「しかし、しかし君」
 床に寝転がったまま、俺は何度目になるか分からない言葉を呟く。
「恋は罪悪ですよ。わかっていますか?」
 夏目漱石の「こころ」の中の、有名な一節だ。
 その意味についてあまり考えたことはなく、口に出したときのリズムが気持ちよいなと思うくらいだった。
 しかし今は、妙な説得力と重みをこの言葉に感じる。
 恋は罪悪だということを、俺は分かっていなかった。
 こんなにも、自分のすべてを壊されてしまうような怖いものだなんて、知らなかった。
 開けっ放しのカーテンからは明るい太陽の光が注ぎ込んでいる。
 今が何時なのかも分からない。気が付くと夜になっていて。気が付くと朝になっていて。
 それでもさすがにトイレには行っている。そしてトイレから戻ってくるときに台所で一杯の水を飲んで、また冷たさが心地いい床に寝転ぶ。その繰り返しだ。
 全身が重石に圧し潰されているかのようで、俺はその痛みから逃れるようにまた目を閉じる。
 スマホが鳴っていた気もするけど、もう音はしなくなってしまった。充電が切れてしまったのだろう。
 仕事はどうなっただろう、とぼんやり考える。締め切りをやぶったことがないっていうのが、密やかな誇りでもあったけど、もうそんな誇りもなくなってしまった。
 でも、そんな誇りがあったところで、なんだと言うのか。
 もう、柊人は俺のそばにいないのに。そんな毎日になんの意味もない。
「しかし、しかし君」
 目から出る液体が鬱陶しいなと思いながら俺は呟く。
「恋は罪悪ですよ。わかっていますか?」
 


 ふっと目を開く。
 チャイムを連打する音と、ドアを叩く音が響いていた。
 近所迷惑な人がいるもんだ。
 そう考えながらまた目を閉じると「矢島! 矢島!」と声が聞こえてくる。
 あれ、俺を呼んでるのか。
 誰だろう。
 俺を矢島と呼ぶのは、学生時代の同級生と、あとはそう。
 林さんくらいだ。
 でも、この家に誰か来るわけがない。
 今までも誰も呼んだことはないんだから。
 俺は柊人以外の人なんていらないと思っていたから。
 柊人と生きていければいいと思ってたから。
 最近は。
 囲碁も一緒に生きていけたら楽しいだろうって思っていたけど。
 でももう柊人も囲碁もいなくなってしまった。
「矢島! 聞こえるか!」
 あぁ、でもやっぱり俺のことを呼んでるみたいだ。
 重い瞼を開くと、窓越しに青が濃くなった空が見えた。
 こういう空の色だということは、朝方か夕方か。
 そのどちらかだということだろう。
 そういえばトイレに行ってない。
 何も口に入れてないから出すものもないしな。
 でものどがなんだか張り付いたみたいになっている。
 水くらい飲んだ方がいいのかも。
 でもな。
 面倒だ。
「しかし、しかし……」
 そう呟こうとして、声が全然出ないことに気づく。
 やっぱり水を飲むべきなのかもしれない。
 こんなことすらもちゃんとできないような俺だから。
 きっと柊人にも見放されてしまった。
 うまくいくか分からない、なんて口にはしてたけど。
 柊人に本当に捨てられるなんて、そんなことはないだろうって。
 どこかで思ってた。
 俺が頑張れば、ちゃんとまた愛してもらえるって。
 バカだなぁ。
 ふふっと笑って、俺はまたゆっくり瞼を閉じる。
 ドアを叩く音とチャイムの音がやんで、外でなにか怒鳴り合うような声が聞こえてきた。
 喧嘩は良くない。
 柊人と俺も、喧嘩なんてしたことないのに。
 まあでも喧嘩するほど仲がいいって言うから。
 喧嘩をしなかった俺たちはつまり仲が良くなかったのかもしれない。
「剛士!!」
「矢島!!」
 がちゃっという音とともに急に大きな声がはっきりと聞こえて、俺はまた目をゆっくりと開ける。
「生きてるな!? よし」
 上から俺をのぞきこんできたのは林さんだった。
