恋はいつだって真っ白な角砂糖みたいに純粋だと思っていた。
私を包み込むように、甘くコーティングしてくれるのだと夢を見ていたのかもしれない。

だけど、恋した私がとけていく。
君の好きで、私はゆっくりと溶けていく。


***


東京、青山。
地下鉄の階段を上り地上に出ると、私は両手を広げて空を仰いだ。
どこまでも高い空は、めいっぱい背伸びしても届きそうにない。
慌ただしく地下鉄の駅に駆け込むスーツ姿のビジネスマンとぶつかりそうになり、私は近くの欅並木の下に慌てて身を寄せた。
表参道という土地柄、空気が澄んで見える。そんな空気をすーっと肺に吸い込むと、田舎者の私だってそんな都会に馴染めた気がした。
スマホを取り出し、さっそくSNSをチェックする。お目当てのお店の営業を確認すると、はやる気持ちを抑えながら私は歩き出した。

私、篠宮初寧(しのみやはつね)はこの春から大学一年生だ。
予想はしていたが、想像を遥かに超えるこのお洒落な街の大学に通うことになったんだけど⋯⋯自分の服装を上から見下ろして気持ちが萎んだ。私なりに精一杯の努力はしたのよ?だけど高校時代は文藝部で熱心に文学に没頭したから、ファッションには疎いのだ。今日のメイクだって付け焼き刃。動画を見ながら練習はしたものの、案の定、眉を少し失敗したから、大きめの丸眼鏡で隠して電車に乗った。眼鏡は昔から、私のトレードマークだ。

今日は大学のオリエンテーションの日。
少し早めに着いて、大学の正門の前で友人を待つ。
彼は高校時代からの友人で文藝部でも一緒だったから、同じ大学と知った時には嬉しかった。人見知りの私にはすごく心強い。
「篠宮!」
「沖島君、よかった⋯⋯やっぱり知ってる顔見ると安心するよ」
「ごめん、遅れて⋯⋯ちょっと見送ってて」
沖島誠二(おきしませいじ)は、おそらくお揃いの指輪を見せつけながら顔を緩めた。
「また彼女?本当に好きね⋯⋯」
「いいだろ?本当は同じ大学行きたかったんだけどな⋯⋯」
「はいはい。もう惚気は結構です。どうせ私と同じ大学じゃ不服よね。いいもん。私は私で楽しくやるからさ」
私はぷいっと顔を背けて拗ねてみせる。
「ちょっと!ごめんって」
「冗談⋯⋯じゃ行こっか?そろそろ時間」
「あの!⋯⋯すみません」
私たちの会話を遮るように、不意に背後から声を掛けられた。
私はゆっくり振り返ると、スラッとした細身の男の子が立っている。髪はミルクティー色というのか、明るいトーンできっちりとスタイリングされている。服装も今どきのお洒落で、難しそうなジャケットを爽やかに着こなしている。まるで私と住む世界が違うみたいだ。隣の誠二が余計に地味に見えてしまうくらい、キラキラと輝いて眩しい。そんな圧倒的陽キャの男の子に、絶望的な陰キャの私は声にならない声量で返事をした。
「⋯⋯はい、なにか?」
「急に話しかけてすみません⋯⋯今、お時間少しありますか?」
私は時計を確認する。
「⋯⋯少しなら」
「よかった⋯⋯僕、この近くで美容師をしてて。あっ、 幾島蒼太(いくしまそうた)って言います」
丁寧に名刺を差し出してくれた彼から、そっと受け取った。その名刺に視線を落としたまま、私はなかなか前が向けないでいる。
どう対処していいか分からずに固まってしまった。とりあえず、名刺に書かれた店名を指でなぞってみても知っているわけが無い。人見知りはこんな時どうしていいのか、頭が真っ白になるものだ。
「お店⋯⋯知ってます?」
何か答えないと。私はゆっくり顔を上げる。
「ごめんなさい⋯⋯詳しくなくて」
「いや、こちらこそごめんなさい。急に声かけられて驚いちゃいますよね。実は僕カットモデルを探してて⋯⋯よかったら髪の毛任せて貰えませんか?」
今まで黙って様子を見ていた誠二が急に声を弾ませる。
「いいじゃん!切ってもらえよ。伸びてるんだし」
そう言うと、ニコッと美容師の彼に目配せして、私の背中を押す振りをしている。絶対に私の人見知りを面白がっているに違いない。
でもそう言われてしまったら断りにくい。
「す、梳くだけなら⋯⋯いいですよ」
「ほんと?よかった⋯⋯僕こう見えて意外と人見知りで。話聞いてくれそうな、いい人オーラを見つけて声掛けてよかったー」
少年みたいに無邪気な顔で幾嶋はスマホを取り出すと、慣れた様子でQRコードを差し出してきた。
「よかったら連絡先を⋯⋯」
「ま、待ってくださいね。えーっと⋯⋯あれ」
友達の少ない私は、連絡先を交換したことなんて片手で足りるほどしかない。それに緊張で手元が覚束無い。「やりましょうか?」幾島は私のスマホを覗き込んで、目を輝かせた。ちょうどさっき見ていたドーナツ屋のSNSが画面に出ている。
「ここ、美味しいですよね⋯⋯って、ごめんなさい勝手に見ちゃって⋯⋯⋯」
「いえ、すみません。どこで私のQRコード出るのかな⋯⋯」
「えっと、借りてもいいかな」
こくんと小さく頷くと、幾嶋はポンポンと私のスマホの画面を操作する。妙に近い距離に緊張した。それから幾嶋は自分のスマホで私のQRコードを読み込むと、あっとゆう間に私たちは繋がった。
「ありがとう!じゃあ、また日程連絡します。よかったら、彼氏さんも髪の毛⋯⋯」
「この人彼氏じゃないから!」
私は思わず声を荒らげてしまう。緊張なのか、たぶん彼に今日届いたいちばん大きな声が出た。
「えっ?あ⋯⋯すみません」
驚いた顔をして幾嶋は少し引きつった顔をした。やってしまった。
「やばい、時間ないから篠宮行くぞ?もうすぐオリエンテーション始まる」
「私行きますね、では⋯⋯」
この場からすぐに逃げ出したかった私は、くるりと彼に背を向けると、私は小走りで正門を駆け抜けた。逃げ出したかった理由は他にもある。不覚にもドキッとしてしまった自分がちょっと後ろめたかったんだ。

大学のオリエンテーションが終わると、余韻もそこそこに私はすぐに荷物をまとめて街に駆け出した。お目当てはあのドーナツ屋さんだ。不慣れな街の入り組んだ路地が、私にはまるで迷路のよう。よく皆迷わずに抜け出せるな、と関心すらしてしまう。SNSの地図を頼りにキョロキョロと辺りを見回すが、似たような路地ばかりで一向にたどり着かない。
香ばしい香りが鼻先を抜けると、予想通り長蛇の列を見つけて、お目当ての場所を確信した。恐る恐る列の最後尾に並んでみる。前の二人組がドーナツの話題で盛り上がっているから間違いなさそうだ。
「よかったぁ⋯⋯」
SNSで紹介されている色とりどりのドーナツの写真を見て味の想像をしながら、念願の宝石たちとの出会いに胸が高鳴る。私にとってスイーツは宝石くらい価値がある。小さい頃はケーキ屋さんに夢を抱いたくらいだ。料理はできるけど、お菓子作りの才能がなくて、今では食べる専門。どんな味に出会えるのかいつもワクワクしている。
ひとり、またひとり。次第に列がバラバラと散っていくと、あっという間に私は先頭に着いた。そして絶望した。

【 本日分完売 】

そう書かれた紙が貼られ、世の中のスイーツ愛好家達の執念のすごさを知った。SNSに書かれた営業終了時刻よりも随分早く完売するなんて、甘くみていた。がっくりと肩を項垂れて、私は来た道を戻る。
「食べたかったなぁ⋯⋯」
肩を落として歩く私の後ろから「あの⋯⋯」と声がする。
ゆっくり振り返ると、さっきの美容師さんがニコッと笑っている。
「あっ⋯⋯さっきはどうも。すみません、時間なくて慌てていなくなっちゃって」
「全然!もしかして、ドーナツ?」
「⋯⋯うん。でも買えなかったんです」
私は苦笑いをする。
「うそ、もう完売?今日はいつもより早いな⋯⋯。そうだ!ねぇ、ちょっと時間ある?」
「え?⋯⋯ありますけど」
幾嶋はドーナツのロゴが入った箱を嬉しそうに抱えて見せる。
「俺も、君の影響で食べたくなって⋯⋯運良く買えたから一緒に食べようよ」
「えっ!でも⋯⋯いいんですか?」
私は遠慮がちに目を輝かせた。人見知りも、目の前のスイーツには抗えない。
「今度カットモデルしてもらうし⋯⋯そのお礼の先払い?」
そう言うと幾嶋はまたクシャッと笑った。

近くの公園のベンチに並んで座ると、私は箱が開くのをうずうずしながら待った。そんな気持ちが見つかるのが恥ずかしくて、顔だけは冷静を保つように頑張ったけど、すぐ彼に見透かされた。
「嬉しそうな顔するとえくぼができるんだね」
ドキッとして、私は思わずカーディガンの袖で口元を隠した。
「恥ずかしい⋯⋯」
「可愛いのに」
陽キャは簡単に可愛いって言うのかな。耐性がない私はどう反応していいかわからない。モジモジとしてしまった私にお構い無しに、幾島はドーナツの箱を取り出した。
「じゃあ、開けるよ?」
箱の中に6個並んだドーナツ。表面にコーティングされた砂糖やクッキー、チョコレートがキラキラと輝いている。きっと今の私は、どんな宝石を並べられるよりも胸が高まっている。
「好きなの選んで?」
「えっ!悪いです⋯⋯先に選んでください」
「遠慮しないで!ほら」
「えっと、じゃあ⋯⋯これ」
私はフレンチクルーラーを指さす。
幾嶋は紙ナプキンでドーナツを優しく包んで渡してくれた。
「じゃあ⋯⋯俺も同じのにしよ!」
幾島の、せーの!の合図ででゆっくりと口に運ぶと、ふわっとした感触の後に卵の風味が口いっぱいに広がる。控えめにかかったチョコレートとの相性も絶妙で、私はぎゅっと幸せを噛み締めた。
「んー美味しい!」
思わず口に出してしまった私を見ながら、隣の幾嶋も満足気な顔でドーナツを頬張っている。
「その顔みたら聞かなくてもわかるよ。ほんとに幸せそうに食べるんだね。さすがスイーツ女子だ」
「やめてください、恥ずかしい⋯⋯」
「もう一個食べる?君に食べて貰えたらこのドーナツたちも幸せだろうから」
結局、私は幾島に甘えて2つもドーナツをご馳走になってしまった。冷静に考えると、今日知り合ったばかりの男の子と並んでドーナツを頬張るこの状況に急に緊張してしまう。それに⋯⋯さっきから小さくドキドキと響く感情にまた後ろめたくなる。ほら、タイミング悪く⋯⋯いや、タイミング良くスマホが震える。
【今日、うち来る?】
画面にメッセージが通知された。私はそれを確認すると、すぐに立ち上がった。
「今日はありがとうございます。ご馳走様でした。そろそろ行かなきゃ⋯⋯」そう言って、慌ててお辞儀をした。
「また、連絡しますね。カットモデルよろしく!」
「うん、楽しみにしてます」
バイバイと手を振ると、私は急いで地下鉄の駅を目指した。この落ち着かない後ろめたさを忘れたくて、振り切るように急いだんだ。


