「ここでちょっと待っとき」
そう言って、りんを椅子に預けて、千秋は厨房に入っていった。
どうやら家の中ではなく、店の方に連れてきてくれたようだ。
表から見ていた印象とほぼ同じで、広々とした店だった。飾り気は皆無に等しい。ただ想像と違ったのは、卓と椅子の数が思っていたより少ないことだろうか。
この広さならもっとたくさん置けるだろうに、卓が5つ、ぽつんと離れて置かれている。
卓と卓の間が広々として、悠々とくつろげそうではあるが……それにしたって、これほど少ない理由がわからない。
「この店は、他の客と触れ合う距離でいとうない客が多いんや」
考えを読まれて驚いていると、厨房の方から、イタズラっぽい笑みを向けられた。
「キョロキョロ見回しとるからな。もっと客入れたらええのにって思うんやろ」
「そ、そんなことは……」
「お父はんからも、そう言われてきたんやろ。それか、連れ帰れとか」
そう言いながら、千秋は手を動かしている。なにやら固い音と、シャカシャカと混ぜ合わせるような音が聞こえる。
いったい何を作っているんだろうか。そう思ったけれども、手元までは見えない。
「い、言われてません……」
「ほな、なんぞそういう企みがあって、あんたを送り込んだんやろな」
今度は鍋を竈に置いた。いつの間に火をおこしていたのか、すぐにごま油が温まって、独特の香りをりんの元にまで漂わせる。
「あの……何を作ってはるんですか?」
「秘密や。そやけど、今仕込んどったんがこれくらいしかないよって、堪忍な」
「え? 何を……」
そう、言うが早いか、ジュワッと激しい音が響き渡った。波が襲い来るようにりんの耳に届いたかと思うと、その後もずっとじゅうじゅうと音を立てて、一緒に香ばしい香りまで運んでくる。
間違いなく、揚げ物だ。
油をたくさん使うので、使用人に出されることはなかったけれど、賓客にもてなすため呼ばれた料理人が作っているのを見たことはある。
どれほど、食べてみたいと思ったことか。
何と呼べば良いかわからない良い香りがりんの鼻腔をくすぐり、刺激してやまない。
「ほい。おまちどおさん」
気付くと、皿がどんと目の前に置かれていた。
そこに載っていたのは……
「て、天麩羅ですか!?」
「そうやけど?」
こともなげに千秋は言う。
天麩羅そのものは、徳川の世から庶民にも普及していた。川縁に屋台が出て、海産物などを揚げて出していたと聞く。りんも一度か二度なら、食べた。
だけど目の前のこれは、その時食べたものとは違った。
「こ、これ……金ぷらとちゃいますか!?」
「ああ、そう呼ぶんやったかな? 美味そうやろ」
天麩羅は、小麦粉を水と卵で混ぜた衣をつけて揚げる。
元いた奉公先のような大きなお屋敷ならともかく、庶民にとっては卵は贅沢品だ。湯水の如く使うようなものじゃない。
天麩羅が広く食べられるようになる過程で、卵の卵黄を使って黄金色に揚がった『金ぷら』と、卵白を使ってやや白っぽく揚がった『銀ぷら』とができたという。
当然、『金ぷら』は高級店の味だ。
大きな店構えとはいえ、こんな街中の飯屋で食べられるものじゃない……はずなのだが。
「細かいことはええがな。食べるんか、食べへんのか、どっちや?」
「た……食べ、ます」
正直、また腹の虫が悲鳴を上げるところだった。
卓に置かれた箸を手に取り、手を合わせる。そろそろと箸を伸ばすと、色鮮やかな様が改めて痛いほど目に映る。
黄金色の衣から湯気が上り、香ばしい香りとほんのり甘い香りを同時に運んでくる。分厚い衣の奥には、またも鮮やかな赤いものが見える。海老か何かか……その正体まではわからなかったが、りんはとにかく、もう空腹に勝てなかった。
大きく口を開けて、ぱくっと一息に、口に放り込む。
