元祿大正三十二年。魔都とも呼ばれる帝都京都では、今宵も闇祓い特務官たちが職務に励んでいた。
齢十九、特務官一年目の橘花音もその一人である。
アーモンドに似た大きな瞳に、すっととおった小さな鼻、可愛らしい顔立ちをしているのに雰囲気は凛々しく、艷やかな黒髪は高い位置で結い上げていた。
制服は白いチュニックブラウスに革のベスト型コルセット、フリルのようなブラウスの裾からは黒のタイトなズボンがすらりとのびている。背中には猟銃のような長い銃を担ぎ、リボルバー拳銃を片手に夜道を走っていた。
「怜! そっちに二体行った!」
「了解。確実に仕留める」
怜と呼ばれた黒い軍服の男は抜き身の日本刀を構えていた。鋼色の刀身が月光に照らされて光った瞬間、刀自身が赤い焔に包まれる。
鋭く対象を見据えた怜は、花音に追い立てられた二体の巨大な黒い影へ一瞬で肉薄し、たった一振りで鬼のような形のそれを屠った。斬られた箇所から焔が燃え広がり、塵となって消えていく。
「あと一体か?」
「うん、そう」
返事をしながら、花音は夜空に向かって銃を向けた。西の方角からプテラノドンのような黒い影が飛んでくる。
花音の持つ銃身が、バチバチと電気のような光を放ち始める。黄色と白、たまに青色にも見えるプラズマを纏い、ドォン……と音を鳴らして弾丸が発射される。白い弾丸は空飛ぶ影に当たり、影は塵のように消えていった。
「良かった、当たった」
「花音おまえ、今日外しすぎ」
「すみませんねぇ。私だってほんとは剣術のほうが得意なんですー」
「花音の能力は中遠距離に向いてるだろ。必要なんだからそうなる」
「母胎になりうる霊力持ちの女を、傷つけたくないっていう意図も透けて見えるよ」
「……誰かに何か言われたのか」
花音はそれには答えないで、拳銃を腰にあるホルダーにしまった。隊舎へと歩き出すと、怜もその後ろに続く。
深夜にもかかわらず、運輸用の蒸気機関車が視界の端を通り過ぎる。黒鉄の装甲は橙色の外灯に照らされて鈍く光り、東の首都東京へと走っていくのだろう。
動力源はバスターフレイムというエネルギー。百年と少し前に起きたエネルギー革命により、世界の有様は様変わりした。一度精製すると半永久的に近く使える画期的なエネルギーなのだが、同時に排出されてしまうアシュレムガスという排気ガスは、人や動物の肺に対して有害だった。そして、先ほど花音たちが滅した『異形ノ闇』になり得るものである。
闇は破壊や殺傷を起こす。放置すれば成長して自我を持ち、人に取り憑く『憑キ闇』に進化を遂げ、さらなる災厄を引き起こすのである。
花音たち闇祓い特務官は、闇に対処する戦闘職の国家公務員であった。
「花音、余計なことを言われたんなら俺の名前を出せ。一応許婚だろ俺たち」
「おじい様同士が勝手に口約束で決めただけのでしょ。次期公爵様の威を借りることなんてできません」
花音がそう言うと、怜は仏頂面をする。雄々しくも美しいかんばせが眉をひそめると、それだけで威圧感が増すのだが、花音は慣れっこであった。
「それはそうだが。対外的には許婚ってことになってる」
怜はこの取り決めに納得していない、らしい。ただ、許婚でもいないと望んでもいない縁談やお誘いが降って湧いてきて困るので、虫除けのためにもそのままにしている。
花音のほうも似たようなものだ。花音の霊力目当ての縁談がきて困ることはわかっているので、許婚の約束をそのままにしている。
「でも正式に婚約は交わしていないし」
「同じようなもんだろ」
今日はやけに食い下がるな、と花音は足を止めた。怜も同じように足を止め、高い位置から花音を見下ろす。昔は同じくらいの背丈のときもあったのに、思春期に入ったころ怜はぐんぐん背が伸びて、この近い距離で顔を見るには見上げないといけない。
怜は口を引き結んで黙っている。怖くも見えるこの表情は、花音のことを心配しているものだ。
「大丈夫だよ。そんなに困るようなことにはなってないし、私ってばそこそこ強いんだから。そこは認めてくれてるでしょ?」
「強いのは知ってる。でも俺が言ってるのはそういうことじゃなくてだな……。花音は霊力が高いし、……み、見た目はまあまあ可愛いんだから、力を増したい華族にとっては一族に欲しい嫁なんだよ。もっと気をつけろ」
「もぉぉ、お兄ちゃんたちみたいなこと言うじゃん」
「お前の兄じゃねぇ」
「知ってるし」
いつの間にか言い合いになっていき、隊舎に着いて報告にあがるときには「また喧嘩したの?」と同僚に言われたのであった。
○
夜勤明けの翌朝は遅い。闇祓い特務官の仕事は夜が多いので、戦闘職の出勤時間はだいたい夕方である。実戦勤務明けは、霊力を回復させるためと、急な出動に備えるための休養日となっている。人手が足りないので毎日でも出勤してほしいのが国の本音だろうが、それで体を壊し、いざというとき人員が足りなくなったこともあり、今の勤務形態ができあがった。
もちろん、休養が必要でない者の出勤は歓迎されている。ただ花音は、心配性の兄四人と、ついでに許婚で幼馴染みの怜から『絶対に休むように』と厳命されているため、基本的に休養日としている。
午前十時に目が覚めた花音は、軽い身支度と、用意してくれていたおにぎりを食べ、道着に着替える。敷地内の道場で武術の稽古を行い、精神統一をして気を高めたら、汗をかいた体を水で流し、普段着の袴姿に着替える。橘家に生まれた者として、これが花音の日課であった。
今日は紫色の矢絣柄の着物に、えんじ色の袴という定番のコーディネートにした。仕事の制服が洋装なので、普段着は和装でいることが多い。東京のほうは洋装のほうが多いと聞くが、京都では半々というところだ。男性は洋装のほうが多いようだが。
「花音お嬢様、昨夜もお勤めお疲れ様です。お昼ご飯は何時頃にいたしましょう」
「おはよう佐代。もういつでも食べられます。できればお母様たちと食べたいかな」
「それでしたら、もうすぐ昼餉を出すところですよ。今日は眞誠様もいらっしゃいますので、お喜ばれになると思います」
「眞誠お兄ちゃんもいるの。だったら稽古つけてもらったらよかったな」
佐代はふふふと笑って母屋の方へ下がっていった。
橘家の屋敷は広く、いわゆる武家屋敷である。かつては名高い武士の家系であり、今は軍人の家系だ。伯爵位も持っていたらしいが、三十二年前、祖父の代で返上したと聞いている。
佐代は橘家に旧くから仕えてきた家系の一人で、爵位を返上したあとであるのに、使用人として働いてくれている。花音の母より少し年上の、優しい女性である。
花音は長い廊下を進み、家族のいる居間のほうへ向かった。
眞誠は上から四番目の兄で、花音の二つ上の二十一歳である。花音に似た可愛らしい顔立ちをしていて雰囲気は優しいのだが、橘家の男である。中身は好戦的な武人だ。
「昨夜はお疲れ様。そろそろ銃には慣れた?」
「少しは慣れたと思うけど、正直自信はあまりない」
「まぁねぇ。花音は僕たちとずっと剣術や武術の稽古してたんだから、中遠距離をいきなりやれって言われてもねぇ。可哀想だなって思うよ」
ありがとう、と食後の緑茶を飲む。居間にしている和室には、黒檀の四角い座卓を中心に、赤茶色の座布団や柔らかい座椅子が並んでいる。眞誠は長い脚を投げ出すようにして寝転がり、本を読んでいた。
花音は一息つきながら、縁側の向こうに見える庭の金木犀を眺めた。時折吹いてくる風に乗って香る匂いは心が休まる。
庭師がいつも手入れしてくれているので、橘の屋敷は四季折々が見もので美しい。
「でも花音の銃はかっこいいよ。僕たちの中でも話題だし。それに花音の場合は接近戦に持ち込まれても対応できるでしょ? 銃使いこなしたら怖いものなしじゃん」
「えっ! 話題になってるの!?」
「なってるなってる」
率直に言って嫌だな……と思いつつ、花音は茶器に口をつけた。眞誠は花音と同じ闇祓い特務官で、隊こそ違うが先輩にあたる。
闇祓い特務官は軍属であり、正式には闇払い特務課という部署だ。人は誰しもささいな霊力を持っているが、闇を祓えるほどとなると特別に霊力が高く、身体能力が高くなければ特務官にはなれない。
