朝霧の晴れぬ寂れた神社の境内に、ぱたぱたと忙しない足音が響く。
 ブレザーの制服姿に薄手のダッフルコートを羽織った少女は、冬の朝の凍てつく空気に身震いしながら拝殿へとやってきて、お賽銭箱に小銭を放り込んだ。
 少女は丁寧に二礼し、ぱんぱんと二つ手を打つ。
 目をぎゅっと瞑った少女は、何か小さく呟きながら真剣に祈り始めた。

「今日こそ、自分の気持ちを伝えられますように」

 少女は毎日この神社を訪れては、祈り続けていた。
 少女、芳野 椿(よしの つばき)は現代に生きるごくごく普通の女子高生である。
 しかし家庭は裕福とは言えず、お世辞にも綺麗とは言えない黒髪に、十二月にしては薄手のよれよれのコート。中学生の頃から履いているローファーは少し底がすり減っていた。
「よし、今日こそ頑張るぞ!神様、どうかお見守りください」
 彼女は一礼し、拝殿及び本殿へと背を向け、境内を後にした。

 気が重いと感じながらも、毎日毎日高校への通学路を歩く。
 同じ高校に通う賑やかな生徒達に紛れながら、椿はひとり、自分の教室へと向かう。
 「おはよう」
 顔を上げて一言そう言えばいいだけのはずなのに、椿にはそれが出来なかった。
 薄手のダッフルコートとマフラーを教室の後ろのコート掛けに掛けて、そのまま誰とも目を合わせることなく自席に腰を降ろす。
 それからも顔を上げることなく、ただただ自分の机を見つめ続ける。
(ああ、やっぱり今日も出来なかった…。おはよう、ってただその一言を言うだけなのに、どうしてこんなに難しんだろう…)
 椿は大人しい性格であり、どうにも引っ込み思案だ。そして自己肯定感も低い。
 それには彼女の家庭環境が大きく起因しているのだが、未だに彼女自身でどうにかすることは出来ずにいた。
(今日こそはみんなにおはようってちゃんと声を掛けて、友達作りのきっかけを作りたかったのに……)
 椿は情けない自分に嫌気が差した。
(いつまでこんな調子でいるんだろう…もう冬になっちゃったよ…)
 高校一年生の椿は、入学からなんとかクラスメイトに話しかけようと頑張っていたのだが、結局うまくいかずに一年生の冬を迎えてしまっていた。
(クラスの子におはようも言えない私が、自分の気持ちを伝えられるはずなんか…)
 ない。そう言い切ろうとした時、隣の席で椅子を引く音が聴こえて、椿は反射的に顔を上げた。
「おはよう、芳野」
 そう声を掛けてきたのは、隣の席の西条 佑太郎(さいじょう ゆうたろう)だった。
「お、お、おはようっ」
 椿が精一杯の明るい挨拶を返すと、佑太郎はにこりと笑った。
 まもなくして佑太郎の座席の周りにはクラスメイト達が集まってきて、一気に賑やかになる。
(今日も、挨拶してくれた……!)
 椿は嬉しさのあまり飛び上がりたい気分だった。
 椿と西条 佑太郎とは家が近所で、幼なじみの関係であった。
 大人しくいつもひとりでいる椿を何かと気に掛けてくれており、毎朝椿に挨拶をしてくれるのは佑太郎ただひとりだった。
 佑太郎は昔からクラスの人気者だ。男女問わず友人がたくさんいる。
 それなのに佑太郎は幼少の頃から変わらず、椿に優しく接してくれていた。
 そんな佑太郎に、椿はひっそりと想いを寄せていた。
(私なんかが西条くんに釣り合わないってことくらい分かってはいるけれど、でも……)
 これが好きという気持ちなのかは椿にははっきりとは分からない。
 けれど、佑太郎ともっと一緒にいたいと思うし、たくさん話をしてみたいと思う。
(せめて友達になりたい…。気兼ねなくおしゃべりできるような、そんな友達に)
 佑太郎と楽しそうに話すクラスメイトを横目で見ながら、椿は一限目の教科の準備を始めるのだった。

