その日深が図書館へ行くと、楓子は珍しく机に額を付けて眠っていた。

死んだ妖がうようよといるこの時間、このどことなく寒気がする空気の中でよく眠れるなと深は思う。
見えていないのだから当然と言えば当然なのだけれど。

────楓子さんは妖が見えない。私に守られる必要のない人間だ。
────それでもそばにいさせてくれる間はそうしていたい。

「楓子さん。起きて。寝るなら部屋に戻りましょう」

「…うーん」

何度揺すっても楓子は起きない。

深は起こすことを諦め、いつものように本棚を物色することにする。


起きない楓子が深の中の消えない何かと重なったその時、妖が見えた。
見えてしまった。

医学校の図書館によく現れると聞いた死んだ妖ではない。
自分のものだ。

深はすぐにわかった。

何度も相対してきた妖。
だから知っている。
自分の妖は自分では倒せないことを。

震える手を反対の手で力一杯に押さえつけ、深く息をつく。

「はぁ、はぁ…」

大丈夫、大丈夫。
今までの経験上、1時間もすればいなくなるはずだ。

耐えれば良いだけだ。
空気はさっきよりももっと冷たく感じられ、したたる汗の気持ち悪さに呼吸が荒くなる。

苦しい、耐えろ、気持ち悪い。

「仕方ない」

いつの間にか上半身が床につくほど倒れ込んでいた。

頭上で自分のではない声がする。

「…楓子さん?」

パコンと鈍い音が、静かな図書館に響き消えた。

「相変わらず間抜けな音」

深の薄れゆく意識とその身体を、先程まで寝ていたはずの楓子が手を添え起き上がらせる。

自分の妖は自分では倒せない。

なら、今深の妖を撃ったのは?

「あなたもカナリアの一員だったと?」

「そう」

楓子は隠すのを諦めたとでも言うように渋々頷いて見せた。

「言ってくれれば…」

「この身分は無闇に明かすものではない。私たちは秘密裏に動く。
妖の存在など、人々は知らない方がいいから」

「…なぜ見えないのに撃てたんですか?」

────感覚でわかる。顔を見ればわかる。妖を見る人の顔は、他のそれとは全く違う恐怖に満ちている。
────それはもう自分を恐ろしいほど無力だと感じるほどに。

「なら深はなぜ、見えない私をそばで守ろうとする?」

不幸な者にほど見えてしまう妖。医療では未だどうにもならない。
医学を学びながら、カナリアに所属する学生たちはそのことを思い知らされる。

「深も苦労してきたのだろう。
幸の者はそもそも妖など知らない」

「私たちの世代にはよくあることでしょう。
幼い頃、母親と死別したのです。
朝起きて、冷たくなっていた母の後ろに、初めて妖を見ました」

二人がまだ幼い頃、この国は何度も天災に見舞われた。
地震や台風、それに伴う大火事や大洪水。
実質的な被害はもちろん大きかったが、それだけではない。
人々にかかった精神的な負担は計り知れないほどあった。

「妖を知っているということは、よく調べたんだろうね。
現状をどうにかしようとしたのだろう。

…よく頑張った」

まだ震えている深の手を楓子がそっと握る。

楓子の言う通りだった。

幼い頃から見える、黒く大きな化け物に何度も怯え、泣かされた。
見えない者にその正体を尋ねても、嘘つきだと罵られるばかりだった。
一人書物を読み漁り調べることしか深には残されていなかったのだ。
その途方もない作業の中で、深はたどり着いた。

妖の根元には人間の強い感情がある。
忘れられないような不幸な経験が妖をおびき寄せる。
皆に平等には訪れず、しかし誰もがその可能性を秘めている。

それは病である。

無論今のままでは医療は妖に歯が立たない。
それでも妖を見る人を救う道は医療にある。

そう考えた深は籐院医学校で、秘密結社カナリアに出会う。

「なぜ、見えないあなたのそばにいるか。
楓子さんもわかっていますよね。
見えるものだけがすべてではないと」

遠く離れ見えはしない兄の姿。
文字にできない伝えたいこと。
ある者には見え、ある者には見えない妖。
揺れ動く今日の感情。
今日が過ぎ、明日の感情。

「今も、お兄さんが好きですか。
目の前で、こうして、手を繋いでいる私より」

楓子はただ兄を守りたかったのだ。

そのために身を粉にしてまで勉学に励み、自身をわざと過酷な環境に置いた。
兄のためならなんでもできた。この感情を恋だと思っていた。

それなら、今、汗で濡れた前髪の隙間から潤み疲れた瞳をこちらへ向けてくる彼へのこの感情は一体何なのか。

「私は楓子さんのことならいくらでも待てます」

深の紫色の唇が弧を描く。

首にまで落ちていく汗を、楓子は藤色の着物の袖で拭ってやった。