アシュレムガスが蔓延するこの世の中では、霊力や神気といったものが殊更重要視されるようになった。毎日二回、日の出と日没にあわせ、神職や巫女が浄化を行ってようやく人は肺病に冒されず生活できている。
家庭の神棚での祈祷や祈願も効果があるので、霊力の高い者――特に娘――はどこの家も欲しがるのである。特に華族は。
「花音お嬢様、二条院様が訪ねてこられましたよ。どこにお通ししましょうか?」
のんびり一息ついていると、笑みをたたえた佐代が花音を呼びに来た。
「怜が来たの? え、何故」
「そりゃあ花音に会いに来たんでしょー。大事な許婚殿なんだし」
眞誠は本を置いて起き上がり、座卓に頬杖をついてニヤニヤ笑う。二人の関係性が名ばかりの許婚であることをわかっているので、完全に揶揄っているのである。
「ええと、神棚のある座敷に案内してもらえますか? 私はお菓子でも用意してから行きます」
わかりましたと微笑んで佐代が踵を返す。
怜はあの座敷が好きなのだ。台所のほうに頂き物の生菓子があったはず、と花音が立ち上がると、眞誠がひらひらと手を振った。
「許婚同士の語らいは邪魔しないから、ゆっくり愛を深めておいで」
「眞誠兄ぃに婚約者ができたときには、同じように揶揄うからね?」
花音が睨むと、眞誠はやり過ぎたと苦笑した。
「ごめんごめん。僕はね、花音も怜も好きなんだよね。二人が仲良くしてほしいのは本当なの」
「幼馴染みとしては、そこそこ仲良いですー」
怜は花音の一つ上。二人が幼馴染みなら、怜と眞誠も幼馴染みである。怜は幼少のころから橘家に稽古をしに来ていたので、家族全員がよく知っている。
そもそも花音の祖父と怜の祖父が盟友、家族ぐるみの付き合いがある。花音の父と怜の父である二条院公爵も竹馬の友だ。
橘家が華族でなくなったあとも、両家の交流は何も変わらなかった。
お盆に上生菓子を乗せて座敷に行くと、怜は神棚に向かって目を瞑り、手を合わせていた。今日は洋装で、薄茶色のズボンに白いシャツ、上質そうな黒のカーディガンを着ている。
二条院怜という青年は、社交界のみならず市井でも人気の美男子である。身長が高く、鍛え上げられた体は頼もしく、黒い軍服をさらりと着こなして歩く姿はうっとりとするらしい。大きな切れ長の目は印象深く、じっと見つめられると虜になって、全て見透かされた気持ちになる……のだそうだ。
舌っ足らずのころから怜の顔を見慣れている花音ですら、非常に整った顔立ちをしていると常々思う。はっとするような目元を中心に、すっととおった鼻梁も、美しい顎のラインも、顔のパーツが全て完璧に調和しているのである。任務のために短く切ってある黒髪も爽やかである。
「ああ、お邪魔してる」
花音の気配に気付いた怜がこちらを振り向いた。花音が縁側にお盆を置いて座ると、怜も隣にそっと座る。
見た目もさることながら、怜は中身も優秀だった。勉学もそうであるし、身体能力も高く、しかも霊力も高い。二条院家は代々宰相など、政治に関わる役職に就くことが多いが、怜は霊力の高さから闇祓い特務官を選んだ。『できる者が限られているから』と言っていた。いずれ政治の道を歩むかもしれないが、今は京都および国を守る大事な戦力である。
「恵様の神棚はいつも見事だな。神気が違う。流石だ」
「母様は嫁ぐ前は巫女だったしね。今も何かしらお務めしているし」
怜がこの部屋を好きな理由が、花音の母が毎日まつっている神棚なのである。
「それで、昨日の今日でどうしたの。あ、これ、和菓子どうぞ」
「ちょっと相談というか……。和菓子、どれ食っていい?」
「怜の好きなのどれでも。怜のために持ってきたんだし」
紅葉や、銀杏、秋の色を模したものなど、色とりどりに並べられた上生菓子の上で、怜は手を彷徨わせている。大きな手が右往左往しているのが面白くて、花音は笑った。
「そんなに好きなら全部食べていーよ」
「いや、一緒に食おう。それでだな……今度の夜会、一緒に来てほしい」
「え」
「……許婚として、同伴してほしい」
びっくりして怜を見るも、真っ直ぐ真剣な目で見つめられ、花音は視線を逸らした。縁側から見える庭の、咲き始めた白い山茶花をぼんやり眺める。
「それって華族の集まり? 私のとこ、華族でなくなってかなり久しいんだけど」
「華族だけじゃない。軍や政治の中枢にいる人たちも集まる夜会だ。……それに、花音は俺の許婚なんだから、関係ないだろ」
「関係はあると思う……。許婚って言っても、おじいさま同士の口約束じゃん。正式な婚約を交わせないのだって、橘が庶民だからだよ。いつだって蹴れる存在だから、怜の許婚って言われてても放置されてる」
怜は二条院家の嫡男だ。本来なら、もっと嫌がらせや妨害などあってもおかしくない。
「花音は橘大将の威光を知らなすぎる。お父上の橘大佐だって、それはもう恐ろしい存在なんだぞ……」
「うーん。でも庶民だよ」
「こんな庶民の家があってたまるか。まぁ、今はそうだが……。ともかく! 夜会に来てほしい。っつーか、来い!」
「でた! 命令形!」
「ごめん言い直す、来てください!」
「そうやってすぐ謝れるところは怜のいいところだと思う……」
がばりと、怜が頭を下げている。花音は、滅多に見られない彼のつむじをじっと見た。
そのまま数秒、数十秒と時が流れた。
「……これ、うんって言わないと終わらないやつ?」
怜は黙ったまま微動だにしない。
うーん、と唸った花音は、小さくため息をついた。
「夜会って、ドレス?」
ばっと顔を上げた怜は、満面の笑みだった。花音が諦めたのを悟ったのである。
「そのとおり。俺が用意する」
「えっ、悪いよ」
「それぐらいさせて。付き合わすんだから」
「……モテすぎるご令息というのも大変だねぇ。虫除けに幼馴染みと許婚でいなきゃいけないし」
怜本人がまだ恋愛したいと思っていないところは幸いか――と、うんうん頷いていたら、仏頂面をした怜にぱちんとおでこを弾かれた。
痛くはないが、意味がわからない。
「なんで!?」
怜にまたぱちんとおでこを弾かれる。
「だからなんで!? やり返すよ!?」
思いっきりやってやる、と指先に力を込めて怜のおでこを弾いた。怜は無防備にバチンと受け止め、仏頂面のまま花音をじっと見ている。
「どうしたの!? なんか怖いんだけど!」
怜は呆れた様子でため息をき、上生菓子を一つまるごと口に放り込んだ。
そのままごろんと仰向けに寝転んだので、花音は膝掛けを取ってきて怜の体にかけてやる。
「そーいうとこぉ……」
そう言った怜は、横向きにごろんと寝返りを打った。
日の当たる縁側というのは昼寝をしたくなるものである。花音が隣でお茶を啜っていると、そのうち寝息が聞こえてきた。昨夜帰宅したあとも、仕事か何かしていたのだろう。今度は毛布を取ってきて、さらに怜の体にかけてやり、自分は本を読むことにした。
そのうち眞誠がやってきて、二人で花札をしていると怜が起きた。
本当に寝るつもりはなかったらしく、少し恥ずかしそうにしているところは可愛いと思った。
○
誘われた夜会は花之繪侯爵が毎年主催しているもので、二条城近くの吟栄館という洋館で行われる。花之繪侯爵家と二条院公爵家は懇意にしている仲なので、「噂の許婚も一緒に」と言われたら怜も断りにくかったのだろう。
この日の真昼、怜が自動車で花音を迎えに来て、公爵邸に連れて行かれるとすぐにドレスの準備が始まった。入浴やマッサージ、丁寧なスキンケアで花音はぴかぴかのつるつるになり、用意してくれていたドレスに着替えた。セミオーダーだとしても二週間で用意したとは思えない、花音の体にぴったり合うドレスである。
襟元は慎ましい丸い形で袖はなく、高めのウエストラインからふくらはぎまで、何層にも重ねたスカートがふわりと軽やかに広がる。上品な瑠璃色の生地で、銀糸を縫い込んでいるのか動くときらきらと輝く。真珠とダイヤモンドのネックレスに、真珠のイヤリング、編み上げてまとめた髪にも真珠の髪飾りが飾られている。ストラップ付きの黒いヒール靴も、小さな鱗のような光沢が優美で、足に吸い付くような履き心地である。
