彼に言われた通り、次の日から学校に行った。華は梨花の復帰を喜ぶだけ喜んで、いつも通り梨花を振り回した。華が何も知らないであろうことにほっとすると同時に後ろめたさが募って、時折作り笑いがぎこちなくなる。そんな時は放課後に海斗の家に遊びに行って二人でゲームをしたり、それぞれ違う漫画を読んだりして時間を過ごした。
海斗のことを恋人と呼んでもおかしくない関係になったのではないか、と思う時はある。だけどその割に手を繋いだこともキスをしたこともなくて、素肌を晒すようなこともしていない。華やクラスメイトの話を聞く限り、異性と付き合うということは、そういった行為をするのが当たり前らしい。華だってあの彼氏の家に遊びに行く度にそれなりのことをしていると言っている。そういった話を摘まんで聞いていると、倫理の授業で習ったプラトニックラブとかいうものは幻想なのだろう、梨花と海斗も恋人なんかではないのだろうと思う。だけど自分たちは、お互いに触れあうことをしないことさえ除けば恋人と呼ぶのが相応しくて、この関係にどんな名前をつけてやればいいのか迷う。こんなことをうっかり華にぼやいてしまった時は、華が自分のことに喜んでいて、戸惑った。
「梨花ちゃん」
華が梨花のことを「梨花ちゃん」と呼ぶのは、知り合ってすぐの時以来だった。ある日の夜中にかけられた電話の声は泣いていて、「迷惑だな」なんて思った気持ちは吹き飛んだ。冷や汗がだらだらと流れる。
「カズ――彼氏がね、浮気してた」
華の口調は一生懸命冷静に話そうとしている響きがあった。しかし時折泣き声が滲んで、鼻をすする音が混ざる。
サプライズで彼氏の家に遊びに行ったら、丁度彼が女と抱き合っていたらしい。それも裸で。
華の話に相槌こそ打っているが、梨花の心臓ははくはくと酸素を欲していた。息ができないと訴えるそれは、梨花の脳から思考を奪っていく。どろどろに混ざり合う男と女の匂いが蘇り、一瞬眩暈がした。
「しかも相手、部活の先輩だった。私の知り合いに手を出したのも初めてじゃないんだって」
電話越しに華が息を吸う。その音が梨花の耳を打った。視界が大きく傾いて、その拍子に携帯端末を取り落とした。
「梨花ちゃん」
ああ、伝わってしまった。知られてしまった。華が何も知らないのを良いことに、友達の皮を被って学校に通っていた。しかしその皮をはがされた今、ここに立つのは醜い化け物でしかない。そんな生き物がどうしてただの人の前に言葉を話すことができるのだろう。
「ごめん」
電話を切ると、がたがたと手が震え始めた。震えを抑えようと両手を握りしめていると、再び携帯端末に電話がかかってくる。
『梨花ちゃん』
先ほどの華の声が蘇る。気が付けば梨花は家を飛び出して、夜道を走り始めていた。裸足のまま履いたスニーカーで皮膚がすれ、足は早々に悲鳴を上げる。しかし立ち止まるのも泣きだすのも許すことができなくて、暗い道を走り続けた。
足は勝手に海に向かっていた。海斗の家に行こうとは思ったけれど、それも許されないような気がした。華を裏切るという選択をしたのは、理由が彼に関わることであったとしても自分のせいだ。彼は悪くない、何も悪くない。悪いのは自分だ。
今度こそ、死のうと思った。
ばしゃり。スニーカーのまま海に飛び込むと、すれた皮膚に海水が染みた。顔に撥ねた水しぶきは冷たく、叫びたくなったけれど堪えた。今誰にも自分の姿を見られたくない。見つけられたくない。
浜辺から離れていく度に視界は闇の色に染まり、何も見えなくなっていく。水をかき分けながら進んでいると、足が何かにつかえて転んだ。全身が水に浸かるまで一秒とかからなかった。上下が分からなくなりただ藻掻いているうちに、「死にたくない」と本能が叫んでいることに気が付く。死にたいと思って海に入ったくせに、生きたいと願う自分の矛盾に呆れて、でも助かりたくて、光る水面に向かって手を伸ばした。
「何してんだよ馬鹿」
