは思っていなかったのも分かったが、でも俺は柊人の役に立ちたいと思うし、柊人は俺をもっと尊重したいと思っているということで、悩む必要はないけどお互いにとってちょうどいいバランスを探していこうということになった。
 そして、話をしている中で、二人とも一番がくっとなったのが引っ越しの話についてだった。
「剛士がさ、ここに引っ越してくるときに収入が安定するか、すごく忙しくなったら一緒に住んでもいいって言っただろ」
 そう言われて、俺はようやくそんなことを口にしていたことを思いだした。
「ごめん……正直言って、忘れてた」
「マジか」
「あのときはさ、どっちかって言うと、フリーランスでも一人暮らしでやっていけるところを父親にも見せてやりたいみたいな気持ちが強かったから。お前との関係の問題っていうより、親との関係の問題っていう認識だったから柊人がそこまでその言葉にこだわってるとは思ってなかった」
「なるほど……」
「俺はただ単に捨てられるって思っちゃってさ。囲碁が来たくらいから柊人が全然俺に構わなくなってたし、もう飽きられたのかなって」
「あ――――、ごめん。俺もその前から剛士があんまりベランダとかに出てこなくなって、ちょっと気持ちが離れてるのかなって思ってたから、押してダメなら引いてみるみたいな、阿藤仕込みの駆け引きをお前相手にしようとしてました……」
 あのいつでも真っすぐな柊人が、俺相手に駆け引きをしようとしていたということに驚かされる。いかに俺が、柊人の表面しか見ていなかったのかがよく分かるな、とため息をつくと同時に、あの時期確かに気持ちが少し離れていたことを言おうかどうしようか、ちょっとだけ考える。
 でも、なんでも話すようにしたほうがいいと言っても、言わなくてもいいこともあるはずだと、俺はそのまま黙ってお腹の前にまわされている大きな手を見た。
「でも、もう駆け引きなんてするのやめる。慣れないことして結局こじれただけだしな。ちゃんと本音で話し合ったほうがよっぽどいいよな」
「まあね。でも、それがなかったらこうしてお互いいろいろと考えることもなかったから、結果オーライだったのかもしれないよ」
 俺がそう言うと、人をダメにするソファーの上で俺を後ろから抱えるようにして座っていた柊人は、背中に額をぐりぐりと押し付けてきた。
「なんか剛士がしっかりしてきて寂しい。これ本音」
「そこは喜ぼうよ」
 笑って答えた俺の膝の上で寝ていた囲碁が、目を開けて「にゃー」と同意するように一声鳴いた。