ぱちっと目を覚ました時、見慣れぬ天井が真上にあって、椿は目をぱちくりさせた。
そうして少し冷静になると、「そっか、夢じゃなかったんだ」とぽつりと呟く。
しんと静まり返った境内には、朝の陽が差し込み始めていた。
恐る恐る廊下に出ると、お味噌汁のいい香りがした。
その香りにつられて、椿はお台所へと顔を出す。
「ああ、お前か」
「おはよう、椿様」
ちょうど黎と冥が朝食の支度をしているところであった。
「あ、お、おはようございます…」
「まだ寝ていらしてもよかったのに。昨晩はお疲れだったでしょう?」
「あ、お、お陰様でたっぷり眠れました、ので…」
「そうですか、それはよかった」
物腰の柔らかな冥に対して、黎は特に口を開くことはなかった。
「あの、お手伝いできることありますか?」
椿の申し出に、ぶんぶんと手を顔の前で振る冥。
「とんでもない。これは僕達の仕事ですから。朝食が出来たら、お呼びしますね」
「暇なら境内でも散歩してくれば?あんたいつも朝早くに来てただろ」
黎の言葉に、確かに毎朝登校前にこの龍水神社に寄っていたな、と頷く椿。
「そ、そうします…」
社務所を出ると、目の前には拝殿があって、朝の心地よい日差しに積もった雪がきらきらと反射していた。
「今日は天気が良さそうだし、雪もすぐに解けてしまいそう」
真っ赤に咲き誇る椿の花にも、真っ白な雪が積もっていた。
「綺麗…」
椿の訪れていた未来の龍水神社には、花など咲いていなかったように思う。
少し寂れていて、今にも崩れてしまいそうな神社だったはずだ。
しかしこの時代の龍水神社は、隅々まで手入れがされていてとても綺麗だ。
(遠い先の世界で私を支えてくれたのは、貴女だけ…そう水司祢様は仰っていた)
参拝に来る者は、そのうち椿だけになってしまう。
今はまだ多くの参拝者がいるからこそ、この龍水神社は明るく空気も澄んでいるのだろう。
(私にできることはあるのかな…この神社を守れるような…)
椿の心を支えたのは、この龍水神社であり、水司祢だった。
椿はずっと何かお礼をしたいと考えていた。
もしかしたら今が、その時なのかもしれない。
「椿」
椿がそんなことをぼんやりと考えていると、後ろから声が掛かった。
「水司祢様…」
水司祢の白の中に少し青が入ったような透き通る髪が、日の光を受けて雪のようにきらきらとして見える。
(こうして見ると、やっぱり人間じゃないって分かる…)
人間離れした美しい容姿と、その荘厳な雰囲気。
(水司祢様は、神様なんだ…)
椿はようやっとすんなりと受け入れることが出来た。
「早いな。いつも朝早くに来てくれてはいたが、今日くらいはゆっくりしていても良かったというのに」
水司祢が椿の隣に並ぶ。
「い、いつもの習慣で…」
椿は少し肩を強張らせながら、恐る恐る水司祢に声を掛ける。
「あの、水司祢様、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、もちろん」
「この時代で、私にできることはあるのでしょうか?」
「できること?」
「私、ずっとこの神社にお世話になってきました。私の住む世界では、私しか参拝者がいなくなること、水司祢様もご存じなのですよね?」
「…そうだな…」
今いる水司祢も未来の水司祢も同じひとりの神なのだろう。
人間にはきっと決して理解することの出来ない時空にいきている。
椿は意を決して、水司祢の瞳を見つめる。
「私、この神社と、水司祢様に恩返しがしたいです」
「恩返し?」
「私の心はこの龍水神社があったからこそ、壊れずにいれたと思うんです。そんな私を支えてくれた神社がなくなるのはやっぱり悲しいです。だから、未来でもこの神社を残せるように何か出来ることをしたいです」
椿は初めて自分の気持ちをはっきりと口にすることが出来た。
今までそうしたくても出来なかったことなのに、相手が水司祢であるからなのか、椿は自分の気持ちをしっかりと言葉にすることが出来たのだ。
水司祢は椿をゆっくりと引き寄せ、そうして優しく抱きしめる。
「み、水司祢様っ…!」
水司祢は椿を愛おしそうに抱きしめながら、言葉を紡ぐ。
「そんな心優しき貴女だからこそ、私は妻に迎えようと思ったのだ」
水司祢のあまりに愛に溢れた抱擁と言葉に耐え切れなくなった椿は、沸騰寸前のところでようやく水司祢から解放された。
椿の心臓は飛び出そうなほどにばくばくと鳴っており、息を吸うことすら忘れてしまっていた。
大切にされたことのない椿には、水司祢の言動は刺激の強いものであった。
「しかし椿の気持ちは嬉しいが、出来ることか…。人々の信仰は時の流れによる。水害や日照りが多い時は、この龍水神社に安寧を祈るものも多かったが、ここのところは実に平和なものだな」
椿はそこでふと思いあたる。
(あれ…?この神社って確か…?)