「やっぱり今日もだめでした…」
 放課後。陽も大分傾き始めた時分。
 椿は今朝も訪れた寂れた神社の、かつて社務所だったと思われる建物の前に無造作に置かれたベンチに腰掛ける。
 今日こそはクラスメイトに話し掛けようと気合を入れていたはずなのだが、結局毎日その目標を達成することはできずに、ここでひとり反省している。
「神様、ごめんなさい。いつも力をくれているのに…」
 この寂れた神社に訪れるのは椿くらいのもので、他の人を見たことはない。
もしかしたらもうこの神社に神様はいないのかもしれない。
 そう思ったこともあるのだが、何故か椿は、神様はちゃんとここにいて、見守ってくれているような気がしていた。
 ここは古くから存在する、人と人との縁を結ぶ、縁結びの神社だった。
 かつてはここを訪れると必ず恋愛が成就すると言われ、テレビに取り上げられるくらいに有名だった。
 元々は水害を防いだと言われる、龍神様を祀っていたそうなのだが、それがどうして縁結びの神社として有名になったのかは、椿には分からなかった。
 しかしそれも時が経つにつれ人々の記憶から薄れ、徐々に人口の減りゆくこの街で未だに参拝するのは椿くらいのものであった。
 椿は家が近所ということもあり、小さい頃からよくこの神社の境内で遊んでいた。
 遊んでいた、と言っても椿は幼少から友人がいないので、本を読んだり、絵を描いたりとひとりで過ごしていただけである。
 その時から何故だかこの寂れた神社は、自宅よりも居心地が良かったのだ。
 テストで満点を取った時も、運動会でビリになった時も、椿は家族に話すのではなく、いるかも分からない神様に話し続けた。
 椿にはなんとなく、そこに神様がいて、自分の話を聞いてくれているような気がしたのだ。
 それは高校生になっても変わらなかった。
 朝夕、この寂れた神社を訪れては、今日あった出来事などをとつとつと話す。
 大半は椿の今日の失敗談ばかりであったが、ここで気持ちを吐き出すと、何故だか心が軽くなるような、明日はもう少し頑張ってみようかなという気持ちになるのだった。
「あ、もうこんな時間だ」
 辺りは少しずつ宵闇が迫っていて、もうまもなく太陽が沈もうとしていた。
「そろそろ帰らなくちゃ」
 椿は立ち上がると、本殿の方へ向かって一礼する。
「神様、今日もお話を聞いてくれてありがとうございました。さようなら」
 来た時と同じように、椿がぱたぱたと階段を駆け下りていく。
 木々が寒そうに身を揺らす中、椿にさよならを言うかのように境内には生暖かい風が吹いていた。

「あ…電気付いてる…」
 椿が自宅の小さなアパートへと帰ってくると、椿が住む201号室に明かりが灯っていた。
 普段この時間にいるのは椿だけのはずなのだが、母親が帰宅しているらしかった。
 椿はきゅっと胸の前で手を握りしめる。
「大丈夫…きっといつでも神様が見守ってくださっているはず……」
 椿はそう自分に言い聞かせるように呟いて、自宅の扉を開けた。
 すると、玄関に立って待っていたらしい母親から怒号が飛んでくる。
「ちょっと椿!どこに行っていたの!!」
「…っ!ご、ごめんなさい……」
 急に怒鳴られて、椿は咄嗟に謝罪の言葉を口にする。
「学校はとっくに終わっているわよね?どこほっつき歩いているのよ!!」
 母親の怒鳴り声に身を縮こまらせながら、椿はただ謝ることしかできない。
「ご、ごめんなさい…あの、神社に寄っていて…」
「神社?またあのボロい神社に行ってたわけ?晩ご飯の支度もせずに?」
 眉を吊り上げる母に、椿は怖くて顔を上げられなかった。
「ごめんなさい……」
 椿がまた小さく謝ると、勢いよく頬に平手打ちが飛んできた。
 ぱんっ!と乾いた音が家中に響き渡る。
「この薄鈍!私の子なのにどうしてこんなにものろまなの!?もういいから早く晩ご飯の支度をなさい!!」
「はい……」
 実の母からの平手打ちに頬だけでなく、心がズキズキと痛んだ。
 椿はそんな自身の気持ちに蓋をするように、慌てて台所に立つ。
 しかし。
「あ……」
 呆然と立ち尽くす椿に、母親はさらに不機嫌そうな声を漏らす。
「今度はなに!?」
「あ、えっと…今日の晩ご飯の食材がなくて……」
 野菜置き場も、冷蔵庫も空っぽであった。
 本来今日は買い出しをして帰るはずだったのだが、椿はそれをすっかり忘れてしまっていた。
 母親は怒りで顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「早く買ってきなさい!!いつまで私を待たせるつもり!?いい加減にしてちょうだい!!もうどうしてこんなにも役立たずなの…!?」
 頭を抱え始めてしまった母親から次なる怒号が飛んでくる前に、椿はそそくさと買い出しに出掛けることにした。