腰のあたりを抱えられた感覚がして、急に水面が近くなった。飲み込んだ水を吐き出している間も身体は宙に浮いたままで、抱きかかえられたままなのだと気が付く。瞼に貼りついた海水を拭い、痛む目を開けると、そこにいたのは海斗だった。
「何でいるの」
「先に言うことあるだろ」
「ごめんなさい。ありがとう」
「良し」
梨花を抱えたまま、海斗は岸に向かって進んでいく。
生き延びた喜びと、死に損なった無気力感が胸の内でせめぎ合う。しかしもう一度死のうとするには水の中はあまりにも恐ろしかった。結局自分は、恥をかいてでも生きていたいらしい。
「あんたのこと自殺志願者って呼ぶから」
「え、ひどい」
「俺が来なかったら死んでたぞ、本当に」
「ごめん」
彼の泳ぐ足がぎこちない。この前はもっと綺麗に尾を動かしていたのに。そう思って「もう歩けるから降ろしてほしい」と言うと無視された。
「泳ぎにくいでしょ」
「うるさいな」
彼は黙々と泳ぎ、浅瀬に辿り着いたところで梨花を降ろした。そして泣きそうな顔で笑って、人魚が変身するところを見たいかと聞いてきた。何だか嫌な予感がして首を振ると、見てほしいとでも言うように見つめてきた。
浅い水の中に座り込んだ彼の尾は、銀色の皮膚で輝いている。見つけた一枚の鱗はそこで浮いていて、月の光に翳すと藍色が濃くなった。彼がその一枚に手を伸ばしたとき、慌てて彼の手首を掴んでいた。
「剥がさないといけないの?」
「そう。一枚剥がすと片足、もう一枚剥がすと片足になる。けど皮膚はそのままだ。乾いて干からびる」
普通に生活できるようになるまで、最低でも五枚は鱗を剝がさないといけない。そう彼は言った。淡々としたその口調が何だか怖くて、梨花は彼の皮膚に生えている鱗に目を凝らした。
「ね、後ろ向いて。うつぶせになって」
「裏はないない。もう全部剥がした」
「ねえ、もう一枚しかないよ」
「うん。一枚だけ」
「どうするの? 人魚のまま?」
彼の足にぺたぺた触ると、ひんやりと冷たい感触がする。魚の体温には人間の身体は熱すぎるのだ。そう気が付いて慌てて手を離すと、気にしなくていいよと彼は笑った。
「人魚のままではいられない。もう鰓はなくなったから」
「じゃあ人間?」
「いや。鱗が全部なくなったときに泡になる。そういう呪いなんだ」
彼の言った言葉が、何度も胃の中を巡ってかき回す。私のことなんか助けなければよかったのに。呟いた言葉の続きは、彼によって塞がれた。梨花の言葉を塞ぐように抱きしめる彼の腕は優しくて、死のうとしなければよかったなんて考えばかりが思い浮かぶ。
「俺が助けたかったから助けたんだ。むしろ、傷に残るようなことをしてごめん」
「ごめんなさい」
「謝るなよ。あんたを助けなくても、俺はいつか自分の鱗を全部剥がしていたから」
「でも」
「いいんだよ」
彼が梨花の頭を静かに撫でる。
「本当は、この前あんたを助けたときに、泡になろうとしていたんだ。でもその途中にあんたが来てさ」
「やだ、死のうとしないでよ。人魚のまま生きていてよ。息ができないなら岩で休んでてよ。食べ物なら私が持って行ってあげるから」
あんたのことが好き。だから生きていてほしい。泣きながら伝えた願いに、彼は優しく微笑んだ。
返事はキスだった。でもそれは、ごめんねのキスだ。ありがとうのキスではない。
「俺もお前のことが好きだよ。だからお前の人生を縛るのは嫌だ」
「人生を縛るとか、そんなわけない」
「あるよ。俺が人間になりきれないから」
だから最期を見届けてほしい。彼はそう言った。一人で消えるのが寂しくなったと呟く唇は、梨花と同じ海水で塗れている。
「我儘言わないでよ、ばか」
「そうだな、我儘だな。こっちの方があんたの人生縛りそうだな」
「ふざけんな」
彼はもう一度梨花を宥めるように抱きしめて、それから鱗に手を伸ばした。止める間もなく引き抜かれたそれを梨花の手に握らせて、彼はこちらの頬を静かに撫でた。
「一生許さなくていい。でも、梨花に会えてから俺は幸せになれた」
与えられたキスは優しい。ふつふつと泡になっていくそれは、甘酸っぱくなくて、塩辛かった。
