りんの放った一言に、青年は目を丸くした。次いで頭上を見上げ、眩しげに目を細める。
ようやく、日の高さに気付いたらしい。
「ホンマや。お日さんがえらい高い……」
「あの……お店、開けんでもええんですか? さっきからお客さんがたくさん素通りしていかはるんですけど……」
「ええねん。うちのお客は、もうちょっと後で来るさかい」
そう言って、あくびまじりに戸を閉めようとする。
「ち、ちょっと待ってください! なんで閉めるんですか!」
必死の思いで足を戸に挟み、何とか閉めきるのを阻止した。その反応に、青年は目を瞠りつつ、ちょっと残念そうに舌打ちしていた……。油断も隙もない。
「……なんやねんな。わしになんぞ用事か?」
「そ、そうです! あの……『七種 千秋』様でしょうか?」
「……そうやけど?」
「うちは『りん』と申します。山科の七種本家で女中として務めておりましたけど、こちらに行くようにと言われて参りました! 旦那様からその旨したためたお文があります!」
また閉められないうちにと、りんは急いで胸元にしまっていた文を取り出した。
表に『ぼんくらへ』と書かれた手紙を受け取ると、青年……千秋は疑いもせず、中を開いた。一行読み進める度に、ほう、ほう、と相槌を打っている。
そして最後まで読み終えると、黙ってりんをじっと見つめるのだった。
「そうか、あんた……」
「? なんですやろ?」
「いや、何でもない……『りん』ていうたな。歳は?」
「十五になります」
「さよか……これまで、えらい難儀したみたいやな」
「い、いえそんな……」
俯くりんを見た後、千秋は、つと視線だけをりんの背後に向ける。
「大変やったやろうな。本家からここまで、こんな荷物抱えて」
「は、はい……いえ、荷物はそれほどは……それより……」
「わかっとる。こいつ、やろ?」
千秋は頷き、りんの背後に立つモノをじっと見つめた。視線が合ったのか、背後にいたそれ……黒い影が、ニタリと笑ったように、りんは感じた。
ぞわりと背筋が粟立った。
次の瞬間、黒い影がりんの背に覆い被さってきた。
(もう、あかん……!)
道中ではなんとか堪えていたが、僅かに気が緩んだのだろうか。堪えきれず、りんは膝をついた。
自分の目方の何倍もの重荷を背負わされているかのように、立ち上がれなくなった。
「大丈夫かいな。あやかしに憑かれたんは初めてか?」
りんは、首をそっと横に振った。
「よくこういう黒いのんが憑いてくるんですけど、これ……『あやかし』いうんですか?」
「本家におったのに知らんのかいな」
りんはこれにも首を横に振った。本家では、己のことは己で面倒を見よというのが信条であり、誰もりんの世話なんて焼いてくれなかった。自分の面倒を自分で見られなかったため、りんは本家から出されたのだ。
千秋は、ため息交じりに告げた。
「こういう、人とも獣とも違う存在、まつろわぬ者、動植物や長い間使われてきた物に宿った意思やったり、神さんの眷属やったり……ええもんやったり悪いもんやったり、色々いてはるけど、基本的にこの人が暮らす現世にはおらんもんや。そやから、大抵の者には見えん」
「でも……確かに、ここに……」
「ああ、そうやな」
見えないけれども、確かにそこに居る。そういう存在なのだと、千秋は言った。そしてだからこそ、人に悪い影響が出ることもある、と。
「あんたに憑いてるんは、まぁ『悪いもん』なんやろな。何とかしてやりたいのは山々やけど、わしにはどうにも……」
「ち、違うんです……」
そう言うと、千秋は怪訝そうな目を向けた。
「その後ろに憑いてるあやかしを、どうにかしてほしいんとちがうんか?」
「してほしいです……してほしいですけど、その前に……」
ぐっと、両腕を着いて、どうにか倒れ込まないよう踏ん張っていた。そして、音がなった。
ぐううぅぅぅぅぅ……と。
りんは顔を上げられなかった。だけど千秋が目を瞬かせている顔は、想像できる。もう、はっきり言ってしまおう。
「お、お腹が……空いたんです……」
「あぁ、うん……そうやろうな」
千秋が差し出してくれた手が、往く宛てをなくして彷徨っていた。
「む、昔からこうで……この黒い何かに憑かれると、ものすごく疲れて、力が抜けて……お腹が空いて死にそうになるんです……!」
「さ、さよか……ほなまぁ、なんぞ食べていき」
「そ、そんな……女中が……主人に作らせるやなんて……」
「言うとる場合か。女中やのうて、店の客やてことにすればええやろ。ほれ、入り」
そう言って、一人分だけ開けていた戸を大きく開いてくれる、だが……りんは、立ち上がろうとしなかった。いや、できなかった。
「……立たれへんか?」
「……はい」
「やれやれ、難儀な奴やなぁ……よいしょ」
そう言うと、りんが背負っていた荷を解き、りんをおぶってくれた。
荷物と同じくらい軽々と持ち上げられて面食らうりんには気付かず、千秋は、すたすた中へと入っていくのだった。