「はあ……」
 とぼとぼと歩きながらスーパーへと向かう。
 どんなに急いで買い物をして帰ったとしても、先程と同じように怒られるのは目に見えていた。
(いつからこんな風になっちゃったのかな…)
 小さい頃は椿、母、父の三人で、裕福でないながらも穏やかに楽しく過ごしていた。
 それが変わってしまったのは、父が浮気し、余所で子供を作ってしまった時からだ。
 毎晩のように父と母は口論し、怒鳴り声が飛び交っていた。
 そのうち離婚が成立したのか、父は帰って来なくなった。
 母は女手一つで椿を育ててきたが、仕事に家のこととそのストレスは溜まる一方で、いつしか椿に手をあげるようになっていた。
 ストレスの捌け口に椿を使い出したのだ。
 優しかった母親がいなくなった今も、椿は文句ひとつ零すことなく、献身的に母に尽くしている。
(お母さんが少しでも楽になるなら…)
 椿はその一心で母親からの暴力や暴言を我慢しているのだった。
 優しかった母親が戻ってくることなど、ないかもしれないのに。

「芳野?」
 ふと声を掛けられて、椿は顔を上げた。
 そこにいたのは、クラスメイトで幼なじみでもある、佑太郎だった。
「さ、西条くん…!」
 突然現れた憧れの人に、椿はぱっと表情を明るくする。
「こんな時間に買い物?」
「あ、うん…買い忘れた食材があって…」
 もごもごと話す椿を、佑太郎は気にも留めずににこやかに会話を続ける。
「もう暗いけど、一人で大丈夫?」
「だ、大丈夫!スーパーすぐそこだから!」
 普段心配などされない椿には、佑太郎の言葉はものすごく嬉しかった。
「さ、西条くんは…これからお出かけ?」
「そうなんだ、急にクラスのやつらに呼ばれてさ、これからみんなでカラオケ」
「カラオケ…」
(こんな暗い時間に外で遊んで、怒られないんだ…)
 高校生ともなれば、友人と遊びに出掛けることはもちろん、アルバイトで遅くなることもあるだろう。
 しかし椿にはそのどれも経験したことがなかった。
(いいな…西条くんとカラオケ…)
 椿の心の内を読んだかのように、「芳野も一緒にカラオケ行く?」と佑太郎が誘う。
「えっ…!」
 行きたい!と喉から言葉が飛び出そうになるのを、椿はすんでのところで吞み込んだ。
「あ、えっと…買い物があるから…」
「あー、そうだよな。急に誘ってごめん」
「う、ううん!声掛けてくれて、ありがとう…」
 「じゃあ、」と言って佑太郎はカラオケやファミレスで賑わう通りへと向かって行った。
 その背中を見送った椿は、少しだけ心が穏やかになっていることを感じた。
(西条くん、やっぱり優しいな…。また私のこと気に掛けてくれた…)
 佑太郎が人気者であるのも頷ける。
 こんな椿でさえわざわざ声を掛けてくれるのだから、誰だって佑太郎を好ましく思うだろう。
(いつかちゃんと改めて、ありがとうって伝えたいな)
 家に帰ったらきっとまた母親に怒られるのだろうが、佑太郎に会えたことで、椿の心は少し軽くなった。