泡になった彼のかけらをかき集めながら、梨花は朝を迎えた。残された鱗の藍色が、朝日を浴びて澄んだ色に変わっていくのが憎らしかった。
海斗のことを恋人と呼んでもおかしくない関係になったのではないか、と思う時はある。だけどその割に手を繋いだこともキスをしたこともなくて、素肌を晒すようなこともしていない。華やクラスメイトの話を聞く限り、異性と付き合うということは、そういった行為をするのが当たり前らしい。華だってあの彼氏の家に遊びに行く度にそれなりのことをしていると言っている。そういった話を摘まんで聞いていると、倫理の授業で習ったプラトニックラブとかいうものは幻想なのだろう、梨花と海斗も恋人なんかではないのだろうと思う。だけど自分たちは、お互いに触れあうことをしないことさえ除けば恋人と呼ぶのが相応しくて、この関係にどんな名前をつけてやればいいのか迷う。こんなことをうっかり華にぼやいてしまった時は、華が自分のことに喜んでいて、戸惑った。
「梨花ちゃん」
華が梨花のことを「梨花ちゃん」と呼ぶのは、知り合ってすぐの時以来だった。ある日の夜中にかけられた電話の声は泣いていて、「迷惑だな」なんて思った気持ちは吹き飛んだ。冷や汗がだらだらと流れる。
「カズ――彼氏がね、浮気してた」
華の口調は一生懸命冷静に話そうとしている響きがあった。しかし時折泣き声が滲んで、鼻をすする音が混ざる。
サプライズで彼氏の家に遊びに行ったら、丁度彼が女と抱き合っていたらしい。それも裸で。
華の話に相槌こそ打っているが、梨花の心臓ははくはくと酸素を欲していた。息ができないと訴えるそれは、梨花の脳から思考を奪っていく。どろどろに混ざり合う男と女の匂いが蘇り、一瞬眩暈がした。
「しかも相手、部活の先輩だった。私の知り合いに手を出したのも初めてじゃないんだって」
電話越しに華が息を吸う。その音が梨花の耳を打った。視界が大きく傾いて、その拍子に携帯端末を取り落とした。
「梨花ちゃん」
ああ、伝わってしまった。知られてしまった。華が何も知らないのを良いことに、友達の皮を被って学校に通っていた。しかしその皮をはがされた今、ここに立つのは醜い化け物でしかない。そんな生き物がどうしてただの人の前に言葉を話すことができるのだろう。
「ごめん」
電話を切ると、がたがたと手が震え始めた。震えを抑えようと両手を握りしめていると、再び携帯端末に電話がかかってくる。
『梨花ちゃん』
先ほどの華の声が蘇る。気が付けば梨花は家を飛び出して、夜道を走り始めていた。裸足のまま履いたスニーカーで皮膚がすれ、足は早々に悲鳴を上げる。しかし立ち止まるのも泣きだすのも許すことができなくて、暗い道を走り続けた。
足は勝手に海に向かっていた。海斗の家に行こうとは思ったけれど、それも許されないような気がした。華を裏切るという選択をしたのは、理由が彼に関わることであったとしても自分のせいだ。彼は悪くない、何も悪くない。悪いのは自分だ。
今度こそ、死のうと思った。
ばしゃり。スニーカーのまま海に飛び込むと、すれた皮膚に海水が染みた。顔に撥ねた水しぶきは冷たく、叫びたくなったけれど堪えた。今誰にも自分の姿を見られたくない。見つけられたくない。
浜辺から離れていく度に視界は闇の色に染まり、何も見えなくなっていく。水をかき分けながら進んでいると、足が何かにつかえて転んだ。全身が水に浸かるまで一秒とかからなかった。上下が分からなくなりただ藻掻いているうちに、「死にたくない」と本能が叫んでいることに気が付く。死にたいと思って海に入ったくせに、生きたいと願う自分の矛盾に呆れて、でも助かりたくて、光る水面に向かって手を伸ばした。
「何してんだよ馬鹿」
腰のあたりを抱えられた感覚がして、急に水面が近くなった。飲み込んだ水を吐き出している間も身体は宙に浮いたままで、抱きかかえられたままなのだと気が付く。瞼に貼りついた海水を拭い、痛む目を開けると、そこにいたのは海斗だった。