(すごい……あまり気乗りしていなかったのに、気分が上がってしまう)
身支度を終えて怜のもとに向かうと、怜も花音と揃いの瑠璃色のタキシードを着ていた。中のベストとネクタイは黒で、前髪は半分後ろに流している。いかにも許婚同士合わせました、というのが一目瞭然のコーディネートだ。
(てっきり、怜は軍服の正装で来ると思ってた……)
「用意できたか、かの……」
顔を上げた怜が言葉を止めた。花音は小首を傾げ、一拍おいて気付く。
「似合ってない……?」
「ち、違! 似合ってないことはない」
「そう? ならいいんだけど」
ほっとして胸をなで下ろす。洋装でドレスアップするなんてあまりないので不安だったのだ。
そこで、花音をここまで連れてきてくれた初老の執事がクフフと笑った。
「素直にお褒めになったらよろしいのに」
「え!」と驚いたのは花音も怜も、両者ともだった。
「花音様がこんなに可憐に美しく着飾っているのに、スマートに褒められないのは真摯の名折れですよ」
ホッホッホと声を立てて笑いながら、執事はそそくさと部屋を出て行った。
花音と怜は顔を見合わせて沈黙する。
「……ほんとに、似合ってる」
絞り出すように怜が言った。無理に言わなくていいのに――と言おうとして、怜が恥ずかしそうに視線を落としているのを見て、止めた。
「怜も似合ってるよ。カッコイイ~! って言われるのが目に見える」
「お前もカッコイイって思ってるわけ?」
「え? うん」
そんな当たり前のことを確認した怜は、「そっか」と呟いて立ち上がった。口端が少し上がっている。
意外なことに、嬉しそうである。
執事たちに見送られて、運転手が運転する車で花音たちは吟栄館に向かった。公爵邸が所有する中でも大きいこの自動車は、こういった夜会の送迎に使われるそうだ。外装は黒くつるりと磨かれ、後部座席の窓は中が見えにくくなっている。中は広々としていて小さなテーブルもあり、座席も広く、座面はふんわりしている。
自動車の動力源は、バスターフレイムでなくクラフトフレイムである。稀少鉱石の焔耀石を使わずに作ろうとした疑似エネルギー源で、バスターフレイムに比べると何段も落ちる。ほかにも、家電などはこのクラフトフレイムが動力源であり、等級によって動力がまったく違う。しかしアシュレムガスが排気ガスとして排出されることは同じだ。
人々の営みに、アシュレムガスは付きものなのだ。
「そうそう。怜、確認したいんだけど」
花音は正面に座る怜に向けて、ドレスの裾をぐいっと上げる。膝小僧が見え、太腿の上をゆっくり引き上げていく。
「はっ? 花音、なにして……っ」
「銃一丁、持っていっていいかな? 不安で」
普段は隠されている花音の真白い太腿には、ごつい革のベルトが二本締められていた。ホルダーに収まっているのは、相棒のリボルバー拳銃である。ドレスと、白い太腿と、ベルトに銃。おかしな対比だった。
「……」
「あっ、やっぱり、だめ?」
「……踊るかもしれないから、小型のナイフくらいに、しとけ……」
「ナイフだったらいいの? 銃、車に置いてっていい?」
うん、と怜が頷いたので安心する。吟栄館に預けるよりも、二条院公爵所有の車に置いていったほうが安全である。
吟栄館は上流階級の社交場、接待の場として使われており、煉瓦色の屋根瓦、白亜の壁、装飾のように並ぶアーチ型の柱が特徴の洋館である。二階建てで、一階には吹き抜けの広いホールがあり、舞踏会を催すことも多い。
シンメトリーに整備された広大な庭は車で入ることができ、入り口近くで下ろしてもらう。
「ほら、許婚殿。今夜はよろしく頼む」
先に降りた怜の手をとり、花音は緊張しながら車から降りた。
夜会はある意味戦場である。
怜にエスコートされながら、花音はアーチをくぐった。
夜会は思っていたとおりのものだった。上流階級の交流、人脈作り、政略結婚の市場――怜はあちこちから声をかけられ、冷たく思われない程度にそつなくこなしている。
隣にいる花音は、「わたしの許婚の橘花音さんです」と紹介されたとき、会釈して挨拶するだけである。これが噂の許婚か……という値踏みする不躾な視線を浴びるが、気にしないでニコニコしている。
軍人家系の橘家のことは、華族や関係者にはよく知られているので、元華族の庶民ということも知られている。こんなところまでノコノコ来る厚かましい庶民……といった蔑み混じりの視線もあるが、気にしない。むしろそのたびに、手袋をはめた手をギュギュ……と握りしめている怜のほうが気にかかる。
花音自身は本当に気にしていない。華族の矜持を誇りとして生きている人たちにとっては、当たり前の感想だからだ。
「花音、あっちでちょっと休もう」
「え、うん。もう大丈夫なの?」
花音を見る怜の瞳が心配そうに揺れている。「ごめん」とは言わないけれど、瞳が物語っていた。
壁際に寄り、オレンジジュースを手に取って口につける。酸味がさっぱりして美味しかった。
「怜はそれシャンパン? お酒って美味しい?」
「ただの炭酸水。俺はこういう場で酒は飲まない。花音も飲むなよ」
「私が二十歳になったら家族そろって酒盛りの会をするらしいよ。怜も呼ばれるんじゃない」
「家族団欒の中に入るのは申し訳ないな」
「今更じゃない? お兄ちゃん一家も来るだろうし。変なところで遠慮がちだね許婚殿は」
怜はようやく、緊張を解いたような柔らかい笑みを浮かべた。花音のほうに身を屈め、「じゃあお邪魔する」と耳元で囁いて離れる。ほんのりした菫の香りにのって、怜本人の匂いがした。
ちらりと、ご令嬢方からの視線を感じる。親密そうなやり取りは、許婚としての虫除け効果を期待するものだろう。しっかり注目は浴びているので、仕事はこなせているようだ。
花音は駄目押しに、怜を見上げてうっとり微笑んだ。怜もわかってか、艷やかに甘く微笑み返してくれる。会場から、静かにざわめいた気配を感じた。
しばらくして、怜がまた壮齢の男性から呼ばれた。年上の男性が五人ほどいる輪のようだ。怜は断ろうとしたが、花音はその背をそっと押した。
「私なら大丈夫だし、ここにいるから行ってきて」
「いや、俺は花音の傍に」
「男同士の社交も許さない許婚、って言われるほうが問題でしょ。ほら、行ってきて」
ぐ、と花音に向けて顔を顰めた怜は、社交用の儀礼的笑みを貼り付けて呼ばれたほうへ向かった。
花音はできるだけ気配を消しつつ、会場を眺めながら軽食のサンドイッチを頬張る。遠くから見ていると、人間関係がなんとなくわかる。しかしあの中に入ってうまくやる自信は全くない。花音は体を動かすほうが得意なのだ。
怜は男性たちに挨拶すると談笑もそこそこに引き上げてくる。その途中、気品漂う二人に呼び止められた。怜の二条院公爵家と同様、各方面に顔が利く上鷺宮公爵と、赤いドレスを着たご令嬢である。亜麻色の髪の彼女は、遠目からも美しかった。くびれのあるスタイルはドレスを着こなしていて、襟ぐりは開いているが下品ではなく、彼女の魅力を引き立てている。耳から揺れるイヤリングがきらりと光を弾いた。
上鷺宮公爵の娘ではないのは花音も知っているが、彼女は誰だろう。
「彼女は藤大路伯爵のところのお嬢さんですね。妃佐子嬢は今の社交界の花ですよ。上鷺宮公爵の姪にあたります」
「へぇ、そうなんですね。……って、あなたは誰ですか」
花音に横に並び立ち、声をかけてきたのは式典用の軍服姿の男性である。年は同じか、少し上か。花音と同じように飲食しに来たのだと思っていた。
「あー、知らないかぁ。一応、同じ闇祓い特務課にいるんだけど、隊舎も離れるもんね。僕はもちろん知っているけど、橘花音さん。特務課の執行服もいいけど、ドレス姿も綺麗だね」
「それは……失礼しました!」
先輩だった。
花音慌てて右手を左胸に当て、簡易な敬礼の挨拶をする。
「やめてやめて。ごめんね先輩風吹かしたふうになって……そんなつもりはなくて、そのォ……橘さんと話してみたかったんだよね。僕は所属三年目の壬生昴輔。一応子爵家の人間です」
「壬生さん、ですか。はじめまして」
今度は淑女風のお辞儀をすると、壬生は面映ゆそうに笑い、お辞儀を返してくれた。
