「なにをしている?」
体を傾けようとした瞬間、声がかかり絲はその場で目を開けた。よく通る声には聞き覚えがある。すぐ右隣りには、手すりに肘を置きこちらを真っ直ぐに見つめている男がいた。
大佐、と呼ばれていた絲を妻にするなどにわかには信じられない発言をしていた男だ。
初めて会ったときには、凍てつくような鋭さのある瞳に多少の恐怖を覚えた。しかし、今はその気配は鳴りを潜めている。この状況で動揺する素振りひとつ見せず、かといって怒っている様子もない。
なにをしているのかなど、一目瞭然だろう。それがわからないほど鈍いとは思わない。
絲は軽くため息をついた。
「飛び降りようと思ったんです……止めますか?」
わざと挑発めいた口調で告げる。
結婚などと口にした相手の考えも企みもわからない。世間知らずなのは重々承知しているが、彼の言葉を鵜呑みにするほど、馬鹿ではないと思っている。
油断してこのまま捕らわれ、軍の実験にするつもりなら、御免だ。
「いいや」
男は顔色ひとつ変えず、あっさりと否定した。虚を衝かれ、続けて納得するのと同時に羞恥心に襲われる。
彼にとっては、自分がどうなろうと関係ないはずだ。止められるのではとどこかで予想していた絲は恥ずかしくなった。
なにを期待していたんだろう。
うつむき気味になった次の瞬間、強く腕を引かれ柵越しに体を引き寄せられる。男と目が合い、漆黒の瞳に捕まる。突風が絲の前髪を舞い上げ、はっきりと紫眼に男の姿を映したからだ。
「お前が本気なら、一緒に落ちてやる」
時が止まったような感覚。掴まれた腕の感触が、真剣な顔が、低い声が、絲のすべての思考を奪い去る。風が凪ぎ、静寂さえもたらした。
「どうする?」
次の言葉は、どこか余裕めいた言い方だった。絲は我に返り、ふいっと顔を背ける。
「けっこうです。ちょっと、ここがどれほど高いのか興味があっただけです」
中らずといえども遠からず。しかし先ほどまでに飛び降りたい気持ちは、すっかりなくなっていた。
「そちらに戻るので手を離していただけませんか?」
「……こちらにちゃんと戻ってくるなら」
だから、そのために手を離してほしいと言っているのだ。男の切り返しに首を傾げていると、掴まれていた手はそっと解放された。
ひとまず向こう側に戻ろうと手すりに手をかけ、はたと気づく。この柵を越えるには、かなり行儀が悪く、大胆に足を開く必要がある。その際、着物の裾がめくり上がるのは目に見ていた。こちら側に移動した際は誰もおらず、なにも気にしていなかったが、今は違う。人前、ましてや異性の前でするには憚れる行動だ。
とはいえ、そうでもしないとこの柵は越えられない。
ちらりと男をうかがうと、先ほどより一歩下がってはいるが、こちらをじっと眺めている。いつもの癖で、目が合うや否やすぐに逸らした。
しばし葛藤し、絲は意を決して手すりに手をかけて支え、足を浮かせる。
「あの、すみません」
「どうした?」
この体勢で声をかけるのもどうなのか。男は不思議そうに尋ねてきた。
「……少しの間、あちらを向いていていただけますか? その、ここを越える際にお見苦しい格好になってしまうので」
下手に誤魔化さず、正直に告げる。恥ずかしさで頬が熱くなるのを悟られないよう必死だった。
「ああ」
男が呟き、安堵したのも束の間どういうわけか、彼は絲のすぐ真正面までやってきた。驚いて目を見開いていると両脇下に手を滑り込まされ、力を入れられる。
「なっ」
自分の体重を支えていた手が手すりから離れ体が宙に浮く。浮遊感に、反射的に身を縮めると、絲の体はあっさりと柵の向こう側へと移った。
地に足がつく感覚があったものの、ふらついてしまい男の腕にさらに体を支えられる。心臓が早鐘を打ち出し、混乱する。先ほどの火ではないほど顔も体も熱い。
一体、自分の身になにが起こったのか。
