空は、薄紅と薄紫が入り混じったような色をしている。少し冷えて透き通った空気が、黒い森を背景にした河辺に満ちていた。
 うつくしいと感じられるはずの今宵。
 だがそこを歩く者たちには、何か得体の知れぬものに導かれるような、奇妙な恐ろしさを感じさせていた。 
 空色のうすい影をまといながら、村人ふたりが、間隔を開けて歩いている。少しうつむいたその姿は、一日の仕事を終えた心地よい疲れに満ちていた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」

 どこからか、男の声でお経が聞こえる。
 村人たちは声のする方へ顔を向けた。
 河辺に敷いた座布の上で、胡座をかいて座る男がいた。
 網代笠を被り、完全に夜が暮れる前の空の深い青色をした墨染直綴《すみぞめじきとつ》を着たその姿。脚半を履いているということは、長い旅の途中ということだ。
 俯いた顔は笠で隠れており、よく見えなかったが、通った鼻筋に空の色がともり、うすい唇から淡々と言葉を紡いでいる。すっきりとした顔立ちの僧侶であることが伝わる。
 左手を胸の前でそっと縦におろすように構え、まだらな紺色をした数珠を指にかけている。右手には構えるように錫杖を持っており、大柄な僧侶の体よりもさらに大きく見えるそれは、錫杖頭がくすんだ金色をしている。

「あれはお坊様か?」

「あれはきっと断食中の坊様じゃ」

「いや……、ようく見てみろ。左目が、刀傷を負って潰れておる。ありゃあ寺を破門された破壊僧じゃ」

「なるほど」

 村人ふたりは特に詮索せず、僧侶に向かって挨拶をするかのように手を合わせ、去っていった。
 
 僧侶はふと、お経をあげるのを止めた。
 川の水面にぷつぷつと、気泡が上がっていることに気付いたからだ。

 細い黒髪が幾筋も青い水の中を漂っている。己のそれに包まれるように、龍生は目を閉じていた。彼の白いまぶたの上に、水面の波紋がゆるやかに光をともなって浮かんでは、消えていく。
 ぼやけた記憶は、鏡が砕けて欠片が流れるように、彼の脳裏にただよっていた。
 京都の宮で、母・白檀の水死体を抱きしめながら泣いている、幼い頃の自分の姿。白い水干を着て、みずらに髪を結っている。
 そして、隣で耳から血を流して、黒いまなこで龍生と母を見ている妹の響姫。
 母を自死に追い込み、妹の聴覚を奪った者への憎しみで錯乱していたとき、中庭の蓮が浮く池へ、白檀の手首からさらりと水に溶けて流れでた血が、水底に落ちる。水底にひそんでいた錆びれた刀・月白切冬景が、血に触れてひかりだした。
 龍生は光に気づき、白檀の遺体を手元からそっと離すと、池の中に入っていく。水底の冬景を両腕に抱える。鞘を抜き、刀の刃の光に、その白く幼い顔が照らされた。
 
 遠い記憶は、いまでも繰り返し見る夢のごとく、あざやかに記憶に焼きついている。草と魚、血が入り混じった混沌としたにおいも。どろりと肌にまとわりつくような水の感触も。初めて触れた鞘が、氷のようにつめたく固かったことも。
 己が生き続ける意味。それを何度もこの体に、痛みと苦しみと共に思い出す。

「地獄のような生だ……」

 龍生は意識を失ったままつぶやいた。
 口からごぼりと、大きな泡が、鈍い艶をともなって薄青い宙へ上がってゆく。
 
 黄昏色《たそがれいろ》をした穏やかな川の水面が、割れるようにざばりとうごめいた。
 空と同じ色をした水の中から現れたのは、僧侶の大きな腕に抱えられている龍生だった。濡れた黒髪が、白い顔や衣に、水流紋のように線を描いて張り付いていた。

「生きとる……!」

 龍生を抱えた僧侶は、彼の白い喉仏のかすかな動きに気づいて思わず声を上げた。
 龍生はかくりと顎を上向けると、大きく口を開いた。
 喉に溜まっていた真水が、ごぼりと音を立てて口から流れ落ちた。
 黄昏はいつの間にか濃さを増し、龍生の濡れた顔に色を落としていた。薄紫と紺色の影を纏った青白い顔をした男は、長く黒いまつげの先を凛とひからせ、静かな面立ちをしていた。

「これは……、なんとうつくしい少年や」

 僧侶は切長の一重の瞳を揺らし、そのなめらかな頬の輪郭を見つめ、鼻からかすかに息を漏らした。

「まるで牛若丸のようや。まだかすかだが、息がある。背中に酷い怪我をしとる。すぐ手当てをせんと……」

 僧侶は龍生を両腕に抱えたまま、水の中で脚半を動かし、大股で歩くと河辺をのし、と一歩で登り上がった。腕に、離れても残る水のしつこい重さを感じる。ぽたぽたと袖から落ちるしずくを気に留めず、地に置いていた座布をしまうと、くるりと器用に龍生を肩にかかげ、錫杖を手に取って歩き出した。
 暮れた夜の空気が凛とひえて、ふたりを取り囲む。
 僧侶が歩くたび、担がれた龍生の上体はゆらゆらと揺れ、長い黒髪が扇のように彼のからだを覆っていた。
 龍生は、僧侶の広い背中に額をつけたまま、ゆっくりと目を開いた。僧侶の硬い肩の肉の感触と、熱を当てた頬に感じる。それと呼応して、己の体が冷えていることが理解できた。

(影虎……。待っていろ。必ずや再びそなたの前に現れ、二口の吸血刀を取り戻す……。その時まで……)

 灰青色のひとみが憎悪で鈍くひかり、やがて揺れる髪がはらりとかかり、隠れて黒に溶けた。