親子丼を二つお盆に載せて、合い鍵で剛士の部屋を開ける。
「入るぞー」
中に向かって声をかけるも返事はなく、もしかしたら執筆に集中してるところかも、と大人しく玄関に靴を脱ぎ捨てる。しかしもう日はだいぶ暮れているのにリビングには電気がついておらず、ちょっと不審に感じながら足を進める。
出かけているのだろうか。それこそコンビニとか。
そう思ったところで、座卓の横にこちらを向いている足の裏が見え、心臓がバクッとなる。
「つよ……」
慌てて駆け寄ると、仰向けに寝転がっていた剛士が目を閉じたまま「んー」と言いながらしかめっ面をしていた。
そしてそのお腹の上には、剛士の険しい顔の原因と思われる囲碁がでーんと乗って、俺を見上げていた。
どうやら倒れているわけではなく寝てしまっただけのようだと、安心してお盆を座卓の上にそっと置く。
剛士の頭の横には、小説や漫画が積み重なっていた。たぶん読みながら寝てしまったのだろう。
とりあえず見るからに重そうな囲碁をどけてやると、剛士の眉がゆるんでほっとしたような顔になる。
――寝顔をゆっくり見るのも久しぶりだな
親子丼を置いた座卓を少し押しやってスペースを作り、剛士の右隣に静かに寝転ぶ。
可愛いな。ほんと可愛い。
そっと顔をよせて、その頬に軽くキスしてみる。
身体を起こして、そっと唇にもキスしてみる。
何カ月ぶりだろう。キスするの。
ちょっと顔を離して、もう一度すやすやと眠る剛士の顔を見る。
「やばいな……」
もう一回キスしたら、いろいろ止められなくなりそうだと思い、我慢してまた隣に寝転ぶ。
一方的に寝込みを襲うようなことをして、剛士に引かれたくはない。ただでさえ、自分の剛士への接し方を昼間に反省させられたばかりだ。
せめて腕枕くらいなら許されるかな、とその頭をそっと抱えるようにして首の後ろに左腕を通すようにすると、剛士がおさまりのいいところを探すようにもぞもぞと動き、俺の方に向かって寝返りをうってすっぽりと胸の中におさまるような体勢になった。
二人で寝るときのお決まりの体勢を身体が覚えているのかと思うと、愛しくてたまらなくなる。
そのまま右腕で剛士を抱え込むようにして背中をそっと撫で、くせのない柔らかい髪の毛に顎をあてているうちに、自分も眠くなってきてしまった。昨日、剛士がいつ帰ってくるのか気になって寝るのが遅くなったしな、と霞がかかる頭の中で思う。
降ろされた後も剛士の背中のあたりに寄り添っている囲碁に「剛士にのるなよー」とだけ声をかけて、俺はそのまま目を閉じた。
*
「柊人、柊人」
自分を呼ぶ声が聞こえて意識が徐々に浮上するのを感じる。
「柊人。起きろって」
胸のあたりを軽く叩かれ今度こそ覚醒した俺は、自分が剛士をがっちり抱え込んでいることに気づく。
「あ、悪い。来たらお前が寝てたからつい一緒に寝ちゃった」
もう部屋の中は真っ暗だ。どのくらい寝ていたのだろう。
すぐにでも剛士を解放したほうがいいのだろうが、なんとなく久々の温もりを手離すのがもったいなくてそのままでいると、剛士が「俺、お腹すいた」と胸の中で言う。声に甘えるような響きが聞いてとれるのは気のせいだろうか。
少しだけ腕の力を緩めると、剛士が俺の腕に頭をのせたまま仰向けになり、軽くため息をつく。
「昼は胃の調子がまだいまいちで何も食べれなかったし。飲みすぎた」
「そんなに? 先輩と?」
「そう。あと、今度一緒に仕事する猫雑誌の人と三人で」
「いい人だった?」
「うんまあ。飲んだらテンション高かった」
「そっか」
知らない女性と剛士が一緒に飲んでいたという事実に胸の中がちりちりとするが、我慢する。仕事なんだし、これは間違いなく必要な付き合いだ。
剛士が両手をあげてぐっと伸びをした後、むくりと起き上がってリビングの電気をつけに行く。
もうちょっと俺の腕枕を名残惜しんで欲しかったなと思いつつ俺も起き上がり、そういや囲碁はどこに行ったのだろうと見まわすと、剛士の仕事用の椅子に座ってこちらを見下ろしていた。
