「困ったことになった」
都の山ひとつ向こう側にひっそりと建っている、宮道(みやぢ)邸。
今日は昼過ぎから突然の激しい雷雨に見舞われ、視界も奪われるほどの大雨に屋敷は大騒ぎとなった。
「困ったことになった」
先ほどから、父・宮道弥益(いやます)は『困った、困った』と繰り返しながら室内をうろうろしている。
「父さま、どうされたのですか」
落ち着きがない父に、姉の凪子(なぎこ)が尋ねた。姉と妹の珠子(たまこ)はふたりで手習い(習字)をしていたが、空は暗く、雨もひどくなってきたので筆を休めたところだった。
「そなたたちには関わりのない……いいや、なんでもない、なにもないぞ」
邸で働いている女房たちが邸の蔀戸(しとみど)をばたん、ばたんと閉めて回っている。そうしないと雨が吹き込んでしまいそうだった。
戸を閉めるのを手伝いながら、珠子は空を見上げた。
雨雲の暗さなのか、夜が近づいている暗さなのか、分からなかった。ただ、冷たい雨粒がぽたんぽたんと珠子の頬にも降ってきたので慌てて逃げた。今は晩秋、夜は寒くなりそうだった。
宮道邸は広くないけれど、山科一帯の管理を任されている下級貴族なので、この辺りではそこそこ大きな家をしている。蔀戸の数も多くしかも重いので、珠子はせっせと手伝う。
だが、凪子は部屋の奥でのんびりと寝そべっていた。
部屋の中がどんどん暗くなるので明かりが欲しいのだが、雨を防ぐのが先。戸を閉めたら明かりを用意したいのに、人手が足りない。
父はどうしたものか、と困り顔をしているし、母も夕餉の指示で忙しい頃合いである。
姉がもっと家事をしてくれたら、と願うものの、珠子は言い出せなかった。
凪子と珠子は、異母姉妹。凪子の母が亡くなったあと、珠子の母が父と再婚して珠子が生まれた。
珠子の母は凪子のことを実の子以上にかわいがっていると思うけれど、凪子は孤独を感じているようで素っ気ない。今日は珍しく一緒に手習いをしたが、まったく口をきかない日もある。
父も姉を持て余しているらしく、条件の良い男性と縁を結ばせたいと考えているふしがあるが、なかなか出会えないでいる。
宮道家のような身分の低い貴族の娘に求婚する貴公子は、そうそういない。
ゆえに、姉は婚期を逃して二十歳を過ぎていた。
気の毒な方なのだ、姉は。
じっと黙って、珠子は手を動かし続けた。姉の分まで働こうと珠子は躍起になった。
「この際だ、とっておきの『神の御手(みて)』を使おうか」
父は手を打ったとき、雷が光った。
「まあ! 『神の御手』をここで使うとは、どうなさいましたの?」
驚いた姉が父に聞き返したとき、雷鳴が轟いた。
「そなたのためだ、凪子や」
そう言い残した父は、自分の居室に戻って行った。
都の山ひとつ向こう側にひっそりと建っている、宮道(みやぢ)邸。
今日は昼過ぎから突然の激しい雷雨に見舞われ、視界も奪われるほどの大雨に屋敷は大騒ぎとなった。
「困ったことになった」
先ほどから、父・宮道弥益(いやます)は『困った、困った』と繰り返しながら室内をうろうろしている。
「父さま、どうされたのですか」
落ち着きがない父に、姉の凪子(なぎこ)が尋ねた。姉と妹の珠子(たまこ)はふたりで手習い(習字)をしていたが、空は暗く、雨もひどくなってきたので筆を休めたところだった。
「そなたたちには関わりのない……いいや、なんでもない、なにもないぞ」
邸で働いている女房たちが邸の蔀戸(しとみど)をばたん、ばたんと閉めて回っている。そうしないと雨が吹き込んでしまいそうだった。
戸を閉めるのを手伝いながら、珠子は空を見上げた。
雨雲の暗さなのか、夜が近づいている暗さなのか、分からなかった。ただ、冷たい雨粒がぽたんぽたんと珠子の頬にも降ってきたので慌てて逃げた。今は晩秋、夜は寒くなりそうだった。
宮道邸は広くないけれど、山科一帯の管理を任されている下級貴族なので、この辺りではそこそこ大きな家をしている。蔀戸の数も多くしかも重いので、珠子はせっせと手伝う。
だが、凪子は部屋の奥でのんびりと寝そべっていた。
部屋の中がどんどん暗くなるので明かりが欲しいのだが、雨を防ぐのが先。戸を閉めたら明かりを用意したいのに、人手が足りない。
父はどうしたものか、と困り顔をしているし、母も夕餉の指示で忙しい頃合いである。
姉がもっと家事をしてくれたら、と願うものの、珠子は言い出せなかった。
凪子と珠子は、異母姉妹。凪子の母が亡くなったあと、珠子の母が父と再婚して珠子が生まれた。
珠子の母は凪子のことを実の子以上にかわいがっていると思うけれど、凪子は孤独を感じているようで素っ気ない。今日は珍しく一緒に手習いをしたが、まったく口をきかない日もある。
父も姉を持て余しているらしく、条件の良い男性と縁を結ばせたいと考えているふしがあるが、なかなか出会えないでいる。
宮道家のような身分の低い貴族の娘に求婚する貴公子は、そうそういない。
ゆえに、姉は婚期を逃して二十歳を過ぎていた。
気の毒な方なのだ、姉は。
じっと黙って、珠子は手を動かし続けた。姉の分まで働こうと珠子は躍起になった。
「この際だ、とっておきの『神の御手(みて)』を使おうか」
父は手を打ったとき、雷が光った。
「まあ! 『神の御手』をここで使うとは、どうなさいましたの?」
驚いた姉が父に聞き返したとき、雷鳴が轟いた。
「そなたのためだ、凪子や」
そう言い残した父は、自分の居室に戻って行った。