ようやく、日の高さに気付いたらしい。
「ホンマや。お日さんがえらい高い……」
「あの……お店、開けんでもええんですか? さっきからお客さんがたくさん素通りしていかはるんですけど……」
「ええねん。うちのお客は、もうちょっと後で来るさかい」
そう言って、あくびまじりに戸を閉めようとする。
「ち、ちょっと待ってください! なんで閉めるんですか!」
必死の思いで足を戸に挟み、何とか閉めきるのを阻止した。その反応に、青年は目を瞠りつつ、ちょっと残念そうに舌打ちしていた……。油断も隙もない。
「……なんやねんな。わしになんぞ用事か?」
「そ、そうです! あの……『七種 千秋』様でしょうか?」
「……そうやけど?」
「うちは『りん』と申します。山科の七種本家で女中として務めておりましたけど、こちらに行くようにと言われて参りました! 旦那様からその旨したためたお文があります!」
また閉められないうちにと、りんは急いで胸元にしまっていた文を取り出した。
表に『ぼんくらへ』と書かれた手紙を受け取ると、青年……千秋は疑いもせず、中を開いた。一行読み進める度に、ほう、ほう、と相槌を打っている。
そして最後まで読み終えると、黙ってりんをじっと見つめるのだった。
「そうか、あんた……」
「? なんですやろ?」
「いや、何でもない……『りん』ていうたな。歳は?」
「十五になります」
「さよか……これまで、えらい難儀したみたいやな」
「い、いえそんな……」
俯くりんを見た後、千秋は、つと視線だけをりんの背後に向ける。
「大変やったやろうな。本家からここまで、こんな荷物抱えて」
「は、はい……いえ、荷物はそれほどは……それより……」
「わかっとる。こいつ、やろ?」
千秋は頷き、りんの背後に立つモノをじっと見つめた。視線が合ったのか、背後にいたそれ……黒い影が、ニタリと笑ったように、りんは感じた。
ぞわりと背筋が粟立った。
次の瞬間、黒い影がりんの背に覆い被さってきた。
(もう、あかん……!)
道中ではなんとか堪えていたが、僅かに気が緩んだのだろうか。堪えきれず、りんは膝をついた。
自分の目方の何倍もの重荷を背負わされているかのように、立ち上がれなくなった。
「大丈夫かいな。あやかしに憑かれたんは初めてか?」
りんは、首をそっと横に振った。
「よくこういう黒いのんが憑いてくるんですけど、これ……『あやかし』いうんですか?」
「本家におったのに知らんのかいな」
りんはこれにも首を横に振った。本家では、己のことは己で面倒を見よというのが信条であり、誰もりんの世話なんて焼いてくれなかった。自分の面倒を自分で見られなかったため、りんは本家から出されたのだ。
千秋は、ため息交じりに告げた。
「こういう、人とも獣とも違う存在、まつろわぬ者、動植物や長い間使われてきた物に宿った意思やったり、神さんの眷属やったり……ええもんやったり悪いもんやったり、色々いてはるけど、基本的にこの人が暮らす現世にはおらんもんや。そやから、大抵の者には見えん」
「でも……確かに、ここに……」
「ああ、そうやな」
見えないけれども、確かにそこに居る。そういう存在なのだと、千秋は言った。そしてだからこそ、人に悪い影響が出ることもある、と。
「あんたに憑いてるんは、まぁ『悪いもん』なんやろな。何とかしてやりたいのは山々やけど、わしにはどうにも……」
「ち、違うんです……」
そう言うと、千秋は怪訝そうな目を向けた。
「その後ろに憑いてるあやかしを、どうにかしてほしいんとちがうんか?」
「してほしいです……してほしいですけど、その前に……」
ぐっと、両腕を着いて、どうにか倒れ込まないよう踏ん張っていた。そして、音がなった。
ぐううぅぅぅぅぅ……と。
りんは顔を上げられなかった。だけど千秋が目を瞬かせている顔は、想像できる。もう、はっきり言ってしまおう。
「お、お腹が……空いたんです……」
「あぁ、うん……そうやろうな」
千秋が差し出してくれた手が、往く宛てをなくして彷徨っていた。
「む、昔からこうで……この黒い何かに憑かれると、ものすごく疲れて、力が抜けて……お腹が空いて死にそうになるんです……!」
「さ、さよか……ほなまぁ、なんぞ食べていき」
「そ、そんな……女中が……主人に作らせるやなんて……」
「言うとる場合か。女中やのうて、店の客やてことにすればええやろ。ほれ、入り」
そう言って、一人分だけ開けていた戸を大きく開いてくれる、だが……りんは、立ち上がろうとしなかった。いや、できなかった。
「……立たれへんか?」
「……はい」
「やれやれ、難儀な奴やなぁ……よいしょ」
そう言うと、りんが背負っていた荷を解き、りんをおぶってくれた。
荷物と同じくらい軽々と持ち上げられて面食らうりんには気付かず、千秋は、すたすた中へと入っていくのだった。