「なんかこいつこの椅子気に入ったみたいでさ」
電気をつけて戻ってきた剛士が言う。
「最初、俺が座っててあったかいからかなって思ってたんだけど、どうもこの椅子が回転するのがいいみたいで」
剛士が近寄ると、囲碁が椅子の上でごろっと横たわり、お腹を見せるようなポーズになる。
その脇腹をがしがしと撫でながら、剛士は笑顔で続けた。
「前にこいつのトイレ片付けて戻ってきたら、ちょうど椅子に飛び乗るところで、その乗った勢いで椅子が回転したんだけど、そのままじっとぐるぐる動く周りの様子を興味津々って感じで見てるわけ。で、別のときに椅子がデスクに近くて、囲碁が飛び乗ってもぶつかって回転しなかったら、あれ?みたいな顔しててさ」
猫って意外と表情あるよな、と楽しそうに笑いながら話す剛士を見ていて、この前、コンビニの子から連絡が来たって言ったときもこんな笑顔をしていたなと思い出す。
ここ数年、俺と二人で過ごしているときに、剛士がこんな顔を見せることはあまりなかった。
もともと淡々とした性格だし、それほど感情が顔に出る方でもないけど、それでも昔はもっとよく笑っていたし、その日あったことなどをいろいろと楽しそうに話してくれていたはずだ。
大学時代、友達数人と行った神保町の古本屋で見つけたというお宝本を見せてくれたときのキラキラとした目や、ライトノベルについての解釈が食い違った友達を家に連れてきて、自分が持っている本を片手に俺にはよく分からない言葉を並べ立てて一生懸命主張しているときの紅潮した頬などをふと思い出す。
そう、確かに人見知りではあるけど、剛士は人嫌いなわけではなかったし、少なくはあったけど熱く語り合える友達もいた。
そんな剛士を、仕事が無くなったら養うからとフリーランスになることを後押しして、この街へ連れてきて。
俺と付き合っていることを知られたくないという剛士の意見を尊重するふりをして仕事以外の交流を遠ざけ、友達とも疎遠にさせて。
感情が動く出来事なんてめったに起こることもない、なんの代わり映えもしない生活をこの部屋の中で何年も何年も送らせて。
俺、何してるんだろう。宇崎さんと阿藤に心配されるのも当然だ。
「柊人、親子丼レンジであっためたほうがいいかな」
囲碁をひととおり撫でまわした剛士が笑顔のまま聞いてくる。
「あ、あぁ、そうだな」
時計を見ると、まだ剛士の部屋に来てから一時間しか経っていなかったが、器に触れてみるとさすがに親子丼は冷めきっていた。
テーブルの上の二つの丼を手に取って立ち上がり「そういえばさ」と俺は剛士に話しかける。
「今度、この前猫トイレとか猫餌とか買うのに車出してくれた阿藤と、あとOTの宇崎さんっていう人と三人で俺の部屋で食事会しようって話になってるんだけど、剛士も参加するか?」
「え、俺も行っていいの?邪魔じゃない?」
「邪魔じゃないよ」
「あー、じゃあせっかくだし参加しようかな。阿藤くんって子、リア充って感じでちょっと苦手なタイプかと思ったらいい子だったし。宇崎さんも若い人?」
「たぶん四十代かな。中学生の子どもがいる女の人」
「へー。でも柊人が職場の人とプライベートでも会うなんて珍しいね」
「まあ、阿藤にはこの間のお礼も兼ねてって感じで、あと、宇崎さんはその場にたまたまいたから誘った感じで……」
「そっか。まあでも、たまにはいいよね」
もっと悩むかと思っていた剛士が、あっさりと参加を決めたことに内心驚かされる。
知らない人と会うのが好きじゃない、なんて、やっぱり俺が決めつけていただけなのか。
親子丼を電子レンジの中に入れ、中でくるくると回りだすのをぼんやりと眺める。
本当に俺、何してたんだろう。
「いつ頃か決まってんの?その食事会」
「あ、いやまだ。決まったらまた教える」
「分かった」
冷蔵庫から浄水が作れるウォーターボトルを出し、水をコップに注ぐ剛士をちらりと見る。
「あのさ。この前コンビニの子に顔見せに行くって言ってただろ。もう行ったの?」