***


慣れた駅の改札を出ると、近くのコンビニに寄って頼まれた物をカゴに詰める。パンコーナーのドーナツを見てさっきの時間を思い出すと、自然と笑みが浮かんだ。あのドーナツ美味しかったなぁ。
【ねぇ、まだ?】
見透かされたように、また画面にメッセージが通知される。
【もうすぐ着くよ。ごめんね】
私は急いで会計を済ますと、小走りで急いだ。
袋の中をガサガサと揺らしたもんだから、サンドイッチが少し潰れてしまっている。息を切らしながらマンションの下に着くと、少し息を整えてからインターフォンを鳴らす。
ピンポンと2度ほど響き、返事もなくガチャっと解錠された。
私はゆっくりとエントランスに入ってゆく。

「お邪魔します⋯⋯」
「お前、遅いよ」
「ごめん、電車遅れてて⋯⋯」
「まぁいいけど。それ早くちょうだい?」
私は買ってきた袋を差し出した。麦は袋の中身を物色しながらソファーに座った。
「ちょっと潰れちゃってんじゃん⋯⋯」
これが私の彼氏だ。
名前は名取麦(なとりむぎ)
1つ年上の小説家志望の大学2年生で、私の高校の先輩。何とか留年は免れたけど大学もご無沙汰で、引きこもっては「小説を書いてるから忙しい」と言われる。今日だって久しぶりに呼ばれたんだから。会うのも一ヶ月ぶりだ。
「ねぇ麦君⋯⋯小説はどう?」
「ん?あぁ⋯⋯まぁ」
麦はサンドイッチを頬張りながら横になり、スマホでゲームに夢中だ。
「麦君も大学始まるよね⋯⋯いつから?」
「んーそのうち?行くよ」
私はそれ以上の言葉を飲み込む。いつもそうだ。あんまりしつこく聞くと、機嫌が悪くなる。それでも私は嫌われるのが怖くて、ソファーの端にちょこんと座った。サンドイッチを食べ終えた麦はむくりと起き上がると、くしゃっと頭を搔く。
「初寧、こっちきて」
両手を広げて麦は私を呼んだ。私はその腕の中に収まると、麦の胸に耳を当てて鼓動を聞く。至って正常だ。とりわけ早くもない。ドキドキと音がしないんだ。
「ねぇ、初寧⋯⋯しよ?」
「⋯⋯いいよ」
私たちはソファーの上で、唇を重ねた。
自分勝手なキスが、私の唇を奪っていく。

そっか⋯⋯今日も同じだ。

ベッドで寝息をたてる麦の腕をすり抜けて、床に落ちた下着を拾うと、私は静かに浴室へ向かう。そして、シャワーの音に隠れて静かに泣いた。わかってる。都合のいい女にされてるって。だけど、ベッドで彼に言われる「好きだよ」が私を縛って離さないんだ。高校時代の麦は、今とは違ってよく小説を書いては見せてくれた。いつか芥川賞を取るんだ⋯⋯なんて、そんな夢もよく聞かせてくれた。あの頃の純粋な麦にいつしか惹かれて、私は想いを綴った恋文を贈った。
その手紙を受け取った麦の顔は、今でも覚えている。
これは私の僅かな希望だ。あの日の麦がまた戻ってきてくれるって信じてるから、それまで彼女でいたいのだ。きっとまた小説を書いてくれて、おでこがくっつく距離で2人で原稿を覗き込んで⋯⋯。
それで優しいキスをして。

冷蔵庫を開けても、がらんとしている。
あるものと言えば、エナジードリンクにプリン、食べかけのチーズに賞味期限の切れた納豆。これは前に来た時に私が買ってきたやつだ。ちゃんと食べてるのか心配になる。
「ねぇ麦君、私スーパーで材料買ってくるよ。何か作るけど⋯⋯何食べたい?」
寝ている麦を優しく揺する。
「ん、初寧?今日はもう疲れた⋯⋯初寧も帰っていいよ、俺寝るから⋯⋯」
麦は頭まで布団に潜ると、体勢を変えてすぐにまた寝息をたてる。
「ん、わかった。じゃあ、私帰るね。おやすみ、麦君」
音を立てないように、静かに玄関を閉める。
私はまだ、この部屋に泊まったことは無い。


帰りの電車に揺られていると、スマホが震えた。
麦君⋯⋯?もしかしたらと、淡い期待に 私は急いで画面を確認する。
【今日は突然すみませんでした。お話聞いて下さりありがとうございます。美容師の幾嶋です】
「なんだ⋯⋯美容師さんか」
ため息をついて、私は続きを読んだ。
【カットモデルの件、都合のいい日を教えて貰えたら助かります。時間は営業終わりくらいからで19時を予定してます】
丁寧につらつらと書かれた文字にクスッと笑ってしまう。さっきは馴れ馴れしく話してたのに、文字だと急に敬語なんだもん。
【私はいつでも大丈夫です。幾嶋さんの都合のいい日で構いません。ドーナツご馳走様でした】
すぐに既読がつく。
麦に送るメッセージなんて、その日に既読がつけばまだいい方だ。翌日の返事なんて当たり前。二、三日返ってこないこともある。それに慣れていたから、この既読のスピードに私は焦ってしまってすぐアプリを閉じた。
【じゃあ、明日はどうですか?】


目覚ましよりも早く起きて、私はクローゼットをひっくり返したようにベットに服を並べる。
「だめだ⋯⋯わかんないよ」
寝癖の頭をくしゃくしゃと搔きながら、ぺたんと床に座り込む。私は一か八かスマホを掴むと助けを求めるSOSを発信した。
呼出音が続く。
やっぱり非常識だよね⋯⋯こんな朝早くに。
留守電のアナウンスが流れるギリギリで通話画面に切り替わった。
「⋯⋯もしもし」
「ごめん、寝てたよね?ねぇ凛空(りく)ちゃん助けてほしいんだけど」
「んー⋯⋯眠いよぉ⋯⋯まだ6時だよ?」
「今度お礼するから、ね?お願い!助けて」
高校時代の友人の凜空は、ミスコンで優勝するくらい可愛い女の子で、当時私なんかと友達になってくれたのは驚いた。図書室で挨拶を交わすようになってから、本をきっかけに仲良くなった。
「⋯⋯それで?どうしたの?」
「実はね、今日表参道の美容室にカットモデルに行くんだけど⋯⋯そんなお洒落な所で髪切ったことないし、何着ていけばいいのか分からなくて頭が爆発してる」
目の前の姿見に映る自分も、酷い有様。
寝癖も変にはねて暴れてるし、地味な家用の眼鏡がそれに拍車をかける様に私を蔑む。これを何とかして欲しくて、私は天使に助けを求めた。
「白いキャミワンピース⋯⋯それに白のジャケット合わせてみて。初寧あのワンピースよく似合ってるから。」
「⋯⋯ありがとう!」
私は通話をスピーカーに切り替えて、ワンピースとジャケットを手に取った。
「でも美容室に行くだけでしょ?慌てすぎだよ。服装なんていつも通りでいい気がするけど?あ、もしかしてその後は麦先輩とデートするかな?」
大きく欠伸をしながらも、凜空は電話越しでもわかるくらいニヤニヤとしているのが手に取るようにわかる。
「まぁ⋯⋯そんな感じ」
「よかったね、ほら初寧よく悩んでたでしょ?麦先輩が冷たいって⋯⋯美容室帰りにデートなんて安心した。案外上手くいってるのね」
「うん。私は大丈夫よ」
「いいなぁ、ねぇどこ行くの?」
「どこだろ⋯⋯?あ、ごめんね、二度寝するよね?凜空ちゃんまた連絡するね。今日はありがとう」
「え?うん⋯⋯また⋯⋯」
凛空の声を遮るように通話を切った。友達に簡単についてしまった嘘に自分を責めた。デートなんてあるわけが無い。それに、このコーデを悩んだのだって、麦の為なんかじゃないんだ。
カットモデルの約束が決まってから、私の心は揺れている。ふわふわとした気持ちと焦りで寝れなくて朝を迎えてしまった。
また会えるのが楽しみで、その気持ちが大きく膨らむほどに麦は小さくなっていく。初めての葛藤だ。焦げすぎたキャラメルみたいに心が黒ずんでいくようで、気持ちも濁っていく。こんな感情は初めてで、どう表現したらいいのかもわからない。


***


学校終わりに、私は幾島から送られてきた地図を頼りに表参道をふらふらと歩き回った。246から一つ路地を入った所に幾嶋の美容室はあった。その場所を見つけて安心するが、約束までは幾分まだ時間がある。私はSNSを開くと、お気に入りのページにアクセスする。『スイーツ男子』と名乗る人物のページだ。フォロワーはそこそこ。今はプリンアラモードのアイコンで、私のスイーツの教科書みたいな人だ。投稿された記事をスクロールすると、ちょうど近くにバスクチーズケーキが有名なカフェを見つけた。
「今日のおやつはこれにしようかな⋯⋯」
私はさっそく、カフェに向かった。

「お待たせしました!こちらバスクチーズケーキセットです」
運ばれてきたチーズケーキに、私の心がときめく。美しい断面に顔を近づけると、香ばしいチーズの香りが鼻をかすめた。チーズケーキは断然レアチーズケーキ派だった私だけど、このビジュアルはそれに負けてない。早速、アングルを気にしながら写真を撮る。別に何かに載せるわけじゃないのに、つい撮ってしまうこの現象の名前は何だろう?二、三枚写真を取り終えてから「いただきます」と、
私は小声で呟いて手を合わせた。小さめのフォークに手を伸ばし、チーズケーキに触れる。ふわりとフォークが生地に沈む。それからゆっくりと私の口に到着する。優しいチーズの香りが、次第にコク深い味わいに変化していく。それを喜びと一緒に飲み込んだ。
「んんー」
と、声にならない感性をギュッと噛み締める。一緒に添えてあるダージリンの紅茶が、またいい。今だけは昨日の悩みも忘れられるくらい、幸せの空間に包まれている。

そうだ、ドーナツのお礼に、差し入れようかな⋯⋯。甘いものが好きそうだったし。私は店員さんに頼んでチーズケーキを二つ箱に入れてもらった。

美容室の階段を登りながら、心臓の鼓動が大きくなるのがわかる。
これは完璧に、私の人見知りと場所見知りのせいだ。
入口の扉の前で、ドアを開けるのを一瞬躊躇する。
ドアの装飾のガラスの先に見える世界が、お洒落すぎて私には眩しすぎるんだもん。それに、服はいくらでも着飾れるが、髪の毛はそうはいかない。アイロンで巻いてもなければ、だだ黒い髪ゴムで結わえただけだし。場違いかも⋯⋯ そう思った途端に恥ずかしさが私を支配した。
「あー⋯⋯もう帰りたいよ」
「あのー⋯⋯」
聞いたことのある声だ。いつも見えないところから私を呼ぶ声だ。
でも、いつの間にかその声に安心する私がいる。振り返ると、幾嶋が笑顔で手を振っていた。
「やっぱり!お待ちしてました」
礼儀正しくお辞儀をすると、幾嶋はエスコートするように扉を開けて私を店内に案内した。
「こんばんわ」
「いらっしゃいませ」
受付近くにいたスタッフが笑顔で迎えてくれた。
私は緊張しながら小さく会釈をする。
「荷物、こちらにお願いします」
幾嶋はやっぱり丁寧にあれこれと誘導してくれる。鞄をロッカーにしまいながら、でもケーキはロッカーじゃない方がいいよね⋯⋯と思い、私はくるりと待っている幾島の方を向いた。
「あの⋯⋯これ、ドーナッツのお礼に」
「え、カットのお礼じゃなくて?」
「えっ!あっ⋯⋯そっか⋯⋯ごめんなさい。カットのお礼です」
「うそうそ!ごめん。冗談だよ!このロゴ、有名なカフェの⋯⋯もしかしてチーズケーキ?」
幾島は箱を見ながら目を輝かせている。
「うん、さっき食べて美味しかったから⋯⋯」
「嬉しいな、これすっごい好きで⋯⋯ありがとう。後で美味しくいただきます!これ、冷蔵庫に入れてくるからソファーで待ってて」
そう言って、幾嶋は嬉しそうに奥に消えていった。