「あの、水司祢様。この龍水神社は、縁結びの神社ではないのですか?」
椿の過ごしていた時代のほんの少し前、テレビで取り上げられるほどご利益のある縁結びの神社だったと聞いたことがある。
ここに来てからはそのような話は一切出ていない。
縁結びの神社であるのならば、この時代でももう少し賑わっていてもいいように思うのだが。
水司祢は「そうか…」と口を開く。
「どうしてただの龍水神社であったここが、縁結びとして有名になったのか…、なるほど、そういうことだったのか……」
水司祢は一人で得心がいったかのように何度も頷いている。
椿は首を傾げるばかりだった。
「あの、水司祢様…?」
「ああ、いやなんでもないんだ。そうだな、椿がそうしたいと言ってくれるのなら、貴女に頼らせてもらうとしよう」
椿はまだ頭の上にはてなマークを浮かべつつも、どうやらこの神社のために何かしてもいいという許可を得られたことだけは確かなようだった。
四人での朝食を終え、少し経った頃。
「おお、実によく似合っている…!」
「椿様、お綺麗ですよ」
「馬子にも衣裳ってやつだな」
巫女装束に着替えた椿は、照れくさそうに三人の前へとやってきた。
(巫女さんの服…!可愛い…)
大抵の普通の人は着ることのないものだ。当然椿も初めて着用する。
巫女装束に着替えた椿は、今日からこの神社で巫女として勤めることとなった。
まずはこの龍水神社にどのような参拝客が来、何を祈りにくるのかなど、この時代の神社情勢を把握しようと思ったのだ。
(何かこの神社を盛り上げられるようなヒントが得られるかもしれない…)
水司祢は椿が巫女としてこの神社の表に立つことに少し不満そうにしてはいたのだが、渋々了承してくれた。
椿はそんな水司祢の独占欲など露知らず、自分が誰かの役に立てるかもしれないということに、少し興奮気味であった。
「よ、よろしくお願いします…っ!」
神社の仕事について教えてくれるのは、黎と冥であった。
普段から二人が神社の境内の手入れをしているようであったが、やはり参拝客の力は強いらしく、その祈りの力が神社を保っているとのことであった。
「まあ、まずは境内の掃除でもしながら、参拝客のようすでも見てみたら?」
黎のなんとも投げやりな提案で、ひとまず椿は境内の掃き掃除を担当することになった。
昨日の降り積もった雪は昼が近くなるにつれて、あっという間に解けていき、至る所に土や葉っぱが散乱していた。
椿はそれを綺麗にしつつ、時折訪れる参拝客に目をやる。
人々を見ているうち、やはりここは椿が住んでいた時代ではないことを思い知らされる。
洋装の人々も少なからずいるが、和服の人がほとんどである。
色とりどりの着物を身に着けており、古き良き日本を思わせる。
女学生らしき少女達の集団も、やはり着物姿であった。
(ここは本当に昔の日本なんだ…)
重々承知していたとは言え、それをしみじみと感じた。
神様やお狐様と一緒に過ごしているという、信じがたい環境下であるものの、椿の心は現代にいた時よりもはるかに穏やかだった。
龍水神社ではあるが、やはり地元の人々からは慕われているようで、皆色々な願いを込めて祈っていく。
(やっぱりこの神社は、これからも守っていくべき場所なんだ)
椿はそう確信していた。
参拝客をちらりと見ながら、掃除を続ける椿の元に、ぱたぱたと境内を駆け上がってくる女性がいた。
齢は椿より少し年上くらいだろうか。息を切らしてやってきた女性は、巫女装束の椿を見て、こちらに駆け寄ってきた。
「もし。ちょっといいかしら?」
「あ、はいっ」
女性に呼ばれた椿は、箒片手に女性の元へと向かう。
そこで女性の顔をまじまじと見て、はっと息が止まるような心地がした。
「お、お母さん……?」
その女性は、椿の母親に瓜二つであった。
椿の母親よりは随分と若いが、家で見た母親の若い頃の写真の顔にそっくりだ。
「ど、どうして……」
母親に怒鳴られ、頬を叩かれ、ストレスをぶつけられていた日々が、さあっと脳内を駆け巡る。
椿が言葉に詰まっていると、女性は不思議そうに首を傾げる。
「おかあさん?何のことかしら…?」
そこで椿ははっとする。