「あぁ……」
剛士が少し黙ってまた冷蔵庫に水をしまう。
「昨日時間があれば行こうと思ってたけど、遅くなったし。まだ行ってない」
「電話はあの後かかってきてないのか」
「かかってきてないよ」
温め終わったことを知らせる音がレンジから鳴り、俺は中から親子丼を取り出すと、もう一つの親子丼をまたレンジに入れる。
「柊人」
「ん?」
コップを両手に持った剛士が俺を見上げてくるのに視線を向ける。
「俺、真田さんと、あ、そのコンビニの子だけどさ、食事しに行ったりしてもいいかな」
「……食事に誘われてたのか?」
「そうじゃないんだけど。なんていうか……経験の一つとして。俺、女の人と仲良くなったことないだろ。だから、書評とかでも女性が絡むものっていまいち内容が浅くなりがちっていうか。昨日も林さんにそんなようなこと言われて、それで」
俺の反応をうかがうように黒目がちの瞳でじっと見てくる剛士を見つめ返す。
昨日までの俺なら、即ダメ出しをしているだろう。よく知らない相手と気安く食事に行くなと。
たぶん向こうは剛士に好意を持っているのだから、なおさらだ。
でも。
「いいよ」
俺は笑顔を作ってそう返事をする。
剛士の言っていることが本当かどうかは分からない。仕事のためと言っているが、剛士があの子に興味を持っているだけなのかもしれない。
でも、あの子と会って食事をして、それが剛士にとって少しでも楽しい時間になるなら、それだけで剛士を送り出す価値があるのだと思う。
「いいの?」
剛士が驚いたような顔をする。まさか俺がOKを出すなんて思わなかったのだろう。
「いいって。お前が今の仕事を続けていくためにも必要な経験ってことだろ」
「まあ……」
「ほら、じゃあ食べよう」
電子レンジから温められたもう一つの親子丼を取り出し、俺は座卓へと運ぶ。
それに、こうやって俺に言ってくるということは、剛士には何もやましい意図はないのだと信じたい。さっき、俺の腕枕に自然に身を委ねていた剛士の気持ちは、まだ自分にあるはずだ。
あとは、女の子と二人で会うことでその楽しさを知り、自分が本当は男が好きなわけではないのだと、そんなことにだけ気づかないでくれれば。身勝手な願いだけど。
「いただきます」
いつものように座卓の角を挟んで座り、同時に手を合わせる。
どこかほっとしたような様子の剛士が親子丼を口に運ぶのを見ながら「さっきの椅子の話みたいな囲碁の面白い話、他にもあんの?」と聞いてみる。今、無性に、剛士の笑顔が見たくてしょうがなかった。
「え?あぁ、囲碁の話?そうだな……柊人が知らなさそうなことで言えば……コーヒーをやたら敵視してることとか?」
「何それ。知らない」
「よく分かんないんだけどさ。コーヒーの匂いが嫌いなのかな。なら来なきゃいいのにって思うんだけど、俺がコーヒーを淹れてデスクに持っていくと絶対デスクに乗ってきて、それで匂いを嗅いで、おもむろに砂をかける真似すんの。でもある程度砂をかける真似したら、コーヒーの近くに座ってくつろいでるんだよな。冷めると匂いが薄くなるからなのかもしんないけど。意味分かんねーなって思いながらいつも見てる」
「俺、一人のときあんまりコーヒー飲まないからなぁ。今度飲んでみるか」
「おぉ、やってみて。それでどうだったか教えてよ。コーヒー豆によって態度が違ったりしたら面白いよな」
話しているうちに剛士の顔にまた屈託のない笑顔が浮かぶのを見て、俺も笑顔になる。
「あとは文章を考えてるときとか、俺よくデスクのところでうつむいて固まってるんだけど、そうすると俺が動かないのが心配なのか分かんないけど、眉間をなめてくる」
「眉間?」
「そう。最近前髪伸びてきて、仕事のとき結んでおでこ出してるから目立つのかな。囲碁になめられたことある?けっこうあいつのベロって痛いよな」
「あぁ、ときどき手とかなめられるけどざらざらしてるもんな。でもさすがに眉間はない」
「ちょっと今やってみなよ。囲碁の前に顔出したらたぶんなめてくれるから」