通された席の鏡が大きくて、まずそれに驚いた。いつも行く近所のお店の鏡は小さくって、少し古臭い。小学生の頃から通ってるお店だから年季が入ってて当たり前なんだけど。緊張が和らいでくると、視界が開けてくる。お洒落な内装や座っている革張りの椅子も高級感がある。それに床だって大理石目だ。歩き回っているスタッフさんもお洒落でかわいい。本当に私が来て大丈夫なお店?と、小さい体をもっと縮こめる。
「ちょっと準備してくるから」と言われて待っている数分がずっと長く感じる。息が詰まりそうになって、用意してもらったハーブティーを喉に流し込んだ。
「お待たせしました!ちょっと先輩に見てもらいながら切っていくから⋯⋯こちら先輩の胡桃(くるみ)さんです」
「今日はよろしくね」
幾嶋の後ろからニコッと笑う女性が挨拶をしてくれた。大人っぽいショートカットがよく似合っている。
「今日はどうしましょうか?」
「えっ?えっと⋯⋯ごめんなさい何も考えてこなかったから」
「大丈夫ですよ!一緒に考えましょうか。まずこれ先に外しちゃいましょうか」
ゆっくりと私のヘアゴムが外される。優しくブラシが通される度に、気持ちがいい。なんだか頭を撫でられているようで、ドキドキと胸が反応する。
「この前言ってたように梳くだけにしますか?」
「⋯⋯あなたに、お任せする」
「え!ほんとに ?」
驚いた顔の幾島と鏡越しに目が合った。
「あなたに、可愛くしてもらいたい」
思いがけない言葉が口から出て、私が一番驚いた。頭じゃなくて、胸のドキドキに押し出されるように、心が吐き出したような言葉。
私、今なんて言った?そして、頭がそれを理解したとたん、恥ずかしすぎて顔が赤く染っていった。私は隠すように顔を伏せる。
「わかった!じゃあ、切っていくね⋯⋯」
私はこくりと頷いてメガネを外すと、ゆっくりと目を閉じた。後ろで幾島と胡桃さんがヘアデザインの相談をする声が聞こえる。
「じゃぁ、時間測っていくよ!」
スタートの合図でストップウォッチが押される。 同時にカンカンカンと金属がぶつかる音が鳴る。それは少し不格好な音で、サクッ、サクッと髪の毛が落ちていく。櫛でとかれる度に頭を撫でられているようで、やっぱり何だか気持ちがいい。目を開けて鏡越しに幾嶋を見たら、また恥ずかしさに負けて顔に出ちゃいそうだから髪の毛は気になるけど目は開けられない。時折、先輩の胡桃さんが幾嶋の切る手を止めて、熱心に指導している。
何だかやってる事は文化系っぽいのに、体育会系の熱量で指導しているこのアンバランスが面白い。
「痛っ!」
その声に驚いて私は思わず目を開けた。
「ごめん、手を切っちゃって⋯⋯ちょっと待っててくださいね」
そう言って、幾嶋は慌てて離席した。
「ごめんね、あんな風に行っちゃったらお客さんが不安になっちゃうのに⋯⋯」
心配でキョロキョロと幾島を目で追う私に、胡桃さんが優しく声をかけてくれる。
「私は大丈夫です。それよりも怪我が心配⋯⋯」
「みんな通る道なのよ、私も昔は沢山やっちゃったんだから」
胡桃はそう言うと、自分の指を撫でて見せた。それでも、幾島が気になって目が離せないでいる。
「可愛いね」
「えっ?」
私が振り返って不思議そうに首を傾げると、胡桃は優しく微笑んでいる。
「ねぇ、お名前教えて貰っても⋯⋯?」
「初寧です。篠宮初寧」
「あら、名前まで可愛いのね」
今まで生きてきて、可愛いなんて最後に言われたのは幼稚園の頃だろうか?小学生になってからはずっと眼鏡で文庫本ばかり読んでいたから地味宮(じみみや)なんてあだ名で呼ばれたこともあったし。内省的な性格もあって、キラキラした学園生活とも無縁だった。だから可愛いなんて言われると、なんだか背中がむず痒い。まるで耐性を無くしてしまったから。
「こんなに可愛い女の子とお付き合いできる男の子は幸せ者ね」

「えっと⋯⋯私そんなに可愛くないですし。自分に自信なんて、ないですし」
一瞬、脳裏に麦が浮かび私の顔が曇る。だって幸せなら、もっと一緒にいたいはずだもん。
「初寧さんは、まだ本当の自分を知らないだけよ」
胡桃はそう言うと、また優しく微笑んでくれた。
「お待たせしました!」
「ねぇ、幾嶋君。前髪だけこの位まで切ってあげて。前髪で女の子は輝くんだから」
戻ってきた幾島に、胡桃さんは櫛で前髪をずらして位置を示す。
眉毛の少し下。目がくっきりと出るくらいの長さ。いつもの私は目にかかるくらい長い。巷ではウザバングなんて名前で流行ってると聞いたことがある。がしかし、私にとってこの長い前髪は自信のなさの現れだ。受験写真を撮る時だって、ギリギリ目にかからないくらいにしてもらってやり過ごしたもん。

お任せしますなんて言った手前、嫌とは言えない。大丈夫かな?似合うかな⋯⋯。またドキドキと鼓動が早まる。一瞬、やっぱりそれは断ろうかなと、頭によぎる。うん、断ろう。
「あの⋯⋯」
「僕も同じ考えでした!」
声の主の幾嶋は目を輝かせている。自信に満ち溢れた目の色をしている。信じて、みようかな⋯⋯。私は言いかけた言葉を飲み込んでまた目を閉じた。
「じゃぁ、続き。急ぐよ!」
胡桃さんの合図で、ストップウォッチの数字がまた動き出した。

ふわり。
ケープと首に巻かれたタオルが外される。
同時にピピッとタイマーが終わりの合図を告げた。
「お疲れ様でした・・・」
幾嶋は後ろで額の汗を拭っている。入れ替わった胡桃さんが櫛を通しながら細かくチェックを入れ、また熱心に指導を始めた。私は鏡の中に映る自分をまだちゃんと見れなくて、すぐに目を瞑った。
「ねぇ初寧さん、このまま目を閉じててね」
胡桃に優しく声をかけられて、「はい」と、私はぎゅっと目を閉じた。
「大丈夫よ、リラックスしてて」
くすぐったい様な筆の感触が頬を伝う。それからアイホールにも筆が乗る。まつ毛に重たい感触が乗せられて、唇にも冷たい感触が走る。
「初寧さん。じゃぁ、目をゆっくり開けてみてね」
ぼんやりと霞む視界が、ゆっくりと開けてゆく。だんだんと私のシルエットが見えて、手元の眼鏡をかけた。
「嘘⋯⋯これ、私⋯⋯?」
鏡に映った女の子は、私の知らない私。軽くなった毛先が嬉しそうに動いている。丁寧にメイクされた顔も、すっかり今どきの女の子に人気の顔に変わっている。前髪の長さは、隠れていた目の大きさを引き立てる絶妙のバランスで、不安だった気持ちはもうどこかへいってしまった。
「可愛い⋯⋯」
自分で思わず口に出してしまった。
「本当に、可愛いです!僕、最初に会った時に思ったんです。こんな言い方しちゃうとあれなんだけど⋯⋯まるで君はダイヤの原石みたいだなって思って。僕が君を⋯⋯カットして輝かせてあげたいって思って声掛けたんだ」
顔がふつふつと熱くなるのが嫌なほどわかる。耳なんて真っ赤に染まっているし、そんなストレートな言葉になんて返したらいいのか分からない。幾島はいつも素直に私を褒めてくれるけど、まだ私には素直に受け止めるキャパがない。
「あ、あっ⋯⋯ありがとうございます」
「初寧さん、言ったでしょ?女の子は誰だって可愛くなれるのよ。美容師はそんなシンデレラにいつでも魔法をかけてあげられる」
「胡桃さん、なんすかそれ⋯⋯?恥ずかしいこと、よくストレートに言えますね」
胡桃さんは、幾島の頭をツンと突いた。
「それはこっちのセリフ。幾嶋君の言葉の方が聞いてて恥ずかしかったわ。なんだか告白みたいに聞こえちゃったし」
「違いますって、俺、純粋にそう思ったんです!」
「ちょっと、初寧さん困ってるから!モデルさんをほっとかないの!」
そんな二人の会話に挟まれた私は、恥ずかしさのあまりに、もうこの場から消えてしまいたいと肩を竦めている。
「ごめん⋯⋯スタイリングしちゃったけど、落としてから帰る?ならもう一度シャンプーするけど⋯⋯」
「ううん。気に入ったからこれで帰ります」
「ほんと!?嬉しいな⋯⋯」
「今日は来てよかったです!ありがとうございます」

荷物を纏めて二人にお礼を言ってお店を出ようとすると、幾嶋は駅まで送るよと言って一緒に階段を降りてきた。
私の身長は150センチあるかないか。そんな私の小さい歩幅に合わせて幾嶋はゆっくり歩いてくれる。夜風に揺れるワンピースみたいに、まだ私の心はふわりと踊っているようだ。
「今日はありがとうございます!来てくれて、本当に嬉しかった」
幾嶋は緊張から解かれたからか、大きく伸びをするように空を仰いでいる。
「私も⋯⋯来てよかった。こんなに可愛くしてもらって」
「それはさっきも言ったけど。君はダイヤの原石⋯⋯ってもう宝石みたいに輝いちゃったけどね」
幾嶋は照れた顔を隠すように、にこっと笑った。
「可愛くしてもらったから自分で明日から頑張らないとだ。うまくスタイリングできるかな⋯⋯」
私は巻いてもらった髪を指にくるくると絡ませてみる。身嗜みの為とヘアアイロンを買ってはみたけど、それはまだ箱の中で綺麗に眠っている。
「分からないことあったら聞いて!俺が教えるから!ってか⋯⋯ずっと俺が可愛くしてあげたいし」
「えっ!?」
私はその言葉にドキッとした。まだシンデレラにかけられた魔法が、私の心までキラキラと包んでいるようで。夢見心地の足元が、ふわふわと覚束無いから思わず立ち止まってしまった。
「ほら、違う⋯⋯って違わないけど。 君との縁を大事にしたいんだ」
ハッと我に返り、私はそんな焦りを隠すように急いで笑顔をつくる。何を焦っているんだろう。私たちはそんな関係じゃない。
「私も!私もです。だって私を見つけてくれた美容師さんだもん!これからも、よろしくお願いします」


