赤ら引く朝朗(あさぼら)け、茜子は夢の旅装そのままの姿で目を覚ました。

「……?」

 寝ぼけて着替えたのだろうか。しかし夢うつつの状態でできる芸当ではない。

 考え込む間はなかった。蔀を上げた簀子縁から、御簾を引き千切る勢いで父の尚方が入ってきたからだ。そして入ってくるなり、茜子の髪を鷲掴んで床板に叩きつける。

「うッ……」
「このうつけが! 邸を抜け出しどこに行っていた!?」
「……!?」

 押し殺した悲鳴に構わず、尚方は怒鳴り散らす。彼はやや癇性持ちのきらいがあり、虫の居所の悪いときに些細なことで相手を恫喝する声には、昔から茜子どころか梓子さえ萎縮してしまう苛烈さがあった。だが直截の暴力まで振るわれたのはさすがに初めてで、突然の言いがかりに茜子は目を剥いた。

「そんな、わたしはどこへも」
「偽りを申すな! 昨夜ずっと、この母屋はもぬけの殻だったではないか! その格好が何よりの証拠だ‼︎」
「そんな……!」

 必死の弁明を尚方は一蹴する。肩を怒らせ、取り付く島もない。

 十三夜の歌枕。あれは夢だ。夢のはずだ。

 三年間、ずっと夢だと思い込んでいた。――――けれど、まさか。

「その顔を人前に出すなと言っただろう、ばけものが! ……っ、まあよい」

 ひとしきり声を荒げ、いくらか気が落ち着いたようだった。一瞬顔を引き攣らせた尚方は、手にしていた長い棒状のものを打ち伏す茜子に向けて放り投げる。炭を挟む火箸だ。

 尚方は冷徹に告げる。

「喜べ、おまえの結婚が決まった。――――だからお相手の前壱予守殿が通って来る前に、それでばけものの目を潰せ」
「……!」

 左目を潰せという命令よりも、結婚が決まったという宣告のほうが、無慈悲に茜子を貫いた。

「二度と外へ出ようなどと考えるな。子は親のもの、黙って従え」

 凍りついた茜子を忌まわしげに一瞥し、尚方は東北対を去った。

「…………」

 そこから終日(ひねもす)をどう過ごしたのか覚えていない。朝夕の膳も運ばれず、やがて蔀戸も閉ざされ、茜子はいつしか眠ってしまったらしい。

「あかね姫」

 妻戸を隔てて聞こえる愛しい声に、茜子は目を覚ました。だが精根尽き果てた身を脇息から起こすのがやっとのことで、足に力が入らない。

 僅かに扉一枚、けれど現実の茜子と夢幻の千颯の距離は、それより遥かに遠い。――――はずだった。

 重ねた可惜夜(あたらよ)、いったいいつの間に、夢幻と現実の境はこれほど曖昧になっていたのだろう。

「あかね姫?」

 最初の夜這い以降、茜子の許しを得ずに彼が母屋に入ってくることはなかった。けれど姿を見ず声も聞かずとも異変を感じたのか、掛け金がひとりでに外れ、千颯が御簾をくぐって来る。

 灯台に鬼火が灯り、幽鬼のような佇まいの茜子の姿を朧ろに浮かび上がらせる。

「どうした、昨日の格好のままではないか」
「……っ、ちはやさ、ま」

 泣き出す寸前の顔でふらふらと立ち上がった茜子は、倒れ込むように千颯の胸に身を預けた。千颯は突然の抱擁に一瞬硬直しながらも、まだぎこちない動きの右手で茜子の背を抱き、気を落ち着かせようとする。

