ピクニック、というのは要するに「野掛け」だった。今日のようなのどかな日に野山に遊びに行くことを異国の言葉でピクニックというのだという。
「どうしてそんな言葉を知ってるの?」
「実は、この間まで留学していたのですよ」
ヒカリは何でもないように言うが、この国の外に出たことがある人間など会ったのは初めてだった。かつてはこの北海道も本土とは別の国だったけど、今はもう同じ国ということになっている。
それにしても、本当に底が知れない。そして、そんな人間のことをどうしようもなく面白いと思ってしまう。
玖多留の背後にはいくつかの低山が連なっていて、ヒカリが野掛けの場所に選んだのは「天狗山」と呼ばれる山だった。
山を登っていくと、玖多留の海が一望できる。今も本土からやってきたのであろう大きめの船が玖多留の町に向かってきているところだった。
「ありゃあ。難儀してますねえ」
目元に手を添えるようにして海を見ていたヒカリが呟く。確かに、玖多留の海の荒波に呑まれて船は中々前へと進めていない。大きな船であの状態なので小さい船ではあっという間に転覆してしまうだろう。実際、北海道に開拓民たちが多く入植してきた頃にはそういった事故も少なくなかった。
「僕達はね、ああいう船が安全に玖多留の港まで入ってこられるように防波堤を作ろうとしてるんですよ」
「それが、貴方の仕事?」
「そうですね。以前は玖多留から幌内までつながる鉄道の建設をしていましたが、今はこの港に防波堤を作るのが仕事です」
鉄道。実物は見たことがないけど、玖多留の町の人たちが話しているのを聞いたことがある。牛も馬もいないのに、多くの人を凄い速さで運ぶことができるという。
ヒカリの生きてきた世界は、私の知らない世界だ。ニコニコと笑いながら海を眺めているこの人間のことを、どうしようもなく知りたくなってしまう。
「すごいのね」
「いえいえ。北海道庁のしがない技師ですよ。ああ、この前までは札幌で教師も兼ねていましたが」
「ええ……」
私のこれまでの人生が不変、停滞だとすれば、ヒカリは三十年に足るかどうかといったの人生の中でどれだけ鮮やかな経験を積んできたのだろう。
ヒカリはグッと手を空に向けて伸びをすると、その場にそのまま腰を下ろす。ヒカリに倣って座ってみると、春の陽気で芽吹いたばかりの草々が柔らかく受け止めてくれた。
「ナギサさんは北海道に来る前、どこで暮らしていたか覚えてますか?」
ヒカリは海を見たままだった。
私はずっと海を見てきた。だけど、この人間は海を飛び越えて別の国に行って帰ってきたという。
きっと、同じ玖多留の海を見ていても、ヒカリにはその海の先が見えてるのだろう。そんな気がした。
「ここに来る前は、神戸に」
「へえ、神戸ですか。いい港町ですね」
「母が商家の生まれで、それで」
「ああ、なるほど。そういうことでしたか」
何が「なるほど」なのだろう。勝手に納得しているヒカリに視線で質してみると、それに気づいたヒカリが小さく頭をかいた。
「僕も教師の端くれでしたから、話しているとどんな教育を受けて来たか、少しはわかるんです。ナギサさんからはしっかりとした教育を受けてきた感じがしていましたが、商家の娘ということで納得しました。小さい頃はさぞ習い事で忙しかったでしょう」
ヒカリの言葉に遠き幼き日々のことを思い出す。あの頃は朝から寺子屋に行き、その後も三味線や琴、踊りといた芸事の稽古を一日中受けていた。もっと友だちと遊びたいと思ったのも一度や二度ではない。
「確かに、そうかもしれない。それが今では魚を獲って暮らしてるんだから笑っちゃうけど」
「そんなことはありませんよ」
隣から聞こえる、力強い声。海に向かって手を伸ばしたヒカリが、何かを確かめるようにぎゅっとその手を握りしめる。
「幼い頃に学んだことは、忘れることはあっても、なくなることはありません。これからきっと、ナギサさんが学んできたことが光を浴びるときが来ますよ」