 買い物を終え、スーパーを出たところで佑太郎やクラスメイトの男子達の集まりを見掛けた。ちょうどファミレスから出てきたところのようだ。
(あ…。これからカラオケに行くのかな…?)
 椿に気が付くことのない佑太郎達は、何か笑い声を上げながら歩いて行く。
 その会話が椿の耳に偶然届いてしまった。
「つーか佑太郎さぁ、なんでいつもあの女子に声掛けるわけ?」
「だれ?」
「隣の席のやつだよ」
「ああ、芳野か」
 自分の名前が急に飛び出して来て驚きつつも、続きが気になった椿は佑太郎達の会話に耳を澄ませる。
「佑太郎、もしかして芳野のこと好きとか?」
「えーっ!?マジ!?」
 ひゅーひゅーと冷やかす男子達。
 椿は咄嗟に、これは聞いてはいけないことかも、とその場を離れようとしたが時すでに遅しである。
 佑太郎からは聞いたこともないくらいに感情のこもっていない声が耳に届く。
「好きなわけないだろ、あんな陰キャ女。ただあんな根暗に話しかけてる優しい俺、かっこよくね?」
 鼻で笑うような小馬鹿にした笑みを浮かべた佑太郎に、友人達も一際大きな声を上げる。
「うっわ!最低だこいつ!」
「芳野さん、もう佑太郎のこと好きかもよ?」
「は?知らねーよそんなこと。告られたらふつーに断るし。あんな根暗絶対無理だわ」
 あの優しかった佑太郎とは思えない乱暴で冷たい言葉に、椿は耳を疑った。
「つーか、あの美人の先輩はどうしたんだよ?」
「ああ、一応ヤったけど、別にそれだけだわ」
 最低だーとぎゃはぎゃは品なく笑う男子達の集団が遠ざかっていく。
 椿は未だに信じられずに呆然としていた。
(今のは…本当に西条くん……?)
 椿に接してくれていた優しい佑太郎は、影も形もなかった。
『好きなわけないだろ、あんな陰キャ女。ただあんな根暗に話しかけてる優しい俺、かっこよくね?』
 確かに良く知る佑太郎の声で、先程聞いた言葉が頭の中で反芻される。
 椿の視界がじわりと滲んだ。水の膜が張って、辺りが見えなくなる。
 嘘だと思いたかった。
 あの憧れていた佑太郎が、そんな酷いことを言うはずがない。
 そう強く否定したいのに、先程の佑太郎の言葉が脳内をぐるぐると渦巻いて、それを許してくれなかった。
(……そんな風に、思ってたんだ……)
 自分が好かれているとはさすがの椿も思っていなかったが、ここまで嫌われているとも思っていなかった。
 優しいと思っていた佑太郎は、自分の評価のためだけに椿を気に掛けているふりをしているだけだったということが、椿の心に衝撃を与えた。
(…西条くんならもしかしたら、友達になってくれるんじゃないかって…思ってたのに
……。そんなわけ、ないのにね…)
 裏切られたと思った。と同時に、椿なんかが佑太郎の世界に入ろうとしたのがいけなかったのだと、自分を卑下した。
(優しくされて、勝手に舞い上がっていただけだ……)
 最初から友達になれるはずなんて、なかったのだ。

 何も考えられず、ふらふらと歩いていた椿は、気が付くとあの寂れた神社にやって来ていた。
 力なく拝殿の前へとやってくると、ぽつぽつと言葉を零す。
「神様…私、もうどうしていいか分からなくなってしまいました……」
 佑太郎がいたからこそ、椿は日々をなんとか乗り越えて来られた。
 毎日誰かに挨拶できるように、話しかけられるように、少しでも佑太郎と話せるように頑張ろうと思えた。
 努力が実を結ぶことはなかったが、頑張ってみようと自分を奮い立たせることが出来た。
 しかし、その目標は失われてしまった。
 もしまた仲良くなった人に、裏切られたらどうしよう。
 そもそも私なんかと仲良くなりたいなんて思う人がいるのだろうか。
 そんな暗い考えばかりが椿の脳内を占める。
「早く、帰らなくちゃいけないのに……」
 椿の帰りが遅いことに、母親はきっと怒っているだろう。
 けれど、椿の足は根を張ったようにその場から動けなくなっていた。
(明日から、どんな顔で学校に行けばいいんだろう…?)
 明日もきっと、佑太郎は変わりなく椿に挨拶をするだろう。
 しかし、その挨拶に対して、椿はどう接していいのか分からなかった。
 いつもみたいに、挨拶を返すことができるだろうか。
「……学校、行きたくないな…」
 かと言って、家にいることも出来ない。
 学校を休めばまた母親に怒られるだろうし、家にいればストレスの捌け口に使われる。
 椿の居場所は、どこにもなかった。
「私って、何のためにいるんだろう…?」
 そんな言葉がぽつりと椿の唇から漏れた。
(私って何のために生きているんだろう?家族にも、クラスメイトにも必要とされていない私。この世界で私のいる意味ってなんなんだろう?)
 椿はそんなとりとめもない漠然とした質問に囚われていく。
「なんだか…疲れちゃった…」
 椿は毎朝そうしているように、拝殿のお賽銭箱に小銭を放る。
二礼して、二つ手を打つ。
 そうして両の掌を合わせ、静かに目を瞑った。
(神様、私はもう疲れてしまいました。この世界には、私の生きていい場所はないみたいです。もし願いが叶うなら、幸せになれる優しい世界に連れて行ってください……)
 家族仲も良く、友人もいる優しい世界。
 そんな世界があればいいのに。
 なんとなく、神様にお祈りするのはこれが最後になるのだろうな、と椿は思っていた。
 今まで幾度となく世話になってきたが、それすらももう疲れ切ってしまった椿には難しいことだった。