「姫」
「……お別れにございます」
「……!?」

 人妻になってしまえば、夢幻であろうと現実であろうと、この逢瀬は許されなくなるだろう。血を吐くような心地で茜子は絞り出した。途端に回された腕が強張る。

「どういうことだ」

 千颯は茜子の両肩を掴んで引き剥がし、険しさを宿した瞳で見据えた。剣呑な金色を悲しく見つめ返し、涙を流しながら茜子は白状する。

「大殿様が……父が仰ったの。わたしを前何某守(さきのなにがしのかみ)殿と(めあわ)せる、だからその前に左目を潰せと」
「なんだと!?」

 ばけもののままでは人の婿など迎えられない。だから、その目を隠すのではなく完全に潰せと。家長の命令は絶対だ。茜子に抗う術はない。

 千颯は怒りを爆発させ、今度は両腕できつく茜子を抱き締めた。決して逃がさない、離さないと言うように。そこに悔いる声が続く。

「……こんなことなら、人真似の妻問いなどせず、最初から天狗らしく神隠しと称して攫ってしまえばよかった」

 千颯の悲愴な吐露に、茜子は首を振る。

「ううん、あなたが誠意と敬意を持って通い続けてくれたから、わたしは顔も名も心も許したのよ」

 あとは肌だけ、とは、さすがに茜子からは言えないけれど。

 茜子のすべてを捧げられるのは千颯だけだ。ほかの夫などいらない。

「あかね姫は俺のものだ。誰にも渡さない」
「……わたしは、やっぱり『所有物(もの)』なの?」

 千颯の言葉に、今朝の尚方の言葉が甦り、茜子の心が揺らいだ。その揺らぎを見透かしたか、今度は千颯が緩く首を振り、真摯に茜子の右目を覗き込む。

「だが俺も姫のものだ。俺たちは二人でひとつなのだから」

 一点の曇りもない眼差しに、茜子は、姉のものと思いつつずっと忘れられなかった恋歌の上の句を詠う。

「……『ちはやぶる かみのもたせる わがいのち』」
「『こころもすべて きみがためこそ』……俺が姫に初めて贈った歌だ」

 千颯が照れくさそうに笑う。

 もしも――――もしも初めから、「当岐大社の若君」が、大社の宮司の(・・・)若君ではなく、大社の祭神の(・・・)若君だったとしたら。

 昨夜、烏天狗たちに砂浜に投げ落とされたときは痛かった。今夜、抱き締めてくれる腕には力強く熱が通う。恋歌や屏風や、思い当たる節は多々あれど、もう、何が夢幻で何が現実なのか判らない。

 それでも、京で生まれ育った茜子には京での暮らしこそが現実。ならば。

「わたしを攫ってよ。この現実から」

 京人が山神の妻として認められるは判らない。それでも、千颯を失うことは耐えられない。千颯がほしい。――――彼なしでは生きられない。

「――――吾が妻の望むままに」

 こつんと額と額が重なり、鼻先と鼻先が触れる。

 このまま邸から連れ出してくれるのかと思った。けれど。

「一晩、今夜一晩だけ待ってくれ。明日の夜、正面から堂々と、姫を奪いに来る」
「待ってる。待っているから、必ず来て。絶対よ。お願い」
「勿論だ。約束する」

 互いの頬に指で触れ、切なく見つめ合う。それだけで名残惜しくも玉響の逢瀬は終わり、茜子はようやく旅装を解いて床に就いた。

 そして迎えた曙、二日ぶりの倹しい朝餉の膳が下げられるのと入れ替わりに、今度は梓子が女房たちを引き連れ足取りも軽く東北対にやって来た。白布の下で健在のばけものの左目に目を留め、白々しさ満載で言う。

「おめでとう、縁談が決まったんですってね」
「……大殿様からお聞きしたんですか」
「でも三日は血の穢れを持ち込まないでちょうだい。せっかくの慶事が台無しですもの」
「と仰いますと」

 梓子は晴れやかな顔で告げる。

「大社からお父様に文が届いたわ。――――今宵、妻を娶りに邸を訪うと」
「――――」

 深窓の姫君らしくなく喜びを隠そうともしない高らかな声に、茜子はひくりと睫毛を震わせた。その僅かな反応を口端で笑い、梓子は続ける。

「わたくしとおまえ、揃って婿取りなんてめでたいことではないの。これは祝いの品よ」

 梓子が目配せを送ると、順に進み出た女房たちは、それぞれ捧げ持っていた漆塗りの打乱箱(うちみだりのはこ)とその中身を茜子の前に慇懃に置いた。畳まれた紅や青の狭衣と衵扇。二年前の冬に当岐大社から贈られ、しばらく梓子が喜んで袖を通していた紅梅匂の五衣(いつつぎぬ)だった。

 四季を問わず、また祝賀に用いられる色目ではあるのだが、梅の盛りを過ぎ桜を謳歌する今着るには無粋というもの。当然、そうと解った上で梓子は、この衣で夫を迎えなさいと言っているのだ。祝いの皮を被った呪いである。

 だが、茜子は丁寧に床に指をつき深く(こうべ)を垂れ、強張った声で礼を述べた。……梓子はきっと、虚勢だと受け取ったことだろう。

「……大姫様のご温情、勿体なくもありがたく頂戴いたします」