「何でいるの」
「先に言うことあるだろ」
「ごめんなさい。ありがとう」
「良し」
梨花を抱えたまま、海斗は岸に向かって進んでいく。
生き延びた喜びと、死に損なった無気力感が胸の内でせめぎ合う。しかしもう一度死のうとするには水の中はあまりにも恐ろしかった。結局自分は、恥をかいてでも生きていたいらしい。
「あんたのこと自殺志願者って呼ぶから」
「え、ひどい」
「俺が来なかったら死んでたぞ、本当に」
「ごめん」
彼の泳ぐ足がぎこちない。この前はもっと綺麗に尾を動かしていたのに。そう思って「もう歩けるから降ろしてほしい」と言うと無視された。
「泳ぎにくいでしょ」
「うるさいな」
彼は黙々と泳ぎ、浅瀬に辿り着いたところで梨花を降ろした。そして泣きそうな顔で笑って、人魚が変身するところを見たいかと聞いてきた。何だか嫌な予感がして首を振ると、見てほしいとでも言うように見つめてきた。
浅い水の中に座り込んだ彼の尾は、銀色の皮膚で輝いている。見つけた一枚の鱗はそこで浮いていて、月の光に翳すと藍色が濃くなった。彼がその一枚に手を伸ばしたとき、慌てて彼の手首を掴んでいた。
「剥がさないといけないの?」
「そう。一枚剥がすと片足、もう一枚剥がすと片足になる。けど皮膚はそのままだ。乾いて干からびる」
普通に生活できるようになるまで、最低でも五枚は鱗を剝がさないといけない。そう彼は言った。淡々としたその口調が何だか怖くて、梨花は彼の皮膚に生えている鱗に目を凝らした。
「ね、後ろ向いて。うつぶせになって」
「裏はないない。もう全部剥がした」
「ねえ、もう一枚しかないよ」
「うん。一枚だけ」
「どうするの? 人魚のまま?」
彼の足にぺたぺた触ると、ひんやりと冷たい感触がする。魚の体温には人間の身体は熱すぎるのだ。そう気が付いて慌てて手を離すと、気にしなくていいよと彼は笑った。
「人魚のままではいられない。もう鰓はなくなったから」
「じゃあ人間?」
「いや。鱗が全部なくなったときに泡になる。そういう呪いなんだ」
彼の言った言葉が、何度も胃の中を巡ってかき回す。私のことなんか助けなければよかったのに。呟いた言葉の続きは、彼によって塞がれた。梨花の言葉を塞ぐように抱きしめる彼の腕は優しくて、死のうとしなければよかったなんて考えばかりが思い浮かぶ。
「俺が助けたかったから助けたんだ。むしろ、傷に残るようなことをしてごめん」
「ごめんなさい」
「謝るなよ。あんたを助けなくても、俺はいつか自分の鱗を全部剥がしていたから」
「でも」
「いいんだよ」
彼が梨花の頭を静かに撫でる。
「本当は、この前あんたを助けたときに、泡になろうとしていたんだ。でもその途中にあんたが来てさ」
「やだ、死のうとしないでよ。人魚のまま生きていてよ。息ができないなら岩で休んでてよ。食べ物なら私が持って行ってあげるから」
あんたのことが好き。だから生きていてほしい。泣きながら伝えた願いに、彼は優しく微笑んだ。
返事はキスだった。でもそれは、ごめんねのキスだ。ありがとうのキスではない。
「俺もお前のことが好きだよ。だからお前の人生を縛るのは嫌だ」
「人生を縛るとか、そんなわけない」
「あるよ。俺が人間になりきれないから」
だから最期を見届けてほしい。彼はそう言った。一人で消えるのが寂しくなったと呟く唇は、梨花と同じ海水で塗れている。
「我儘言わないでよ、ばか」
「そうだな、我儘だな。こっちの方があんたの人生縛りそうだな」
「ふざけんな」
彼はもう一度梨花を宥めるように抱きしめて、それから鱗に手を伸ばした。止める間もなく引き抜かれたそれを梨花の手に握らせて、彼はこちらの頬を静かに撫でた。
「一生許さなくていい。でも、梨花に会えてから俺は幸せになれた」
与えられたキスは優しい。ふつふつと泡になっていくそれは、甘酸っぱくなくて、塩辛かった。
泡になった彼のかけらをかき集めながら、梨花は朝を迎えた。残された鱗の藍色が、朝日を浴びて澄んだ色に変わっていくのが憎らしかった。