照る月が中天に差し掛かる頃、御簾の下りた母屋の中、梓子は目を覚ました。胸元を軽く押さえながら身を起こすが、女房たちは皆熟睡しているのか、御前に馳せ参じる気配はない。

 唐突な目覚めは、夢見のせいだ。

 熱病に侵される前夜、そして奇跡の快復を遂げたのち、梓子は時折、月夜の山中、巨大な鳥居の下に佇む人物の夢を見るようになった。

 最初は、梓子と同じか、少し年少の少年だった。それが季節の巡りと共に成長し、今では梓子よりも年長に思える、均整の取れた体躯の青年である。

 顔はよく判らない。彼はいつも後ろ姿で、稀に、振り向きかけた鼻筋が見える程度だ。だがその稜線の(あて)やかさだけで、自ずと造作の秀麗さが窺えた。

 最初の夢では、彼は梓子と対面し、しかも何かを告げてきたはずなのだ。しかし直後の熱病のせいで記憶は混濁し、向かい合ったこと語りかけられたこと自体は覚えていても、容貌や内容は思い出せなかった。以降その背は沈黙を貫き、一瞥も一言もない。

 そして彼の夢を見ると、決まって、胸元の羽根の形の痣が仄かに熱を帯びるのだった。

 夢解きするまでもなく、夢の訪ね人は、自分を恋い慕う者。裳着を待っていたかのように当岐大社から婚文(よばいぶみ)が届いたことでそれは確信に変わった。大社の若君こそが夢の君。三つ折れ羽は当岐の社紋、祀るのは翼持つ神である。

 この縁は山神にも認められたもの。それどころか、山神こそが審神者を通じて梓子を望んでいるのかもしれなかった。古来より、神と人との婚姻譚は枚挙に暇がない。

 ……そうでなければ、二年も訪いのない相手など、とうに切り捨てている。

 相変わらず文は頻繁に寄越すし、正月の卯杖(うづえ)卯槌(うづち)や端午の薬玉、重陽の茱萸袋(ぐみぶくろ)なども見事な品で、特に中秋には常にも増して、女房たちにもお裾分けできるほど大量の贈り物が届いた。

 けれど、こちらがどれほど思わせぶりな文を返しても、当人は一度も訪ねて来なかった。

 気に障るのはそれだけではない。暗闇の中、梓子は文箱(ふばこ)を見遣る。

 どういうわけか、若君の歌は、「あかねさす」という枕詞を詠み込んでいるものが多かった。確かに「日」「昼」「月」「君」など、かかる単語は多いが、数多ある中から、何故よりにもよってそれを選ぶのか。

 たとえば。

  あかねさす きみをみそめし かのよるの はなのかをこひ いまもかぐはし

 初めてあなたを見た夜を忘れられない――――今一度会いたい

 それに対し梓子は、敢えて己にゆかりある枕詞を用いた歌を返した。

  あづさゆみ はるにたまひし はなふみは いまもかぐはし たどりきたらむ

 春に初めて梅の枝と共に贈られた文を今も大切にしています、その残り香を辿り、訪ねてきてください――――

 勿論名を記してはいないが、薄様の色は葉の青、梓の枝に結んで送った。しかしそれ以降も「あかねさす」ばかり散見し、「あづさゆみ」を詠んだ歌は一首もない。そもそも文を記す薄様も紅や紫がかった紙が多く、反物なども同様の傾向にあった。

(早く結婚して、この家を継ぐ子を成さなければならないのに)

 幼い頃より「鬼祓う姫」として多少名が知れていたこともあって、若君のほかにも懸想文はいくつか届いた。けれどそれは、既に妻妾も子女もある公達のつまみ食いであったり、任地で私腹を肥やしただけの国司(くにつかさ)であったり、酷いものになると地下(じげ)判官(じょう)主典(さかん)だったりと、凡そ梓子の目に適うものではなく、枕を共にした相手もいたものの、本気で三夜通ってくれる者はいなかった。

 東北対で侘しく暮らすばけものの妹は、梓子ばかりが父母に愛され幸せだと思っているだろう。

 けれど梓子は知っている。両親の、特に父尚方の親心は、そんな無償の愛ではない。

 幼い姉妹が立て続けに熱病に倒れ、顔と胸に痕が残ってしまったとき、彼は嘆いた。揃ってこれでは婿取りも望めない、我が家はお終いだ、と。

 それでも父は父。だから梓子は、己の価値が失われることを怖れ、無能な妹を過剰に貶めもした。そうすれば自分は、自分だけが、父の自慢の娘でいられる。

 男にとって、所詮女は家のための駒。己の道具(もの)だと思うからこそ愛でるのだ。

 それでも、京に生きる以上、その呪縛からは逃れられない。

 目が冴えてしまい、梓子は褥を出た。衾としていた袿衣をしどけなく羽織り、黒髪の乱れもそのままに、御簾をくぐって枢戸から簀子縁に降り立つ。

 振り()け見た空には薄く棚引く雲も浮かんでいるが、(くま)のない月は皓々と庭の木々や池の水面を照らしていた。

 深まった夜の底に咲く藤の花群れに目を遣り、その手前に架かる反り橋で身じろぐ影に視線を向ける。

 月明かりの中、闇に隠れたるものどもを見通す梓子の目に、それは金色に光る目を持つ一羽の大柄な烏のように見えた。

 ……違う。二羽の烏が、一羽に見えるほど睦まじく寄り添い合っているのだ。

 傍ら寂しき一人寝の夜を幾つ数えたか知れない梓子は、互いを恋い番う烏に忌々しげに背を向け、枢戸の内へと戻っていった。