角砂糖みたいに純粋だと思っていた私の恋心は、君の言葉に、仕草に、何度も熱を加えられた。とろけそうなくらいに、体も火照る。
「ごめんね」心の奥底に残った麦への気持ちが三温糖みたくカラメル色に濁っていくんだ。


***


次の日から私の戦いは始まった。
いつもより1時間も早く起きると、動画を漁りながら見様見真似でヘアアイロンで髪を巻く。
「こうやって髪の中間をヘアアイロンではさんだら顔周りから順番に外巻き→内巻き→外巻き、の順に仕上げていきましょう」
画面の中の女の子は慣れた手つきで簡単そうに仕上げていく。左側は上手くできるのに、鏡を見ながらだと右が難しい。手の動きがどうもチグハグで頭が混乱してしまう。だから初日は大失敗で、結局可愛くしてもらった髪はヘアゴムで括って家を出た。
地下鉄がやって来る時に連れてくる突風が、こんなにも鬱陶しいと初めて思った。気にしなかったこの風は、ムカつく程にきちんと整えた前髪の邪魔をしてくる。
乗り込んだ電車の車窓に映る自分の前髪をつい確認してしまった。
こんなに落ち着かない通学は初めてだ。

「おはよう」
教室に着くと、誠二を見つけて挨拶をする。
「あーおはよう」
相変わらず眠そうにしてるから徹夜で小説でも書いていたんだろう。でも最初に会ったのが誠二でよかったと少し安堵した。
「嘘、篠宮それ⋯⋯」
誠二は眠そうな目を擦ると、私をじっと見つめてくる。
「何よ⋯⋯」
「前髪!いいじゃん」
「ほんと?大丈夫かな」
私は思わず前髪を手で押えた。
「うん。そっちの方がいい」
誠二は、ぽかんと口を開けながら2度うなづいた。
「何?そんなに見ないでよ」
「いや、篠宮って可愛かったんだな。まるで眠りから覚めた春のオコジョみたい」
「春のオコジョ⋯⋯?それ褒めてる?」
私はスマホを取り出すと、すぐに【オコジョ】と検索をかける。
「えっと⋯⋯長い胴体と短い足が特徴で、かわいらしい見た目とは裏腹に、かなり気性が荒い⋯⋯」
私は下から誠二を睨みつける。
「ほら、ぴったりじゃん」
誠二は嬉しそうにケタケタと笑っている。
「ねぇもっといい例えないの?」
私は頬をふくらませながら睨み続けた。
「え!篠宮さん可愛い」
「いつ前髪切ったの?」
教室に入ってきた数人の女の子達は、すぐに私の変化に気づくと近寄ってきた。
「あ、えっと昨日カットモデルに行ったの」
「えーいいなぁ!切った人センスあるね」
「すっごく似合ってるよね」
「どこの美容室にいったの?私も切ろうか悩んでるんだよねー」
質問攻めの中、私は周りの子達の髪型をまじまじと見つめる。
今まで気にしたことも無いけど、こうやって見るとさっき見た動画の女の子と遜色ないくらいに上手くスタイリングされている。私は世の中から随分遅れをとっていたんだなと少し反省した。
「でも悪口言われた⋯⋯」
私は悲しい顔をして誠二を指さしてみる。
「ちょっと、何言ったの?」
「こんな可愛い子を虐めないで?」
そこから怒涛の女の子達の結束力に、誠二の顔は次第に曇り、さっきまでの笑顔は引きつっている。私は仕返しができて得意げに笑った。

前髪をきっかけに教室で同級生に囲まれて、メイクの話とか、恋バナとか、慣れない会話に最初は戸惑ったけど不思議と嫌な気持ちじゃなかった。それよりも、幾嶋さんに「前髪を褒められたよ」って自慢したくてしょうがなかったんだ。朝から気分がいい。前髪ひとつで大袈裟だけど、なんだか人生が変わったような気分だ。
さっき、女の子達に教えてもらったプチプラコスメやファッションブランドをスマホにメモしていく。 今までは興味もなかったはずなのに、私はキラキラな女の子になろうとしている。

──それ、誰のために?

まだ出会って間もないのに、ミルフィーユみたいにドキドキと胸が鳴った回数が重なり合っていく。
麦との関係が情だけで成り立っているのなら、そのハート型のチョコレートはもう欠け始めている。熱いショコラが上から流し込まれたら、あっという間に消えてしまうだろう。

正直に言うとね。
私は、恋しちゃったのかも。

そんな浮ついた気分の時はスイーツにかぎる。
大学の傍の、気になっていた有名チョコレート店のパティスリーカフェに背伸びして来てみた。ここも例の「スイーツ男子」さんイチオシだ。案の定、女の子たちの行列が2階に上がる階段を埋めつくしている。
「今日は売り切れとかないよね⋯⋯」
そわそわと列の先を見上げながら、私は最後尾に並ぶ。チョコレートの甘い香りがお店を包んでいる。
「こんにちは」
「え!幾嶋さん?」
私の後ろに並ぶ幾嶋は、申し訳なさそうに笑う。
「なんか俺、いつも君の行くとこに現れてるよね」
「今日お仕事は?」
「ほら、今日さ火曜日でしょ?定休日」
「そっか⋯⋯お休みだから」
私は納得して、何度か頷いた。
「君は?大学じゃないの?まだ昼過ぎだし」
「来週から、本格的に⋯⋯だけど火曜日は授業少なくてお昼からは暇なんです」
「いいなぁ、大学。憧れるよ。1ヶ月だけ大学生とか体験してみたいな。高校とかと違って楽しそうだし」
幾島の子供っぽい発想にクスッと笑う。
「授業長くって眠たくなるよ?90分あるし」
「美容師の学校も90分だよ?長いよな、90分」
「そうなの!?⋯⋯一緒だね」
一緒に顔を見合せて笑った後に、幾嶋はじっと私を見つめた。急に真剣な顔になるから、何を言われるんだろう?と身構える。
「あのさ。実は連絡しようと思ってたんだけど⋯⋯」
「なんでしょうか⋯⋯?」
「その、僕の、コンテストのモデルになってくれませんか?」
「えっ?コンテストって美容師さんの?」
幾嶋はこくりと頷くと、スマホで概要を見せながら説明してくれる。一緒に画面を覗き込む距離が近い。すぐ側に幾嶋の顔があるから私は何も頭に入ってこなくって、その距離感の方が気になって仕方ない。
「このコンセプト見た時に、すぐに君だって思ったんだ。一緒に挑戦出来たらなって」

断る理由?無いよね⋯⋯そんなの無いよ。
君の役に立てるんなら、私はショートケーキの苺にだってなってあげる。君が輝けるように、力になりたい。

「⋯⋯うん。いいよ。私でよければ」

チョコレートで作られた球体に、熱いショコラを上から流すと、ゆっくりゆっくりと溶けて壊れる。
中から出てくるスイーツとチョコが混ざり合い、完成していく芸術品に胸が高鳴った。目の前に座る幾嶋も熱心に写真に収めている。
私もつい写真を撮ってるんだけど、やっぱりスイーツを前にしたらみんなこうなるんだな。
「見てよ、これ!美味しそう。中からアイスが出てくるなんて⋯⋯新作も流石だな。あ、ほら早く食べよ!溶けちゃう」
嬉しそうに幾嶋はプレートを見つめている。
「いただきます」
アイスをスプーンですくって一口食べる。甘さと冷たさと熱が混ざり合って、口の中ですぐに消えた。まるで私の心を見透かしたような味わいだ。

「あのね、前髪たくさん褒められたよ。すごく嬉しくって、幾嶋さんに言いたかったの」
「本当に?うわー嬉しいな」
「毛先はちょっと巻くの失敗しちゃったけど⋯⋯」
「ヘアアイロンは慣れだよ、慣れ!って俺はこの短さだから女の子の苦労を体験したわけじゃないけどね・・・」
幾嶋は短い髪を引っ張りながら、巻くふりをする。この人は仕草も可愛らしい。
「火傷しちゃうね」
「それな」

また、スマホが震える。
タイミング良く、いや悪く。
【今日、会える?】と画面に文字が通知された。

「ん?どしたの?」
スプーンを持つ手が止まった私を幾嶋は気にしている。私は咄嗟にカバンの中にスマホを隠した。
「えっ、ううん。なんでもないよ」
「こんな高級なスイーツゆっくり食べないと申し訳ないです。これすっごく美味しいね」
「そうだね!でも、もう僕は半分食べちゃった」
幾島は気まずそうに笑った。
「え?もう?早いよ⋯⋯」
「美容師やってると、癖で早食い⋯⋯仕事の合間にパパっと食べるから」
「そうだよね、美容師さんっていつお昼食べるんだろうっていつも思ってた」
またカバンの中のスマホか小刻みに震える。
【小説書き終えたんだ⋯⋯初寧、見て貰えないかな?】
チラッと一瞥した画面に浮かぶ文字に、私の心はやっと罪悪感を思い出した。
淡い期待が現実となって押し寄せてくる。麦は何かを察したのか、絶妙なタイミングだ。現にまだ私は麦の彼女なんだから、この状況は確かにまずい。成り行きとはいえ⋯⋯だ。それに、恋しちゃった。なんて調子のいい事まで考えてしまった。だけど、目の前で味しそうにスイーツを頬張っている幸せそうなこの顔も、やっぱりかわいいな。

でも、ごめんなさい。

「ごめんね⋯⋯麦くん。」

慌てて改札にタッチしたから、反応が悪くて赤く光った。もう一度急いでタッチすると、私は改札を飛び出した。
【今から行くね、すぐ行く】
【うん。待ってる。気をつけてね】
文字から伝わる優しい麦の気持ち。もしかしたら、あの頃の麦が帰ってきたのかもしれない。私は卑怯な女の子だ。表面だけ上手くごまかした、焼きすぎたアイシングクッキーみたいに、気持ちを上塗りしたんだ。

エントランスについてインターフォンを押す。
「初寧⋯⋯?」
「うん、私だよ!」
「ちょっと待ってね⋯⋯」
いつもは無言なのに、今日は名前を呼んでくれるだけで嬉しくて笑を零してしまった。すぐに開いたオートロックの扉をくぐり、私は部屋に急いだ。

「おじゃまします」
「ごめんね、急に!って初寧、前髪それ⋯⋯」
麦は口を開けたまま、私を見つめる。
「初寧、すごく似合ってるよ。可愛い」
「ほんと?」
「あぁ、びっくりしたよ。でも急にどうして?」
「えっとね⋯⋯」
私はつい誤魔化してしまう。
「大学の友達に前髪切った方が似合うよって言われてさ・・・勢いでやってみたの」
私は、やっぱり卑怯だ。幾嶋の事を隠してしまった。
「でもその前髪、本当に可愛いよ、それに」
麦はゆっくり近づいて私を抱きしめる。
「初寧、会いたかった」
「うん。ありがと」