「そうかー?お前だけじゃないの?」
そう言いながらも、せっかくなので仕事用の椅子にまだ座っている囲碁の前に四つ這いで近づき、目の前に顔を出してみる。
すると囲碁は、閉じていた目を開いたものの、そのまましらっとした顔で目をそらす。
「なんだよ囲碁。俺の眉間はなめられないって言うのかよ」
俺がそう言ってさらに額を近づけると、囲碁は身体の下に巻き込んでいた前足を出すと俺の額にぽすっと肉球を当てて、そのまま伸ばした自分の腕の毛づくろいを始めた。
その様子を見てめずらしく剛士が声を出して大笑いする。
「前足置き場にされてるし」
「俺、仮にも飼い主なのにバカにされすぎじゃね?」
そう言った俺も、剛士の大笑いにつられて思わず笑いだしてしまう。囲碁はその笑い声に驚いたのか、手をまた引っ込めて俺をじろりと見る。
そして、笑ってなんとなく気が抜けた俺は「そういえば、髪はまた伸ばすの?」と剛士に聞いてみた。剛士が髪を切ってからそろそろ二か月くらい経つ。
「あ、いや……どうしようかなって思ってるけど」
「俺どっちも好きだけど、久しぶりに短いのもいいよな。可愛いし似合ってる」
あぁようやく言えた。そう思っていると、目の前でぱっと剛士の顔が明るくなった。
「そ? じゃあまた切りに行ってこようかな」
口調はいつも通り淡々としているが、その顔を見て俺も嬉しくなる。
なんだ、こんな素直に喜んでくれるならもっと早く伝えればよかったと思っていると、剛士は口に親子丼を運びながら続けた。
「柊人が言うなら間違いないもんな。自分じゃ似合ってるかどうかよく分かんなくて」
俺はその言葉に笑顔を作りながら、心の中にわいてきた違和感に口を開く。
「なんだよ。じゃあ俺が長いほうが似合うって言ったら、お前伸ばすの?」
「伸ばすけど?」
当然と言いたげな返事に、すっと胸のうちが冷えるような気がする。
今までの俺なら、剛士の愛情の証だと感じて、喜んでいただろう。
でも、今はそう素直に受け取りきれない自分がいる。
「……なあ、剛士。お前よくそのTシャツ着てるけどお気に入りなの」
「え? これ?」
俺の唐突な質問に、少しきょとんとした剛士が自分のシンプルなシャツを見下ろす。
「丈夫だし気に入ってるよ。お前がここのTシャツ質がいいからって買ってきたんだろ」
「でも昔は、プリントが入ってるのが好きだっただろ」
「俺にはシンプルなほうが似合うってアドバイスしてきたの柊人じゃなかったっけ?」
なんなんだよ、と言いたげな剛士に「そうだったな」と笑ってみせる。
だんだん分からなくなってくる。
こんなどちらかと言えば地味な性格なのに、派手なプリントのTシャツがもともと剛士は好きだった。
俺にはいまいちよく分からないそのセンスこそが、剛士の個性でもあったはずだし、その派手なTシャツに長髪という組み合わせが本人は気に入っているようでもあった。
でも、目の前の剛士はなんの主張もないグレーのTシャツを着て、そして俺の言うとおりに髪型を変えることになんの疑問も持たずに笑っている。
こうやって、少しずつ自分がいいと思うように剛士を変え続けて。
俺は、俺が好きになった昔の剛士を、いったいどこにやってしまったんだろう。
「そういえば、先週だっけな。お前が買ってきてくれたパーカーあるだろ。夕方になってちょっと涼しくなったからあれ着たらさ、囲碁がすげー紐を狙ってくんの」
剛士がまた笑顔で話し始めるのを、俺は見つめる。
好きなんだよ。
大事にしたいんだよ。
俺の隣で笑っててほしかっただけなんだよ。
なのに、なんでこんなことになってるんだろう。
ふと泣きそうになるのをぐっとこらえて「じゃあ、紐の玩具でも一緒に買いにいくか」と言うと、剛士が「あー、ペットショップも行ってみたい」と答える。
「じゃあ明日は? 仕事どう?」
「んー、今日仕事があんまり進まなかったから、明後日のほうが助かる」
「分かった。じゃあ明後日デートしよ」
俺の言葉に剛士はちょっと目を見開いた後、今日一番の笑顔で頷いてくれた。