「神様、今までありがとうございました…」
 椿は丁寧に一礼して、顔を上げた。
 すると、ふわっと暖かい風が吹いた。
 冬真っ只中のこの季節では考えられないほどに優しく、穏やかで温かな風だった。

『お前が幸せになれる世界に、私が連れて行ってやろう』

「え?」
 低く艶やかな男性の声が辺りに響く。
 椿は慌てて周囲を見回すが、人の姿はどこにもない。
 しかし次の瞬間、辺りが急に眩しい光に包まれる。
 目を開けていられなくなった椿は、思わずぎゅっと目を瞑った。

 少しして恐る恐る目を開けると、そこはやはり神社だった。
 しかし境内には雪が降り積もっていて、今まさに空からはらはらと雪の結晶が降り注いでいるではないか。
 椿の花の鮮やかな紅が美しく咲き誇っていて、境内中を埋め尽くしている。
(あれ…いつからこんなに雪が降っていたんだろう…?積もるまで気が付かなかったなんて…。この神社、こんなに椿咲いてたっけ…?)
 雪が降っていると気が付くと、急に寒さを感じ始めたような気がする。
 このままでは風邪を引いてしまう。風邪を引いたら、また母親にどやされるに違いない。
「帰らなきゃ……」
(でも、帰るってどこに?役立たずの私が帰る場所って、どこ?)
 きっと母親も椿なんていない方がいいと考えているだろう。
 学校だって、佑太郎だって、椿がいなくなっても誰も気が付かないかもしれない。
「……私の帰る場所って、どこ…?」
 目の前が真っ白になった椿は、立っていることもうまくできなくて、そのままふらりと身体が傾いた。
 その時、暖かな何かが椿の背中を支えて、抱きとめてくれた。
 そこで椿ははっとする。
「あ、す、すみませんっ!なんだか立ち眩んでしまって…」
 椿はくるりと支えてくれたであろう人の方へと振り返る。
 そこにいたのは、着物に身を包んだ、白縹(しろはなだ)色の髪の美しい男性であった。
 ほんのりと青み掛かった雪のように透き通った髪が、肩の羽織のその藍色を更に濃く見せている。
 齢は椿とさほど変わらないか、少し上くらいに見えた。
 その人間離れした美しい姿に、椿は思わず目をぱちくりしてしまった。
(この神社に来るのは、私だけだと思ってた…。こんな若い方も来られるんだ…)
 しばし呆然としてしまった椿は、慌てて頭を下げる。
「あ、ありがとうございました…、支えてもらってしまって…」
 咄嗟に椿は、佑太郎や母親のように冷たい言葉で突き放されるのではないかと思った。
 迷惑を掛けたのだ、罵られてもしかたがないと、椿は覚悟して男性の言葉を待った。
 しかしいつまで待っても、男性の言葉は聞こえて来ず、椿は思い切って顔を上げた。
「あの……?」
 椿を凝視していた男性は、はっとしたように椿に歩み寄ってきて。
「え……?」
 そうして突然、椿を抱きしめた。
 そのあまりの優しさと温かさに、椿の心臓がとくんと脈打つ。
「やっと…やっとお前を抱きしめることができた…」
 男性は椿を愛おしそうに抱きしめ、そう小さく呟いた。