三年前、長年の左瞼の腫れが癒えて現れた金色の瞳に、尚方たちは慄いた。ばけものと罵声を浴びせ、茜子を東北対へ閉じ込めた。人に非ざるこの色を、茜子も不吉なものだと思っていた。この目があるから、家族ではいられなくなってしまった。

 けれど今ならば解る。この輝く左目は、ばけものではなく比翼の片羽の証、忌むべきものではなく誇るべきもの。千颯と出逢い、度々覚えていた疼きは番いの共鳴なのだと。

 千颯の背負う比翼の羽、夜より黒く艶めく大きな隻翼を惚れ惚れと見上げる。今夜初めて、本当に彼と出会えた気がした。

 夢幻ではない彼が、恭しく手を差し伸べてくる。

「行こう。……山は正直、まだ安全とは言えないだろうけれど、必ず守る」
「大丈夫です、千颯様と一緒なら。わたしたちは比翼、最強の番いなのでしょう?」

 手に手を重ね、茜子が金色の左目をきらめかせて笑うと、千颯は一瞬虚を衝かれたような顔をして、やはり笑った。

「これは頼もしい」

 だが、十五夜の月が祝う門出に水を差す者たちがいた。

「茜子! おまえ、その目を見せるなとあれほど」
「若君、……いいえ、乾の山の神! その妹は最早ばけもの、山神たるあなた様に相応しいのはわたくしのほうです!」
「あなた、いったいこれは……茜子!?」
「ばけものだと?」

 茜子を悪し様に罵る尚方と梓子、北対から現れた小百合に、千颯は打って変わって厳しい目線を向ける。金色の一睨みに、凡人たちは震え上がった。

「あかね姫こそ吾が妻、遠からず当岐山を統べる大天狗と番う者だ。身内とて侮辱は赦さない」
「……そんな」

 比翼の(しるし)を読み誤り、茜子を疎んじ続けた尚方と小百合は、愕然とへたり込む。

 それでも、梓子だけは驚きよりも怒りが勝ったか、喉も裂けんばかりに声を張り上げた。

「茜子……、どうして! 疫病に苦しんで、痕が残ったのはわたくしもおまえも同じでしょう!? どうして無能なおまえが山神に選ばれるの!」

 寝殿前の一件で山神には太刀打ちできないことを思い知った梓子は、標的を茜子に変更して八つ当たりのように喚き散らす。

「先に病に罹ってその目を得たのがわたくしであれば……! どうして茜子なの! どうしてわたくしではなかったの!?」
「……っ」

 淑女の面をかなぐり捨てた梓子の叫喚は、一度は茜子も考えたことであった。先に病に伏したのが梓子のほうであったなら。そうでなくても、千颯が茜子を見初めたのは、容姿も人柄も関係なく「番い」という一点のみ。本当に彼は、「茜子」を見てくれているのだろうか。

 魂消るような梓子の叫び、そして密かな茜子の憂いを、千颯は一笑に伏した。思わずよろめきしなだれかかってしまうほどの勢いで茜子の左肩を抱き寄せ、豪語する。

「先も後もない。生まれたそのときから、俺の片羽はあかね姫だ。それに俺は、あかね姫が片羽でよかったと思っている。家族に疎まれ謗られても誇り高くあろうとして、でも隙のある、姫がいい」
(隙って……)

 何ひとつ恥じることも憚ることもない堂々とした惚気にこそばゆさを覚えつつ、それでも茜子は、千颯の腕の中、小さな蟠りが解けていくのを感じた。

 番う身を欲するだけならば、それこそ最初の夜這いのとき、力ずくで契りを結んでしまえばよかったのだ。茜子の心が絆されるまで、本当に百夜どころか千夜を厭わず通い続けてくれた彼を信じようと思った。

「……っそれでも! 茜子より絶対に、通力を持つわたくしのほうがお役に立てます!」

 最後の悪足掻きとばかりに己の有能さを訴える梓子だったが、「ああ」と思い出したように千颯は右腕を軽く振った。

「通力とはこれ(・・)のことか」
「……っ!?」

 その仕草に連動するように、梓子が胸を押さえて呻く。丁度、熱病のあとに顕現した痣の辺りだ。

 その衿から、蛍なす仄かな光と共に三枚の黒い羽根が舞い上がり、千颯の掌へと飛んでいく。

「吾が妻の護りとなるべく貸し与えた俺の通力の一部だ。それを通じて邸に結界を張れたし、使命さえ遵守してくれれば多少の乱用は目を瞑ろうと思っていたが……あなたは俺の期待した働きはしてくれなかったようだな」

 しばし千颯の掌の上でくるくると舞っていた羽根は、程なくその背の翼に戻った。

 比翼として未熟な茜子を護るために授かった通力を、夢告に耳を傾けず私利私欲のままに行使した。強欲な愚者たちに、山の神は容赦ない。

「……ッ、うぅッ、ああっ、あ、あぁア……っっ!」
「梓子!?」

 尋常ではない様子で、今度は頭を抱えて髪を掻き毟り蹲る梓子に、小百合が駆け寄って肩を抱く。

 やがて梓子は肩で息をしながらも、膝をついたまま顔を上げた。だが。

 ――――ずるり、と音がして、両手で鷲掴んでいた髪が抜け落ちる。

 小百合が金切り声を上げた。

「梓子!」
「……っ、いやああああああああああッ!!」

 一拍遅れ、髪の絡まる掌を見下ろした梓子も絶叫する。

 正確には、根元からごっそり抜けたのではなく、途中でぶっつり千切れたのだ。それでも、鷲掴んでいた毛束だけでなく、夜の川の如く豊かに揺蕩っていた髪は見るも無残に、肩に届かないほど短くなってしまっていた。