「入るぞー」
中に向かって声をかけるも返事はなく、もしかしたら執筆に集中してるところかも、と大人しく玄関に靴を脱ぎ捨てる。しかしもう日はだいぶ暮れているのにリビングには電気がついておらず、ちょっと不審に感じながら足を進める。
出かけているのだろうか。それこそコンビニとか。
そう思ったところで、座卓の横にこちらを向いている足の裏が見え、心臓がバクッとなる。
「つよ……」
慌てて駆け寄ると、仰向けに寝転がっていた剛士が目を閉じたまま「んー」と言いながらしかめっ面をしていた。
そしてそのお腹の上には、剛士の険しい顔の原因と思われる囲碁がでーんと乗って、俺を見上げていた。
どうやら倒れているわけではなく寝てしまっただけのようだと、安心してお盆を座卓の上にそっと置く。
剛士の頭の横には、小説や漫画が積み重なっていた。たぶん読みながら寝てしまったのだろう。
とりあえず見るからに重そうな囲碁をどけてやると、剛士の眉がゆるんでほっとしたような顔になる。
――寝顔をゆっくり見るのも久しぶりだな
親子丼を置いた座卓を少し押しやってスペースを作り、剛士の右隣に静かに寝転ぶ。
可愛いな。ほんと可愛い。
そっと顔をよせて、その頬に軽くキスしてみる。
身体を起こして、そっと唇にもキスしてみる。
何カ月ぶりだろう。キスするの。
ちょっと顔を離して、もう一度すやすやと眠る剛士の顔を見る。
「やばいな……」
もう一回キスしたら、いろいろ止められなくなりそうだと思い、我慢してまた隣に寝転ぶ。
一方的に寝込みを襲うようなことをして、剛士に引かれたくはない。ただでさえ、自分の剛士への接し方を昼間に反省させられたばかりだ。
せめて腕枕くらいなら許されるかな、とその頭をそっと抱えるようにして首の後ろに左腕を通すようにすると、剛士がおさまりのいいところを探すようにもぞもぞと動き、俺の方に向かって寝返りをうってすっぽりと胸の中におさまるような体勢になった。
二人で寝るときのお決まりの体勢を身体が覚えているのかと思うと、愛しくてたまらなくなる。
そのまま右腕で剛士を抱え込むようにして背中をそっと撫で、くせのない柔らかい髪の毛に顎をあてているうちに、自分も眠くなってきてしまった。昨日、剛士がいつ帰ってくるのか気になって寝るのが遅くなったしな、と霞がかかる頭の中で思う。
降ろされた後も剛士の背中のあたりに寄り添っている囲碁に「剛士にのるなよー」とだけ声をかけて、俺はそのまま目を閉じた。
*
「柊人、柊人」
自分を呼ぶ声が聞こえて意識が徐々に浮上するのを感じる。
「柊人。起きろって」
胸のあたりを軽く叩かれ今度こそ覚醒した俺は、自分が剛士をがっちり抱え込んでいることに気づく。
「あ、悪い。来たらお前が寝てたからつい一緒に寝ちゃった」
もう部屋の中は真っ暗だ。どのくらい寝ていたのだろう。
すぐにでも剛士を解放したほうがいいのだろうが、なんとなく久々の温もりを手離すのがもったいなくてそのままでいると、剛士が「俺、お腹すいた」と胸の中で言う。声に甘えるような響きが聞いてとれるのは気のせいだろうか。
少しだけ腕の力を緩めると、剛士が俺の腕に頭をのせたまま仰向けになり、軽くため息をつく。
「昼は胃の調子がまだいまいちで何も食べれなかったし。飲みすぎた」
「そんなに? 先輩と?」
「そう。あと、今度一緒に仕事する猫雑誌の人と三人で」
「いい人だった?」
「うんまあ。飲んだらテンション高かった」
「そっか」
知らない女性と剛士が一緒に飲んでいたという事実に胸の中がちりちりとするが、我慢する。仕事なんだし、これは間違いなく必要な付き合いだ。
剛士が両手をあげてぐっと伸びをした後、むくりと起き上がってリビングの電気をつけに行く。
もうちょっと俺の腕枕を名残惜しんで欲しかったなと思いつつ俺も起き上がり、そういや囲碁はどこに行ったのだろうと見まわすと、剛士の仕事用の椅子に座ってこちらを見下ろしていた。