ソファーに並んで座ると、麦は茶封筒に入った原稿を恥ずかしそうに机に置いた。
「久しぶりだね、麦君と2人で原稿見るの」
「そうだな。恥ずかしい、なんか擽ったい」
「ねぇ、読んでもいい?」
「うん。感想ききたいし。どーぞ」
それから、私は原稿に没頭した。
拙い文章だが、麦の言いたいことがひしひしと伝わってくる内容だ。情景が鮮明に浮かび、私は物語に引き込まれていって、やがて時間を忘れていた。
ふぅーっと、ひとつ息を吐く。
私は、きちんと原稿の端を揃えて麦に手渡した。
「面白かったよ」
私がニコッと笑うと、麦も嬉しそうに顔を緩める。
「初寧が熱心に読んでると安心するよ。昔はダメ出しが鋭かったからさ、的確って言うか確信突かれるんだよな」
「私だって素人だよ。あくまで私の感想だけど、すごく引き込まれる世界観だった。面白かったよ」
私はチラッと時計を見る。
あっという間に時計は深い時間を指している。今出れば終電には間に合いそうだ。
「ごめん、私長居しちゃったね。そろそろ」
「待って、初寧。その⋯⋯泊まってく?」
「えっ?」
「ほら、まだ小説の話したいし。それに⋯⋯まだ一緒にいたいし」
麦の言葉に、全身の力がスっと抜けていく。
「いいの?」
「うん、ねぇこっち来て」
麦は両の手で私を呼ぶ。私はまた、麦の胸の中に堕ちていった。

薄明かりのベットの中で、ふたりは見つめ合う。
おでこがくっつきそうな距離で、私は少し下から麦を見上げている。
「初寧、かわいいよ」
麦は、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。ゆっくりと指先が顎まで降りてきて、優しくそこを持ち上げると、唇がふわりと重なった。2度3度、唇が交わる。その優しいキスに気持ちが反応する。
優しく、激しく。
くっついては、離れて。
たまに見つめあって、また目を閉じる。
「⋯⋯初寧、好きだよ」
「⋯⋯うん」
私に大事そうに触れる麦の右手。
私は、ぎゅっとシーツを掴んだ。しわくちゃになったシーツみたいに私の心もぐちゃぐちゃに乱れそうになる。こんな瞬間にまでも、私は一瞬思い出してしまった。あの幸せそうな笑顔が脳裏に浮かんだんだ。でもそれもすぐに忘れた。頭は真っ白になり、やがて意識は果てた。
私は寝たのかも分からないまま、朝迎えた。
ずっとふわふわとした気持ちのまま、カーテン越しの朝日を浴びて
私は麦を起こさないようにゆっくり起き上がる。慌てて下着を拾い集めて浴室に向かった。
麦は私の鎖骨に印をつけた。独占欲にも似た我儘な印だ。
赤く鬱血したそれが、私には少し痛かった。

シャワーを浴びてドライヤーで適当に髪を乾かす。時計を見たら、もう家に帰っている暇はなくて、一限の時間が迫っている。私は昨日と同じ服を身に纏い部屋を後にした。


***


大学に着くと、私は教室の一番端の席に荷物を広げる。それから目立たないように息を潜めた。これは得意。今日は髪もぼさぼさで適当だし、メイクも薄い。ほんとメガネがあって助かった。
「おはよ、篠宮⋯⋯」
「うっ。見つかったか」
「なんだよそれ。あれ?昨日と同じ服?」
誠二は訝しげに私を見た。
「なんで覚えてるかな。目ざといな」
私は聞こえないように小声で文句を言う。
「あー麦先輩のとこに泊まったのか。いいねぇ仲が良くてさ。ご馳走様です」
こういう時だけ勘が鋭い誠二は嫌味なやつだ。だけど、誠二の顔にいつもの覇気がない。目の下には大きな隈を作ってるし、目もなんだか腫れぼったい。
「どしたの?何かあった?」
「別に⋯⋯。なんもない」
「ならいいけど」
誠二はどかっと隣に座り頭を抱えた。
「ねぇ、本当に。何かあったでしょ?」
「⋯⋯別れた。ってか振られた」
「えっ!?嘘」
誠二は深いため息をついて、また頭を抱えた。私は何も言えなくって、そんな誠二をただ見つめるしか無かった。かける言葉が見つからない。

永遠だと思っていた。
仲睦まじい2人を知ってるもん。
だけど、終わりは呆気ないもんだね。
募りに募った愛情が水風船みたいに膨らんで、破裂したら悲しい涙で水浸しだ。
私達も、どうなるんだろう。
いつか終わりが来るのかな。

「初寧!こっちこっち!」
蔵前の改札を出ると、凜空が向日葵みたいな笑顔で手を振っている。
「ごめんね、待たせちゃった?」
「ううん。私こそ遠くまで呼び出しちゃって」
「ここ、私も来たかったから」
「さすが。スイーツマニアは最新の流行りもちゃんと抑えてるね」
話を聞いて欲しいと私が呼び出した。それに、ひとつ気になることもある。凜空と並んで隅田川沿いをゆっくり歩く。もうすぐ春に終わりを告げるような水面《みなも》の煌めきが嫌に眩しかった。
それにひきかえ、隣の凜空は清々しいほどにあっけらかんとしている。私にはそれが不思議だった。凛空と誠二は高校の頃から仲のいい恋人だった。そんな恋人と別れた直後ってもう少し引きずったりしないのかな?凛空から別れを切り出したって聞いたけど。決心した方だって、きっと辛くないわけないもん。私だったら⋯⋯。
「あっ!ここだ、あったよ!」
私の頭の言葉をかき消すように、声を弾ませた凜空が指さす先には古めかしい煉瓦造りの建物が見えた。歴史を感じる佇まいに、大きなガラス窓が印象的な建物だが、到底ここにお洒落なカフェがあるとは信じ難い。
ゆっくりと扉を開けると、私は目を疑った。
昔、倉庫として使われていた場所は広々としていて、無骨に剥き出しの鉄骨も、あの窓から差し込む自然光に照らされて雰囲気を纏っている。オーナーに選び抜かれたインテリアも洗練されていて、通された革張りのソファーに座りながら、私はまるでおもちゃ箱の中に飛び込んだ子供みたいに胸を踊らせた。
「いいでしょ?ここ、初寧の好みでしょ?」
凜空は得意げに笑みを浮かべる。
「うん。すごく好き!」
メニュー表からおすすめのスイーツを頼み、しばらく待つと手作りの焼き物に乗せられたカヌレと紅茶がやって来た。堪らず香りを吸い込むと、ダージリンの香りが爽やかに鼻をぬける。私はつい顔を緩めてしまった。
「初寧は幸せそうね。そうだ、こないだの麦先輩とのデートはどうだったの?」
凜空はカップを片手に、私を見つめる。
「あー⋯⋯うん。」
私はティーカップの底を見るように顔を伏せた。
「あれ?なんか顔が悩んでる。なんかあった?」
それから、私は最近の出来事をゆっくり話した。凜空は時折、頷きながら話を聞いてくれる。紅茶の熱もすっかり冷めた頃に、私はようやく話を終えた。
「それで?初寧はどうしたいの?」
「どうって⋯⋯言われても」
私は言葉を飲み込んだ。何も言えないでいる私に、凜空はカップの中のミルクティーをくるくると混ぜながら、子供に語るように優しく言葉を紡いだ。
「私もね、色々考えちゃって。聞いてるでしょ?別れた話。彼とのすれ違う時間とか、将来とか。もちろん彼のことは好きだったよ?好きだけど⋯⋯好きでいてくれるからって、そんな情に流されちゃダメだなって思ったの」
凜空はじっと私の目を見つめる。
心の奥に語りかけるように、真っ直ぐに。
「だからね、初寧。恋愛って愛情じゃないの。だってそれは情でしょ?全然対等じゃない。恋愛ってさ、甘かったり苦かったり。ちょっと甘酸っぱかったり。いろんな気持ちが混ざりあって、苦しいほどに愛なんだよ?初寧はどんな恋愛がしたいの?」

──甘く、とける様な。そんな恋愛。馬鹿みたいってわかってるよ?でも愛に溶けて溺れてみたい。私はそれ程に愛されたいよ。

頭に浮かんだそんな台詞は到底口には出せず、私はやっぱり言葉を伏せた。女の子はいつだって少女漫画のヒロインみたいな恋をするんだって、ずっと憧れていた。トクンと胸がときめいて、溺愛されるほどに甘く、甘く心に染みる台詞を言われる。そして、私はとける。私もそれをいつかと夢見ていた。だけど現実はちょっと違う。空想は現実に起こらない。だから今の私は愛に臆病だ。
「ありがとう凜空ちゃん。ゆっくり頭整理してみるよ、ちゃんと答えを見つける」
「いい?初寧。今、初寧の心はね、このカヌレみたいに表面が固まってるのよ。だからゆっくり溶かしてちゃんと真ん中にある気持ちを大事にね?」
「うん、わかった」
私は小さく頷く。
「それにさ、自分の気持ちは隠しちゃだめ。初寧の悪いとこだよ?言いたいこと、我慢しちゃだめなんだから。自分にも相手にもだよ」
見透かされた?でも、優しいな⋯⋯。

お土産に買ってきたレアチーズケーキを冷蔵庫に入れて、ベットに顔から倒れ込んだ。欲張りにトッピングを載せすぎたパフェみたいに、頭の中がぐちゃぐちゃだ。本棚から無作為に抜き取った恋愛小説をパラパラと捲ってみたり、インターネットで検索をかけたって答えなんて落ちてない。


前髪を切って、麦がときめいてくれた。
コンテストに出てもっと可愛くなれば、また麦は私を好きになってくれるかな⋯⋯。
そもそもコンテストに出ようと決めたのは、幾嶋の力になりたかったから。だって、その瞬間に心がドキドキと淡い好きの悲鳴をあげたんだもん。
私なんかが、烏滸がましいな。
贅沢な2択を選べる女の子じゃない。
ケーキのショーウィンドウで言ったら、花形のイチゴのショートケーキやオペラ、ティラミスを引き立てる地味目のベイクドチーズケーキ。隅っこの方で静かに待っているのが私だ。
もう考えるのはやめよう⋯⋯。
きっと、なるようになるよね。

【明日、コンテストの打ち合わせをしたいんだけど?ご都合は如何でしょうか?】
今朝貰った、幾嶋からのメッセージ。
それに私はしばらく返信できなかった。

だけど。
だけど、ね。
ごめん。私はどうも︎︎ ︎︎ ︎︎情‪ってのに弱いみたい。


***


次の日の夜。私は幾島の美容室を訪れた。
「こんばんは!ごめんね、待たせちゃった」
約束の、時間から10分ほど遅れて幾嶋が待合のソファーに顔を出した。週末前の店内は慌ただしく、私の前をたくさんお客さんが行き来している。
「私は大丈夫です。お店は平気?」
「うん、もう落ち着いた。じゃあ席へ」
幾嶋が準備してくれた資料を見た私は、思いっきり目を見開いた。
短いヘアースタイルの女の子の写真が丁寧にファイルにまとめられている。
「もしも、篠宮さんがいいよって言ってくれたら。僕はショートカットを提案したい」
「私、ショートカットなんてしたことない⋯⋯」
想像がつかない髪型もそうだし、集められた資料のビジュアルに私は戸惑いを隠せずに終始おろおろとしてしまった。どの女の子も顔が小さくて可愛いからだ。
「勇気いるよね⋯⋯それじゃ、篠宮さんのできる範囲で考えるよ!」
幾嶋はニカッと笑い、資料を回収する。
「じゃあ⋯⋯パーマをかけて動かしたら⋯⋯どうかな」
幾嶋は私の髪に触れながら、ブツブツと独り言を繰り返す。

──あなたに可愛くしてもらいたい。
そう、一度君を信じたじゃないか。

「いいよ。幾嶋さんのやりたいスタイルで」
決心した私の言葉を遮るように、スタッフの男性が幾島に声をかけた。
「ごめん、幾嶋。シャンプー頼める?」
「わかりました!⋯⋯ごめん、ちょっと行くね」
先輩に頼まれ、幾嶋はお客さんをシャンプーの案内に向かった。

