イクオの朝は2回来る。
「んにゃあぉ、なぁお、んなぁ」
「……んんん、まだ朝の5時だぞ……」
「んぎゃああ、んああああ」
「分かった、分かったって」
イクオは寝ぼけまなこでベッドを滑り落ちる。よろよろと台所へ行き、猫の足あとのイラストがついたフードボウルにカリカリと水を入れた。
「哲太……食ったらちょっと静かにしててくれ……あと3時間寝かせろ」
猫の世話がこんなに大変だとは思わなかった。これが生まれたてだったらもっと大変だと聞くから、拾った成猫にしてはよく懐いてくれている哲太の世話は楽な方だとは思うものの、腹が減った時だけこうなるのは都合が良すぎないか?
イクオは誰にも言えない愚痴を胸の内で吐く。当の哲太は知らんぷりを決め込んで、美味しそうにカリカリを食べていた。これで、朝の8時になればまた、「朝ご飯もらってない」と言わんばかりにニャーニャー鳴くのだから困ったものだ。
二度寝を決め込んだイクオは、このあと遅刻しそうになって自分の朝飯は抜きということに大抵なるのだが、布団に潜り込んだイクオは毎回それを生かさない。
「あぶねぇ、今日も遅刻するところだった」
「おはようイクオ君、今日も頼みますよ」
「店長おはようございます。行ってらっしゃい」
イクオの勤務先は本屋だ。オーナー兼店長の趣味で、新刊や雑誌の他には、半分以上が猫に関する本というところが気に入ってアルバイトの面接を受けた。
10時の開店に合わせて店内の掃除をするのがまずひとつ。この本屋は古い居抜きの建物をそのまま使っている。レトロなガラス窓を丁寧に拭くのは背の高いイクオの仕事だ。
あとは届いている本を店長の指示通りに並べて書棚の準備をするが、ここ最近の読書離れのあおりを受けて、開店と同時に混むなんてことはまずないから、慌ててやる必要はない。
買った本を出し忘れたっけ。
やけに重い通勤用のリュックをレジ台に置く。人間のためのバックヤードが特にないこの本屋では、レジ台がイクオの主な居場所だ。
お客さんの来ない時間帯は本を読んでいても良いという寛大な店長の言葉に甘えて、じゃあ猫との付き合い方の本でも読むかとリュックのファスナーを開けると。
「にゃん」
「哲太!?」
アルバイト中は、イクオの家で留守番しているって約束をしていたはずなのに、イクオが遅刻寸前でバタバタしている隙を見て、リュックの中に悠々と侵入していたようだ。
「あ、おまえ、家でいい子にしてなさいって言ってたのにいつの間に!」
「だって昨日の夜、イクオおれのこと抱っこしてくんなかったじゃん。だから抱っこしてほしくて入った」
「だっ…!(確かに昨夜は缶ビール飲みすぎてそのまま寝ちゃったけど悪かったけど!)ごめんごめんて。だけど今は無理なんだ。とりあえず家に帰るまで、この中でおとなしくしてて」
「えー!なんでここで抱っこしてくんないのー!」
「ここはイクオのお仕事する場所だからだめなの!」
「いつまでー?」
「おひさまが落ちるまで」
「長い!むり!今抱っこ!」
「帰ってから!……しっ黙って」
仕入れの打ち合わせに出かけようとしていた店長が戻ってきた。
「忘れ物忘れ物……ところでイクオ君、今誰かと喋っていなかったかい?」
「き、気のせいですよ。俺ひとりごとデカいんで」
「そうか。じゃあ今度こそ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ふう危なかった。
大雨の夜、アルバイトから帰る途中で拾った大きな野良猫が哲太だ。家へ抱いて帰り、暴れる哲太を何とか風呂に入れて、コンビニで買ってきたカリカリをやったらそのまま居着いてしまった。
警察にも届け出はないというので、イクオの家の猫ということになったのだが。
「イクオ。抱っこしてくれー」
「誰? お前」
アルバイトから帰ってみると、家にイクオより幾分若い男が全裸で寝っ転がってイクオの方へ両手を伸ばしているので、イクオはひっくり返った。
イクオにはこんな弟も友だちもいない。誰だこいつは。
「哲太だよ、イクオ」
そんな出会いから1年。腹が空くと猫になり、甘えん坊モードになると人間の姿になるおかしな猫、哲太とイクオの奇妙な同居生活は妙に居心地が良く、イクオはもう哲太なしの生活は考えられない。
朝5時に起こされ、リュックの中から出てくるというドッキリはされるけれども。
「今抱っこ出来ないんなら人間の姿になる。人間だったら、ここにいてもいいよな?」
「あ、哲太、やめろ。こんなところで」
オープン前で良かった。人間の姿になった哲太は全裸の青年である。こんなんが本屋にいたら大問題だ。
イクオのエプロンを着て、満足そうにレジ台に座る哲太を見て、今日一日中立ちっぱなし確定のイクオは、はぁとため息をつくのであった。
終
「んにゃあぉ、なぁお、んなぁ」
「……んんん、まだ朝の5時だぞ……」
「んぎゃああ、んああああ」
「分かった、分かったって」
イクオは寝ぼけまなこでベッドを滑り落ちる。よろよろと台所へ行き、猫の足あとのイラストがついたフードボウルにカリカリと水を入れた。
「哲太……食ったらちょっと静かにしててくれ……あと3時間寝かせろ」
猫の世話がこんなに大変だとは思わなかった。これが生まれたてだったらもっと大変だと聞くから、拾った成猫にしてはよく懐いてくれている哲太の世話は楽な方だとは思うものの、腹が減った時だけこうなるのは都合が良すぎないか?
