『お願い、許して――』

 涙目になりながら訴えているのは絲自身なのか。誰かが自分の手を強く引いている。必死に懇願するが聞き入れてもらえず、絲は引きずられるようにして連れていかれる。

『いやっ。あそこには行きたくない!』

 どこ? あそこってどこなの?

 わからないが、心の中はこれから起こることの恐怖に支配されていく。頬に冷たいものが伝った。

『ごめんなさい。普通じゃなくて……ごめんなさい』

 ああ、私。こんなことなら――

「消えてしまいたくなった?」

 やけにはっきりした声が耳に届き、絲は意識を覚醒させる。しかし頭が重く、靄がかかったかのようで思考がはっきりしない。

 これは夢? 私、いつの間にか眠っていたの?

 当たりは真っ暗だ。その中で、ぼんやりとする視界が徐々にくっきりとしてくる。

「川、崎……先生?」

 声を出すのもつらい。どうして彼女がここにいるのか。回診に来たのだろうか。

 様々な可能性が浮かんだかと思ったら消えていき、考えがまとまらない。

 くすりと妖艶な笑みを浮かべた川崎が絲を見下ろしていた。彼女はさらに絲との距離を縮め、じっと瞳を覗き込んでくる。

「あなたも、生きるのがつらいでしょ?」

 耳ではなく脳に直接訴えかけるように彼女の声がやけに大きく響く。しかし胸の奥がじゅくじゅくと膿んだように痛み、希死念慮が膨れ上がり、増幅していく。

 無意識に体を起こし、絲は裸足のままゆっくりと窓に近づいた。逸るこの気持ちはなんなのか。開かなかった窓が、大きく開く。

 暗闇と共に夜の風が絲の髪をなびかせた。川崎は絲の背後に近づき、そっと耳元で囁く。

「ほら。飛んだら、楽になるわ」

 ああ、そうだ。楽になりたい。ずっと普通ではない自分が怖かった。恐れられ、虐げられ……。

 絲が窓枠に手をかける。体を倒してしまえば、甘美なる死が待っている。終われるのだ。

 どうせ、私はひとり――。

『お前が本気なら、一緒に落ちてやる』

 そこで絲は弾かれたように窓から離れた。体が軽くなり、頭にかかっていた靄が晴れていく。

「違う!」

 力強く叫び、驚いた表情をする川崎を絲は睨みつける。

「高野さんも、この病室に入院していた彼女も、きっと他の女性も、誰も本気で死なんて望んでいなかった。だって彼女、高野さんと映画を観るのを励みに頑張っていたのに……」

 絲が懸命に訴えかけると、川崎は口角を上げた。

「私の力が通じないなんて……。あなた、やっぱり普通じゃないのね」

 どこか楽しそうな口調だが目は笑っていない。笑っていた口が次第に避けるように広がっていく。

「でも、それがいいのかも。あなたの魂も私にちょうだい」

 川崎の手がゆっくりと絲に伸びてくる。逃げ出したいのに恐怖のあまり絲の体は硬直していた。