人の世がどれだけ移ろっても、海は変わることがない。
 岩場に寄せては返す波の音。絶えず揺れ動き続ける白波。
 ここ、“玖多留(くたる)”の海の波は複雑だ。春を迎えたばかりの海は、まだ冬の荒々しさを残している。
 表情は一時たりとも同じ時はないけど、いつまでも形を変える事無くあり続けるもの。
 そして、海に縛られた私も、永遠に変わることのない時を過ごすのだと思っていた。

――チャポン

 不意に、不自然な水音がした。

 普段誰もいないような海岸で、一人の男が海に向かって身を屈めている。
 見慣れない男だ。年端二十代半ばくらいで、洋服を纏っている。海水や砂で汚れているものの質は悪くなさそうだ。そもそも、本土からやってきた開拓使が多くを占めるこの北海道という場所では、まだまだ洋服は珍しい。ここ玖多留では開拓使よりも交易をおこなう商人の方が多いけど、洋服なんてそのうちの何人かが着ていることもある、といった程度だ。
 そんな珍しい格好の男が、こんなところで何をしているのだろう。岩場に身を隠して様子を伺うと、男は海から何かを引き上げているようだった。

「あれは何かしら……」

 男が手にしているのは、私の腕位の太さの石の棒のような物だった。色々な角度から石の棒を眺めては、手元に何やら書きつけている。
 この辺りに住む人間が海に来てすることと言えば、釣り竿で魚を獲るか、潜って魚を獲るかだ。いったい何が好きで海に沈んでいた石の棒なんて眺めているのだろう。
 少し距離が離れているせいで、男の見ているものがよく見えない。もう少し近づければ。

――その瞬間、どこからか視線を感じた。

 バシャリ。

 身を乗り出そうとしたときに感じた視線のせいでよろめいてしまい、岩場に溜まっていた水たまりを踏み抜いてしまった。絶えず波の音が響く海岸に不思議とその音はよく響いて、男はさっと顔を上げた。
 目と目が合う。
 男はしばらく目をパチクリとさせてから、ふっと相好を崩した。石の棒を足元に置くと、ゆっくりと私の方に近づいてくる。

「やあ、どうも。こんなところでどうしたのですか、お嬢さん」

 お嬢さん、か。男には私がそう見えるらしい。まあ、そうだろう。見た目なら目の前の男より幾分か若く見えるはずだ。
 一見して優しそうな男だけど、そういう男の方が危ないと過去の経験が告げる。警戒し、足を一歩引きながら男の様子を伺う。

「どうしたのか聞きたいのはこっち。この辺りは漁場なんだけど」

 そう返すと、男は再び目をパチクリさせた。

「そうなのですか。町の方々に聞いたら、この辺りに寄りつく者はいないと」
「……町の人間はあまりこの辺りに来ない。あの町に魚を自分たちで獲って暮らす人はほとんどいないから」
「はあ。お嬢さんは特別なんですね」

 男の声は、問い質すというよりは勝手に納得した感じだった。詮索されたいわけではないけど、なんだか拍子抜けだった。

「私のことはいい。それより、そこで何をしていたの?」
「おおっ。気になりますか?」

 男の声が弾む。その瞳にキラリと光が宿った気がした。
 男はぱっと私の手を取ると、石の棒を置いていたところまで私を導いて、石の棒を私の目の前に持ち上げてみせる。石の棒には貝殻や藻が付着していたけど、形が綺麗に整っていて、むしろ整いすぎて自然の物とは思えない不自然さだった。

「海に沈めたコンクリートの劣化具合を見ていたのです」
「コンク、リート?」
「ああ、コンクリートというのは砂と砂利と水を混ぜてセメントで固めたもので……」

 男の口調が急に早口になる。コンクリートというよくわからない言葉が出てきたと思ったら、今度はセメント。深川に官営のセメント工場ができたとかなんとか男は話し続けているけど、私にはさっぱり理解できなかった。
 やがて、私がまったく話について行けてないことに気づいたのか、男は照れくさそうに頭をかく。

「これは失敬。つい教師の時の癖が出てしまいました。要するにこれは人がつくった石のような物です」

 結局は石らしい。あちこちと回り道をして、結局元の場所に戻ってきたような気分だった。

「なぜわざわざ海に沈めていたの?」
「コンクリートは塩に弱いのです。だから、どれくらい痛むかをチェックしていました。海に沈めた場合と、海面付近に並べた場合とか」
「なぜそんなことを?」

 その問いを待っていたかとばかりに男の目がキラリと光った。

「ここから少し離れたところに港をつくるのです。正確には、今ある港を改修するのですが」
「港」
「船が近づいてきて人や荷物を積んだり降ろしたりする場所ですね」
「それは知ってる。港とこの石に何の関係があるの?」
「この辺りの海は荒い。このままでは船が近づくことが難しいので、この石で海に壁を造って波を遮るのです。防波堤、と我々は呼んでいます」

 海に石の壁を造る。
 男の話は壮大で、真か嘘か判断ができなかった。
 男の顔は真剣そのものだったけど、こんな石で海に壁を造るなんて。

「できっこない」
「できますよ」

 男が不敵に笑う。さっきまでどこかフワフワとして浮世離れしていたのに、その瞬間だけ獰猛な獣のような表情で――その豹変ぶりに、少しドキリとした。

「無理よ」
「船が近づけるようになれば、この辺りは港町として栄え、北海道全体が栄えるための礎として、なくてはならない場所になります。だから、無理を無理じゃなくします」

 男は頑として譲らない。
 男の言っている言葉の意味はあまりよくわからなかったけど、男の目は相変わらずキラキラと希望に瞬いていて、そんな顔を浮かべるような人間はこの辺りには居なくて、妙にそわそわとさせられる。
――と、男の表情がほろりとくずれて、さっきと同じように照れくさそうに頭をかいた。

「なんて、偉そうに言ってますけど。今のままじゃ壁を造ってもすぐに壊れてしまうので、まずは塩に強いコンクリートをつくらなきゃいけないんですけどね」

 そう言って男は石の棒を握る手に力を込めた。すると、硬そうに見えた石の棒の表面がボロボロと崩れ落ちる。それは今まで見たことのない光景だった。
 男が何をしようとしているのかは全く想像できなかったけど、この海に何ができようとしているか、とても気になった。
 海というのは永遠で、何も変わらないものだと思っていたけど、この男は何かを変えようとしているのかもしれないということだけはわかった。
 海が変わるようなことがあれば、私にも変化が訪れるだろうか。

「私は、ナギサ。この辺りで魚を獲って暮らしている」

 そういえば、色々聞いてばかりで私のことを話していなかった気がついた。
 だから名前を伝えたのだけど、何故か男は困ったように眉毛を八の字にする。

「もしかして、ここで実験をすると邪魔ですか?」

 どうやら男は、私がこの場所を自分のものだと主張していると受け取ったようだ。
 それはある意味では正しくて、だけど、海は誰のものでもない。

「別に、構わない。だけど」
「だけど……?」
「また見に来てもいい?」

 この玖多留の地に流れ着いてから、もうずっと他人に興味を持つことなんてなかったはずなのに、何故か目の前の男のことがとても気になった。
 それは、コンクリートとか言う石の棒で何をしようとしているのかもそうだし、もしかしたらこの男はどこまでも平らな海を変えるのかもしれないと、そんな予感がしたからだった。

「もちろん。僕は光。室井光といいます。ぜひ、また見に来てください、ナギサさん」

 私の質問に男――ヒカリは何度か目を瞬かせてから、ふわりと小春日和の陽だまりのように笑った。