いつの間にか、珠子は寝てしまっていた。

 陽は傾きかけて長くなっている。

 狩衣に埋もれるようになりながら寝ていたせいか、高藤の夢を見ていた。
『遅くなりました』と、笑顔で声をかけてくれる夢だった。
 髪がいっそう長くなりましたねとつぶやきながら、頭を撫でてくれていた気がする。心地良かった。

 そんな都合のいい奇跡が起きてくれたら、どんなに良いか。自分の夢なのに、失笑するしかない。

 ふと、いくつもの声が耳に届いた。なにやら、母屋のほうが騒がしい。また、姉がなにかしているのだろうか。

 夕陽を浴びながら、珠子はため息をついた。

 凪子に『神の御手』を譲り、自分は婿を迎える。それが最適の答えなのだ。これからは波風を立てずに生きてゆく。高藤との一夜は、それこそ夢の中のできごとだったと胸の内にしまっておくほうが賢い。

 いくら体調がすぐれないとはいえ、なにもしないわけにはいかない。珠子は身を起そうとした。

「ようやく起きましたね、珠子姫」

 珠子の背後から、懐かしい声が聞こえた。ずっと待ち望んでいた声だった。

 あまりにも突然すぎて、動けなくなってしまった。これは、現実(うつつ)だろうか。まだ夢を見ているのかもしれない。珠子は頭を振った。

「そんなに強く頭を振ったら、きれいな髪が乱れてしまいます」

 間違いなかった。この声は、あのお方のもの。

 それでも、間違いだったらどうしようと惑うあまり、声の主を確かめることができない。振り返った瞬間に消えてなくなったら怖ろしい。だったら、夢だったほうがまだましだ。

「父君と母君にあいさつをしてきました。長らく待たせてしまって申し訳ありません」

 迎えが遅くなった理由を、声の主はぽつりぽつりと語りはじめた。

「昨年の九月。わたしが失踪したと思われていたようで、都へ帰ったらおじがかんかんに怒っていました。あなたを妻に……正妻に迎えたい話もしましたが、まったく聞いてもらえませんでした」

 実父のいない高藤はおじに大切にされていると聞いたので、身分の高い女性と結婚させたかったのだろう。

「それ以来、わたしの監視がきつくなり、気軽に遠出へも行けなくなり、あの日連れていた従者たちも故郷へ帰って散り散りになり、恥ずかしいことにあなたの居場所が分からなくなってしまいました。おじが持ってくる結婚話を片っ端から断るぐらいしかできなかったわたしを、ひどい男だと怒ってください」
「いいえ、いいえ。つらかったのはあなたさまも同じでしたね」

 震えている声が珠子の背中に近づいてきている。あのときの香りが漂う。

「もしかして、珠子姫が手にしているのはわたしの狩衣ですか。まだ持っていてくれたとは」

 もう、間違いない。『珠子姫』と呼ぶ人はこの邸にはいない。あの方だけ。