満ちた月を望む京の空に、牽く牛のない網代車がゆったりと浮かんでいる。からからと回る両輪は、炎のような雲のような、はたまた狐の尾のような揺らめきに包まれていた。(くびき)の向く方角は戌亥。

「豪快な結婚宣言と別れの挨拶だったな、姫」
「あんまり言わないでください、恥ずかしい……」

 白狐から牛車に転じた白縫の屋形の中、直衣の(えり)を寛げた千颯は灯音の肩を抱きながら笑い、灯音はその右腕の中で縮こまっていた。顔が火照り、両手で覆い隠す。嵩張る羽は二人とも既に刺青に戻していた。

 十四歳、いや七歳の頃から溜まりに溜まった鬱憤を最後に発散してきた形だが、勢い余ってと言うか制御しきれなかったと言うか、灯音が思った以上の大惨事となってしまった。ついでに、本気で夢だと思っていた頃の発言の数々が脳裏を(よぎ)り、いっそう悶絶する。自力で悪縁を断ち切ったことを称賛されても、誇らしいやら面映いやら。

 心を落ち着けてようやく顔を上げ、灯音は線の細い両の掌をまじまじと見下ろした。

「あれが、わたしの力……」

 怒り任せ、衝動の赴くままに振るった、幼子の癇癪のような最初の一撃。それでもなお、人が営む京の一角をたやすく崩壊させられるほどの威力。

「伝説の比翼の片羽だからな。……君は最初から、俺に名を明かしてくれていたんだな。恐れ入った」

 茜子をあかねと呼ばせていたことに、千颯は感心したような笑みを浮かべた。灯音も笑い返す。

「千颯様の呼ぶ名が、これからのわたしの名です」

 ばけものと忌まれた人の茜子は糸桐殿と共に燃え尽きた。これから人ならぬ千颯と番うのは、翼を(なら)べて羽ばたくことのできる人でなしの灯音だ。

「結局妻問いも半端に終わってしまったが……、本来は、三日続けて夜を共にして、餅を食べて露顕(ところあらわし)を行うのだったか」

 茜子に合わせてきちんと京の風習を学んでくれていた千颯を嬉しく思う。ばけものと呼ばれてなお密かな憧れであった文の遣り取りや駆け引き、恋のときめきを、彼はすべて叶えてくれた。ここから先は、譲れない芯を守りつつも、灯音が千颯たちの風習を尊重して馴染んでいくべきだろう。

 これから灯音は、千颯と共に、夢幻ではなく現実を生きていくのだから。

「もう構わないわ。わたしも晴れて京人ではなくなってしまったのだし、……んッ」

 灯音が言いかけた途中で、ようやく露わとなった左瞼に、千颯が唇でそっと触れる。

 そのまま伸し掛かるように迫って来るものだから、いつの間にやら、灯音は壁際に追い詰められた状態になっていた。すいと五衣の衿に忍び込んだ骨の大きな手が、匂いの襲を華奢な肩から滑り落とす寸前に。

「だァから! ひとの背中で盛り上がってんじゃねえ!」

 前簾が白縫の狐面に変じ、番いの二人を一喝する。その隙に灯音は千颯の腕から抜け出し、いくらか離れて座り直した。

「っそうですよ。構わないとは言いましたけど、今すぐここでとは言っていません」

 できるだけ動揺を見せないように、京人の仮面を着けてつんけんと言う。千颯も降参と言うように軽く手を振った。

「解っている。ようやく姫が俺の妻になると言ってくれたことが嬉しくてつい、だ。許してくれ」

 要するに、本気ではなく灯音をからかったのだろう。嬉しさのあまりというのは偽らざる本心だろうが、掌で転がされている気分で、灯音としては少々面白くない。

 だから、灯音は千颯の傍に膝行し、その輪郭を両手で柔らかく包むと、お返しとばかりに右瞼に口づけた。そしてすぐさま唇も掌も離し、再び距離を置いてにっこりととびきりの笑みを浮かべる。

「今夜はここまで。……続きは、御山の問題が片付いてからゆっくりしましょ?」
「…………っ」

 鬼火の下、千颯の顔がはっきりと赤い。押すのは得意でも、押し返されると弱いと見た。

 だが、千颯も荒ぶる神、転んでもただでは起きない。凛々しくも不穏な形に口端を吊り上げる。

「……そうだな。すべて終わったら、ゆっくりと楽しもうか。ゆっくりと」
「…………」

 墓穴を掘った気がして、灯音は押し黙った。まだまだ一筋縄ではいかない相手だ。

 どちらからともなくクスクスと笑い、比翼の番いは手を繋いで肩を寄せ合った。ささやかな幸せに満ちた屋形を抱え、狐車は戌亥の空へと翔ける。その姿は、見上げる地上の人々の目に、ひとすじの婚星として映った。

 しののめの夜明け、あかねさす朝日はまだ遠いけれど、二人であればどこまででも翔べる。

 やがて網代車は速度を緩め、様々な思惑のひしめく万魔の山へと下っていった。