イクオは誰にも言えない愚痴を胸の内で吐く。当の哲太は知らんぷりを決め込んで、美味しそうにカリカリを食べていた。これで、朝の8時になればまた、「朝ご飯もらってない」と言わんばかりにニャーニャー鳴くのだから困ったものだ。
二度寝を決め込んだイクオは、このあと遅刻しそうになって自分の朝飯は抜きということに大抵なるのだが、布団に潜り込んだイクオは毎回それを生かさない。
「あぶねぇ、今日も遅刻するところだった」
「おはようイクオ君、今日も頼みますよ」
「店長おはようございます。行ってらっしゃい」
イクオの勤務先は本屋だ。オーナー兼店長の趣味で、新刊や雑誌の他には、半分以上が猫に関する本というところが気に入ってアルバイトの面接を受けた。
10時の開店に合わせて店内の掃除をするのがまずひとつ。この本屋は古い居抜きの建物をそのまま使っている。レトロなガラス窓を丁寧に拭くのは背の高いイクオの仕事だ。
あとは届いている本を店長の指示通りに並べて書棚の準備をするが、ここ最近の読書離れのあおりを受けて、開店と同時に混むなんてことはまずないから、慌ててやる必要はない。
買った本を出し忘れたっけ。
やけに重い通勤用のリュックをレジ台に置く。人間のためのバックヤードが特にないこの本屋では、レジ台がイクオの主な居場所だ。
お客さんの来ない時間帯は本を読んでいても良いという寛大な店長の言葉に甘えて、じゃあ猫との付き合い方の本でも読むかとリュックのファスナーを開けると。
「にゃん」
「哲太!?」
アルバイト中は、イクオの家で留守番しているって約束をしていたはずなのに、イクオが遅刻寸前でバタバタしている隙を見て、リュックの中に悠々と侵入していたようだ。
「あ、おまえ、家でいい子にしてなさいって言ってたのにいつの間に!」
「だって昨日の夜、イクオおれのこと抱っこしてくんなかったじゃん。だから抱っこしてほしくて入った」
「だっ…!(確かに昨夜は缶ビール飲みすぎてそのまま寝ちゃったけど悪かったけど!)ごめんごめんて。だけど今は無理なんだ。とりあえず家に帰るまで、この中でおとなしくしてて」
「えー!なんでここで抱っこしてくんないのー!」
「ここはイクオのお仕事する場所だからだめなの!」
「いつまでー?」
「おひさまが落ちるまで」
「長い!むり!今抱っこ!」
「帰ってから!……しっ黙って」
仕入れの打ち合わせに出かけようとしていた店長が戻ってきた。
「忘れ物忘れ物……ところでイクオ君、今誰かと喋っていなかったかい?」
「き、気のせいですよ。俺ひとりごとデカいんで」
「そうか。じゃあ今度こそ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ふう危なかった。
大雨の夜、アルバイトから帰る途中で拾った大きな野良猫が哲太だ。家へ抱いて帰り、暴れる哲太を何とか風呂に入れて、コンビニで買ってきたカリカリをやったらそのまま居着いてしまった。
警察にも届け出はないというので、イクオの家の猫ということになったのだが。
「イクオ。抱っこしてくれー」
「誰? お前」
アルバイトから帰ってみると、家にイクオより幾分若い男が全裸で寝っ転がってイクオの方へ両手を伸ばしているので、イクオはひっくり返った。
イクオにはこんな弟も友だちもいない。誰だこいつは。
「哲太だよ、イクオ」
そんな出会いから1年。腹が空くと猫になり、甘えん坊モードになると人間の姿になるおかしな猫、哲太とイクオの奇妙な同居生活は妙に居心地が良く、イクオはもう哲太なしの生活は考えられない。
朝5時に起こされ、リュックの中から出てくるというドッキリはされるけれども。
「今抱っこ出来ないんなら人間の姿になる。人間だったら、ここにいてもいいよな?」
「あ、哲太、やめろ。こんなところで」
オープン前で良かった。人間の姿になった哲太は全裸の青年である。こんなんが本屋にいたら大問題だ。
イクオのエプロンを着て、満足そうにレジ台に座る哲太を見て、今日一日中立ちっぱなし確定のイクオは、はぁとため息をつくのであった。
終