明るい時分にも同じ道を通ったが、夜は世界がまったく異なる。人々は眠りにつき、うろつくのは獣か人ではないものか。

 間もなく丑三つ時――鬼門が開き常世に通じる時間となる。

 馬車は後藤田医院の近くで停まり、せつなと杠は再びこの場所に降り立った。

 後藤田医院をじっと見つめる。昼間も思ったが、この建物は匣に似ている。結界のようなものを感じる、なにかを閉じ込めておく大きな匣だ。

 屋上には誰もいないのを目視で確認し、せつなは歩を進め出す。

「後藤田医院に向かわれるのでは、ないのですか?」

 予想外のせつなの行動に、杠が問いかける。

「ええ。診療時間外に部外者は入れないし、なによりここに彼女はいないわ」

 言いながら、せつなが向かうのは医院近くの別の建物だった。

「ここは……」

 呆気にとられる杠をよそに、せつなは扉を開ける。彼女がやって来たのは映画館だった。鍵は開いており、中の分厚い扉を開けると、こんな時間にもかかわらずカタカタと映写機が動き、スクリーンには映像が映し出されていた。

 女学生二人が主人公の甘酸っぱい恋愛と友情の物語だ。スピーカーから声や音楽が流れ、世界が展開していく。

 しかし、席に座ってそれらを楽しむ者の姿は誰もいない。映画に夢中になっているのは、スクリーンの前に立っている彼女だけだ。

「こんばんは」

 やや大きめの声でせつなが声をかけると、驚いた表情で彼女はこちらを見た。

「せつなちゃん!? どうしたの? 杠さんも」

 振り向いたのは天童亜里沙だ。彼女は昼間会ったときと同じ格好をしている。

「真知子、見つかった? 会えそう?」

 せつなと杠の方に亜里沙はゆっくりと歩きながら尋ねてくる。今にも泣きだしそうな表情だ。せつなは静かに首を横に振った。

「ごめんなさい。でも、真知子さんのお通夜に行って彼女に会ってきたわ」

「そう……」

 せつなの答えに亜里沙はあきらかに落胆する。しかし彼女は無理矢理笑顔を作った。

「この映画をね、真知子と一緒に観ようって約束してたから。せめて私だけでも、って思ったんだけれど……。真知子と見たかったな。どうしたら、真知子に会えるんだろう」

「ここにいても真知子さんには会えないわ」

 凛としたせつなの声が響き、スピーカーから流れていた音がぴたりと止んだ。

「だからこれ以上……ここに留まるのはやめて光の方へ進みなさい。天童亜里沙さん」

 亜里沙の目を見て真っ直ぐに訴えかけるが、亜里沙はあからさまに動揺する。

「な、なにを言ってるの、せつなちゃん。私は」

「あなたは、ずっと後藤田医院に入院していたのよね。昔から体が弱くて学校もあまり通えていなかった」

 せつなは淡々と事実を伝えていく。

「ある日、顔に残った傷跡のことで後藤田医院に通っていた高野真知子さんと知り合い、同じ女学校に在籍しているという共通点から親しくなっていった」

「私は――」

 なにを言われているのか理解できないと言わんばかりに亜里沙は頭を抱える。亜里沙が在籍している女学校はここから十粁も離れている。真知子が後藤田医院で入院していなかったのなら、ここで彼女たちはどうやって過ごし親しくなっていったのか。

 入院していたのは真知子ではなく亜里沙だったのだ。

 せつなは一拍間を空けたあと、口を開く。

「けれど二週間前、あなたは四階の病室から飛び降りて――」

「違う! 違うわ! 私は、私は……」

 反射的に、ものすごい剣幕で亜里沙は否定する。ガクガクと彼女の体が震え出し、せつなは警戒しつつ亜里沙に近づいていく。

「自分が亡くなったことに気づかない霊は珍しくないわ。けれど、あなたはもう亡くなっているの。少なくとも普通の人には見えていない」

 亜里沙はずっと自分がまだ生きているように振る舞っていたかもしれないが、周りは彼女の姿は見えず、存在に気づいていない。

『コーヒーはこっち。オレンジジュースはそちらに』

『え?』

 カフェーで困惑した女給。

『でも軍の人たちに聞いてもなにも言ってくれなくて……』

 話しかけても答えてくれない人々。

「なによりあなた、後藤田医院の近くから動けないんでしょう?」

『真知子の実家は爵位のある家だからか突然、行くわけにもいかないし……』

 同級生の立場で弔問に訪れ、断る家人はいないだろう。彼女は行かないのではなく、行けないのだ。

『私、カフェーに入ったのも初めて!【カフェー・アトロピン】の看板は、よく目にしていたけれど、中がどういうふうになっているのかまではわからなかったから』

 通りに面したカフェーは中に入らなくても大きな窓から店内の様子はよく見える。亜里沙はずっと病室のある四階からカフェーを見下ろすことしかなかったのだろう。

 記憶が抜け、改竄して生者として振る舞いながらも、亜里沙の言動には違和感が隠せない。亜里沙は死を自覚できず、亡くなった場所に縛られつつある。強い未練を残しこのままでは地縛霊になりかねない。そうすれば、真知子と同じ場所へは行けなくなる。

 なんとか亜里沙の理性があるうちに説得して光の方へ向かわせたい。そう思い、せつなは一刻を争ってこの時間を選んだ。

「じゃぁ、なに? 私のせいで真知子は死んだの? 私が、私が……」

『私が死んだら真知子も死ぬから』

 亜里沙は感情を昂らせ、叫び声をあげる。

 その瞬間、映写機は回り続けるもののスクリーンの画面が止まった。

「違う。私は死んでない。真知子をここでずっと待っているの!」

 暴走を始める亜里沙に、せつなはしょうがなく印を結ぶ。今の時間帯なら、相手の力も強まっているが、せつなの霊力も上がっているはずだ。

「邪魔しないで」

「せつな様!」

 亜里沙から飛ばされた念から庇うようにせつなの前に杠が立ちはだかる。次の瞬間、杠は顔を歪め、姿を消した。

「杠!」

「そっか。私には普通に見えていたけれど、どうやら彼も人間じゃないのね」

 亜里沙の目は虚ろになり、声も徐々に低くなっていく。

「真知子はどこ? 私も死んでいるなら真知子に会えるはずでしょ」

 せつなは考えを巡らせる。亡くなった後藤田医院はもちろん、実家にも真知子の魂は見つからなかったのだ。亡くなってまだそこまで時間が経っていない。通常、魂はまだそこら辺をさまよっているはずだ。

 しかし真知子の魂は呼び寄せるどころか、気配さえない。

 どういうことなの?

 この問題が解決してから亜里沙と向き合うことも考えたが、亜里沙には、もう時間がない。実際、彼女の魂は暴走を始めている。強制的に霊道へ送り込むか。しかし、それはしたくない。

「私が死んでいるなら……せつなちゃんの体を貸してもらえない」

 亜里沙の口角が上がり、不気味な笑顔を浮かべている。彼女はせつなとの距離を縮めてきた。

 せつなは己の力不足を恨む。なんとか亜里沙を一度正気に戻そうと考えつつ、彼女の手がせつなに伸びてきた。