眩しかった。それは春の陽射しを受けてきらきらと光る玖多留の海のことであり、隣で何の疑いもなく笑みを浮かべているヒカリのことでもある。
息苦しくなってしまいそうな眩しさに、思わず胸に手を当てる。胸が締め付けられるようで、でも、この感覚は嫌じゃない。
「そう、だといいわね」
春風が辺りを揺らす。どこかで咲いた野花の香りが風に混ざってくすぐっていく。
誰かが、海に縛られた私を変えてくれることを願っていた。
だけど今この瞬間は、この時が永遠に続いてくれればいいのにと思ってしまう。
ハッと顔を上げたヒカリが腰の辺りから何かを取り出す。
「あ、そうだ。そろそろ弁当でも食べませんか。といっても、握り飯と漬物ですが」
ヒカリが取り出したのは柳の皮で作られた弁当箱だった。ヒカリが蓋を開けると、その言葉の通りおにぎりと漬物が綺麗に収められていた。
「いいの?」
「ピクニックと言えば、弁当が付き物ですからね。さ、どうぞ。味の保証はできませんが」
「これ、貴方が作ったの?」
「留学やらなんやらで今も一人ですからね。といっても、簡単な物しかつくれませんが」
「なんでもできるのね」
「そうでもないですよ。実は僕、泳ぐのが大の苦手で」
どこまで本気か冗談かわからないヒカリの言葉に笑みが漏れるのを感じながらおにぎりにかぶりつく。
おにぎりの中に入っていたのは梅干しと昆布だった。味の保証はできないなんていっていたけど、おにぎりはふっくらとして、具材や塩が文字通りいい塩梅できいていておいしかった。
そういえば、誰かが作ってくれたものを食べるなんていつぶりだろう。そう思うと、冷たいはずのおにぎりが熱を持って体内に入ってくる。
気がつけば、無心でおにぎりにかぶりついていた。
「懐かしいなあ。留学中もこうして山に弁当を持ってピクニックに行ったものです」
「それは、楽しそうね」
「もし気に入ったのなら、向こうの山にも今度行ってみましょうか」
ヒカリが指さしたのは玖多留とは山を挟んで反対側の景色だった。海や町が広がる玖多留とは違い、人間の手が入っていない森や山々が広がっている。おおよそ野掛けに向いた場所には思えないけど、不思議とヒカリと一緒なら楽しそうだった。
「構わないけど、あの辺りの山は火を噴いたこともあるらしいわ」
「火山ですか。そりゃあ気を付けなければ……待てよ、火山?」
それまで笑顔でおにぎりを食べていたヒカリの手が止まる。動きを止めたまま、何かを考え込むように眉毛が寄る。その瞳は目の前の景色を映していない。どこか遠くを見ているようだった。
「そうか、火山灰。確か、独逸で読んだ論文に耐海水性について検証が載っていたはずだ。ああ、どうしてそんな大事なことを忘れてたんだ」
「どうしたの、大丈夫?」
ブツブツと呟きだしたヒカリに少し寄り添ってみると、ヒカリはガバリと顔を上げた。手元に残っていたおにぎりを一口で飲み込むと、パッと立ち上がる。そしてそのまま私に向かって手を差し出した。
「ありがとうございます、ナギサさん! おかげで突破口が開けそうです!」
「それは、どうも……?」
相変わらずヒカリの話にはついていけないけど、ヒカリの顔はキラキラとしているし、悪いことではないのだろう。
差し出された手をそっと取ると、その手はすぐにぎゅっと握り返され、ぐいっと私の身体を引き起こす。
「さあ、こうしちゃいられません! 実験の続きです!」
「あっ、ちょっと、ヒカリっ!」
ヒカリは私の手を引いたまま山を駆け下りていく。
すっかりヒカリに振り回されていたけど、気分は悪くなかった。
むしろ、暗がりに光が差し込んできたように、もやもやとしたものがすうっと溶けていくような感じがした。
ヒカリの後を追うように慣れない山道を走りながら、こんな日がもっと続けばいいと改めて願う。
走り慣れてなかったのはヒカリも同じようで、次の瞬間盛大に転んでしまったけど。