特務課は男所帯で、女の隊員はまだ少ないのだ。花音には兄もいるので知られているのだろう。
「二条院殿とは許婚同士なんだっけ」
二人の目線の先には、怜と妃佐子が話している。麗しい、絵になる二人である。身分的にも釣り合っており、二人を見てため息をつく者もいた。仲介役の上鷺宮公爵は、一歩引いてにこやかに二人を見守っている。
「そうです。祖父同士が決めた許婚です」
「橘大将と二条院公爵……威圧感がすごい」
二人並んだところを思い出し、花音はふふっと笑った。仕事中の姿を見たことがほぼないので知らないが、とても怖いとは聞いている。しかし宴会の席では気のいいおじい様なのである。
花音が笑うと、つられて壬生も笑った。あけっぴろげに、しかし静かに笑う人だ。飄々としているのに、静かに根を張る樹のような雰囲気を持っている。
「おや、橘家のご息女ではありませんか」
ヒヤリとする声だった。父と同じくらいの年の男性が、花音たちの前を通りかかった。見るからに花音の思う華族っぽく、嫌な作り笑いをする人だった。
「藤大路伯爵ではないですか。こんばんは」
隣にいる壬生が挨拶する。妃佐子の父親ということか。
壬生がいくらか話し相手になってくれていたのに、藤大路伯爵は花音に会話を向けてきた。
「橘家のお嬢様、のご活躍は耳にしていますよ。私の娘にはお会いしましたでしょうか。ほらあそこに……二条院怜殿といますね」
伯爵が目を向けた先では、怜と妃佐子がまだ語らっている。伯爵のやりたいことがわかるので、花音の胸の内がすぅっと冷えていく。
「噂では怜殿の許婚であると聞きましたが、婚約されているのですか?」
「いいえ、正式な婚約は交わしておりません」
これが聞きたかった――いや、言わせたかったのだろう。
そう、祖父や父たちが許婚であると牽制のように言いふらしているが、正式な婚約は交わしていない。公爵家と庶民なのである。橘も以前は華族だったとはいえ相手は公爵家嫡男、超えられない身分差がある。
(ほんと、宙に浮いている取り決めだ……)
実現不可能と言っていい。
花音が言うと、藤大路伯爵は満足げに目を細めた。
「壬生殿とは同じ国軍務めですね。普段から仲がよろしいので? こうして見ると二人ともお似合い――」
「ごめん遅くなった! 踊ろう、花音」
「えっ」
いつの間にか戻ってきた怜が、藤大路伯爵の話を断ち切るように言葉をかぶせ、花音の手を掴んでホールへと誘う。怜は伯爵に挨拶もしなかったし、かなり強引なやり方に花音は目を白黒させる。
「えっ、怜? 踊るの!?」
「戻るの遅くなった俺が悪いけど、すぐ男に寄りつかれてるじゃん。あれ、壬生昴輔だろ。十番隊の大剣使い」
「あっ、大剣使いの人だったら知ってる! えー、あの人だったんだ」
「口説かれた?」
「そんな馬鹿な。挨拶です挨拶。怜こそ妃佐子お嬢様とずっと喋ってたじゃん」
「上鷺宮公爵がいたら断れないだろ」
ふうん、と素っ気なく返す。
ホールではちょうど一曲終えるところで、空いたスペースに怜が入り込んだ。
「ほんとに踊るの? ワルツなんてあまり踊ってこなかったんだけど」
「花音ダンスうまかっただろ」
「あれはタンゴ。それもお兄ちゃんと遊んでやってるやつだから、目茶苦茶だよ」
「じゃあ適当に、俺に任せてくれれば大丈夫」
「えぇえ」
そう言い合っているうちに優雅なワルツが始まる。正直ステップの自信はないが、怜と息を合わせることは慣れている。ニカッと笑う怜を軽く睨み付けて、挑むように怜についていく。踊り始めるとステップの記憶が蘇り、楽しくなってきた。
「これ踊ったらもう帰ろう。義理は果たした」
「そう? じゃあもう疲れたから、さっさと帰ろ」
一曲踊り終えた二人は、鍛えられた俊足でホールを退出し、主催者に挨拶して帰路についた。
「ドレスや宝石、今度お返しするね」
「何言ってる? それはもう花音のだから」
え、と言い返す間もなく、公爵家の車は花音を橘邸に置いて去って行った。
「まさかプレゼントってこと……?」
花音の呆然とした声だけが深夜の空に消えていった。
○
夜会から一週間。給料が出た花音は、冬に合わせた帯留めを新しく買おうと街に出ることにした。クリーム色の生地に秋の紅葉や花を描いた着物に、濃紺の袴を合わせ、靴は走りやすい編み上げのブーツを履く。半幅帯は黒のレースだ。
橘の屋敷は上賀茂のあたりにある。京都の東西南北を走る路面機関車に乗り、まず四条河原町まで出た。
せっかくなので八坂神社でお参りした花音は、西に向かって歩いていた。鴨川を渡った先の先斗町で、よく知る背中を見かけた。軍服ではなく、黒のジャケットを着た怜だった。背が高いのですぐにわかる。昨夜も共に闇祓いをしたので、怜も今日は休みなのである。
怜の隣には、亜麻色の髪を垂らしたご令嬢がいた。クリーム色と藍色のツートンカラーでデザインされた、モダンなワンピースを着ている。距離にして二十メートルほど先だろうか。二人は親しげに笑っている。
花音は驚きでその場に立ち尽くした。気品溢れる美しい彼女は、藤大路妃佐子お嬢様である。
上鷺宮公爵の仲介では断れないと言っていたのは……藤大路伯爵が意味ありげなことを言っていたのは、婚約のことではないかと思い至る。
怜は無駄なことを嫌う。興味がないのにご令嬢とデートするようなタイプではない。
(……。そう、もともと、橘と二条院公爵家が許婚なんて、ありえなかったんだし……)
藤大路伯爵家ならば釣り合う。家格は伯爵だが歴史があり、夫人は上鷺宮公爵の妹である。
(それに、本当に絵になる二人……)
花音が見つめすぎたのだろうか。ふいに、怜がこちらを振り向いた。雑踏の中、怜はすぐさま花音を見つけた。目が合った瞬間、 怜はわかりやすく『しまった!』という顔をする。
花音はプイと顔をそむけ、北側にいる怜を無視して西へと歩く。
(そんな顔、されても!)
怜の焦りと動揺を感じ取り、なんだか胃の中がムカムカしてくる。
カツカツカツとブーツを踏み鳴らして早歩きになっていると、前方から女性の叫び声が聞こえた。
「ひったくりです! 刃物を……!」
枯れ草色の上着を着た男が小刀を振り回しながら走ってくる。取り押さえたくても危険で、群衆のどよめきだけがあがる。
「失礼、これを持っていて!」
花音はすぐ近くにいた男性に自分の鞄を押し付けるように渡し、ひったくり犯の真正面に立ち塞がる。
「どけやこの女!」
男は威嚇のためか、花音に向けて小刀を振り回した。軌道や狙いは目茶苦茶だ。
花音は神経を研ぎ澄ませる。相対するその一瞬、男の攻撃を躱し、小刀を持ったほうの手首を捉え、ひねりながら投げ飛ばした。間近で見た男の瞳は白と黒が反転しており、ほんの少しだけ黒い霧のようなものが体から漏れていた。
悟った花音は地面に転がる男を追撃し、首の後ろに手刀を叩き込む。静かになった背中に手をあてて、闇祓いの祝詞をあげて霊力を直接注ぎ込んだ。
「――かしこみもうす、かしこみもうす」
男の体から黒い霧が滲み出てきて、剥がれたところからさらさらと消えていく。
(憑キ闇に取り憑かれてた……こんな昼間の街中で暴走するなんて珍しい)
警察の憑キ闇課に引き渡す必要がある。花音は近くにいる人たちに警察を呼んでもらうよう頼み、投げ飛ばした際に飛んでいった財布を拾った。被害者らしい女性に渡すと何度もお辞儀して感謝される。
「あ、あのっ、お嬢様の鞄です」
花音が咄嗟に鞄を預けた若い男性が、両手で献上するように渡してくれる。
「ありがとうございます。強引ですみませんでした」
「いえ、光栄でした! その、すっごく格好良かったです……!」
目を輝かせて言ってくれた。同世代の男からそう言われるのは新鮮で、少し嬉しい。
「花音! 大丈夫か!?」
よく知った声にびくりと肩がはねる。静かに深呼吸して振り向くと、やはり怜だ。心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫。憑キ闇に取り憑かれてたみたい。祓ったけど、私もこのまま警察で説明する。だから大丈夫」
「……そうか」
「大丈夫だから、デートの続き、してきたら」
「デっ……!」