 長い髪には霊力が宿る。そして何より、長く黒く真っ直ぐに伸びた髪は、女の美しさの証。……己の器を過信した梓子は、一夜にして通力と共に美しささえ失ってしまった。

 自業自得とは言え、さすがに千颯も気の毒そうな眼差しを向ける。

 だが梓子は抜け殻の如く放心し、焦点の定まらない目で千々に散った髪を見下ろしながら、聞き取れない声で譫言(うわごと)を呟き始めた。

 魂の抜けてしまったような姉を痛ましく見つめ、茜子は父と母を見据える。決別の時だ。

「大殿様、北の方様。――――父様、母様」
「!」

 茜子の声に、顔面蒼白で項垂れていた尚方と小百合は弾かれたように顔を上げた。禁じられた呼称を敢えて用いたことをどのように解釈したものか、二人は諂うような半端な笑みを浮かべる。

「……っ、茜子。おめでとう、素晴らしい婿君だわ」
「乾の神が婿であれば我が家も安泰だ。山神を(たら)し込むとは、おまえこそ自慢の娘だ」

 いっそ見事な掌返しに、千颯が嫌悪感丸出しで小さく吐き捨てた。

「吾が妻の親ながら、呆れるほど小物だな」
「朝廷とは往々にしてそんな方々ばかりです」

 茜子もひそりと囁き返し、両親に絶縁を告げる。

「わたしを産み、育ててくださったこと、ありがとうございます。……今宵、わたしは人であることを辞め、千颯様の元に嫁ぎます」
「茜子!?」

 両親の狼狽に構わず、茜子は朗々と宣言した。

「お二人から頂いた『茜子』の名は、人であったわたしと共に京に置いて行きます。わたしは人でなし(・・・・)の『灯音(あかね)』。比翼の左、千颯様の妻です」
「……こっの、親不孝者が! 恩知らずめ!」

 尚方が口角泡を飛ばして暴言を吐く。しかし茜子も、もう負けない。

「――――うるさい! 恥知らず!」
「!」

 十年間、目立たないように逆らわないように生きてきた茜子の反逆に、尚方も小百合も、雷に打たれたように身を竦ませる。

 抑圧され続けてきたが、茜子も元来勝気な性分だ。守られるだけのか弱い存在ではいられない。

 比翼とは、翼を(なら)べて翔ぶものだから。

 ずっと、淋しくても辛くはないと思っていた。洛外に捨てられ死を待つだけの者もいる。それに比べれば自分は恵まれていると。

 だけど違った。追い出されたり暴力を受けたりはしなくても、無視され見下され、心を虐げられることは、やっぱり悲しく、辛いことだったのだ。

 だが、今は何より鮮烈な怒りがある。

 ばさりと音を立て、薄紅から濃紅を重ねた衣の背の左に、千颯の対となる黒い翼が広がった。金色の左目が爛々と光る。

「人でなしと化したわたしを邸から追い出さなかったことは感謝しています。わたしをばけものと蔑み続けたことも過ぎた話です。……けれど千颯様からの文や贈り物を横取りしていたことは赦さない」
「それはっ、勘違いでっ」
「言い訳無用!」

 尚方の弁明に耳を貸さず、袖が捲れ上がることも構わずに、茜子改め灯音は左手の閉じた衵扇を高々と掲げた。それに呼応して一天俄かにかき曇り、黒雲に覆われた空が不吉に轟く。

 借りものの梓子とは段違いの神業に、尚方と小百合は呆然と空を見上げる。

 灯音が扇を振り下ろし、――――落雷が寝殿に直撃した。

「!」

 月隠れの夜を劈く霹靂の一閃。地震(ないふり)のような轟音、衝撃に、邸が大きく揺れる。

 次いで火の手が上がり、瞬く間に寝殿は緋色の炎に包まれた。神鳴(かみなり)を落とした黒雲は沈黙して雨をもたらさないため、勢いを増した炎は渡殿を走り、対屋や下屋(しものや)にまで燃え広がる。

 乾の山神は風を操る火防の神。言うまでもなく(いかづち)は天の火だが、火防の神は、翻せば火の神でもある。

「ひっ、火がっ、邸がっっ」
「早く逃げましょう! 梓子、しっかりして!」

 燃え盛る焔に尚方たちは恐慌する。人でなしの娘に拘う余裕は最早なかった。

 炎と煙に巻かれ、阿鼻叫喚に陥った糸桐殿に、千颯のよく通る凛とした声が上がる。

「――――白縫!」

 家人たちの叫び声が交錯する中、決して大音声ではなかった。しかし車寄で光が弾け、大きな白狐が相棒の求めに応じて飛び込んでくる。その姿を目の当たりにした邸の者たちから新たな悲鳴が迸った。

「うわあぁあっ!?」
「ばっ、バケモノっ、モノノケだあぁッ」

 白縫は崩壊しかけた渡殿の脇に降り立ち、邪魔な木っ端やかかる火の粉を白い尾で弾き飛ばす。

「なかなか派手な誘拐劇だな」

 言いながらも、千颯に向ける目は楽しげだ。千颯もこの上なく愉快そうに破顔する。

「だから俺は姫がいいんだ。――――行こう、灯音姫」
「きゃっ」

 千颯が改めて灯音の名を呼び、横抱きに掬い上げた。重ね衣をものともしない力強さ、歓喜の眼差しに、つい漏らした悲鳴もすぐに微笑みに変わる。

「はい、千颯様」

 比翼の番いは白狐の背に乗り、炎上する邸から雲の切れ間へと飛び立つ。

 やがてその雷雲も去り、残されたのは、(たま)の緒の命からがら焼け出された人々と、炎に舐め尽くされ焼け落ちた邸の残骸ばかりだった。