「この化け物!」

 熱い、と感じたのと同時に着物に染みが広がる。まさか淹れ立てのお茶を頭からかけられるとは思ってもみなかった。

 しかし冷やすことはおろか、動くことさえ許されない。ちらりと相手をうかがおうとしたが、すぐに罵声が飛ぶ。

「顔を上げないでよ! 本当に不気味ね。その目!」

「申し訳……ありません」

 深々と頭を下げたまま(いと)は小さく呟いた。着物を伝い、熱さは引いたもののじんじんと肌が痛みだす。おそらく火傷になっているが、ひたすら耐える。どうせ今だけだ。

 ふたつ年上の瑶子(ようこ)とは、同じ屋根の下で暮らしているが、立場はまったく異なる。彼女はこの家、武藤(むとう)家のひとり娘で、対する自分は幼い頃に孤児だったところを瑶子の父親に引き取られた完全な余所者だ。

 この家に来た過程に善意も好意もない。財産、権力、社会的地位を持つ者は社会的義務が伴う、という崇高な考えから体裁的に迎えられただけだ。

 それでも引き取られた当時は、ひとり娘の話し相手にと、多少の期待はあったそうだが当の本人である瑶子にも、彼女の母親である京子(きょうこ)にも絲は受け入れられないまま疎ましい存在として扱われ続けている。身分の差はもちろん、絲の外見にも理由はあった。

 艶やかな黒髪に透き通るような白い肌、均整の取れた顔立ちは、パッと目を引く。同性からは妬みの対象となってしまうほどに。

 人を惑わすような蠱惑的な瞳は、誰をも虜にする。しかし彼女の瞳の色は、年を重ねるごとに紫を強く帯びていった。原因はわからず、そもそも病院に連れて行ってもらったこともない。見え方に不自由はないが、鮮やかな紫の瞳は他者とは異なり、美しさも相まって気味悪がられるだけだ。

 それが瑤子の態度に拍車をかける。恥さらしだと家から出ることさえ許されず、女中や召使いどころか人として扱われないこともしばしばあった。前髪を伸ばし、目を隠すよう指示され、身なりも食事も最低限。絲が十八歳になっても変わらない。

 瑤子の機嫌次第でいつまでも罵られ、その間絲はじっと耐えるだけだ。反論どころか口を挟むことさえ許されない。言葉だけではなく、ああやって時折暴力めいた扱いを受けるが、ひたすら嵐が過ぎるのを待つ。

 解放されたあと、絲は裏手で洗濯を干しにかかった。早くしなければ。乾いていないとまた叱られる。

 前髪を横に長し、ホッと一息ついて視線を上げる。青くうっすらと雲のかかった空は眩しく、ぽかぽかと陽気が心地いい。武藤家の庭はそこそこ広く、植物は春の息吹を受けて生き生きとしている。

 数羽の小鳥が歌い、そのうちの一羽が絲の肩に乗った。

「お前たちはいいね。どこでも好きなところに行けて、好きなように生きられるんだもの」

 微笑みながら人差し指を差し出すと、小鳥は絲の指先に移る。愛らしさに笑みをこぼしつつ小鳥を飛ばした。

 不意に、先ほどお茶をかけられた箇所に触れる。赤く、下手するとただれているであろう皮膚は、何事もなくいつもの白い肌のままだ。痛みももうない。

 私、どうなっているの?

 昔から体は頑丈で、傷の治りは早い方だった。しかしここ最近は異常だ。ついた傷はすぐに消え、痛みもなくなる。瞳の色がより一層くっきりと紫になったのもここ最近だ。

 いつから、こうなったのか。瞳の色も合わさり、絲は自分が自分で怖かった。

 孤児でいた幼い頃の記憶はなく、両親の名前はおろか顔もわからない。知っているのは『絲』という名前だけ。これも両親がつけたものかどうか定かではない。

「ねぇ、聞いた? 後藤田(ごとうだ)医院の飛び降りの件」

「ええ、もう立て続けに三人でしょ? しかも若い女性ばかり」

 ふと室内にいる使用人たちが話している会話が耳に届く。反射的に絲は声を潜め気配を消した。中年の女性がふたり、仕事の合間に世間話で盛り上がっている。

 累ヶ丘(るいがおか)にある後藤田医院で若い女性の飛び降りが続き、大衆は大きな関心を寄せていた。最近はどこもかしこもその話題ばかりだ。

「錯乱した患者が影響を受けて、とかじゃないの?」

「さぁ? でも、さすがに軍が調査に入るんじゃないのかってもっぱらの噂よ」

 民主主義の進むこの国で、政治家や経済界を牛耳る財閥の一族、爵位ある上流階級などを差し置き、大きな権力を持つ大和国日神(やまとこくにちじん)軍。

 絲も名前とその存在だけは知っている。国家の治安維持のため日夜尽力する一方で、嘘か真か、軍は異常存在(マレビト)と呼ばれる人にあらざる者たちに対抗するために組織されたのだと、噂は絶えない。

 それほどに人間の仕業では片付けられない不可解な事象、事件、存在がこの世には溢れていた。

 軍事機密に包まれた内部では、捕らわれた異常存在が管理され、来たる時に備え保護という名のひどい実験が行われているなど、どれも噂の域を超えないが、人々が面白おかしく伝聞し、三流雑誌がセンセーショナルに書き立てている。

 どんな存在だろうと絲には関係ない。

「そういえば、明日いらっしゃる瑤子お嬢様のお相手も軍の方なんでしょ?」

「そう。所属はわからないけれど少尉らしいわ」

「まぁ、すごい」

 こんなにも使用人たちが軍の話題で盛り上がるのは、瑤子の縁談相手が軍の人間だからだ。

 相手に興味はないが、瑶子に縁談が舞い込み、この状況が少しだけ改善するのではないか、そんな淡い期待をどこかで抱いている。自分には結婚など無縁の話だ。

 この家に尽くして生を終えるのか。外の世界に踏み出したい気持ちはもちろんある。しかしこの見た目と体質で、やっていけるのか。そもそも頼れる者は誰もいない。

 沈みそうになる気持ちを振り払い、絲はてきぱきと家事を終わらせていった。