日常会話みたいに、普通に言うつもりだったのに、口から出ていった声音は冷たかった。
「妃佐子お嬢様と一緒でしょ。許婚と言われている私といたら、感じ悪いよ。ほら、行ってきて」
「言われている、じゃなくて許婚だろ」
「もぉ、いいから。きっと待ってるよ」
怜の肩をぐいぐいと押して遠ざける。やはり東のほうから「怜様ー?」と呼ぶ声がする。怜は一瞬躊躇う様子をみせたあと、花音に向き直って言った。
「花音が思ってるようなやつじゃないから」
デートのほかの何ものでもないが? と思ったが、賢明な花音は無視をした。
再度「怜様ー!」という声が聞こえ、怜は東へ歩き出す。
花音の心臓がドクドクと音を立てる。それも全部知らないことにして、花音は警察の到着を待った。
取り調べや捜査に協力し、帰宅できたのは夕方になるころだった。深い青が橙色の空を迫っていく夕闇の時間、木々や地面も濃い橙色に染まるのが花音は好きである。
路面機関車の最寄り駅から自宅への帰り道、変わりゆく空を眺めながら石畳を歩く。すると背後のほうから自動車の音がした。アクセルを踏み込んだような、普段とは違う路面を滑る音に花音は振り向く。見ると異常なスピードで自動車がこちらに向かってきた。花音の全身が怖気立ち、道路と逆の塀のほうへ全力で駆けて跳躍した。身の丈よりも遙かに高いそれを登りきり、塀の上でもさらに駆ける。
数秒後、花音がいたあたりに自動車は突っ込んだ。すごい音がして塀にぶつかり、車の前方はひしゃげ、壁は半壊している。
(気付くのが遅れてたら、死んでた……)
花音は心底ぞっとした。遅れて心臓がバクバクと嫌な音を立て、手が震えてくる。ゆっくり慎重に塀の上から飛び降りて、車の中の人の無事を確認しに行く。
どうやら運転席にいる男一人しかおらず、額から血が流れているが、体が圧迫されていることはなさそうである。準軍用車仕様だったのか、車が頑丈だったのは不幸中の幸いかもしれない。ただ、気を失っており、声をかけても返事がない。
花音は緊急事態として、再度塀の上へと跳躍すると、そのまま敷地内に入った。この長く続く塀は橘の屋敷をぐるりと囲むものだったのである。防犯の術式が張られているため、勝手にくぐれば緊急通報がなるが仕方ない。一刻も早く病院に搬送してもらわねば危険かもしれないからだ。
花音が庭に下りたってから数十秒後、剣を片手に現れたのは殺気を放った怜だった。侵入者が花音だと知り、呆れた顔をする。
「ごめん私。表に救急車、早急に呼ばないとって」
やや遅れてやって来た道場の門下生たちが、花音の説明を聞いて後の対応をしてくれることになった。
怜は一旦屋敷に戻る花音の傍をついてくる。花音を覗き込む顔は暗く怖い顔をしていた。
「轢かれそうになったって?」
「ちょっと危なかった。……てゆか、怜はどうしてここにいるの」
「花音めがけて突っ込んできたのか?」
花音の質問には無視して、深刻な顔をした怜は重ねて訊ねてくる。
「そう。運良く気付いて避けれたから良かったけど……。てゆか、怜は?」
うん……と生返事をした怜は、そのまま一緒に屋敷内に入った。警察も来るだろうから、座敷で待つことにする。本日二度目の事情聴取である。
佐和が持ってきてくれたほうじ茶を一口飲むと、そこまでぼんやり考え込んでいた怜が口を開いた。
「花音。しばらく仕事休めないか? 嫌な予感がする」
「は? 無理でしょ」
「それが案外無理でもない」
だいたい理由がない、と花音が言っているのは聞こえていないのか、怜は目をぎゅっと瞑りうんうん唸っている。「でもなぁ花音がそんな言うこと聞くわけないしなぁ」など聞かせてくるような独り言も言っている。
「ところで怜はどうして我が家にいたの」
怜は思い出したようにハッとして、正座し直した。
「説明をしに」
「説明を」
ふうん、と花音は顎を持ち上げ、半眼で怜を見つめた。
「妃佐子嬢といたのは花音が思っているようなやつじゃない。ほんとに」
「デートじゃないって言いたいの? じゃあ何してたの?」
「……妃佐子嬢の買い物に付き合って、カフェでお茶して、帰った」
「デートのほかの何ものでもないが?」
怜はぐっと奥歯を噛み締めた。分が悪いのはわかっているらしい。
「そうかもしれないけど、デートじゃないんだって!」
往生際が悪い。
「べつに? 怜のデートを責めるような立場にはないし? だいたい許婚なんておじい様たちが言ってるだけだし。そもそも身分が違い過ぎて現実味はないし。二条院のおうちも、藤大路伯爵家とのご縁のほうがいいでしょ。妃佐子お嬢様、すごく綺麗な人だったし、怜ともお似合いだった。……だからそもそも、説明も何も必要ない」
花音がまくし立てるように言うと、怜は自分の口元にバチンと手を当てて顔の下半分を隠した。目元がやや赤く、若干震えてすらいる。
「どうしたの」
「いや、それ、花音……嫉妬?」
「しっ……はああああ!?」
なんでそうなる! と花音は怒っているのに、怜は両手で顔を覆ってそのまま畳の上に寝転がり、横向きになって身体をやや丸めている。
聞いちゃいない。
「ちょっと! なんで笑ってるの! 違うんですけど!」
「笑ってなんていない……っ」
「じゃあ顔見せてよ!」
「ムリムリムリムリ絶対見せられない」
怜の腕を引っ張って剥がそうとしたが、力が強すぎてびくともしない。
ああだこうだとしているうちに警察が到着したらしく、門下生の一人が呼びに来る。
「花音さん、警察が――アッ、えと、すみませんお邪魔してしまって……!」
座敷に顔を出した門下生は慌てて廊下に戻った。躍起になっていた花音は怜の上半身に半ば乗り上げて、腕をぐいぐい引っ張っていたのだった。
一見したらイチャついているように見える、かもしれない。
「うわ! 違、違います! 誤解です! すぐ行きますから!」
「ふっ……くくく、積極的な許婚だなぁ」
笑いを堪えた怜が軽口を飛ばす。
「な・に・を・言ってるの!」
二度目の事情聴取では、ずっと隣に怜がいた。
後日知らされたことには、運転手は憑キ闇が憑いていたのだという。
○
昨日、怜には仕事を休みように言われたが、花音はもちろん出勤した。今日は内勤と見回り点検業務で、明日は出動日、その翌日が休日になる。
点検業務では蒸気機関車やゴミ焼却炉など、バスターエネルギーが使われている物や設備を回る。アシュレムガスの排出量が多いので、必ず浄化の御神札を祀ってあり、御神札の確認や交換、周囲に異変がないか、特務官と神職者でチームを組んで点検して回るのだ。
出動は怜とバディを組むことが多いが、点検業務は幅広い年齢層でチームを組むので一緒にはなりにくい。
「異常はなさそうですね。御神札は交換しておきます」
「はい、よろしくお願いします」
今夜は神職者が一人、花音含む特務官が四人のチームで蒸気機関車の車庫に来ていた。各車両の点検が終わり、これで業務は終了。皆で車庫を出て帰路につく。
時刻は深夜十二時をまわったところ。あたりはしんとしており、花音たちの足音だけが響いていた。
最後尾を歩いていた花音は、背後の空気が揺れたのを感じた。嫌な予感に背中がゾッとし、振り向けば機関車の整備士の服を着た男が三人、建物の影からゆらりと現れる。
「ッ警戒!」
花音が叫ぶのと同時に、男たちは異常なスピードで走り花音に襲いかかってきた。人間の動きではなく、無理やり操られているような体の動きである。
花音は太腿のベルトホルダーにある特製の警棒を掴み、一振りでバチバチバチッと長さを伸ばす。襲いかかってくる男一人の攻撃を躱しながら回り込んで蹴り飛ばし、もう一人が振りかぶってきた抜き身の剣を受け止める。残りの一人も花音に刃を振り下ろしてきたが、追いついたほかの隊員が相手をしてくれた。
力をいなして相手の剣を弾き飛ばし、素早く胸を突く。後ろによろめいた男の揺れた瞳が白黒反転する。
「憑かれてますッ!」
花音の警棒がバチバチッと音を鳴らして白く発光し、プラズマが発生する。闇払いの霊力を込めて目の前の男を打つと、断末魔のような叫びをあげる。怯んだ隙に剣を落とさせ、関節技で押さえ込んだ。
(手荒でごめんなさい!)