そう言って、りんを椅子に預けて、千秋は厨房に入っていった。
どうやら家の中ではなく、店の方に連れてきてくれたようだ。
表から見ていた印象とほぼ同じで、広々とした店だった。飾り気は皆無に等しい。ただ想像と違ったのは、卓と椅子の数が思っていたより少ないことだろうか。
この広さならもっとたくさん置けるだろうに、卓が5つ、ぽつんと離れて置かれている。
卓と卓の間が広々として、悠々とくつろげそうではあるが……それにしたって、これほど少ない理由がわからない。
「この店は、他の客と触れ合う距離でいとうない客が多いんや」
考えを読まれて驚いていると、厨房の方から、イタズラっぽい笑みを向けられた。
「キョロキョロ見回しとるからな。もっと客入れたらええのにって思うんやろ」
「そ、そんなことは……」
「お父はんからも、そう言われてきたんやろ。それか、連れ帰れとか」
そう言いながら、千秋は手を動かしている。なにやら固い音と、シャカシャカと混ぜ合わせるような音が聞こえる。
いったい何を作っているんだろうか。そう思ったけれども、手元までは見えない。
「い、言われてません……」
「ほな、なんぞそういう企みがあって、あんたを送り込んだんやろな」
今度は鍋を竈に置いた。いつの間に火をおこしていたのか、すぐにごま油が温まって、独特の香りをりんの元にまで漂わせる。
「あの……何を作ってはるんですか?」
「秘密や。そやけど、今仕込んどったんがこれくらいしかないよって、堪忍な」
「え? 何を……」
そう、言うが早いか、ジュワッと激しい音が響き渡った。波が襲い来るようにりんの耳に届いたかと思うと、その後もずっとじゅうじゅうと音を立てて、一緒に香ばしい香りまで運んでくる。
間違いなく、揚げ物だ。
油をたくさん使うので、使用人に出されることはなかったけれど、賓客にもてなすため呼ばれた料理人が作っているのを見たことはある。
どれほど、食べてみたいと思ったことか。
何と呼べば良いかわからない良い香りがりんの鼻腔をくすぐり、刺激してやまない。
「ほい。おまちどおさん」
気付くと、皿がどんと目の前に置かれていた。
そこに載っていたのは……
「て、天麩羅ですか!?」
「そうやけど?」
こともなげに千秋は言う。
天麩羅そのものは、徳川の世から庶民にも普及していた。川縁に屋台が出て、海産物などを揚げて出していたと聞く。りんも一度か二度なら、食べた。
だけど目の前のこれは、その時食べたものとは違った。
「こ、これ……金ぷらとちゃいますか!?」
「ああ、そう呼ぶんやったかな? 美味そうやろ」
天麩羅は、小麦粉を水と卵で混ぜた衣をつけて揚げる。
元いた奉公先のような大きなお屋敷ならともかく、庶民にとっては卵は贅沢品だ。湯水の如く使うようなものじゃない。
天麩羅が広く食べられるようになる過程で、卵の卵黄を使って黄金色に揚がった『金ぷら』と、卵白を使ってやや白っぽく揚がった『銀ぷら』とができたという。
当然、『金ぷら』は高級店の味だ。
大きな店構えとはいえ、こんな街中の飯屋で食べられるものじゃない……はずなのだが。
「細かいことはええがな。食べるんか、食べへんのか、どっちや?」
「た……食べ、ます」
正直、また腹の虫が悲鳴を上げるところだった。
卓に置かれた箸を手に取り、手を合わせる。そろそろと箸を伸ばすと、色鮮やかな様が改めて痛いほど目に映る。
黄金色の衣から湯気が上り、香ばしい香りとほんのり甘い香りを同時に運んでくる。分厚い衣の奥には、またも鮮やかな赤いものが見える。海老か何かか……その正体まではわからなかったが、りんはとにかく、もう空腹に勝てなかった。
大きく口を開けて、ぱくっと一息に、口に放り込む。