 なんでここにいるんだろうと思っていると、俺の右手がカタカタと震え始めた。
 ん?と思って目をゆっくり動かすと、そこでは真っ青な顔をした柊人が俺の手を握っていた。
 あぁ俺の手が震えているんじゃなくて、柊人が震えてるのか。
「はい、住所は――」
 林さんがうちの住所を言っているのが聞こえる。どこかに電話をしているみたいだ。
「剛士」
 口元をわななかせて俺の名を呼んだ柊人の目から涙がこぼれ落ちる。
「剛士、ごめん」
 俺はゆっくり首をふる。
 柊人が謝ることは何もないのに。
 謝るのは俺のほうで。
 何もできなくてごめんねって。
 あぁ、水を飲んでおけば良かった。
 そうしたら好きだって一言くらい言えたかな。
 伝えたい言葉を何も口に出せないまま、俺はまたゆっくりと瞼を閉じた。



 病院のベッドの上で、俺は点滴をされたまま小さくなっていた。
 ベッドサイドでは憤怒の形相をした母親が、腕組みをして立っている。
「あんたね。一晩中エアコンをかけっぱなしでタオルケットもかけないで床で寝てたら、そんなの風邪を引くに決まってるでしょ」
「うん」
「調子悪いって思ったときに、なんで薬飲んだり病院いったりしなかったの。だいたい、安田くんが隣に住んでるんだから、頼れば良かったでしょ」
「うん」
「そもそもね、一人暮らしするんなら、体温計と基本的な風邪薬くらい用意しておきなさいよ。なんもないじゃないあんたの部屋」
「うん」
「食べ物もどうしてるわけ? まさか安田くんに全部頼ってんの?あんたの冷蔵庫、チーズとトマトジュースしか入ってなかったけど?」
「うん」
「はーーーー! まったくもう!! あんたね、そんなふうに何もかも安田くんにおんぶにだっこじゃ愛想つかされるよ!!」
「うん」
 反論する言葉など何もなく、俺はひたすら大人しく頷き続ける。
 俺は、夏風邪をこじらせて高熱が出ていたらしい。
 たぶん帰省中にどこかでウィルスをもらってきていたところに、囲碁がいるからといつも夜は消しているエアコンをかけたまま朝方まで仕事をし、疲れきってその場で寝てしまったのが引き金になったものと思われた。
 せめてソファーで寝ればましだったののだろうが、ソファーでは囲碁が寝ていたのでなんとなく遠慮してフローリングの冷たい床で寝た結果がこれである。
 思い返してみれば、なんか頭が重いなとは思っていたし、関節が痛いとも思っていた。
 ただ、引きこもっているおかげでもう何年も風邪をひいたことがなかった俺は、いまいち自分の状態を把握できないまま固い床で寝たせいだろうと反省し、食欲がないのも柊人の手料理に慣れてしまって自分の舌が贅沢になっちゃったな、なんてのんきに思っていた。
 そんなところに、アパートを出ていくしもう囲碁のことも頼らないというようなことを柊人から突然宣言され、ショックでふらふらとリビングでまた床に寝転がったあたりから、俺の記憶は曖昧だ。
 今まで締め切りをやぶったことのない俺が、珍しく原稿を送ってこなかったことを不審に思った林さんが、俺に何度か連絡をしたものの電話に出る気配がなく、しかもそのうち留守電にしかつながらなくなったことで、編集部に伝えていた住所をもとにわざわざ様子を見に来てくれたのが幸いした。
 そして、部屋の中から何も応答がなく、警察に連絡をと思っていたところに柊人が帰ってきて、慌てて合い鍵でドアを開けてくれたというわけだ。
 極度の脱水症状に陥っていたらしく、あと一日発見が遅かったら間に合わなかっただろうし、もしエアコンをつけっぱなしにしていなかったら確実にアウトだっただろうと言われたときは、今さらながらに恐怖した。
 そんな命の恩人である林さんは朝のうちに帰っていったらしい。退院したら真っ先に連絡をしなければいけないだろう。
 一方、母親には柊人のほうから連絡をしてくれて、昨日の夜のうちにすっ飛んできたのだと言っていた。
