ついに。ようやく。

 待ちに待った許婚の妻問いに、梓子も、父母の尚方や小百合まで浮かれていた。女房たちでさえどこか浮き足立ち、逸る心で様々な準備を整えつつ日が暮れるのを待つ。自慢のあと、生きながら死んでいるような扱いの妹の存在は、いつもどおり念頭から吹き飛んでいた。

 梓子ではなく父の尚方にのみ文が届いたことは少々気になるが、懇ろに新枕(にいまくら)後朝(きぬぎぬ)を交わせば、それも瑣末な話となるだろう。

 今夜は望月。まるで初の逢瀬を祝福するかのような、まさに(あめ)の足り()だ。

 慣習に則れば、亥の刻の頃、夫がひっそりと妻のもとに忍んで来る。邸の者たちは、それを素知らぬふりで夜を過ごす。

 贈られた反物で仕立てた浮線綾の柳の小袿を色々襲の五衣に合わせ、あとは夜更けに訪れる許婚を迎え入れるだけ。

 しかし、まだ酉の刻も半ばの薄々時(うそうそどき)明月(しまぼし)は東天、夕星(ゆうづつ)は西空に輝き、蔀戸も下ろさないうちに、俄かに中門が騒がしくなる。

 母屋の畳に座した梓子は、下座の乳母と思わず顔を見合わせた。立ち上がった乳姉妹が南廂の御簾越しに外の様子を窺い、女房らしからぬ裏返った声で「姫様っ」と梓子を招く。

 さやさやと典雅に裾を引いて梓子が南廂に並ぶと、引き止めようとする家人に構わず、遣水(やりみず)を渡ろうと闊歩する直衣烏帽子の美丈夫が見えた。

 左目の眼帯に眉をひそめたが、それはまさに、梓子が長年夢に懸想し続けた月下の君に相違なかった。

 その端正な面差し、洗練された立ち姿に、女房たちも「まあ」と頬を赤らめる。その中で、梓子だけが彼の右目に気づいて戦慄した。

(あれは、あの()は――――)

 そして、なおも追い縋る家人に対し、躑躅重の夢の君は梓子の信じられない言葉を吐いた。

「お待ちを。大姫様の御座所は東対で」
「大姫? そんな者に用はない」
「!」

 御簾の内の空気が凍りつく。事実、夢の君は東対を一顧だにせず、小川(いさらがわ)を越えてまっすぐ寝殿の(きざはし)へと向かった。

「……ッ」
「あっ、姫様!?」

 咄嗟に梓子も動き、乳母の制止を無視して枢戸を出ると密かに寝殿へと渡った。南廂の手頃な几帳の裏に隠れ、状況を見定めようとする。

 騒ぎを聞きつけたらしく、御簾を巻き上げた南廂から簀子縁に降りた尚方は、鷹揚さを装った眼差しで闖入者を問い質す。

「これは……、そのほうが当岐大社の若君か」
「如何にも。して、あなたがこの邸の主人か」

 高圧的な尚方の態度に、若君も微塵も怯まない。尚方は不快げに眉根を寄せた。

「いくら鹿の住む京の乾にお暮らしとは言え、このように無粋な妻問いは感心しませんな」

 洛外に暮らす若君をさりげなく鄙つ者と嘲ったが、そんな皮肉もものともせずに受け流される。

「吾が妻を迎えに来た。弟姫を呼んでもらおう」
「我が大姫なれば、東対に」
「大姫ではない、弟姫だ」

 夢の君は、またも梓子を全否定した。迷いのない声に、尚方が若干焦りを見せる。

「おそれながら、この邸に姫は一人しかおりませぬ」
「左様にございます!」
「梓子!?」

 それでも主張を譲らない尚方の声にかぶさるように、梓子は打ち靡く黒髪を乱して几帳の陰から飛び出した。女王にあるまじき暴挙に尚方が驚きの顔を見せるが構っていられる余裕はない。高欄から身を乗り出し、顔を晒して切々と訴える。

「若君様。わたくしが、わたくしこそがあなた様の妻。三年もの間文を交わしていた者にございます。わたくしはずっと、ずっとあなたのことを」

 若君が隻眼の視線を尚方から梓子へと移した。そして梓子の告白を遮り口を開く。

「誰だ、あなたは」

 その言葉は、梓子の心を粉々に打ち砕いた。