体を傾けようとした瞬間、声がかかり絲はその場で目を開けた。よく通る声には聞き覚えがある。すぐ右隣りには、手すりに肘を置きこちらを真っ直ぐに見つめている男がいた。
大佐、と呼ばれていた絲を妻にするなどにわかには信じられない発言をしていた男だ。
初めて会ったときには、凍てつくような鋭さのある瞳に多少の恐怖を覚えた。しかし、今はその気配は鳴りを潜めている。この状況で動揺する素振りひとつ見せず、かといって怒っている様子もない。
なにをしているのかなど、一目瞭然だろう。それがわからないほど鈍いとは思わない。
絲は軽くため息をついた。
「飛び降りようと思ったんです……止めますか?」
わざと挑発めいた口調で告げる。
結婚などと口にした相手の考えも企みもわからない。世間知らずなのは重々承知しているが、彼の言葉を鵜呑みにするほど、馬鹿ではないと思っている。
油断してこのまま捕らわれ、軍の実験にするつもりなら、御免だ。
「いいや」
男は顔色ひとつ変えず、あっさりと否定した。虚を衝かれ、続けて納得するのと同時に羞恥心に襲われる。
彼にとっては、自分がどうなろうと関係ないはずだ。止められるのではとどこかで予想していた絲は恥ずかしくなった。
なにを期待していたんだろう。
うつむき気味になった次の瞬間、強く腕を引かれ柵越しに体を引き寄せられる。男と目が合い、漆黒の瞳に捕まる。突風が絲の前髪を舞い上げ、はっきりと紫眼に男の姿を映したからだ。
「お前が本気なら、一緒に落ちてやる」
時が止まったような感覚。掴まれた腕の感触が、真剣な顔が、低い声が、絲のすべての思考を奪い去る。風が凪ぎ、静寂さえもたらした。
「どうする?」
次の言葉は、どこか余裕めいた言い方だった。絲は我に返り、ふいっと顔を背ける。
「けっこうです。ちょっと、ここがどれほど高いのか興味があっただけです」
中らずといえども遠からず。しかし先ほどまでに飛び降りたい気持ちは、すっかりなくなっていた。
「そちらに戻るので手を離していただけませんか?」
「……こちらにちゃんと戻ってくるなら」
だから、そのために手を離してほしいと言っているのだ。男の切り返しに首を傾げていると、掴まれていた手はそっと解放された。
ひとまず向こう側に戻ろうと手すりに手をかけ、はたと気づく。この柵を越えるには、かなり行儀が悪く、大胆に足を開く必要がある。その際、着物の裾がめくり上がるのは目に見ていた。こちら側に移動した際は誰もおらず、なにも気にしていなかったが、今は違う。人前、ましてや異性の前でするには憚れる行動だ。
とはいえ、そうでもしないとこの柵は越えられない。
ちらりと男をうかがうと、先ほどより一歩下がってはいるが、こちらをじっと眺めている。いつもの癖で、目が合うや否やすぐに逸らした。
しばし葛藤し、絲は意を決して手すりに手をかけて支え、足を浮かせる。
「あの、すみません」
「どうした?」
この体勢で声をかけるのもどうなのか。男は不思議そうに尋ねてきた。
「……少しの間、あちらを向いていていただけますか? その、ここを越える際にお見苦しい格好になってしまうので」
下手に誤魔化さず、正直に告げる。恥ずかしさで頬が熱くなるのを悟られないよう必死だった。
「ああ」
男が呟き、安堵したのも束の間どういうわけか、彼は絲のすぐ真正面までやってきた。驚いて目を見開いていると両脇下に手を滑り込まされ、力を入れられる。
「なっ」
自分の体重を支えていた手が手すりから離れ体が宙に浮く。浮遊感に、反射的に身を縮めると、絲の体はあっさりと柵の向こう側へと移った。
地に足がつく感覚があったものの、ふらついてしまい男の腕にさらに体を支えられる。心臓が早鐘を打ち出し、混乱する。先ほどの火ではないほど顔も体も熱い。
一体、自分の身になにが起こったのか。



