仕事の帰り、スーツを着てくたくたになったあなたは帰りのバスに揺られて強い眠気に恐われる。
降りる駅まであと少しなのに、その睡魔は抗いようのないほどに強い。
まどろみの中、夕陽があなたを照らして、瞼がおりてしまう。



次に目を覚ますと、あなたはしまったと思う。
急いで外に視線をやると田園風景が広がっている。
何かがおかしい。
あなたの乗るバスは終点まで行ったとしても、田んぼや山が周りに広がるところがないのだ。
次に止まるバス停は何処だろうと車内の電光掲示板を見ても、真っ暗なスクリーンに映し出される文字はない。窓からは夕陽が射し込んで、車内を赤色に染め上げていて、やけに静かな気がする。
辺りを見渡すと、先ほどまで乗っていた乗客もいなくなり、バスの中にあなただけがいる。



不思議な空気に包まれたバスの中で、背もたれに体を預けると、懐かしい気持ちになる。
田んぼの煤けた匂いが鼻腔をついて、あなたの頭の奥底に眠る原風景を呼び起こしていく。
喧騒の毎日は遠く、まどろみの中に溶けて消えていくような気がした。



バスが止まり、二人の学生が乗車してきた。
そのうちの一人に、あなたは初恋を思い出す。
その少女は見覚えのある黒い制服に身を包んでいる。
前の方の席に座る彼女の隣には少年が座っている。
その光景はここがどのような場所で、なぜここにあなたがいるのかを理解させるのには十分だった。



その少年は自分の背丈に合っていない学ランを着ていて、肩のパッドが余っている。そして、二人の空間には濃密な青い時間が流れている。あなたはその少年がこれから何をしようとしているのかを知っている。そして、それが彼の人生でとても大切な時間になることも。



くたびれた今のあなたにとって、その光景はまぶしすぎる。もうどれほど願っても、戻ることのない青い時間。あなたは赤く染まるバスの中でそれを思い出す。

そして、少年は少女に何かを伝える。肩は少し震えて、きっと今にも心臓が飛び出そうなはずだ。少女はそんな彼を見て笑い、小さく頷く。それを見たあなたの頬には、一粒の雫が伝っている。戻れないとわかっていても、胸が締め付けられて苦しい。



バスが止まり、少女は一人でバスを降りていく。降車口の前で少年の方を向いて、「また明日。」と言った。その顔は夕陽に照らされて少しだけ赤らんでいるようにも見えた。



一人残された少年は立ち上がり、あなたの方に歩み寄ってくる。そして、座るあなたを見下ろして立つ。
僕は頑張りましたよ、とあなたに何かを伝えようとする。
頬を伝う涙は熱く、ズボンの膝に黒い染みを作っている。あなたは顔をあげることが出来なかった。

そして、再び強烈な眠気に襲われる。視界の端には、少年の黒い制服のズボンとその隣に強く握られた拳が見えた。そこで、記憶は途絶える。



再び、目を覚ますとあなたは元のバスに戻っていた。電光掲示板に目をやると、降りるべき駅が5つほど過ぎていた。あなたは落ち着いて【止まります】のボタンを押して、バスを降りる。



降りたバス停のベンチに腰かけて、ビルの隙間から見える夕焼けを眺めて溜め息を吐く。
諦観が心を満たして飽和している。
あんなに綺麗な思い出が、自分の中にあったことを忘れたいたことを嘆いている。
あの日の少年は大人になった。そして、大切なことまで忘れてしまっていた。



夕陽と反対の空はもう夜色に染まっている。
夕陽は静かに、涙を拭いて歩きだしたあなたを照らしている。