背後では神職者が祝詞を浪々と謳っている。憑かれた残り二人も取り押さえられ、神職者によって浄化された。
事が終わると、あたりはまた静けさが戻る。
『浄化後の要救助者三名。場所は鹿ヶ谷の車庫、A四地点に頼む』
班長が無線で連絡し、花音たちはあたりを警戒しながら一旦力を抜いた。
「この三人、息を合わせて橘を狙ってましたよね」
一人がおもむろに口に出すと、皆が頷いた。
しかも明確に対象者を殺そうとした動きだった。
「操られているような動きじゃなかったですか? 上位の憑キ闇に操られていた可能性もあるのでは」
「橘は一番手前にいたから狙われたのでしょうか」
その言葉で、全員が花音のほうを向いた。
「えーっと……近くにいたし、私が一番弱そうだからじゃないですか」
花音が言うと、皆が苦笑いになる。
「一番弱そう、弱そうに見える、ね。ホンット、人は見た目によらないよなぁ」
「橘家ってどういう教育してんのか、怖い物見たさに知りたい」
「小さいときから橘の門下生してたのが二条院怜だろ? そういうことだよ」
「ああー……なるほど?」
そこでまた皆にじっと見られ、「なんでしょうか」と花音はたじろぐ。神職者の女性がポンと手を叩いた。
「先ほどの戦いを見てようやくわかったんですが、橘殿の『上賀茂の雷銃』という二つ名は、『雷獣』と『雷の銃』を掛けてつけられたんですね? なるほどでした」
「やっ……やめてくださいその恥ずかしいあだ名!」
入隊してしばらく後、花音についていたあだ名である。二つ名と言えば聞こえがいいが、要するにイジられている。
「カッコイイ二つ名思いついた! って俺たち会心の出来なんだけどなー」
先輩特務官がニヤニヤして言っている。
そんな話をしているうちに、待っていた車は到着した。
○
翌日の出動日、また憑キ闇が現れないか全特務官が警戒していたが、特にこれといった異変はなく、いつも通りの夜が過ぎた。
よって、本日は休日である。屋敷は花音以外の家族は出払っており、朝食ならぬ昼食を食べたあとは座敷にごろりと転がっていた。昨夜も市中の闇を祓って駆け回っていたので、少々疲れていた。
首だけ動かして庭を見る。お気に入りの金木犀も、ほとんど散ってしまっている。昔、木を揺らして花吹雪をつくる遊びをして怒られたな、とふいに思い出す。怜は花音に誘われただけでとばっちりだったのに、言い訳や恨み言一つ言わなかった。
(あのとき、格好いいやつだなって思ったんだった)
橘の屋敷のいたるところで、思い出せば怜との思い出がたくさんある。日ごろは忘れているのに、今みたいにふと思い出すのは何故だろう。怜もそうだろうか。
脳裏に浮かぶのは、怜と妃佐子が二人でいる姿である。
お似合いで、身分の釣り合いも取れて、麗しくお似合いの二人だった。
おじい様や怜が言う『許婚』には何かほかに真意があるのだろうと思っている。けれどその真意が何なのか花音はわからない。
(……考えるの、やめよ)
花音はごろりと寝返りを打った。そのまま昼寝でもしようと思ったところに、佐和が慌てた様子で駆けてくる。
「花音お嬢様、突然なのですが、今、藤大路伯爵家から使者が訪ねておいでで」
「……はいっ?」
一時間後、花音は金閣寺周辺にある藤大路伯爵家に来ていた。レンガ造りの門扉を抜ければ円形のロータリーと、木造の瀟洒な洋館が見える。左手前から奥に向かって西洋風の庭が続いているようだ。
花音は藤大路伯爵家の家紋付きの自動車から下り、薔薇の意匠のステンドグラスを見上げた。妃佐子からお茶会に誘われたのである。
招待状は藤大路伯爵家家紋の封蝋が押され、丁寧な文章で突然の訪問とお誘いに対するお詫びが書かれ、加えて花束と高級菓子折りも戴いた。それを断れる花音ではなく、急いで用意して自動車に乗り込んだのである。
二人きりのお茶会ですので、普段通りの服装でいらしてください――と書かれていたので、花音は紅葉柄の着物にアイボリー色の袴姿にした。靴は編み上げのショートブーツ、髪は簡単なシニヨンだ。
洋館の中を土足で歩き、庭がよく見える応接間に案内される。深い紅色を基調とした部屋は重厚で落ち着いた雰囲気がした。ビロード張りのソファに腰掛けて本を読んでいた女性が、花音に気付いてこちらを向いた。
「お越しいただいてありがとう、橘花音さん。一度お会いしたかったの」
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
花音が一礼すると、正面のソファを勧められる。そっと浅く座ると、妃佐子は微笑んだ。今日はモノクロトーンのワンピースを着て、髪は片方から流している。大輪の百合のような、それでいて静かに美しい人である。
「気軽に妃佐子と呼んで? 紅茶は好きかしら」
「あ、はい、好きです……妃佐子様」
ほどなくして紅茶とクッキーなどの茶菓子が運ばれ、妃佐子が目配せすると使用人たちが全員下がった。パタンと扉が閉じられ、紅茶を一口飲んだ妃佐子が小さくため息をつく。
「私が花音さんをお呼びした理由、わかってらっしゃると思うけど……。二条院怜様とは、本当に許婚なのかしら?」
(単刀直入に聞いてくるなぁこのお嬢様……)
妃佐子の言うとおり、怜に関わることだろうと予想はついていた。
「祖父同士の口約束です」
「そう……正式に婚約はしていないということね」
婚約していない、とは言っていない。最初から調べておいて、花音に話を振ったのである。
「花音さんは、このまま怜様と結婚できると思っているの?」
「いえ、怜殿は二条院家の跡取りです。私とはあまりにも身分が違います。非現実的でしょう」
「そう。花音さんもわかっているのね」
妃佐子は花音を哀れむような笑みを浮かべている。蔑んでいるわけでも、優越感に浸っているわけでもなく、自分たちとは住む世界が違う生き物に同情している視線である。
花音は黙って紅茶を飲んだ。妃佐子は華族らしいお嬢様だった。
「橘も、かつては伯爵であったと伺いましたわ」
「私が生まれる前の話です。今は普通の、道場を開いている庶民ですよ」
「それで怜様と幼馴染みなのですよね? 今も同僚であるとか。……花音さん、あのね。お願いがあるの」
妃佐子の表情が緊張したものに変わり、膝に添えた手がぎゅっと握られるのを見た。
「私たちの婚約がととのったら、怜様とはもう少し、距離をおいてもらえないかしら」
「はい?」
「お父様が婚約を進めているの。二人が幼馴染みというのはわかっているわ。職場以外でも会う機会があるのでしょう? それが、結婚してからもずっとと考えると……不安になるの」
花音は黙り込んだ。確かに、婚約者もしくは夫に、仲の良い同僚であり幼馴染みがいれば不安に思うだろう。空気を読め、と言いたくなるかもしれない。
ただ妃佐子と怜はまだ婚約していない。話をするには早すぎないか。
(あっ……牽制なんだ)
妃佐子は怜との婚約に乗り気なのだ。だからこれは一種の駆け引き、庶民の花音相手にも抜かりなく手を打っている。お淑やかに目を伏せる妃佐子の、ちらりと花音を見た瞳は計算高く燃えていた。
花音はにっこり笑った。そうすると、妃佐子がほっとしたように微笑む。
「もしものお話で、お約束はできません」
淡々と、きっぱりと、花音が言うと、妃佐子の笑みがかちんと固まった。
「それは、花音さんもやっぱり……?」
「不確実な未来についての約束はしたくありません。それに……私は、こういうやり方は得意ではないです」
「……あなた、はっきり仰るのね」
意外だ、と妃佐子が目を見開く。伯爵令嬢相手に言い過ぎたかと今になって緊張する。
妃佐子がソファの背もたれに身体を預け、ふっと息を吐いた。張り詰めていた空気が霧散する。
「ねぇ花音さん、よければ」
「やあ! 橘大佐のお嬢さんが来てくださったと聞きましたよ」
突然部屋に入って来た藤大路伯爵がやけに明るい声で言う。ノックもなしに扉が開いたので、花音も妃佐子も驚いた。花音は一拍遅れて慌てて立ち、お辞儀をする。
「お父様が花音さんをご招待したらと言ったんじゃない」
妃佐子が小さく言う。花音を呼んだのは伯爵のほうだった。一体なんのために。
「先日の夜会でお会いしてね。橘大佐にはお世話になったんだよ」
伯爵は花音に向けて優しく微笑んだ。夜会のときとは態度が違い、違和感がある。娘には良い顔をみせているのかもしれない。
「橘のお嬢さん。我が家自慢の庭を歩きながら、しばらく私の話し相手になってもらえないだろうか」
これが目的なのだろう。花音はやや逡巡したのち、「是非」と頷いた。ここで断っても、また同じような機会がくると思ったのである。
「でしたら私も――」
「妃佐子はここで茶会の用意をしておいてくれ。軽食も頼む」
やや戸惑っている妃佐子を部屋に残し、花音は伯爵の後ろに続いた。
自慢の庭だと言うだけあり、シンメトリーに造られた薔薇園は見事だった。中をぐるりと見て回れるように道が造られており、全てが深紅の薔薇で、あまりに綺麗に整備されているので圧倒される。
「急なお誘いにも関わらず、お越しいただきありがとう。薔薇はお好きですか?」
「いえ……お招きありがとうございます。こんな見事な薔薇園は初めて見ます」
花音は藤大路伯爵の半歩後ろを歩いていた。背後には執事らしき若い男と、女中であろう中年の女性がいる。
藤大路伯爵はふふ、と軽く笑った。
「二条院公爵にね……娘の縁談を持ちかけたのですよ。そうしたら何と返ってきたと思います?」
伯爵はにこやかに、天気の話をするように言った。
「許婚がいるので無理です、とキッパリ断られたよ」
アハハハハ、と乾いた笑いが響く。その明るさが不気味だった。
薔薇園のゾーンが終わり、池が見えてきた。子どもならば泳いで遊べそうなほど広い池の周りには紅葉が植わっていて、色付いたした葉が水面に浮かんでいる。
「二条院公爵家がどうして、今はただの庶民である橘家と? 普通に考えたら我が藤大路伯爵家と比べるまでもない――」
振り向いた伯爵が、花音の両肩を掴んだ。強い力で揺さぶってくる。
「どうしてだ!?」
そう叫ぶ伯爵はどう見ても異常だった。無理矢理にでも振りほどくべきだ。そう思ったとき、執事の男がこちらを目がけて全力疾走した。伯爵を止めてくれるのだろうかと思ったが、飛び込むようなタックルは花音を狙ったものだった。
「ガッ……ッ!」
大の男に全力でタックルされれば花音といえども為す術はなく、そのまま池に落ちた。
水深は深くない。けれど執事の男は花音を離さず、むしろ水中で馬乗りになるようにして首を絞めようとしてくる。
水の向こうで、何故か伯爵の声が聞こえる。
「だったら、いなくなってくれたらいい。筋書きはこうだ。執事の男に懸想された花音嬢は、振られた腹いせに心中を謀られ、死亡した――と」
無茶苦茶過ぎる。
男の腕が花音の喉まで届いて、空気を吐き出してしまった。
苦しい。訳がわからない。でも今すべきことは絶対に生き延びることだ――!