(そうだよ、こんなところにお母さんがいるわけない。それにこんなに若い姿なわけがないし…)
一瞬戸惑いつつも、この人は母親ではないのだと椿は自分に言い聞かせる。
そうして女性に気が付かれぬよう小さく呼吸を整えた。
「す、すみません。いかがされましたか?」
女性は困ったように眉を下げる。
「明日、縁談があるの。それも私なんかにはとても釣り合うようなお家柄ではなく、立派な家柄の方で…。私、見合いは初めてで、とても不安で……」
言葉の通り、女性からは不安な気持ちが伝わってくる。
「縁談どうこうよりも、そもそも男性とあまり話したことがなくて、粗相をしないか自信がなくて…」
母親のような見た目をしてはいるが、言っていることはまるで椿のようで、椿は親近感をおぼえた。
(気持ち、すごく分かるな…私も、ずっとそうだったから…)
椿は幼なじみである佑太郎のことを思い出す。
つい昨日のことであるはずなのに、それが何故だか遥昔のような感覚さえした。
(どうにか元気付けたい)
椿は自然とそう思った。
引っ込み思案で人と話すことが苦手であった椿とは思えないほどに、言葉がするすると飛び出す。
「大丈夫ですよ!ここは縁結びで有名な神社なんです!だからきっと、縁談は上手くいきます!ここの神様はとっても気さくな方なので、祈りをきっと聞き届けてくださいます」
椿の力強い言葉に、女性はやっと安堵の表情を見せた。
「ありがとう…!貴女のおかげでなんだかとても勇気が湧いてきたわ!ここが縁結びの神社だなんて初めて聞いたけれど、貴女のような巫女さんがいるのなら、きっと神と人との縁も結んでくれるわ」
女性はすっかり笑顔になって、嬉々として拝殿へと向かった。
最後に椿を振り返ると、「明日、頑張ってみるわ!」と笑顔で手を振った。
椿も同じように笑顔で祈った。
(あの人の縁談が、うまく行きますように。素敵な縁が結ばれますように)
合わせた手がなんだかぽかぽかと温かく感じた。
次の日の夕方。
巫女として椿が神社にいるようになって二日目のことだ。
その日も参拝客の話相手や境内の掃除やらを終えて、そろそろお守り等を並べている社務所を閉めようとしている時のこと。
ぱたぱたと忙しない足音がして、昨日の女性がひょっこりと現れた。
「あ!巫女さん!いたいた!」
すっかり友達にでもなったかのように、気さくに声を掛けてきた女性に、椿も嬉々として向かい合った。
「こんにちは」
椿が挨拶をすると、女性は満面の笑みを浮かべた。
「縁談!上手くいったの!」
「本当ですか!?」
「ええ!相手の方がすごく穏やかで優しいひとで。私、男性とは無縁の人生だったのだけれど、思ったよりも息があったの。あの人となら、上手くやっていけそう!」
嬉しそうな女性の笑顔に、椿もつられて笑顔になる。
「良かったです」
「貴女のおかげだわ!」
「えっ!私はなにも…」
女性は椿の手を取ると、ぎゅっと握った。
「貴女がこの神社との縁を結んでくれたおかげで、神様が力をお貸しくださったのよ。本当にありがとう」
女性の心からの感謝の言葉に、椿は何も言えなくなってしまった。
(私が何かしたわけではないのだけれど…。こんなに喜んでもらえるなんて…)
誰の役にも立てず、感謝されたことのない椿は、どう返答していいのか分からなかった。
そもそも同い年くらいの女性と仲良く話したことすらないのだ。戸惑うばかりである。
「貴女、お名前は?」
「え?、あ、椿、です」
「椿!素敵なお名前!この龍水神社にも、たくさん椿が咲いているわよね。まさにこの神社に相応しい巫女だわ!」
「あ、いや、それはたまたまで…」
嬉しさなのか恥ずかしさなのか、もごもごと話す椿に女性はにこりと笑う。
「私は早苗。お嫁に行っても家はこの近くだから、またちょくちょく顔を出すわ」
「あ、ありがとうございます…!」
「そんなにかしこまらないで!私達、そんなに齢は変わらないでしょう?気軽に早苗って呼んで」
「え…、さ、早苗、ちゃん…」
「ええ!椿!」
早苗は嬉しそうに笑うと、最後にこう付け足した。
「椿、私、ここが縁結びの神社だったなんて知らなかったの。でも、椿が言うようにとてもご利益があったわ。知人にもたくさんここの神社の話をするわ!」