だけど、顔を見合わせた私たちはどちらからともなく吹き出して、笑いながらもう一度走り出した。
「どうしてそんな言葉を知ってるの?」
「実は、この間まで留学していたのですよ」
ヒカリは何でもないように言うが、この国の外に出たことがある人間など会ったのは初めてだった。かつてはこの北海道も本土とは別の国だったけど、今はもう同じ国ということになっている。
それにしても、本当に底が知れない。そして、そんな人間のことをどうしようもなく面白いと思ってしまう。
玖多留の背後にはいくつかの低山が連なっていて、ヒカリが野掛けの場所に選んだのは「天狗山」と呼ばれる山だった。
山を登っていくと、玖多留の海が一望できる。今も本土からやってきたのであろう大きめの船が玖多留の町に向かってきているところだった。
「ありゃあ。難儀してますねえ」
目元に手を添えるようにして海を見ていたヒカリが呟く。確かに、玖多留の海の荒波に呑まれて船は中々前へと進めていない。大きな船であの状態なので小さい船ではあっという間に転覆してしまうだろう。実際、北海道に開拓民たちが多く入植してきた頃にはそういった事故も少なくなかった。
「僕達はね、ああいう船が安全に玖多留の港まで入ってこられるように防波堤を作ろうとしてるんですよ」
「それが、貴方の仕事?」
「そうですね。以前は玖多留から幌内までつながる鉄道の建設をしていましたが、今はこの港に防波堤を作るのが仕事です」
鉄道。実物は見たことがないけど、玖多留の町の人たちが話しているのを聞いたことがある。牛も馬もいないのに、多くの人を凄い速さで運ぶことができるという。
ヒカリの生きてきた世界は、私の知らない世界だ。ニコニコと笑いながら海を眺めているこの人間のことを、どうしようもなく知りたくなってしまう。
「すごいのね」
「いえいえ。北海道庁のしがない技師ですよ。ああ、この前までは札幌で教師も兼ねていましたが」
「ええ……」
私のこれまでの人生が不変、停滞だとすれば、ヒカリは三十年に足るかどうかといったの人生の中でどれだけ鮮やかな経験を積んできたのだろう。
ヒカリはグッと手を空に向けて伸びをすると、その場にそのまま腰を下ろす。ヒカリに倣って座ってみると、春の陽気で芽吹いたばかりの草々が柔らかく受け止めてくれた。
「ナギサさんは北海道に来る前、どこで暮らしていたか覚えてますか?」
ヒカリは海を見たままだった。
私はずっと海を見てきた。だけど、この人間は海を飛び越えて別の国に行って帰ってきたという。
きっと、同じ玖多留の海を見ていても、ヒカリにはその海の先が見えてるのだろう。そんな気がした。
「ここに来る前は、神戸に」
「へえ、神戸ですか。いい港町ですね」
「母が商家の生まれで、それで」
「ああ、なるほど。そういうことでしたか」
何が「なるほど」なのだろう。勝手に納得しているヒカリに視線で質してみると、それに気づいたヒカリが小さく頭をかいた。
「僕も教師の端くれでしたから、話しているとどんな教育を受けて来たか、少しはわかるんです。ナギサさんからはしっかりとした教育を受けてきた感じがしていましたが、商家の娘ということで納得しました。小さい頃はさぞ習い事で忙しかったでしょう」
ヒカリの言葉に遠き幼き日々のことを思い出す。あの頃は朝から寺子屋に行き、その後も三味線や琴、踊りといた芸事の稽古を一日中受けていた。もっと友だちと遊びたいと思ったのも一度や二度ではない。
「確かに、そうかもしれない。それが今では魚を獲って暮らしてるんだから笑っちゃうけど」
「そんなことはありませんよ」
隣から聞こえる、力強い声。海に向かって手を伸ばしたヒカリが、何かを確かめるようにぎゅっとその手を握りしめる。
「幼い頃に学んだことは、忘れることはあっても、なくなることはありません。これからきっと、ナギサさんが学んできたことが光を浴びるときが来ますよ」