ふぅと息を吐き出し、鏡を見つめて、想像してみる。
ショートカットか⋯⋯。自分で髪を結わえて、顔周りの髪を下ろしてみたりしてみるが、やっぱり想像つかない。
「ねぇ、初寧さんって、やっぱり可愛いね」
「あっ⋯⋯胡桃さん、こんにちは」
見られてたのか、恥ずかしくなってきちんと座り直す。
「遠くから見てたら、仕草が可愛くって⋯⋯ショートカットにする決心してくれたの?」
胡桃は丁寧に頭を下げた。
「えっと⋯⋯まだ悩んでて」
「どうしてもコンテストってね、ショートヘアーに目がいっちゃうの。わかりやすいからね」
「本当に私でいいんでしょうか。もっと可愛くってスタイルのいい子なんてたくさん街を歩いてるのに⋯⋯私、背も低いし」
「幾嶋はあなたじゃなきゃダメなのよ。気持ちが入るモデルさんの方がね、作品も不思議と会場で光るのよ」
きょとんとする私の肩を、胡桃さんは両手で優しく摩ってくれた。
「大丈夫よ。初寧さん可愛い!お世辞じゃなく、すごく可愛いから」
これも営業トーク?とか思っちゃうから、私はいつまでも思慮深いんだろうな。この性格ホントにどうにかしたいよ。
「⋯⋯ありがとう、ございます」
「そんな怯えないで⋯⋯大丈夫だから、ねっ?そうだ。今日ちょっと髪の色明るくしてみたら?気分変わるし、やったことないでしょ?だけど綺麗な黒髪だから勿体ないかな?」
「えっ!染めてみたいです!」
私はつい声を弾ませてしまった。
大学生になったら、やってみたかったことの一つが髪を染めること。烏滸がましくて自分からは言えなくって、胡桃の提案はまさに天の声だった。
「じゃあ何色がいいかな⋯⋯初寧さん何色が好き?」
「えっと⋯⋯ピンク!」
「ピンクか⋯⋯いいね!初寧さん肌がブルベだからこの辺のピンクが似合うよ」
私はきっと目をキラキラさせて、見本を見ていたんだと思う。戻ってきた幾島は不思議そうな顔をした。
「お待たせ⋯⋯って、なんでカラーチャート見てるんすか?胡桃さん。それに篠宮さんも前のめりで見てるし」
「初寧さん、染めたいって。ねー?」
「はい!」
幾嶋は自分のペースを乱されて、少し戸惑っていたけど、持ち前の調子ですぐに受け入れてくれた。着々と準備が勧められて、私はまたドキドキと鏡の前でその瞬間を心待ちにしている。エプロンに着替えた幾嶋は手にカラー剤の入ったカップとマドラーを持ってきた。
「ねぇ、これ見て。スイーツみたいじゃない?」
差し出されたカップを覗き込むと、混ざる前の薬剤がフルーツソースの掛かった杏仁豆腐みたいに見えた。
「美味しそう⋯⋯」
私の言葉に、幾嶋はくすっと笑う。
「食べる?」
「やめてよ、からかわないでください!」
「や、なんか可愛くって⋯⋯」
「ほら、早くっ!お願いします」
私は幾島の思いがけない一言に慌てた。
手際よく髪に薬剤が塗られていく。黙り込んでしまった私に「どう?滲みてない?」と幾島は優しく声をかけてくれる。
「なんだか、ちょっとスースーします」
「少しくらいなら大丈夫だけど、何かあったら教えてね?20分くらい時間置くから」
「うん、わかりました」
「あ、そうだ!ちょっと待ってて」
幾嶋はしばらくすると、小さいトレーに何かを乗せてやってきた。
コトンと目の前にそれが置かれる。おかわりのハーブティーのいい香りと、可愛らしいマカロンがふたつ並んでいる。
「マカロンだ」
「さっきの薬は食べられないけど、これなら食べられるから」と、幾嶋は笑って言う。
「ねぇ、また馬鹿にしたでしょ!」
「違うよ、ほら食べてみて?美味しいから」
上手く丸め込まれた気がしたけど、私の手は正直で躊躇無くマカロンを持ち上げた。それから口に運ぶ。
サクッ⋯⋯ふわり。
中のクリームが優しく溶け、そのあとからフランボワーズの香りが口いっぱいに広がる。心地の良いアロマみたいに、私を癒してくれる。
「んーっ⋯⋯美味しい」
私はまたえくぼが分かるくらいにやけてしまう。そんな私を見ている幾嶋もどこか自慢げに嬉しそうだ。私が不思議そうに見ていると、幾嶋は鼻の頭を指で掻きながら恥ずかしそうに言った。
「嬉しそうに食べてくれるのが、可愛くって。つい、おやつをあげたくなっちゃう⋯⋯」
私は恥まあずかしくなって、ティーカップを引っつかむと口に運んだ。
「熱っ⋯⋯」
「ちょっと、大丈夫?」
「舌火傷したかも」
「ほら、あわてて飲むから」
誰のせいだと思ってるんだろ。急にあんなこと言われたら、誰だって焦るよ。舌の火傷のせいにして、私はまた黙り込むと幾嶋も道具の片付けをしに席を外した。ふう⋯⋯と息を整え、まだ温かいハーブティーを慎重に頂く。カモミールティーの甘い香りが、私の心を少しだけ落ち着かせてくれた。

「できたよ!」
相変わらず、鏡の前で目を閉じてブローの終わりを待っていた私はゆっくりと目を開く。また随分と垢抜けた私が、鏡の前に座っている。
「うわー」
「なんだよ、うわーって変な感想だな」
幾嶋は笑って言う。
「綺麗な髪色だから、びっくりして」
「似合ってるよ、すごく」
「うん⋯⋯また私じゃないみたい」
「君だよ。紛れもなく君だ」
私はまた頬にえくぼが浮かぶくらい、ニコッと笑った。
「また、魔法をかけてもらったみたい。ありがとうございます」


帰り際、軽い足取りで駅まで歩く。浮かれているのが自分でもよくわかる。私は嬉しくなったその足で麦の家を目指していた。早く、可愛くなった新しい私を見せたくて⋯⋯。
飛び乗った電車に揺られながら、染まった髪の毛の毛先を指でつかみ、光に照らすと綺麗なピンク色に透ける。
思い立って向かってるけど大丈夫だよね。この前お泊まりもしたし。私は麦の彼女だもん。きっと麦も嬉しいよね。せっかく可愛くしてもらったんだもん。それに、いちばん可愛い今を見て欲しいから。

駅に着くと、心配性な私はスマホを取りだしてやっぱり麦に連絡を入れた。不機嫌になられても怖い。
【駅まで来たんだけど、これから麦君の家に行ってもいいかな?】
珍しく、すぐ既読がついた。
【え!今から?ちょっと散らかってて⋯⋯部屋片づけるからなんか食べるもの買ってきてくれる?今日何も食べてないんだ】
「わかった。何食べたい?」
「韓国の辛いラーメン⋯⋯スーパーに売ってるからそれお願い」
スーパーか⋯⋯ちょっと遠いけど、まぁいいか。私は麦の家と逆方向に歩き出した。
買い物を済ませて、ずいぶん遠回りで麦の家に到着する。あんまり早く着いてもと思ってコンビニにも寄り道をして2人分のアイスも買った。
ピンポーンとインターフォンを鳴らす。
「はい⋯⋯」
「私、初寧です」
「うん。今鍵開けるね」
エレベーターを、降りて麦の部屋に着く。ドアノブにてを掛けると鍵が掛かったままだ。玄関でまたインターフォンを鳴らす。
いつもなら鍵を開けててくれるのに⋯⋯。しばらくしてガチャっと鍵の開く音がして、ドアの隙間から麦がチラッと顔を覗かせた。
「急に来ちゃって、ごめん」
「ううん。ごめんな買い物頼んで」
「大丈夫だよ、アイスも買ったから一緒に食べよ」
早く入ってと、私は麦の後ろを付いて部屋に上がる。
あれ⋯⋯。
なんだろう、この違和感。
散らかっていると言っていた割にきれいな部屋。
「ねぇ麦君、これ食べるよね?私準備するよ」
私は買ってきた即席ラーメンを袋から取り出す。
「えっ!?あぁラーメンか⋯⋯うん、ありがと」
「麦君がこれ食べたいって」
「ごめん、さっきまでウトウトしてたから頭回ってなくて」
忙しなく部屋をうろうろする麦を横目に、私は鍋に火をかけて、器を取り出そうと食器棚を開けた。棚の奥でキラッと何か光る。そっと食器をずらすと、女性物のネックレスが丁寧に置かれていた。

──あぁ、そういう事か⋯⋯。

これはある種、私への宣戦布告だ。わざわざ食器棚に痕跡を残すなんて。普段、料理をしない麦をよく知ってるんだね。女の子が男の子の家でネックレスを外す時なんて、一緒に寝る以外に無いんだから⋯⋯。それを置いてくなんて、随分気が強い女の子なんだね。
ははっ。私、馬鹿だ⋯⋯。ずっと私だけが浮かれてたんだ。

「ねぇ、麦君⋯⋯。誰か来てた?」
「えっ!?いや?」
「これ、私のじゃないよ?」
私はゆっくり振り返ると、そのネックレスを麦に差し出した。
「なにそれ⋯⋯俺、知らない」
麦の目は、どこか泳いでいる。
「嘘、つかないでよ!これ食器棚にあった。女の子がわざと置いてったんじゃないの?丁寧に、私にわかるようにさ」
「初寧、何言ってんの?⋯⋯違うって」
私に近づこうとする麦に、持っていたネックレスを思いっきり投げつけてやった。
「お前、何すんだよ」
逆ギレする麦に、私は言葉を吐き捨てる。
「女の子が男の子の家に来てネックレスを外すなんてさ、服を脱ぐときくらいしかないよ」
鍋のお湯が沸騰して時折吹きこぼれている。
私の感情もふつふつと怒りが込み上げ、それが涙となって目から溢れる。ぽろぽろと泣きながら、麦を睨み続けた。
「ごめん、初寧⋯⋯友達と飲んでたら誘われてそのまま。事故みたいなもんで、本当に大事なのは初寧だけだから。1番好きなんだ、本当にごめん」
「もういいよ。麦君、ごめん。別れて欲しい」
「嫌だ。ちゃんと謝るし反省するから⋯⋯もうその子とも会わないから、約束する」
「もう無理だよ」
「なんでだよ、初寧。俺を捨てないでくれよ」
私は悔しかったんだ。浮気されたことよりも、私なんてちっとも見てくれてないことが寂しかった。だから、もう麦とは無理だと心が悟ったんだ。
「麦君は、私なんて見てないんだよ。今日一度だってちゃんと見てくれてない」
「なんだよそれ、ちゃんと見てる・・・」
「もう、いいかな?私帰る。さよなら麦君」
私はそのまま、麦を見ることも無く部屋を飛び出した。1番気がついて欲しかった髪色なんて、見てさえくれなかったんだ。