「なんかこいつこの椅子気に入ったみたいでさ」
電気をつけて戻ってきた剛士が言う。
「最初、俺が座っててあったかいからかなって思ってたんだけど、どうもこの椅子が回転するのがいいみたいで」
剛士が近寄ると、囲碁が椅子の上でごろっと横たわり、お腹を見せるようなポーズになる。
その脇腹をがしがしと撫でながら、剛士は笑顔で続けた。
「前にこいつのトイレ片付けて戻ってきたら、ちょうど椅子に飛び乗るところで、その乗った勢いで椅子が回転したんだけど、そのままじっとぐるぐる動く周りの様子を興味津々って感じで見てるわけ。で、別のときに椅子がデスクに近くて、囲碁が飛び乗ってもぶつかって回転しなかったら、あれ?みたいな顔しててさ」
猫って意外と表情あるよな、と楽しそうに笑いながら話す剛士を見ていて、この前、コンビニの子から連絡が来たって言ったときもこんな笑顔をしていたなと思い出す。
ここ数年、俺と二人で過ごしているときに、剛士がこんな顔を見せることはあまりなかった。
もともと淡々とした性格だし、それほど感情が顔に出る方でもないけど、それでも昔はもっとよく笑っていたし、その日あったことなどをいろいろと楽しそうに話してくれていたはずだ。
大学時代、友達数人と行った神保町の古本屋で見つけたというお宝本を見せてくれたときのキラキラとした目や、ライトノベルについての解釈が食い違った友達を家に連れてきて、自分が持っている本を片手に俺にはよく分からない言葉を並べ立てて一生懸命主張しているときの紅潮した頬などをふと思い出す。
そう、確かに人見知りではあるけど、剛士は人嫌いなわけではなかったし、少なくはあったけど熱く語り合える友達もいた。
そんな剛士を、仕事が無くなったら養うからとフリーランスになることを後押しして、この街へ連れてきて。
俺と付き合っていることを知られたくないという剛士の意見を尊重するふりをして仕事以外の交流を遠ざけ、友達とも疎遠にさせて。
感情が動く出来事なんてめったに起こることもない、なんの代わり映えもしない生活をこの部屋の中で何年も何年も送らせて。
俺、何してるんだろう。宇崎さんと阿藤に心配されるのも当然だ。
「柊人、親子丼レンジであっためたほうがいいかな」
囲碁をひととおり撫でまわした剛士が笑顔のまま聞いてくる。
「あ、あぁ、そうだな」
時計を見ると、まだ剛士の部屋に来てから一時間しか経っていなかったが、器に触れてみるとさすがに親子丼は冷めきっていた。
テーブルの上の二つの丼を手に取って立ち上がり「そういえばさ」と俺は剛士に話しかける。
「今度、この前猫トイレとか猫餌とか買うのに車出してくれた阿藤と、あとOTの宇崎さんっていう人と三人で俺の部屋で食事会しようって話になってるんだけど、剛士も参加するか?」
「え、俺も行っていいの?邪魔じゃない?」
「邪魔じゃないよ」
「あー、じゃあせっかくだし参加しようかな。阿藤くんって子、リア充って感じでちょっと苦手なタイプかと思ったらいい子だったし。宇崎さんも若い人?」
「たぶん四十代かな。中学生の子どもがいる女の人」
「へー。でも柊人が職場の人とプライベートでも会うなんて珍しいね」
「まあ、阿藤にはこの間のお礼も兼ねてって感じで、あと、宇崎さんはその場にたまたまいたから誘った感じで……」
「そっか。まあでも、たまにはいいよね」
もっと悩むかと思っていた剛士が、あっさりと参加を決めたことに内心驚かされる。
知らない人と会うのが好きじゃない、なんて、やっぱり俺が決めつけていただけなのか。
親子丼を電子レンジの中に入れ、中でくるくると回りだすのをぼんやりと眺める。
本当に俺、何してたんだろう。
「いつ頃か決まってんの?その食事会」
「あ、いやまだ。決まったらまた教える」
「分かった」
冷蔵庫から浄水が作れるウォーターボトルを出し、水をコップに注ぐ剛士をちらりと見る。
「あのさ。この前コンビニの子に顔見せに行くって言ってただろ。もう行ったの?」
「あぁ……」
