時は明治十年、所は大阪。
文明開化に向けて日本が邁進する最中、この大阪にも新たな文明が花開いた。
『大阪すてんしょ』と書かれた看板を掲げるその建物は、新たに通じた鉄道の駅舎だ。
後に大阪・梅田として日本を代表する繁華街へと進化するこの街に、今日も大勢の客が降り立つ。
右へ左へ、前に後ろに、人々が様々行き交う中、一人の少女が、ぽつんと佇んでいた。ともすれば人の波に押し流されそうになりながらも、少女は必死に自身の向かう先へと歩いた。
駅前の通りを少しだけ離れた先の路地に入る。駅前の喧噪は建物の影に隠れてしまっても、それでも、駅舎のそびえ立つ姿は目についた。
少女は、そんな姿にくるりと背を向けた。
手に握っている紙切れには、簡単な住所と店の名、そしてその店主の名が走り書きのように書かれている。
少女は、ぽつりと、その名を反芻した。
「『大阪すてんしょ近ク』『ぼんくら屋』」
顔を上げると、手元の紙切れと同じ名を冠した店が、目に入る。
同じ並びの建物と比べて大きな店構えだ。だというのに、見た目は古びていて、なんのあしらいもなくて、人の気配もない寂れた風体だ。昼時だというのに、のれんも出ていない。
少女は、もう一度手元の紙と、目の前の店を見比べた。
どうやら幻ではなさそうだ。
「確かに、ここや……」
背中に背負った荷物をぐっと背負い直し、少女は「よし」と気合いを籠める。
「ようやく、着いた……! ここが、新しい奉公先や……!」
長い道のりだった。前の奉公先である京都・山科のお屋敷から大阪まで、重い重い荷物を抱えてたどり着いた。もう、足が棒になりそうだった。
うん、と力を込めて頷き、少女は引き戸に手をかける。
「ごめんください。りんといいます。女中として参りました」
そう言うと同時に戸を開こうとして……失敗した。
「うそ……閉まってる!?」
心張り棒でもしてあるらしい。少女・りんが何度戸をガタガタ鳴らそうと、開くことはなかった……。
焦るりんは、つっかえ棒を押し返すつもりで戸を開こうとがむしゃらに押した。すると…
「この店やったら、もうちょっと遅くにならんと開かへんで?」
通りがかりの男性が、半分笑いながらそう告げた。「そうなんですか?」と驚くと、笑いを堪えながら別の方向を指さした。
「なんや用があるんやったら、裏から入り。まぁ、あの大将が起きてるんか、わからんけどな」
「ありがとうございます!」
りんは、男性の勧めに従って裏口へと回った。表と同じで手入れのされていない、なんとも殺風景かつ野暮ったい場所だった。
ほんの少し立て付けの悪くなった障子戸に向けて、りんは改めて声を上げる。
「ごめんください! 今日から女中として、お世話になります!『りん』と申します! 開けてもらまへんやろか!」
言うだけ言って、しばし待つ。反応は、ない。仕方なく、もう一度声を張り上げようとした、その時だった。
「やっかましいな……朝っぱらからなんや」
そんな不機嫌そうな声が、障子の向こうから聞こえてきた。やがて、足音が聞こえたかと思うと、ゆっくりと障子戸が開いた。
開いた障子戸から顔を覗かせたのは、ひょろっと背の高い、ぼさぼさ髪の、寝ぼけ眼の、だけど瞳の奥にぼんやりと温かな光の籠もった、青年だった。
そんな瞳に向けて、りんはこう言うのが精一杯だった。
「も、もう昼です……」
文明開化に向けて日本が邁進する最中、この大阪にも新たな文明が花開いた。
『大阪すてんしょ』と書かれた看板を掲げるその建物は、新たに通じた鉄道の駅舎だ。
後に大阪・梅田として日本を代表する繁華街へと進化するこの街に、今日も大勢の客が降り立つ。
右へ左へ、前に後ろに、人々が様々行き交う中、一人の少女が、ぽつんと佇んでいた。ともすれば人の波に押し流されそうになりながらも、少女は必死に自身の向かう先へと歩いた。
駅前の通りを少しだけ離れた先の路地に入る。駅前の喧噪は建物の影に隠れてしまっても、それでも、駅舎のそびえ立つ姿は目についた。
少女は、そんな姿にくるりと背を向けた。
手に握っている紙切れには、簡単な住所と店の名、そしてその店主の名が走り書きのように書かれている。
少女は、ぽつりと、その名を反芻した。
「『大阪すてんしょ近ク』『ぼんくら屋』」
顔を上げると、手元の紙切れと同じ名を冠した店が、目に入る。
同じ並びの建物と比べて大きな店構えだ。だというのに、見た目は古びていて、なんのあしらいもなくて、人の気配もない寂れた風体だ。昼時だというのに、のれんも出ていない。
少女は、もう一度手元の紙と、目の前の店を見比べた。
どうやら幻ではなさそうだ。
「確かに、ここや……」
背中に背負った荷物をぐっと背負い直し、少女は「よし」と気合いを籠める。
「ようやく、着いた……! ここが、新しい奉公先や……!」
長い道のりだった。前の奉公先である京都・山科のお屋敷から大阪まで、重い重い荷物を抱えてたどり着いた。もう、足が棒になりそうだった。
うん、と力を込めて頷き、少女は引き戸に手をかける。
「ごめんください。りんといいます。女中として参りました」
そう言うと同時に戸を開こうとして……失敗した。
「うそ……閉まってる!?」
心張り棒でもしてあるらしい。少女・りんが何度戸をガタガタ鳴らそうと、開くことはなかった……。
焦るりんは、つっかえ棒を押し返すつもりで戸を開こうとがむしゃらに押した。すると…
「この店やったら、もうちょっと遅くにならんと開かへんで?」
通りがかりの男性が、半分笑いながらそう告げた。「そうなんですか?」と驚くと、笑いを堪えながら別の方向を指さした。
「なんや用があるんやったら、裏から入り。まぁ、あの大将が起きてるんか、わからんけどな」
「ありがとうございます!」
りんは、男性の勧めに従って裏口へと回った。表と同じで手入れのされていない、なんとも殺風景かつ野暮ったい場所だった。
ほんの少し立て付けの悪くなった障子戸に向けて、りんは改めて声を上げる。
「ごめんください! 今日から女中として、お世話になります!『りん』と申します! 開けてもらまへんやろか!」
言うだけ言って、しばし待つ。反応は、ない。仕方なく、もう一度声を張り上げようとした、その時だった。
「やっかましいな……朝っぱらからなんや」
そんな不機嫌そうな声が、障子の向こうから聞こえてきた。やがて、足音が聞こえたかと思うと、ゆっくりと障子戸が開いた。
開いた障子戸から顔を覗かせたのは、ひょろっと背の高い、ぼさぼさ髪の、寝ぼけ眼の、だけど瞳の奥にぼんやりと温かな光の籠もった、青年だった。
そんな瞳に向けて、りんはこう言うのが精一杯だった。
「も、もう昼です……」