明けて次の朝。
夢に酔いすぎたか、欠伸を噛み殺しながら朝餉を食したまではよかったのだが、午前俄かに東対が賑わいに包まれた。その理由が既に骨身に沁みている茜子は、せめてもの反抗に、自分で髪に櫛を入れ、小袖袴に表衣を着重ねる。
程なく衣擦れが渡殿を通り、乳姉妹を従えた梓子が東北対に現れた。断りもなく御簾の内に踏み込み、身支度とも言えない程度にしか身嗜みを整えられない茜子を挨拶代わりにこき下ろす。ばけものの矜持など、彼女にとっては風の前の塵も同然だ。
「御機嫌よう。相変わらず辛気臭い部屋、季節外れの衣だこと」
「…………」
茜子は神妙に額づいて姉を出迎えた。その姿を鼻で笑い、梓子は命じる。
「顔をお上げなさい。幸運のお裾分けよ」
東対が賑わい、梓子が東北対を訪れる理由。それは決まって、大社の若君から文や贈り物が届き、自慢しに来るときであった。父母のように完全に存在しないものとして扱われるのも堪えるが、事あるごとに嘲りを受けるのも同じくらい打ちのめされる。
「見てちょうだい」
濃縹と薄縹を重ねた袖口から差し出されたのは、藤の花房に結びつけられた薄紫の料紙。また恋歌を見せつけに来たのか、と茜子はできるだけ無表情を装って文を解き、短く息を呑んだ。
おもふには しのぶることぞ まけにける まみえて愛しき あかねさすきみ
忍ぶ心が想う心に負け、一目見てしまったら、いっそうあなたが愛おしい――――
どこかで聞いたような聞かないような歌だが、本歌取りは公に認められた技巧だ。「あかねさす」は「君」だけでなく「紫」にもかかる枕詞だから、紫の花と紙を選んだのだろう。
それにしても。「君」を詠むために敢えて「あかねさす」を選んでいることといい、まるで千颯と茜子の二夜の逢瀬を詠んでいるかのような歌である。
穴が開くほどに文面を凝視する茜子から、梓子は破れない程度に手荒に料紙を奪い取った。花房と共に胸に掻き抱き、ほうと艶めいた吐息を漏らす。
「きっと、先日の北祭に若君もいらしていたんだわ。そこで改めてわたくしを垣間見られたのよ」
一宮の北祭は、春の終わりと夏の始まりを告げる京一の大祭。貴族たちが挙って見物に集まる華やいだ様子は、絵巻物や歌物語にも描かれている。
梓子の弾んだ声に、茜子も一瞬にして現実に引き戻された。千颯との逢瀬も恋歌も、そもそも彼の存在自体が夢なのだから、冷静に考えるまでもなく、梓子の言うとおりに決まっている。
(しっかりしなさい。いくら悔しくても、夢幻と現実の区別がつかなくなったら終わりよ)
「もう三月近くも文を交わしているのだから、家人に声をかけてくださってもよろしかったのに。奥ゆかしい方ですこと」
茜子が唇を噛み締め、必死に己に言い聞かせている様子をどう捉えたものか、梓子は妹を散々いたぶって満足したらしい。
「少しは浮ついた気持ちを味わえたかしら? ではさようなら」
高笑いと共に梓子は東北対を去った。あとに漂うゆかしき伽羅の香は初めて聞くものだから、これも若君からの贈り物に違いない。
――――本当に、夢の逢瀬が素敵であるほど、現実の自分は惨めだ。
栲領布の白布の下、ばけものの左目から、静かに涙がこぼれた。
夢に酔いすぎたか、欠伸を噛み殺しながら朝餉を食したまではよかったのだが、午前俄かに東対が賑わいに包まれた。その理由が既に骨身に沁みている茜子は、せめてもの反抗に、自分で髪に櫛を入れ、小袖袴に表衣を着重ねる。
程なく衣擦れが渡殿を通り、乳姉妹を従えた梓子が東北対に現れた。断りもなく御簾の内に踏み込み、身支度とも言えない程度にしか身嗜みを整えられない茜子を挨拶代わりにこき下ろす。ばけものの矜持など、彼女にとっては風の前の塵も同然だ。
「御機嫌よう。相変わらず辛気臭い部屋、季節外れの衣だこと」
「…………」
茜子は神妙に額づいて姉を出迎えた。その姿を鼻で笑い、梓子は命じる。
「顔をお上げなさい。幸運のお裾分けよ」
東対が賑わい、梓子が東北対を訪れる理由。それは決まって、大社の若君から文や贈り物が届き、自慢しに来るときであった。父母のように完全に存在しないものとして扱われるのも堪えるが、事あるごとに嘲りを受けるのも同じくらい打ちのめされる。
「見てちょうだい」
濃縹と薄縹を重ねた袖口から差し出されたのは、藤の花房に結びつけられた薄紫の料紙。また恋歌を見せつけに来たのか、と茜子はできるだけ無表情を装って文を解き、短く息を呑んだ。
おもふには しのぶることぞ まけにける まみえて愛しき あかねさすきみ
忍ぶ心が想う心に負け、一目見てしまったら、いっそうあなたが愛おしい――――
どこかで聞いたような聞かないような歌だが、本歌取りは公に認められた技巧だ。「あかねさす」は「君」だけでなく「紫」にもかかる枕詞だから、紫の花と紙を選んだのだろう。
それにしても。「君」を詠むために敢えて「あかねさす」を選んでいることといい、まるで千颯と茜子の二夜の逢瀬を詠んでいるかのような歌である。
穴が開くほどに文面を凝視する茜子から、梓子は破れない程度に手荒に料紙を奪い取った。花房と共に胸に掻き抱き、ほうと艶めいた吐息を漏らす。
「きっと、先日の北祭に若君もいらしていたんだわ。そこで改めてわたくしを垣間見られたのよ」
一宮の北祭は、春の終わりと夏の始まりを告げる京一の大祭。貴族たちが挙って見物に集まる華やいだ様子は、絵巻物や歌物語にも描かれている。
梓子の弾んだ声に、茜子も一瞬にして現実に引き戻された。千颯との逢瀬も恋歌も、そもそも彼の存在自体が夢なのだから、冷静に考えるまでもなく、梓子の言うとおりに決まっている。
(しっかりしなさい。いくら悔しくても、夢幻と現実の区別がつかなくなったら終わりよ)
「もう三月近くも文を交わしているのだから、家人に声をかけてくださってもよろしかったのに。奥ゆかしい方ですこと」
茜子が唇を噛み締め、必死に己に言い聞かせている様子をどう捉えたものか、梓子は妹を散々いたぶって満足したらしい。
「少しは浮ついた気持ちを味わえたかしら? ではさようなら」
高笑いと共に梓子は東北対を去った。あとに漂うゆかしき伽羅の香は初めて聞くものだから、これも若君からの贈り物に違いない。
――――本当に、夢の逢瀬が素敵であるほど、現実の自分は惨めだ。
栲領布の白布の下、ばけものの左目から、静かに涙がこぼれた。