すぐに、珠子の着替えと化粧がはじまった。

 母屋からやってきた麻子が、申し訳なさそうな顔つきでつぶやいた。

「若いのに、とてもご立派なお方ですよ。このお役目は、凪子さんよりも珠子が適任です」
「どうかしら。貴族のおぼっちゃんなのでしょ。一晩遊ばれて終わりよ。私、そんなの絶対に嫌」
「凪子さんは、おとなしくしていらしてくださいね。珠子はあなたの身代わりになるのだから」

 雨宿りをしている貴族の男性の前に出て、食事を勧めるのが珠子の仕事だという。

 貴族の姫は邸の奥にいて姿形を隠すものだとされている。珠子には男きょうだいもいないし、見知っているのは父ぐらいだ。男性というものに接することがほとんどない。

 やむどころか、風も強くなってきているので帰ってくださいとも言えない。

 不安しかない。

 麻子も千佐も浮かない表情で珠子の支度をしている。生贄になるような心地だった。

「我が娘ながら、とてもうつくしいこと」
「よくお似合いです」

 紫色の濃淡を重ねた装束に濃い緋色の袴。新しい衣だった。
 予期せぬ事態にも慌てないために、晴れ装束一揃えを仕立てておいたらしい。

「まさか今夜使うことになるなんて」
「できたらこの装束は仕舞っておきたかったですね」

 しみじみと語り合うふたりに、珠子は告げた。

「こんなにきれいなものを着せてもらえて、私は嬉しい」

 本心だった。

 うつくしいのは布地の色だけではない。つややかでしっとりとしていて、肌に吸い付くほどなめらかだった。母が選び、千佐と共に縫った装束を着られる喜びを伝えておきたい。

 扇を持ち、いよいよ客人の待つ母屋の部屋に移動する。
 廊下を進むと、すぐに着いた。

 ここからは珠子ひとりになる。食事やお酒の載った高坏を掲げ、室内に進む。

 振り返ると千佐が泣いていた。麻子が慰めている。
 鬼にでも食われてしまうのではないか、不吉な思いに駆られる。

「お食事をお持ちしました」

 小さく声掛けをして板戸を開けると、奥から返事が返ってきた。

「こちらへ」

 室内には燭台が置いてあるが、薄暗い。
 扇を顔にかざし、もう片方の手で転ばないようにゆっくりと珠子は高坏を運ぶ。

 人の気配がする。それと、愛用の香りが漂ってくる。甘いようでいて、爽やかな香り。
 若いけれど立派なお方だと母は言っていた。そのことばを信じる。

「君は」

 珠子は、冷たくなった上に震えている手で高坏を御前に置く。両手で扇を持ち、改めて顔を隠した。

「宮道家の娘です」

 声までも震えている自分に驚いた珠子は、どうにか動揺を抑えようと努めつつ、必死に深呼吸をする。落ち着け、自分。