***


自宅の玄関を勢いよく閉めると、電気もつけずにそのままベットに潜り込んで頭を抱えた。泣き腫らした目を枕に埋めて、小さな身体をもっと丸く縮めた。
「馬鹿みたいだ⋯⋯私」
電車の中では堪えていた涙が、また溢れる。
沸き上がる感情に任せて徐に布団を剥ぐと、枕を壁に投げつけた。
足元のビニール袋の中ですっかり溶けてしまったアイスクリームがふたつ。それも見たくなくて、ゴミ箱に投げ入れる。
スマホには、麦からの着信が10件以上通知されているけど、それも鬱陶しくて電源を切った。
何とか心を落ち着かせようと、パソコンを立上げると『スイーツ男子』さんのページを開いた。
色とりどりのスイーツを見ていると、次第に私の心は穏やかになっていく。
封筒ののマークを押して、私は文字を打つ。
いつもは見ているだけだったのに、今日は何だかそんな気分だったんだ。

ユーザー名『ハツネコ。』
【はじめまして。いつも投稿楽しみにしてます。
スイーツ男子さんは落ち込んだ時、どうしますか?
どんなスイーツ食べますか?
突然ごめんなさい⋯⋯】

ユーザー名『スイーツ男子』
【DMありがとうございます。僕は落ち込んだ時は、カカオたっぷりのチョコレートケーキって決めてます。ここなんてオススメですよ。悩みなんて溶かしちゃうくらいに、甘いものを我慢しないで食べよう】

ユーザー名『ハツネコ。』
【お返事ありがとうございます。
ちょっと救われました】

翌日、私は初めて大学をサボった。
誰にも会いたくなくて、部屋に閉じこもった。麦からは相変わらず着信が来る。表示される名前を見るのも嫌になって、私はもう着信拒否に設定した。別れは案外あっさりしているものだ。
これで本当にお別れ。ばいばい、麦君。

次の火曜日の昼下がり。
私は待ち合わせた原宿の駅前で太陽から逃げた。
本当はまだ家に引きこもっていたいけど、幾嶋に頼まれて例のコンテストの衣装探しを一緒にするためだ。私がいないと成り立たない。
駅前のクレープ屋さんの甘い香りが私を誘うけど、今はそんな気分じゃない。最近は食欲もなく、ろくに食べてない。
幾島を探してキョロキョロと辺りを見渡すが、竹下通りに雪崩込むように吸い込まれていくたくさんの人が目に入った。ピンク色のロリータ服の少女に、地雷系女子。私の隣で辺りをキョロキョロと伺う女の子も服装はパステル色でコーディネートされてる。個性豊かな原宿ファッションに身を包み、性別とか年齢とか枠に囚われないここは、まるで女の子たちのユートピアだ。スイーツみたいなファッションの子もいる。私も、闇かわいい服でも着てやろうかな。そんなくだらない事を考えていると「お待たせしました!」と、幾島は相変わらず眩しい笑顔で私の前に現れる。
私はそんな彼にぺこりと頭を下げた。

「竹下通り来たことある?」
私は首を横に振る。道幅いっぱいに人が溢れていた。
「はぐれちゃうといけないから、僕のすぐ後ろにいてね?」
「うん、わかりました」
「よし!じゃあ、行こう!」
真夏の流れるプールみたいな人混みに私達も飛び込む。いつもの歩幅の半分くらいのスピードでしか進まないから、ちょっとした地面の凸凹に躓きそうになる。それに人の多さに目が回りそうになる。
そりゃそうか、最近寝れてないもん。体に糖分も足りてない。クラっと視界が揺れて、また躓きそうになった。
なんだろう⋯⋯もう帰りたいな。
顔から血の気が引いていくのがわかる。これはまずいと思って私は無意識に、幾嶋のシャツの端を掴んだ。驚いた幾島は「え?どした?」と私の方を振り返る。それからまじまじと私の顔を見ると、躊躇無くすっと私の手を取り脇道に逸れた。
「顔色悪いけど大丈夫?ちょっと水買ってくるからここで待っててくれる?」
私を路地裏のベンチに座らせると、幾嶋はまた人混みの中に入っていった。

買ってきて貰ったミネラルウォーターと、小さなチョコレートを口に含み、落ち着いて呼吸をする。
「ありがとう、ちょっと落ち着きました」
「よかったー」
「もう大丈夫だから、衣装探しに⋯⋯」
私はゆっくりと立ち上がろうとすると、幾嶋は優しくそれを制止した。それから小さく首を横に振る。
「今日はいいよ、君の方が大事だ。無理はよくない」
「でも⋯⋯」
「本当に。いいからさ。ねぇ、それよりも⋯⋯。よかったらなんだけど何か甘い物食べに行かない?食べれそう?」
「うん⋯⋯」
「じゃあ、少し休んだら行こうか。貧血にはチョコレートがいいんだって」
幾島はスマホで何かを調べながら優しい笑顔で私にそう言った。そんな彼の優しさに私はちょっと安心した。

原宿を離れ、少しだけ遠出する。
地下鉄に揺られて着いたのは日本橋だった。来たことの無い土地で私は辺りをキョロキョロと見渡し、つい目の前のビルを見上げてしまう。地下鉄の駅名にもなっている有名なデパートの重厚感。それに 日本橋川に架かるいくつもの橋に歴史を感じる。橋の上から川を覗き込むと、ミズクラゲがゆらゆらと漂っていて「ねぇ、見て!クラゲ!」と無邪気にはしゃぐ私を、幾嶋は嬉しそうに見つめていた。
「もう、元気そうだね!良かった」
「本当にごめんなさい」

ふたりで街を歩きながら、私は少し冒険をしている気分になっていた。スマホのナビを見ながら通る小道に。ビルの間にひっそり構える神社に。次の路地を曲がったら何があるのか、私はドキドキと胸を高鳴らせている。

胸がドキドキ、ドキドキと⋯⋯。

「確かこの辺なんだけど、ごめんね結構歩かせちゃってるね」
「ううん、楽しいから⋯⋯大丈夫です」
「多分この道曲がったら⋯⋯あ、あった!」

幾嶋は嬉しそうに建物をゆびで指す。
アーチ状の大きな入口に、可愛いチョコレートのモニュメントが看板替わりに使われている。ドア越しに見える店内は、周りの重厚感のある建物とは違う雰囲気を逸していて、あまりに可愛い。
「周りは厳格な建物ばかりなのに⋯⋯ここだけおとぎ話に出てきそうなお店だね」
「でしょ?」
あれ?この店名⋯⋯見覚えがある。『スイーツ男子』さんが教えてくれたお店だ。私はそれを思い出して「ここ、来てみたかったお店だ⋯⋯」と呟いた。
「本当に?じゃあ偶然?ラッキーだね」
幾嶋が優しく扉を開けてくれて、私は店内に足を踏み入れた。
私の目を釘付けにしたのは、ショーケースに並ぶカカオの実を型どったチョコレートケーキ。艶やなかな光沢が、まるでカカオの宝石だった。
「何食べる?」
「これ!」
店員さんが驚くほどの即答で、私はその宝石を指さしていた。

カフェスペースに座ってしばらく待つと、運ばれてきたケーキと甘くないカフェラテ。幾嶋は贅沢に季節のパフェを頼んでいる。アングルを気にしながら、幾嶋は今日も熱心に写真を撮っている。私も、つられて写真を1枚スマホに収めた。

もう1枚だけ。

私は気づかれないように、幾嶋を写真に収めると私は手早くスマホをカバンに隠した。

ケーキには珍しくナイフが添えられている。私はナイフとフォークで丁寧に切り分けて、ひと口食べる。甘い。口の中でケーキが甘く、とける。
「美味しい?」
「うん、とっても」
幾嶋の物欲しそうな顔が可愛くて。私は大きめにナイフで切り分ける。それからフォークの背にケーキをそっと載せた。
「はい、食べて」
私は幾嶋の口にゆっくりフォークを運ぶ。
子供みたいにフォークに飛びつく彼に、私は⋯⋯。
「これ、めちゃ美味っ!」
「でしょ?」
「じゃあ、こっちも。はい」
差し出されたスプーンに唇が触れる。
私も優しくそれを受け入れる。

そして。
私の心は、甘く、とける。

スイーツの甘さなのか、幾嶋の優しさなのか、その不可抗力に久しぶりに私のエクボが顔を出した。
「やっと笑ったね、今日ずっと顔が暗かったから」
「えっ⋯⋯?」
「実はちょっと心配してたり。だから誘ったんだけどね」
幾島は照れ笑いを隠すように、パフェを口に運んだ。
「バレちゃってたか⋯⋯」

私は事の顛末をゆっくりと話した。
麦って彼氏がいたことも包み隠さずに。
この人はいつだって真っ直ぐだ。
だから、私もちゃんと聞いてもらいたくって。

「それは⋯⋯。ごめん、在り来りなことしか言えないけど。上手く言葉が出なくって。でも辛かったよな、悲しかったよな」
「ううん。聞いてもらえてずいぶん気持ち楽になれたよ。これでよかったんだよ。まだ傷が浅いうちにさ、別れられて⋯⋯うん。よかったんだよ」
「あのさ⋯⋯」
これ以上、彼に気を遣わせるのが申し訳なくて私は話題を変えた。
「ごめんね、コンテスト前に1日無駄になっちゃって準備大丈夫かな?それが本当に申し訳ないよ」
「大丈夫だよ、何とかなる。それは心配いらないから」
「私も⋯⋯私もコンテスト精一杯頑張るから。幾嶋さんの優しさに応えたいから」
「うん。ふたりで頑張ろ」
私たちは小さくハイタッチをして、それからまたスイーツに夢中になった。たわいもない話をして気づけば4時間も話し続けた。ずっと、この時間が続けばいいのにな。そう思いつつも、臆病な私の心だけが小さく震えていた。

それからあっという間に時間はすぎた。
幾島さんと話してから、麦との一件を立ち直るスピードに、自分でも驚いたほどだ。大学も至って平穏に、日常を取り戻した。
「なぁ、篠宮も別れたって!?」
誠二も心配そうに声を掛けてくれたけど、私のあっけらかんとした顔に少し驚いていた。
「麦先輩から連絡すごくてさ⋯⋯篠宮に電話に出るよう伝えてくれってさ」
「あー⋯⋯ごめんね迷惑かけちゃって。それと、私はもう先輩と話す気ないから、ごめん」
「俺はいいよ。でも、篠宮は無理してない?」
私は、その質問を鼻で笑った。
「わたし?全然。もうスッキリしてる」
「こんな時って女子の方がドライだよな⋯⋯男に対して情ってもんは無いのかよ」
誠二は私を皮肉っぽく笑った。
「情しか無かったから、ダメだったのよ。私たち」
「なんだよ、それ。私たちって。えっ?俺も?ちょっ、詳しく教えて」
「なーんも。ほらもう授業始まるよ!」

お昼のランチに選んだイタリアアンのカフェ。
テラス席で風に吹かれながら、私は最後のデザートを待っている。
待っている時間でスマホを取り出した。なんとなく、あの人にお礼を伝えたくなったのだ。

ユーザー名『ハツネコ』
【この前、教えてくださったカフェに行きました。
すごく美味しかったので、お礼を言いたくて。
元気出ました。ありがとうございます】

メッセージの送信を済ますと、運ばれてきたデザートに私はときめいた。
「イタリアンと言えばティラミスよね」
スプーンをゆっくり沈めると、とろける様な濃厚さに驚いた。ひと口食べると、甘さが控えめに口に広がり、あとから来るコーヒーの苦味が絶妙に混ざりあった。
「んー、美味しいっ」
私はつい声を漏らしてしまう。ティラミスは直訳すると「私を元気づけて?」と言うが、まさに今の私にピッタリだ。来週はいよいよ、幾嶋さんとのコンテストだし、元気でいなきゃ⋯⋯。私は噛み締めるように、ティラミスを味わった。