剛士が少し黙ってまた冷蔵庫に水をしまう。
「昨日時間があれば行こうと思ってたけど、遅くなったし。まだ行ってない」
「電話はあの後かかってきてないのか」
「かかってきてないよ」
温め終わったことを知らせる音がレンジから鳴り、俺は中から親子丼を取り出すと、もう一つの親子丼をまたレンジに入れる。
「柊人」
「ん?」
コップを両手に持った剛士が俺を見上げてくるのに視線を向ける。
「俺、真田さんと、あ、そのコンビニの子だけどさ、食事しに行ったりしてもいいかな」
「……食事に誘われてたのか?」
「そうじゃないんだけど。なんていうか……経験の一つとして。俺、女の人と仲良くなったことないだろ。だから、書評とかでも女性が絡むものっていまいち内容が浅くなりがちっていうか。昨日も林さんにそんなようなこと言われて、それで」
俺の反応をうかがうように黒目がちの瞳でじっと見てくる剛士を見つめ返す。
昨日までの俺なら、即ダメ出しをしているだろう。よく知らない相手と気安く食事に行くなと。
たぶん向こうは剛士に好意を持っているのだから、なおさらだ。
でも。
「いいよ」
俺は笑顔を作ってそう返事をする。
剛士の言っていることが本当かどうかは分からない。仕事のためと言っているが、剛士があの子に興味を持っているだけなのかもしれない。
でも、あの子と会って食事をして、それが剛士にとって少しでも楽しい時間になるなら、それだけで剛士を送り出す価値があるのだと思う。
「いいの?」
剛士が驚いたような顔をする。まさか俺がOKを出すなんて思わなかったのだろう。
「いいって。お前が今の仕事を続けていくためにも必要な経験ってことだろ」
「まあ……」
「ほら、じゃあ食べよう」
電子レンジから温められたもう一つの親子丼を取り出し、俺は座卓へと運ぶ。
それに、こうやって俺に言ってくるということは、剛士には何もやましい意図はないのだと信じたい。さっき、俺の腕枕に自然に身を委ねていた剛士の気持ちは、まだ自分にあるはずだ。
あとは、女の子と二人で会うことでその楽しさを知り、自分が本当は男が好きなわけではないのだと、そんなことにだけ気づかないでくれれば。身勝手な願いだけど。
「いただきます」
いつものように座卓の角を挟んで座り、同時に手を合わせる。
どこかほっとしたような様子の剛士が親子丼を口に運ぶのを見ながら「さっきの椅子の話みたいな囲碁の面白い話、他にもあんの?」と聞いてみる。今、無性に、剛士の笑顔が見たくてしょうがなかった。
「え?あぁ、囲碁の話?そうだな……柊人が知らなさそうなことで言えば……コーヒーをやたら敵視してることとか?」
「何それ。知らない」
「よく分かんないんだけどさ。コーヒーの匂いが嫌いなのかな。なら来なきゃいいのにって思うんだけど、俺がコーヒーを淹れてデスクに持っていくと絶対デスクに乗ってきて、それで匂いを嗅いで、おもむろに砂をかける真似すんの。でもある程度砂をかける真似したら、コーヒーの近くに座ってくつろいでるんだよな。冷めると匂いが薄くなるからなのかもしんないけど。意味分かんねーなって思いながらいつも見てる」
「俺、一人のときあんまりコーヒー飲まないからなぁ。今度飲んでみるか」
「おぉ、やってみて。それでどうだったか教えてよ。コーヒー豆によって態度が違ったりしたら面白いよな」
話しているうちに剛士の顔にまた屈託のない笑顔が浮かぶのを見て、俺も笑顔になる。
「あとは文章を考えてるときとか、俺よくデスクのところでうつむいて固まってるんだけど、そうすると俺が動かないのが心配なのか分かんないけど、眉間をなめてくる」
「眉間?」
「そう。最近前髪伸びてきて、仕事のとき結んでおでこ出してるから目立つのかな。囲碁になめられたことある?けっこうあいつのベロって痛いよな」
「あぁ、ときどき手とかなめられるけどざらざらしてるもんな。でもさすがに眉間はない」
「ちょっと今やってみなよ。囲碁の前に顔出したらたぶんなめてくれるから」
「そうかー?お前だけじゃないの?」
