邸の主人との対面の場に突如割り込んできた場違いな女に、千颯は訝しみの声を投げつける。

「誰だ、あなたは」

 だが、女が纏う小袿の色目や文様には見覚えがあった。よくよく見れば、邸主人の直衣や、母屋の衣架にかかる単衣、棚上の小筥などにも。どれもこれも、自分が妹背の弟姫へと、眷属たちに届けさせたはずの品々だ。彼女の部屋にあまり贈り物の影がなく、或いは忘れた頃にようやく見ることが叶っても、趣味や季節違いかと敢えて問い質しはしなかったことが災いした。

「なるほど……」

 心尽くしの贈り物を掠め取った者たちに怒りが湧くと同時に、己の詰めの甘さを呪う。彼らの言葉と態度で、この邸における弟姫の扱いをようやく悟った。いつまで経っても代筆の文、控えの女房もいない質素な対屋。不自然な点はいくつもあったのに、逢瀬に浮かれて見過ごしていた。最初の邂逅をを契機に比翼として胎動を始めた雛の頃はともかく、初花の訪れと共に覚醒してなお、妻問いの夜にさえ頑なに左目を隠している理由を問うてみるべきだった。

 千颯が邸内に向ける視線の意味に気づいたか、柳に色々襲の女は、突きつけられた言葉を拒むように言い募る。朱い唇は歪んだ弧を描いていた。

「……っ、この織物も薫物も、螺鈿の櫛も瑠璃の(つき)も、すべてあなた様が、中秋の名月の祝いにわたくしに贈ってくださった品。そうでしょう?」
「は? ……ああ、数え年を用いる人の世には、生まれ日を言祝ぐ習慣はないのだったな」

 胡乱に眉をひそめた千颯は、風習の齟齬に改めて思い至る。

葉月(はちがつ)の宵待ちの月は俺たち(・・)が産まれた日だ。中秋の名月は関係ない」
「…………!」

 色々襲の女は言葉も顔色も失った。ずっと弟姫の代筆をしていると思っていた女は、自身に宛てられたもののつもりで文を送り返して来たのか。己が求愛されていると勘違いしていたのか。夜通うようになってからも昼の文を絶やさなかったのは、ほかの求婚者の出現を牽制する目的もあったのだが、悉く裏目に出たらしい。

 確かに十年前、千颯は彼女とも浅からぬ縁を繋いだ。夢枕でその理由を告げたのちも、残り香のように偶さか夢に姿が映ることもあったかもしれないが。

 ――――思い上がりも甚だしい。

 それでも吾妹子の産みの親、血を分けた姉だ。逆巻く激情を必死に抑え、千颯は最後通牒を言い渡す。

「もう一度だけ言う。我が左、弟姫をここへ呼べ」
「ですから」
「ならばもう用はない」

 意に沿わない言葉を返そうとした邸の主人に最後まで言わせず、千颯は大分快復した右腕で空を薙いだ。金の瞳が炯々と輝き、背に漆黒の隻翼がばさりと広がる。

 夜が大きくざわめく。腕の軌跡は疾風を起こし、寝殿や東対、中門へと襲い掛かった。

「なんっ……うわあぁっ」
「きゃあああっ!」
「ひいぃぃっっ」
「大殿様!」

 目の前の二人のみならず、邸内のあちこちから悲鳴が交錯する。千颯が生んだ突風は、千颯の猛る感情そのままに、容赦なく糸桐殿で暴れ回った。御簾が引き千切られ、文机(ふづくえ)や几帳が宙を舞い、池の水が氾濫する。刃に乗せれば天狗の首すら一太刀で斬り伏せる研ぎ澄まされた神風だ、人の造営した建物などひとたまりもない。

 千颯が再度腕を動かし、荒れ狂う暴風が止むと、寝殿の南は惨憺たる有り様だった。屋根が崩れて廂や簀子縁を押し潰し、折れた柱が横倒しに転がっている。風で釣灯籠や灯台の火が真っ先に掻き消えたのは不幸中の幸いだろう。振り返った春宵の庭でも橋が落ち、いつか弟姫と愛でた藤や盛りの桜も根こそぎ裂けていた。

 そのことに千颯は僅かばかり心を痛める。――――十年前、彼女を見初めたときも、この桜が咲いていた。

 十年前まで、千颯は番いにも後継の座にもあまり興味がなかった。それより右羽だけでも飛べるよう鍛錬を積むことのほうに意欲的で、白縫の足も借りつつ、鳥形に変じ山を離れ、京にも度々羽を運んだ。

 だが陽炎(かぎろい)の春、この邸で左羽を見つけた。

 むしろ左羽がいたからこそ、繰り返し京まで飛んでいたのかもしれない。一目で解った、抗いようもなく引き寄せられる宿命の女。

 すぐさま隠形の結界を施し、山怪(やまのけ)どもに悟られないよう、千颯も京には近づかなくなった。……弟姫の置かれた環境を思えばそれも失策だったが、彼女を迎えるためにも山の掌握に邁進した。

 そうして十年。ついに待ち焦がれた夜が来た。

 隻翼の片恋は、比翼の諸恋(もろこい)へと。
 
 烏帽子を失くし半端に髻の解けた髪を適当に括り直すと、千颯は半壊した寝殿や東対に頓着せず、邸の奥へと向かうべく(くつ)を踏み出した。行き先はいつもひとつしかない。

「っ若君、どちらへ」
「お待ちくだされ」

 もう用はないと告げたにも関わらず、色々襲の女と邸の主人は、崩れた床板を踏み越えて追って来ようとする。背に羽を広げたままの千颯はもう一度吹き飛ばそうかと振り向きかけたが、袖を揺らす前に思い直した。今は、何より弟姫との約束が優先だ。

 嵐の影響を受けなかった東北対は、円かな月の下、御簾を下ろし静まり返っていた。そこで千颯は今宵初めて頬を緩め、弟姫の名を呼ばう。

「あかね姫」

 応える声こそなかったが、御簾がざらりと揺れ、かつて贈った花鳥飛び違う今様色の表着と紅梅の匂襲を纏った弟姫が張袴を引いて姿を現した。……最初の恋文は咲き初めた梅の枝に結んで送ったのだったと、懐かしく思い起こされる。

 邂逅から十年、求婚から三年。妻問いを重ねるごとに心惹かれた、唯一無二の女人。千颯の片羽。

 奇しくも、互いに衣の色目は赤。――――大陸では婚礼の色だ。

 彼女もまた微笑みを湛えており、見蕩れるように千颯は笑みを深めて告げる。

「約束どおり、君を攫いに来た」
「お待ち申しておりました、千颯様」

 潤んだ瞳、澄んだ声で応じた弟姫は、顔の左を覆っていた白布をするりと解く。

 その下から現れた、自分の右目と同じ左目に、千颯は眩しく金の瞳を細めた。