今日は、亜蘭さまの家庭教師の日で、香代子が小百合に転ばされて足を挫くシーンの日でもある。そのため私は家庭教師の時間になるまで自室に引きこもっていた。
 ――なのに、
「きゃぁあっ」
 と、悲鳴が耳に飛び込んで来て私は体をびくつかせる。
「えっ……今の、香代子さんの声?」
 窓の障子を恐る恐る開けて様子をうかがうと、庭の池の近くで香代子がうずくまっているのが見えた。だけど、香代子のほかに人の姿は見当たらない。
「なんで? 私は何もしてないのに、どうして転んでるの?」
 しかもご丁寧に転んだ場所も原作通りときた。偶然だろうけど、ちょっと怖くて変な汗が滲む。転んだだけなら大丈夫かと思い見守っていたが、彼女は足首をさすり目に涙を浮かべるばかりで立てない様子だった。
「あぁっもう!」
 私は仕方なく部屋を出て彼女のもとへと急ぎ足で向かった。

「あっ、小百合さん……!」
「大丈夫ですか?」
「私ったら踏み石に躓いて転んでしまって、足を挫いたようです」
 みっともないですわ、と涙を堪える彼女のなんといじらしいことか。今すぐぎゅっと抱きしめたくなるのを堪えて、私は彼女への足を見ようとその場にかがんだ。
「まぁ、腫れちゃってるわ……誰か人を、」
「――大丈夫ですか、香代子さん」
 少しかすれた低い声に、私の心臓が跳ね上がった。なんてタイミングの悪い……。振り向くまでもなくヒーロー亜蘭さまの登場だとわかり、私は顔を俯けたまま動けなくなる。
「志藤先生……」
 彼は、香代子の側に膝をついて彼女の顔を覗き込み、はっと息を呑む。涙に気付いたのかもしれない。そして、勢いよく私の方を振り向くと、「なにがあったんですか」ときつく言葉を放った。色素の薄い瞳には、確かに怒りと嫌悪が色濃くにじんでいて、私を疑っていることは一目瞭然だった。
「お恥ずかしながら、転んで足を挫いてしまいました」
「こんなに腫れて……本当に転んだだけですか?」
 あーそうですよね。どうせ私が転ばせたって思っちゃいますよね!
 あくまでも私を疑いにかかる亜蘭さまに、だんだんと腹が立ってきてしまい、私は立ち上がって二人から距離を取った。
「あの! 私を疑うのは志藤さまのご勝手ですけど、香代子さんとても痛がってるので、さっさと母屋に運んであげてくださいませんか? 私はその間に医者を呼んでくるよう人を探してきますので!」
 目を点にする二人をそこに置いて、私は使用人を探しに向かった。その間も私の中の怒りは収まらず、漫画なら頭から煙が出ていそうなくらいカッカしながら小走りに屋敷を進んで、見つけた使用人に医者を呼んでくるよう言付けた。
「まぁね、これまでさんざんなことをしてきた私が悪いんですけどね!」
 怒りは収まらず、愚痴が口を突いて出るのを止められない。私はプンプンしながらも、桶に水を汲んで手ぬぐいと一緒に母屋へ戻り、香代子の部屋へと向かう。亜蘭さまには目もくれず、私は香代子さんのそばに寄った。
「今、医者を呼びにいかせたので、もう少し待ってくださいね」
「小百合さん、ありがとうございます」
「腫れてるので冷やそうと思って水を汲んできました」
 何か言いたげな亜蘭さまを無視して私は香代子さんの手当を進める。
「何から何までありがとうございます。自分でやりますから」
「だめです、無理に動いて悪化したら困ります。任せてください」
「申し訳ないけど……お願いします」
 着物を着ていた香代子の足から足袋を脱がして、水に濡らして絞った手ぬぐいをそっと当ててやる。足首がぷっくりと腫れてしまっていて痛々しかった。
「志藤先生も、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
「いえ、私のことはお気になさらず。大事ないとよいのですが……。それと、小百合さ」
「志藤さま、父からお聞き及びかと思いますが、私は志藤さまのご指導を今後辞退させていただきとうございます」
 立ち上がり、亜蘭さまへと向き直る。またさっきのような、非難の目を向けられるのが怖くて顔は見れなかった。
「え……、あ、そうですか、教授からは何も伺っておりませんでしたが……、何か私の指導に不手際でも」
「いえ、すべて私の都合です。これまでご指導いただきありがとうございました」
 女学校で習ったお辞儀の仕方に倣って、私は腰を折った。最後に彼の目に映る自分は、少しでも美しい姿であってほしかったから。
 これで、私と亜蘭さまの接点は完全に断ち切られる。死ぬ未来を回避すべく、不安要素は排除するに越したことはなかった。
「せっかくお越しいただいたのに申し訳ございませんが、香代子さんもこんな状態ですし今日のところはお引き取りいただけますでしょうか」
「……わかりました。では、日取りは改めてご相談させていただきます。香代子さん、くれぐれもご無理なさらずお大事になさってください」
「志藤先生、本当に申し訳ございませんでした。今日のお詫びとお礼はまた後日改めてさせてください」
 挨拶もそこそこに、私は亜蘭さまを促して玄関まで見送る。本当は部屋の前でお別れしたかったけど、それではあまりにも礼に欠けるので、致し方なく。もう何も話しかけないでくださいオーラを全身に纏って、無言のまま私は早足で廊下を突き進む。
「あ、ツネさん、志藤さまが帰られます。門までお見送りをお願い」
 ちょうど玄関の方から来た女中頭のツネさんに後を頼んで、私は端に体を寄せる。亜蘭さまは一瞬足を止めてこちらにもの言いたげな視線をよこしたものの、私は気付かない振りをして俯いたまま手でどうぞと促した。
「お気をつけてお帰りくださいませ」
「……では、失礼いたします」
 彼は、ツネさんから手渡された靴ベラを使って革靴を履き、外へ出る。カラカラ、と玄関扉が閉まるまで、私は頭を下げたままその場に立ち尽くしていた。