「これで問題ない」
平然とすぐそばで囁かれ、絲は男の腕から逃れるように、後ずさる。
「あ、あなたは、何者なんですか?」
さっきからこの男は絲の予想外ばかりの言動をする。武藤家の人間は、瑤子をはじめ絲に対する行動はある程度予想できた。それがすべて悪意に満ちたものだとしても。
絲の質問に、男はわずかに動揺を見せた。それが絲には理解できないが、男は軽く息を吐いて口を開く。
「極夜鵺雲。大和国日神軍、機動部隊隊長。所属は月朔組で大佐の地位にいる」
淡々と語られる肩書きは、先ほど武藤の屋敷で聞いた内容とかぶる。そして極夜家については、世情に疎い絲でも知っていた。問題は、そのような人物がどうして自分に関わるのか、ということだ。
「あなた様は私を、ご存知なのですか?」
幼い頃の記憶がなく、両親の顔も知らない。武藤家に来るまでの記憶は断片的で曖昧だ。彼はなにかを知っているのか?
期待と不安の入り混じる表情で、絲は鵺雲を見つめる。
「さぁ、どうだろうな?」
今度は逆に相手に視線を逸らされた。はぐらかされた答えに、絲は緊張感を高める。
やっぱり、鵺雲は絲を捕えこのまま軍に連れて行き、捕えるか実験体にするつもりなのか……。
「そう警戒しなくても、悪いようにしない」
「し、信じられません」
絲の視線の意味に気づいたのか、鵺雲が告げる。しかし素直に受け入れるわけがない。とはいえ逃げ出そうにも、今の絲は丸腰だ。
このあとどうするべきか、悩んでいると鵺雲は外套を脱ぎ絲との距離を縮めてくる。
「怯えるな。取って食ったりはしない」
動けずにいると、丈の長い暗青色の外套が肩からかけられる。重厚な生地は想像よりも重たくはなかった。今の今まで鵺雲が着ていたからか、温かさに包まれ、張り詰めていた絲の緊張がわずかに緩みそうになる。
「ひとまず車に――」
言いかけた鵺雲が言葉を止める。何者かが屋上に近づいているのが気配でわかった。身構える絲の、肩を庇うように鵺雲が抱いた。
ひとりではなく、複数。勢いよく階段を上ってきたのは軍の服を着た男たちだ。
「おい、無事か!?」
「早く保護を……って極夜大佐?」
ひとりが鵺雲の存在に気づき、目を丸くする。彼に触れたままでいる絲としては、離れるべきなのかわからず、足が動かない。
沢木のように、畏怖や憎悪の眼差しを向けられ追いかけられるのではないか。
やっぱり私は……。
「どうした?」
冷静な声で極夜が尋ねると、男は姿勢を正した。
「はっ。屋上に人影があるとの情報が入り、誰かが飛び降りようとしているのではと、こちらへ参りました」
どうやらここに人が集まったのは自分が原因らしい。絲はさっと青ざめる。
「見ての通り、保護した。彼女は飛び降りようとしたわけではないそうだ」
なにか言うべきかと迷っていたら、先に鵺雲が説明する。立場の問題か、鵺雲の言い分に誰も反論も疑問も抱かない。
そこに遅れて誰かが階段を上ってきた。
「女性は無事? 大丈夫?」
若い白衣を着た女が息を切らしてやってきた。格好から医療関係者だとわかる。
ほんの少しの逃避行が、なにやら大事になってしまった。責任と申し訳なさを感じつつ、ここにいる誰もが自分を心配して駆けつけてきたのだと思うと、絲はなんだが不思議な気持ちだった。
平然とすぐそばで囁かれ、絲は男の腕から逃れるように、後ずさる。
「あ、あなたは、何者なんですか?」
さっきからこの男は絲の予想外ばかりの言動をする。武藤家の人間は、瑤子をはじめ絲に対する行動はある程度予想できた。それがすべて悪意に満ちたものだとしても。
絲の質問に、男はわずかに動揺を見せた。それが絲には理解できないが、男は軽く息を吐いて口を開く。
「極夜鵺雲。大和国日神軍、機動部隊隊長。所属は月朔組で大佐の地位にいる」
淡々と語られる肩書きは、先ほど武藤の屋敷で聞いた内容とかぶる。そして極夜家については、世情に疎い絲でも知っていた。問題は、そのような人物がどうして自分に関わるのか、ということだ。
「あなた様は私を、ご存知なのですか?」
幼い頃の記憶がなく、両親の顔も知らない。武藤家に来るまでの記憶は断片的で曖昧だ。彼はなにかを知っているのか?
期待と不安の入り混じる表情で、絲は鵺雲を見つめる。
「さぁ、どうだろうな?」
今度は逆に相手に視線を逸らされた。はぐらかされた答えに、絲は緊張感を高める。
やっぱり、鵺雲は絲を捕えこのまま軍に連れて行き、捕えるか実験体にするつもりなのか……。
「そう警戒しなくても、悪いようにしない」
「し、信じられません」
絲の視線の意味に気づいたのか、鵺雲が告げる。しかし素直に受け入れるわけがない。とはいえ逃げ出そうにも、今の絲は丸腰だ。
このあとどうするべきか、悩んでいると鵺雲は外套を脱ぎ絲との距離を縮めてくる。
「怯えるな。取って食ったりはしない」
動けずにいると、丈の長い暗青色の外套が肩からかけられる。重厚な生地は想像よりも重たくはなかった。今の今まで鵺雲が着ていたからか、温かさに包まれ、張り詰めていた絲の緊張がわずかに緩みそうになる。
「ひとまず車に――」
言いかけた鵺雲が言葉を止める。何者かが屋上に近づいているのが気配でわかった。身構える絲の、肩を庇うように鵺雲が抱いた。
ひとりではなく、複数。勢いよく階段を上ってきたのは軍の服を着た男たちだ。
「おい、無事か!?」
「早く保護を……って極夜大佐?」
ひとりが鵺雲の存在に気づき、目を丸くする。彼に触れたままでいる絲としては、離れるべきなのかわからず、足が動かない。
沢木のように、畏怖や憎悪の眼差しを向けられ追いかけられるのではないか。
やっぱり私は……。
「どうした?」
冷静な声で極夜が尋ねると、男は姿勢を正した。
「はっ。屋上に人影があるとの情報が入り、誰かが飛び降りようとしているのではと、こちらへ参りました」
どうやらここに人が集まったのは自分が原因らしい。絲はさっと青ざめる。
「見ての通り、保護した。彼女は飛び降りようとしたわけではないそうだ」
なにか言うべきかと迷っていたら、先に鵺雲が説明する。立場の問題か、鵺雲の言い分に誰も反論も疑問も抱かない。
そこに遅れて誰かが階段を上ってきた。
「女性は無事? 大丈夫?」
若い白衣を着た女が息を切らしてやってきた。格好から医療関係者だとわかる。
ほんの少しの逃避行が、なにやら大事になってしまった。責任と申し訳なさを感じつつ、ここにいる誰もが自分を心配して駆けつけてきたのだと思うと、絲はなんだが不思議な気持ちだった。