「うん、…ありがとう」
椿は照れながらも、去り行く早苗を見送った。
早苗がいなくなって、宵闇迫る境内に一人きりになると、急に高揚感のような落ち着かなさがやってきた。
「私でも、…誰かの役に立てるんだ……」
そうぽつりと言葉を零す。
椿は早苗と水司祢の懸け橋となっただけ。
それだけだというのに、早苗はあんなにも喜び、感謝してくれた。
「これが、巫女の役割なんだ…」
人と神とを繋ぐ架け橋となること。
未来でこの神社の参拝客を減らさないためにも、椿が出来ることはこれだと思った。
「椿」
掛けられた優しい声に、椿は振り返る。
「水司祢様」
穏やかに微笑む水司祢は、椿の横に並んで薄っすらと見え始めた月を見上げる。
「椿、彼女は大丈夫だったかい?」
水司祢の指す彼女、というのは恐らく早苗のことだろう。
「はい、水司祢様のおかげで、とても喜んでおいででした」
「そうか。彼女の縁談が上手くいったのは、私の力ではなく彼女自身の力だけれどね」
「えっ、そうなのですか?」
てっきり水司祢が何か神様の力を使って、早苗の縁談を良い方向に向けてくれたのだと思い込んでいた椿は、目を丸くする。
「人というものは、自分達が思っている以上に、すごい力を持っているものだよ」
「?そういうもの、なのですか?」
水司祢の言葉が上手く理解できない椿は、首を傾げる。
「彼女は、誰かに似ていただろう?」
「え」
その水司祢の言葉に、椿はドキッとする。
(水司祢様は、やっぱりなんでもお見通しだ…)
椿は隠さず水司祢に話す。いつもこの龍水神社で、そうしていたのと同じように。
「早苗ちゃん…、母の若い頃にそっくりでした」
水司祢は静かに頷く。
「そうだろう。彼女の魂は椿の近いところにある。早苗は恐らく、椿の母親の血筋の者だ」
「…!そう、なんですね…」
母親の話をすると、やはりどうにも胸が苦しくなる。
今、母はどうしているのだろうか…。
「椿の母親も、元は綺麗な魂をしていたはずなのだ。それが少しずつ濁って行き、最終的に自身ではどうにもできなくなってしまった」
「そう、ですか…」
母親が優しかった時期だってあった。
椿の脳内からは少しずつその記憶が失われつつあるが、確かにそうだったのだ。
水司祢は椿の瞳を見据える。
「椿、貴女は元の世界に帰りたいか?」
「……どう、なんでしょうか…、よく分かりません…」
初めは確かに帰りたいと思っていたかもしれない。
けれど、今はあまりそうは思えなかった。
水司祢や黎に冥、早苗。優しい人達に囲まれたこの世界から、椿のいた世界に戻る必要などあるのだろうか。
誰にも必要とされない、ただただ灰色の世界に。
椿は考えをまとめるように、ぽつぽつと話し出す。
「私、は、まだここでやりたいことがあるんだと思います。やっぱりこの神社と、水司祢様に恩返しがしたいから」
心を整理し、今までの自分を受け入れることが出来たら。
そんな来るかも分からない日を考えることは、今の椿には出来なかった。
「そうか」
少し寂しそうに呟く水司祢がなんだか可愛らしくて、椿は水司祢の顔を覗き込む。
「今は水司祢様のお力になれるよう、頑張ります、ので…」
水司祢は目を細めて笑顔を浮かべる。
「本当は一生この腕の中に閉じ込めておきたいのだがね」
水司祢の言葉に、椿はあわあわとする。
(そうだった、この世界に残るってことは、それは水司祢様の奥さんになるってことで…)
ぼんっと顔を真っ赤にした椿に、水司祢はまた愛おしそうに椿を見つめる。
「さあ、夕餉にしよう。黎と冥が準備してくれている」
「は、はい…」
椿と水司祢は、温かな社務所へと歩みを進める。
水司祢が椿の手を優しく握る。
その大きく温かな手に触れられると、なんだか全身の血液が元気になったみたいに身体が熱くなる。
いつでも優しく触れてくれる水司祢と、もしかしたら夫婦になるかもしれない。そんな未来があるのかもしれない。
この先の未来がどうなるのか、まだ椿には分からない。
自分がどうしたいのかも、まだ考えられない。
けれど、このひとの傍にいられたら……。
それが自分の幸せな世界なのではないか。
椿は繋がれる温かな手を握り返しながら、漠然とそう思った。
終わり