危機的状況に、頭は冷静に冴えていく。体内で霊力を練って放出させると、花音の体を包むようにばちばちと光が発現する。そのとき、花音の首を絞める男の瞳が白黒に反転した。
花音は池全体を吹き飛ばすつもりで放電した。花音は属性付きの霊力持ち、属性は雷である。
男は一瞬で気を失い、そのまま底へ沈んでいこうとする。花音は慌てて腕を掴み、水面に出て息を吸ってから男を引っ張り上げる。重すぎる。重すぎるがこの男を死なせるわけにはいかない。なんとか顔を出させ、池の縁に押し上げた。池の深さは花音の胸の下あたりだったのが幸いした。
「……本当に、悪運が強い」
ぜぇはぁと荒い息を吐いて男を助けている花音を、伯爵はぞっとする冷徹な目で見下ろしていた。後ろにいる女中は黙って突っ立っている。彼女も憑キ闇に憑かれているのだろう。
濡れた着物が重い。腕を振るにも袖が重すぎる。
花音は髪に差し込んでいたトンボ玉の簪を抜いた。握りしめ、霊力を込める。ばちばちとプラズマが発生したそれを思い切り投擲した。女の細腕で投げられたとは到底思えないスピードで伯爵に迫り、胸のあたりにカツンと当たる。そこから黒い霧がゾワワワワッと広がり、伯爵の瞳が反転した。
憑キ闇に憑かれているのである。それも執事と女中に憑かせて従えているほどの、上位種まで成長した憑キ闇だ。
(どうする……どうする!)
銃は手元にない。どうして持ってこなかったのだろう。あそこまで進化した憑キ闇を浄化するには触れないと難しい。水に濡れた着物は重く、池から這い上がることさえ簡単にはできないだろう。
(でも……やるしか、ない!)
「ふむ……どうしたものか。事故を装わねば困るというのに」
伯爵はおっとり言う。
「――風よ、大地清める白き風よ。今ひとたびこの穢れ、祓うに力をお貸し給う」
祈るように祝詞を謳い、花音は伯爵を指さしながら全力で霊力を放出させた。媒介も何もない、非常に効率の悪いやり方である。
伯爵に向かって鋭い突風が吹き、バチィッと空気を割るような音が響いた。彼の左肩周囲から黒い霧がゾゾゾゾゾッと噴出していく。
花音は祝詞を続ける。まだまだ終わりじゃない。
「困る……困るんだよ……私の手を汚すのは。……でもまぁ、なんとか、なるか?」
伯爵がジャケットの中から小さい拳銃を取りだした。カチリと花音に照準を合わせる。
(やばい!)
「あああ~でも、銃創がついてしまったらなぁ」
など言いながら指に力が込められる。一か八か、池に潜るしかない。
「花音ッ!」
よく知った声が――初めて聞くような切羽詰まった焦った叫びがした。現れた怜が、鞘に入れたままの剣で伯爵の持つ拳銃を下から弾き上げた。ガンッと鈍い音がして拳銃が空へ舞い上がる。
怜はそのまま伯爵の腹をぶった切るように峰打ちした。
(怜……!)
「ハァッ……ハァッ……ハッ……、花音! 無事か!?」
花音は安堵に涙が滲んだ。しかしこれで終わりではないのだ。
こくりと頷きながらも祝詞はやめず、なんとか池から這い上がる。呻きながら倒れ込んでいる伯爵のもとへ近づき、右掌をかざした。
「――汝は怒り」
と花音が言うと、ぎょっとした怜がさっと場を離れた。
「白き閃光よ、大地の穢れを、その怒りでもって清め給え。怒りの雷!」
バリバリバリ! と天から雷が落ち、伯爵の体を打った。彼の体全体から黒い霧がゾワッと出てきて、塵となって消えていく。
花音はぺたんと膝をついた。体は重く、霊力も使いすぎてへとへとである。さらに――
「さ、寒い……」
もうすぐ冬の時期だというのに、濡れ鼠の格好は流石に厳しい。アドレナリンも切れてきたのか、ガクガクと震えてくる。
「か、花音!」
支えてくれようとする怜に手をつっぱる。
「怜も濡れちゃうよ」
「そんなこと言ってる場合じゃ――」
「お父様っ!?」
屋敷のほうから妃佐子が慌てて駆けてくるのが見える。その周りには屋敷の使用人が数人、ぎょっとした様子であった。
「先に妃佐子嬢に会ったんだ。花音が伯爵と外に出たって言うから急いで来て……間に合って良かった」
「そもそもどうして怜がここに」
「橘の家に行ったら佐和さんが、花音は藤大路伯爵家に行ったと手紙を見せてくれて……藤大路伯爵家については特務課で調査中だったんだよ。花音は相性悪いから外されてたけど」
「外されてたのっ?」
花音は全く気付いていなかった。
そこでようやく、ざりっと砂の上を滑る音がする。見上げると、妃佐子と使用人たちが到着したのだった。
「こっこれはどういうことですか怜様……!」
妃佐子はあたりの惨状に軽くパニックになっている。
怜は立ち上がり、睥睨するように彼らを見つめた。鞘を抜かずに剣を持ち、ゴォッと焔を宿らせると横一閃に振った。彼らめがけて火の粉が降りかかる。
「きゃっ! 熱っ! 何をなさるの!」
妃佐子がそう叫び、他の使用人も似たような反応だったが、一人だけ『グォ……』と唸るような声を出して体から黒い霧が滲み出る。瞳の白黒が反転したのは若い女中だった。怜は一瞬で間を詰め、女中の額をぱしんと掴むとその手が焔で包まれた。『ガァッ……』と小さく呻き声を出して、すぅっと脱力する。怜は倒れかかってきた女中の体を優しく抱きとめた。
「憑キ闇だ。祓えたと思うが……伯爵も憑かれていたのを祓ったところだ。さっきの雷を見ただろう」
「つっ……憑キ闇!?」
妃佐子や使用人たちから悲鳴が上がる。
「怜、そこの池にいる男の人も祓った後で、あっちに佇んでいる女中の人もたぶん憑いてる」
伯爵に付き従っていた中年の女性は、まだぼんやりとその場に佇んでいる。命令されないと動けない状態なのかもしれない。
「そこの家令、すぐ特務課に連絡しろ。搬送用の護送車も必要だと言ってくれ。池にいる男は引き上げて介抱し、これから祓う人間共々、どこかの部屋に一旦隔離する」
「これから祓う人間……ですか?」
妃佐子が訊ねた。
「藤大路伯爵邸には他にも憑かれた人間がいる可能性が高い。炙り出して祓う必要がある。親玉の憑キ闇は伯爵だから、仕事自体は容易い」
「…………」
妃佐子が絶句した。
「何にせよ人手が足りない」
「まず池の男の人を引き上げてあげて……へくちっ!」
くしゃみをした花音は続いて身震いをした。濡れた着物はどんどん冷たくなって体を冷やし、ガタガタと震えが止まらない。霊力の欠乏もあるのか頭がふらふらする。
「た、大変! 急いでお風呂の準備を!」
半ば呆然としていた妃佐子が気を取り戻し、女中に指示を出した。びくっと反応した女中が館へ走り出す。
「待て! 魔窟かもしれないこの家で、花音を風呂に入れられるか!」
「だったらどうするのです!? 今は何よりも花音さんを温めることが急務です。そんなに心配なら怜様が一緒に湯殿に入ればいいでしょう!?」
「そう……か」
妃佐子の剣幕はなかなかのもので、怜は納得の相づちを打った。
「待って待っておかしいおかしい。二人ともおかしい。怜が入っていいわけないでしょ」
くらくらする頭で花音は抵抗する。
「だってそうだろ、危険すぎる」
「でしたら怜様が中を検めてから、外で見張るのはいかがですか」
「そうするか……」
やや不満もありそうな態度で怜が首肯する。
花音はもう寒くて震えが止まらず、身を縮こまらせて「それでいいです……」と答えた。
怜に抱き上げられて移動する。途中、怜は片手で中年女中の憑キ闇を祓っていた。
「お嬢様、西の湯殿で湯は張り始めております。ほかに何をご用意しましょう」
「キッチンに行って温かいスープを用意してもらって。薬湯のほうがいいかしら」