眩しかった。それは春の陽射しを受けてきらきらと光る玖多留の海のことであり、隣で何の疑いもなく笑みを浮かべているヒカリのことでもある。
息苦しくなってしまいそうな眩しさに、思わず胸に手を当てる。胸が締め付けられるようで、でも、この感覚は嫌じゃない。
「そう、だといいわね」
春風が辺りを揺らす。どこかで咲いた野花の香りが風に混ざってくすぐっていく。
誰かが、海に縛られた私を変えてくれることを願っていた。
だけど今この瞬間は、この時が永遠に続いてくれればいいのにと思ってしまう。
ハッと顔を上げたヒカリが腰の辺りから何かを取り出す。
「あ、そうだ。そろそろ弁当でも食べませんか。といっても、握り飯と漬物ですが」
ヒカリが取り出したのは柳の皮で作られた弁当箱だった。ヒカリが蓋を開けると、その言葉の通りおにぎりと漬物が綺麗に収められていた。
「いいの?」
「ピクニックと言えば、弁当が付き物ですからね。さ、どうぞ。味の保証はできませんが」
「これ、貴方が作ったの?」
「留学やらなんやらで今も一人ですからね。といっても、簡単な物しかつくれませんが」
「なんでもできるのね」
「そうでもないですよ。実は僕、泳ぐのが大の苦手で」
どこまで本気か冗談かわからないヒカリの言葉に笑みが漏れるのを感じながらおにぎりにかぶりつく。
おにぎりの中に入っていたのは梅干しと昆布だった。味の保証はできないなんていっていたけど、おにぎりはふっくらとして、具材や塩が文字通りいい塩梅できいていておいしかった。
そういえば、誰かが作ってくれたものを食べるなんていつぶりだろう。そう思うと、冷たいはずのおにぎりが熱を持って体内に入ってくる。
気がつけば、無心でおにぎりにかぶりついていた。
「懐かしいなあ。留学中もこうして山に弁当を持ってピクニックに行ったものです」
「それは、楽しそうね」
「もし気に入ったのなら、向こうの山にも今度行ってみましょうか」
ヒカリが指さしたのは玖多留とは山を挟んで反対側の景色だった。海や町が広がる玖多留とは違い、人間の手が入っていない森や山々が広がっている。おおよそ野掛けに向いた場所には思えないけど、不思議とヒカリと一緒なら楽しそうだった。
「構わないけど、あの辺りの山は火を噴いたこともあるらしいわ」
「火山ですか。そりゃあ気を付けなければ……待てよ、火山?」
それまで笑顔でおにぎりを食べていたヒカリの手が止まる。動きを止めたまま、何かを考え込むように眉毛が寄る。その瞳は目の前の景色を映していない。どこか遠くを見ているようだった。
「そうか、火山灰。確か、独逸で読んだ論文に耐海水性について検証が載っていたはずだ。ああ、どうしてそんな大事なことを忘れてたんだ」
「どうしたの、大丈夫?」
ブツブツと呟きだしたヒカリに少し寄り添ってみると、ヒカリはガバリと顔を上げた。手元に残っていたおにぎりを一口で飲み込むと、パッと立ち上がる。そしてそのまま私に向かって手を差し出した。
「ありがとうございます、ナギサさん! おかげで突破口が開けそうです!」
「それは、どうも……?」
相変わらずヒカリの話にはついていけないけど、ヒカリの顔はキラキラとしているし、悪いことではないのだろう。
差し出された手をそっと取ると、その手はすぐにぎゅっと握り返され、ぐいっと私の身体を引き起こす。
「さあ、こうしちゃいられません! 実験の続きです!」
「あっ、ちょっと、ヒカリっ!」
ヒカリは私の手を引いたまま山を駆け下りていく。
すっかりヒカリに振り回されていたけど、気分は悪くなかった。
むしろ、暗がりに光が差し込んできたように、もやもやとしたものがすうっと溶けていくような感じがした。
ヒカリの後を追うように慣れない山道を走りながら、こんな日がもっと続けばいいと改めて願う。
走り慣れてなかったのはヒカリも同じようで、次の瞬間盛大に転んでしまったけど。
だけど、顔を見合わせた私たちはどちらからともなく吹き出して、笑いながらもう一度走り出した。