そう言いながらも、せっかくなので仕事用の椅子にまだ座っている囲碁の前に四つ這いで近づき、目の前に顔を出してみる。
すると囲碁は、閉じていた目を開いたものの、そのまましらっとした顔で目をそらす。
「なんだよ囲碁。俺の眉間はなめられないって言うのかよ」
俺がそう言ってさらに額を近づけると、囲碁は身体の下に巻き込んでいた前足を出すと俺の額にぽすっと肉球を当てて、そのまま伸ばした自分の腕の毛づくろいを始めた。
その様子を見てめずらしく剛士が声を出して大笑いする。
「前足置き場にされてるし」
「俺、仮にも飼い主なのにバカにされすぎじゃね?」
そう言った俺も、剛士の大笑いにつられて思わず笑いだしてしまう。囲碁はその笑い声に驚いたのか、手をまた引っ込めて俺をじろりと見る。
そして、笑ってなんとなく気が抜けた俺は「そういえば、髪はまた伸ばすの?」と剛士に聞いてみた。剛士が髪を切ってからそろそろ二か月くらい経つ。
「あ、いや……どうしようかなって思ってるけど」
「俺どっちも好きだけど、久しぶりに短いのもいいよな。可愛いし似合ってる」
あぁようやく言えた。そう思っていると、目の前でぱっと剛士の顔が明るくなった。
「そ? じゃあまた切りに行ってこようかな」
口調はいつも通り淡々としているが、その顔を見て俺も嬉しくなる。
なんだ、こんな素直に喜んでくれるならもっと早く伝えればよかったと思っていると、剛士は口に親子丼を運びながら続けた。
「柊人が言うなら間違いないもんな。自分じゃ似合ってるかどうかよく分かんなくて」
俺はその言葉に笑顔を作りながら、心の中にわいてきた違和感に口を開く。
「なんだよ。じゃあ俺が長いほうが似合うって言ったら、お前伸ばすの?」
「伸ばすけど?」
当然と言いたげな返事に、すっと胸のうちが冷えるような気がする。
今までの俺なら、剛士の愛情の証だと感じて、喜んでいただろう。
でも、今はそう素直に受け取りきれない自分がいる。
「……なあ、剛士。お前よくそのTシャツ着てるけどお気に入りなの」
「え? これ?」
俺の唐突な質問に、少しきょとんとした剛士が自分のシンプルなシャツを見下ろす。
「丈夫だし気に入ってるよ。お前がここのTシャツ質がいいからって買ってきたんだろ」
「でも昔は、プリントが入ってるのが好きだっただろ」
「俺にはシンプルなほうが似合うってアドバイスしてきたの柊人じゃなかったっけ?」
なんなんだよ、と言いたげな剛士に「そうだったな」と笑ってみせる。
だんだん分からなくなってくる。
こんなどちらかと言えば地味な性格なのに、派手なプリントのTシャツがもともと剛士は好きだった。
俺にはいまいちよく分からないそのセンスこそが、剛士の個性でもあったはずだし、その派手なTシャツに長髪という組み合わせが本人は気に入っているようでもあった。
でも、目の前の剛士はなんの主張もないグレーのTシャツを着て、そして俺の言うとおりに髪型を変えることになんの疑問も持たずに笑っている。
こうやって、少しずつ自分がいいと思うように剛士を変え続けて。
俺は、俺が好きになった昔の剛士を、いったいどこにやってしまったんだろう。
「そういえば、先週だっけな。お前が買ってきてくれたパーカーあるだろ。夕方になってちょっと涼しくなったからあれ着たらさ、囲碁がすげー紐を狙ってくんの」
剛士がまた笑顔で話し始めるのを、俺は見つめる。
好きなんだよ。
大事にしたいんだよ。
俺の隣で笑っててほしかっただけなんだよ。
なのに、なんでこんなことになってるんだろう。
ふと泣きそうになるのをぐっとこらえて「じゃあ、紐の玩具でも一緒に買いにいくか」と言うと、剛士が「あー、ペットショップも行ってみたい」と答える。
「じゃあ明日は? 仕事どう?」
「んー、今日仕事があんまり進まなかったから、明後日のほうが助かる」
「分かった。じゃあ明後日デートしよ」
俺の言葉に剛士はちょっと目を見開いた後、今日一番の笑顔で頷いてくれた。