「両方準備するよう言っておきます」
「おい、西の湯殿ってどっちだ?」
「私がこのまま案内します」
など、頭上で交わされる言葉も花音はぼんやりとしか聞き取れなくなっていた。
湯殿に着くと、檜と薔薇の香りがした。立ち込めている湯気が暖かい。タイルの上にそっと下ろされて、怜が花音の着物を脱がしていく。びちょ、びたっ、と落ちていく袴や着物。長襦袢の姿になって花音はようやくはっとした。
「いやいやいや! 大丈夫です出てって!」
「今までぼんやりしてたくせに」
「ほんとにもう大丈夫! てゆかあり得ないでしょ!」
「これはもう介護だろ。出ていくけど」
怜が湯殿から出ていったのを確認し、花音は着ているものを全て脱いでお湯に浸かった。まだ浴槽の半分ほどしか湯は入っていないが、十分に温かい。
「花音、ちゃんと入れたー? 大丈夫?」
磨り硝子の向こうから怜の声がする。
「大丈夫ー!」
と声を張り上げると、怜が嘆息したような気がした。
しばらくして妃佐子が脱衣所に替えの服を持ってきてくれ、ついでに怜を外へ連れ出してくれた。
薔薇の花びら浮かぶ湯船に肩まで浸かっていると、じんわり体が回復していく。くらくらしていた頭も明瞭になってきた。
着替えはシルエットがゆったりした木綿のワンピースに、紅色のロングカーディガン。下着や靴下は新品だと書き添えてある。スリッパを履いて廊下に出ると、怜が壁に寄りかかって待ってくれていた。
「元気になりました!」
「否。休養が必要」
「言うと思った……」
怜に連れられ、最初に通された応接間に入ると、待ってくれていた妃佐子が飛び上がって出迎えてくれた。
花音がスープやら薬湯やら飲んでいる間、廊下に集合させられた使用人たちが怜によって検査されていき、憑キ闇に憑かれていた人間は計七名になった。
特務課の応援も到着し、憑かれていた者たちは護送されていく。そこにはもちろん藤大路伯爵もいて、一連の事件の意識は個人的なものか、憑キ闇のせいなのか、詳しく取り調べられる。精神感応系の力を持った特務官が本人の同意を得て調べるので、誤魔化しはきかないし、無実だって証明される。
そのようなことを、怜は妃佐子に説明した。
「……思えばここ数週間、お父様の様子は変でした。たまに人が変わったというような」
全て憑キ闇のせいだといいですね、なんてことを軽々しく言えるわけもなく、花音はただ頷いた。
「花音に刃を向けたひったくり犯も、自動車で轢き殺そうとした運転手も、車庫で襲ってきた整備士たちも……操られている痕跡があり、それがこの館に繋がっていたんです。妃佐子嬢とお茶をご一緒したのも、捜査の一環でした。あなたは憑かれていなかった」
怜が静かに言う。花音はぎょっとして怜を見た。妃佐子が息を呑むのがわかる。「そうでしたか」と諦めたように呟くのが、花音の心臓をキリキリと傷ませた。
「……というか、花音さんはそんな目に遭っていたのですか!? さっきも池に落とされたのでしょう!?」
「あ、はい。落とされたというかタックルされて首を締められそうになりました」
妃佐子は今日で一番の絶句顔を披露してくれた。
「花音じゃなきゃとっくに死んでます」
隣にいる怜がじろりと花音を見下ろす。
「えーと。憑キ闇はほんとに恐ろしいのです。人間の倫理とか理性とか、全部消されてしまいますし」
「あの雷は花音さんによるものだったとか」
「はい。……雑ですみません」
沈み込んでいた妃佐子の瞳が、きらりと輝いた。
「それは、格好いいですね」
「ありがとう、ございます」
穏やかに微笑む妃佐子を見て、花音は泣きそうになった。父親が捕らえられて、使用人たちも何人か憑かれていて、怜への期待も打ち砕かれて、酷い状態にあるだろうに、彼女は背筋を伸ばして全てを受け止めている。彼女の気高い矜持を感じる。
「その服、よければ貰ってください。お着物については後日弁償させてくださいね」
「いえ! ほんと、着物は家にたくさんあるので大丈夫ですよ!」
「でしたらドレスを贈らせて? 私、そちらのほうが得意だわ」
ふふ、と微笑む妃佐子にまた泣きそうになり、花音はぐっとこらえて笑みをつくった。
「ありがとうございます。お言葉に甘えますね」
妃佐子と家令に見送られ、花音と怜は藤大路伯爵邸をあとにした。
◯
数日後。藤大路伯爵の取り調べはつつがなく終わり、法的には無罪だと証明された。ひったくり犯から一連の事件は全て、伯爵の憑キ闇が行っていたものであり、伯爵の本意ではなかったことも確認できた。
きっかけは少しの心の隙だった。娘である妃佐子の婿には二条院怜のような男がいいと思ったこと。口約束の許婚相手が、今では庶民である橘の娘であること。公爵家も我が伯爵家と縁続きになって悪いことはないだろう、上鷺宮公爵も仲介してくれるらしい――など、考えていたのは事実だった。
「橘はそれでいいの?」
黄昏時の出動前。特務官の隊舎で、今回の事件について話題になっていると、先輩の一人が花音に訊ねた。
「はい。憑キ闇が原因だと証明されましたし、私は無事ですしね。それに――藤大路伯爵からは特別に謝罪されました」
伯爵は憑かれていた最中の記憶が残っているタイプだったようで、無実が証明されたあとすぐ、花音に面会を求めた。上司の立ち会いのもと、呼ばれた取調室の扉を開けると、藤大路伯爵は流れるように土下座した。「橘のお嬢さんに……ッ、私は、なんてことを……ッ!」と震えながら謝罪が始まり、多額の賠償金の話になり、花音はそれを固辞するのに大変だった。
「私、大人の男の人に土下座されるなんて初めてですからね……」
「藤大路伯爵は軍出身だからなぁ。橘大将も、橘大佐のこともよく知ってるはず」
一緒にいた上司が笑う。祖父たちはそんなに怖い存在なのかと花音は口が引きつった。
「そもそもですよ。私と怜が許婚だなんて口約束にすぎないし、身分的にも非現実的なんですよ。私を排除してもしなくても一緒ですよ」
花音はあっけらかんと言ったのに、隊舎内はしんとした。先輩や、上司までもが無言で怜を見る。
「怜だって、今は結婚する気ないから虫除けのために許婚のままいるんだし」
沈黙に温度なんてないが、それがさらに下がった気がした。
昔、怜が花音に言ったことである。
「花音、おまえ、ほんと、馬鹿」
ボソッと怜が言うと、他の隊員たちが体を動かしはじめる。
「さーて出動行くかぁ〜」
出動にはやや早いが、同僚たちはぞろぞろと部屋を出ていく。
「待って怜。虫除けだけじゃなくて、おじい様たちには別の真意もあるだろうなってなんとなくわかってるよ!」
ハッ、と怜は鼻で笑う。
「もういーよそれで。花音はそのままずっと俺の許婚でいればいーよ」
「えっ? 私一生結婚できないの?」
「ばーかばーか」
「ねぇ、語彙力が初等部レベルなんだけど」
「もうずっと俺の隣にいたらいいじゃん」
「えっ、なんて? 聞こえなかった」
「ほんと、ばか」
花音は怜を追いかけて、その隣を歩く。
前を行く先輩が「一生やってろ」と呆れた口調で言ってくる。
「一生? でもずっと怜の隣で戦っていたいかも」
花音が言うと、怜が咳き込んだ。
その横顔を下から覗き込むと赤く染まっていたので、なんだかよくわからないけれど照れている、と思い横腹をつついた。
「こらっ!」
子どもを叱るみたいな反応に、花音はケラケラ笑う。
「今夜もお仕事がんばろー!」
「怪我には注意な」
「はいはい」
今夜も花音は怜を相棒に、京都の町を守るのである。
(終)