 今日の午前中、俺が目を覚ましたときには『無事で良かった』と泣いていたのに、ずっと付き添ってくれていた柊人とともに俺の着替えなどを取りに家にいったら、部屋の中から察せられたあまりの生活力のなさに呆れてしまい、さらに俺に思い当る原因を聞いて返ってきたどうしようもない答えに、ついに怒りが湧いてしまったようである。
 それにしても。
 俺は、まだくどくどと言っている母親にうん、うん、と答えながら考える。
 目を覚ましたときにはまだぼんやりしていて思考回路が働いていなかったが、意識がはっきりしてきた今となっては、いろいろと疑問が湧いてきて仕方がない。
 まず、なんで柊人が俺の家にそんなにスムーズに連絡が取れたのかとか。
 柊人が付き添っていることに、母親がなんの疑問も抱かないのはなんでなんだろうとか。
 柊人と隣同士で住んでいることをどうして当然のように話しているのかとか。
 俺が意識を失っている間に柊人から説明があったんだろうか。だとしても、ずいぶんあっさりとこの状況を受け入れ過ぎている気もする。
「あのさ、お母さん」
 小言が一段落したところでおそるおそる口を挟む。
「なに」
「柊人は?」
「安田くん? 午後から仕事に行ったわよ。昨日一睡もしないであんたについててくれて疲れてるだろうに」
「そうなんだ」
「感謝しないとね。あと言っておくけど、あんた、あんないい人を捨てて他の人に走るとか、お母さんは納得しないからね」
「は?」
「ここまでこんな面倒見てもらってて、何の不満があるっていうのよ」
「いや、え、不満なんてないけど」
「じゃあなんで彼女なんて作ろうとしてるの」
「は?」
 もはやどこから突っ込めばいいのかも分からず、とりあえずもう俺と柊人が付き合っていると言うことはバレているようなので「捨てられそうになってるのは俺だけど」と言ってみる。
「えぇ!?」
 お母さんが目をむいて俺を見る。
「なんでよ。え、どうなってんのあんたたち」
「いや、ほんと俺も、お母さんの言ってる意味がまったく分からないんだけど」
「……あんたたち、ちゃんと話してる?」
「……」
 話しているか、と言われると話せていないのかもしれない。
 お互い片想いみたいだ、と真田さんが言っていたのを思い出す。
 俺と同じように、柊人も何か言えない気持ちを抱えていたなんてことがあるのだろうか。
「あの、でもお母さん」
「なに」
「あのさ。柊人とそれこそ話し合わないとどうなるか分からないけど、でも俺は、できればこれからも柊人と一緒にいたいと思ってて」
「知ってた」
「えーっと、あれだよ。友達としてではなくてだよ」
「だから知ってたって」
「そうなんだ……」
「お父さんも知ってる。まだ正志には言ってないけど」
「……いいの?」
 絶対に怒られたり拒絶されたりすると思っていたのに。
 そう思いながらお母さんの顔を見ると、やれやれ、といった顔をされた。
「むしろ、うちのこんな生活力のないバカ息子でいいんですかって安田くんに聞きたいくらいよ」
「そっか」
 ほっとして、俺は病室の真っ白な天井を見上げる。
 ここにも、俺たちの関係を受け入れてくれる人たちがいた。しかも一番伝えるのはハードルが高いと思っていた家族だ。
 これ以上強い味方はいないかもしれない、と思っているうちに眠気に襲われる。
「……ちょっと寝ていいかな」
 俺がそう言うと、お母さんの口調が柔らかくなった。
「そうね、寝なさい。早く体力回復させて家に帰らないといけないしね」
「うん」
 早く家に帰って柊人に会いたい。
 ありがとうって、ごめんねって言って。
 これからも一緒にいたいって言って。
 あぁ、でも何よりも最初に、好きだって言わないといけない気がする。
 気持ちを伝えられないまま離れるなんて、そんなことにならないように。
 他にも、言わなきゃいけない言葉が山のようにあるな、と思いながら俺は目を閉じた。