***


緊張が、私の心を支配している。
コンテスト当日の朝。早朝六時半過ぎの、まだ人も疎らな表参道の駅を降りた。もう、すっかり慣れた道をスタスタと歩きながら私は幾嶋さんのお店を目指す。
今日も白いキャミワンピース。ひらひらと靡かせながら颯爽と歩く姿は、もうこの街に似合ってるかな?なんて、ほんの数月前の自分に問いたいくらいに、私はもう都会の女になった気分でいた。
そんな自信を私にくれたのも、あの日、幾島さんに出会ったからだ。あの出会いがなければ、もしかしたら私は本音も言えず、都合よく影に隠れていたままだったかもしれない。

「おはようございます⋯⋯」
ゆっくりドアを開けて、隙間から店内を覗くと、同じコンテストに参加するスタッフが準備に追われていた。
「あら、初寧さん!おはよう。朝早くからごめんなさいね。ちゃんと寝れた?」
「胡桃さん、おはようございます。緊張してたけどなんとか」
「さっそく、先にメイクしちゃおうか。幾嶋ちょっと買い出しに行ってるから」
「はい!よろしくお願いします」
セット面に座り、胡桃が顔のマッサージをしてくれる。気持ちよくって何度かつい、うとうとと寝てしまいそうになった。
「緊張してる?」
「⋯⋯はい。すっごく」
「大丈夫。幾嶋すっごい頑張ってたから。普段から真面目だけど、それに拍車をかけたみたいに。だから私もね、期待してるの」
胡桃は嬉しそうに話してくれる。
「一番、初寧さんを可愛くしてくれるよ。安心して座ってたら大丈夫だからね」

一番か⋯⋯。

私はあなたの一番になれるのかな。
なんて。
期待するだけ傷つくだけよ。
学んだばかりじゃないか。
この小さな胸のドキドキは隠してた方がいいんだ。
そっと箱にしまったチョコレートみたいに、ほろ苦い味なんだから。

準備を終えて、私たちは会場を目指している。タクシーは軽快に表参道を走り抜ける。車窓から見るケヤキ並木は圧巻だ。世界は、少し見る角度が違うだけで、こんなにも見え方が変わるんだ。私はふと、隣に座る幾嶋さんに目をやる。座ってるから彼と目線の高さが近い横顔。普段より近くに見える。
不意にまた、ドキッとしてしまう。
ダメだってわかっていても。

幾島はじっと両手を握りしめ一点を見つめている。
珍しく笑顔がなく、緊張しているのか顔を強ばらせている。

何か持ってたかな⋯⋯と、私は鞄の中を覗き込む。
チョコレートを見つけたけど、緊張してる時に甘いものは逆効果だと思い出して止めた。たぶん私は困ったような顔をしていたんだろう。
「ごめん、俺が緊張しちゃってたらモデルさんの方が不安になっちゃうよね」と、優しく声をかけてくれた。
「ううん⋯⋯大丈夫⋯⋯」

──幾島さん、頑張ってきたから大丈夫だよ!
なんてこんな時、上手い一言でも言えたらいいのに。
「言いたいこと、我慢しちゃダメだよ」と、あの日の凛空の言葉を思い出した。伝えたいこと、伝えなきゃ。

「私は、大丈夫だから。幾島さんのこと信じてる。だからね、幾嶋さんがやりたいデザインを遠慮なく。後悔ないように⋯⋯ね」
私は、ぎこちない顔でニコッと笑う。今の私にはこれが精一杯だ。
「⋯⋯うん。ありがとう」
それから幾嶋は黙り込んで、集中した様子で何度も空中でカットの手順を確認していた。私もそれを邪魔しないように、ずっと外を眺めていた。

そして、いよいよ会場が見えてきた。

会場の中は、競技前なのに熱気で溢れている。きちんと並べられた椅子と、養生テープで区切られているスペースが無数に広がる。私はその椅子の数に驚いた。想像していた以上の規模の大会だったからだ。
「えっと⋯⋯あ、ここだ!」
幾嶋は自分の番号の席を指さして、私を座らせてくれた。どこまでも高い天井を見上げると、燦燦と照りつける照明が眩しくて目が眩む。
「82番⋯⋯はつね⋯⋯!?なぁ、凄くない?初寧ちゃん!」
「えっ!?」
初めて名前を呼ばれた。
初寧って⋯⋯。
一瞬言葉が詰まったけど、私はすぐに返事をした。
「あっ!82番、はつね⋯⋯だね」
「これは運命感じちゃうなー」
「うん。絶対に忘れないよ⋯⋯」
「俺も!そうだ、胡桃さんにも教えとこ。応援に来てくれるって言ってたし」
幾嶋は嬉しそうにスマホを取りだし、さっそく連絡をし始めた。
落ち着かない会場の雰囲気以上に、落ち着かない私の気持ちは自分でも計り知れない。もう、この小さな胸のドキドキは、誰にも止められないからだ。君以外誰も。
だって君が私の心に何度も火をつけるからだ。
その度に、私の恋心が、甘く、とける。

「もうすぐ始まるね⋯⋯」
幾嶋さんの声で我に返った。ゆっくりと言葉を続ける。
「ありがとう⋯⋯ってこれから始まるんだけど。君のお陰でここに立ててる。僕を信じてくれて、ありがとう。絶対に君を可愛くするから」
「うん。信じてる」

スタートの合図と共に競技が始まった。
次第に音楽のボリュームが上がる。
重低音が身体中に響く。

ドキドキと。
ドキドキと。

私はゆっくり目を閉じた。
この時間が、終わって欲しくないんだ。
サクッサクッと、手際のいい音が聞こえる。
櫛が優しく頭を撫でる。
ドライヤーの風が、私の頭を軽く動かす。
時間にして45分。
その時間は私にはあっという間だった。

目を閉じて、貴方との時間を振り返る。
あの春の日差しの中で、眩しいくらいの笑顔で話し掛けてくれたあの日。貰った名刺は今もお財布の中に大事に入れてあるんだよ。
ベンチに並んで座って食べたあのドーナッツ。
あの時間が愛おしくって、実はこっそりまた買いに行ったんだよ。
一緒に食べた高級チョコのドームも、緊張したけど美味しかった。
貴方が切ってくれた髪の毛も、人生で一番お気に入りなんだよ?
それに、貴方と食べたチョコレートケーキ。
あの日、私は⋯⋯。
もうすっかり、君に、甘く、とけちゃったんだ。

だけど、ね。
ううん。
もういいの。
十分幸せだから。

怖いんだ。
また好きな人を失うのが⋯⋯。
終わりが来るのがね、怖いの。
こんな煌びやかな世界で、その中で輝く君をきっと女の子たちは放っておかないでしょ?
私なんて⋯⋯。
私なんかさ⋯⋯。
きっと、貴方とは釣り合わない。
あーあ、卑屈な自分が、嫌いだ。

「残り5分です」
会場にアナウンスが響き渡る。

終わっちゃう⋯⋯。
でも。やっぱり、終わって欲しくないな。
ずっと君に触れていて欲しいの。

「終わりです!」
会場はたくさんの拍手に包まれた。

初めて挑んだ幾嶋のコンテストの結果は、なんとかギリギリ敢闘賞を貰えた。時間いっぱいまで真剣に微調整をしていたが、緊張からか最後の詰めが甘かったと幾嶋は悔やんでいた。
「悔しい⋯⋯また来年だ。難しいー」
「ごめんね、私⋯⋯力になれなくって」
「ううん、俺の力不足だ。君は審査中も笑顔で頑張ってくれたもん。それがすごく嬉しくて。だから、もっともっと努力する。それで来年ぜったい優勝するからさ」
幾島は、約束とばかりに親指を突き立てた。
「うん。応援するよ!じゃぁ、私、先に帰ります」
「うん!あ、気になるとこあったら切り直すから連絡してね」
「うん」
私は幾島さんに見送られながら、会場の長い長いエスカレーターに乗った。

これで、お別れ⋯⋯それもいいかも。
もう十分だもん。
短くなった髪の毛が軽い。
バッサリ切り落とした毛先と一緒に未練もここに置いて行ったら、心も軽くなるかな⋯⋯。
この気持ちも急速冷凍で、早く固まってくれたらいいのにな。

でも。
それでいいの?初寧。
本当に?
気持ちに嘘つくの?

──自分の気持ちは隠しちゃだめ。初寧の悪いとこだよ?言いたいこと、我慢しちゃだめなんだから。自分にも相手にも。

また、凜空の言葉が蘇る。

もうすぐエスカレーターは終わりに近づく。
私はぎゅっと口を結んだ。


振り返ってあなたが居たら⋯⋯。
もしあなたが居てくれたら。
私は⋯⋯。

君が振り返ってくれたら⋯⋯。
もし君が振り返ってくれたら。
僕は⋯⋯。

私はゆっくりと振り返る。

「初寧さん、待って!」

幾嶋は叫んだ。
そして、勢いよくエスカレーターを駆け下りる。

キョトンとする私の前で幾嶋さんは、まっすぐに私を見つめている。

「あのさ⋯⋯僕は、初寧さんが好きです。最初に会った時からずっと、君が⋯⋯君が好きだ」
「えっ!」
「あの日、君を見た時に、恋に落ちたんだ。美容師だからって、都合よく声掛けて⋯⋯だけど、気持ちは本気です。誰にも負けないくらい」

──初寧。ほら、素直になりなよ。

「私も、です。私もあなたに・・・甘く、とけてる。あなたと甘く、とけるような恋をしたいです」

幾嶋さんは私を思い切り抱きしめた。
私もそっと背中に手を回す。

「私で、いいのかな?」
「初寧さんじゃなきゃダメなんだ」
「ほんとに?」
「ふたりで溶けよう。チョコレートみたいに」
「うん」
幾島はじっと私を見つめた。
「ねぇ、初寧さん。苺のショートケーキみたいな君が好きだよ」


***


表参道を眺めるカフェで、私たちは相変わらずお茶を飲みながら話に花を咲かせている。
「初寧、ショートカット可愛いね」
「いいでしょ?彼氏が切ってくれたの」
私は自慢げに、横の髪を耳にかける仕草をした。
「なによ、惚気?でも初寧いい顔してるよ」
「凜空ちゃんには感謝です。私の背中を押してくれたから」
「じゃあ、今日はお礼に奢ってもらおうかな」
「いいよ!なんでも。どれにする?」
凛空はメニュー表をじっくり見ると「じゃぁ⋯⋯これ。なんか初寧みたいだから」と指を指した。私は、それを見てニヤケてしまった。小さくて可愛い、苺のショートケーキ。
「じゃあ、私も一緒のにする!すみません!注文お願いします」


私の心は、いつまでも。
君と一緒にいるだけで⋯⋯。
何度も何度も。

甘く、とける。


***あとがき


ある日のカフェ。
今日も彼はアングルを気にしながら写真を撮っている。
「ねぇ、幾島さんっていっつもスイーツの写真撮ってるけど、それどうしてるの?」
「ちゃんと保存してるよ?SNSに。あ、でもプライベートのアカウントと分けてる」
「なんて言うアカウントなの?私も知りたい!」
幾島さんは、スマホを操作して私に画面を見せた。
「スイーツ男子だよ」