『大正華恋ロマンチカ ~次期公爵さまの運命の花嫁~』略して『恋ロマ』は、私の転生前の世界で空前の大ヒットを記録した大正時代を舞台に繰り広げられる和風恋愛小説だ。原作はシリーズ累計100万部を突破し、コミカライズに続きアニメ化もされ、さらには実写映画化も果たした大大大ヒット作だ。 侯爵家の愛妾の子で、幼少期から手ひどく虐げられてきた不遇なヒロインが、公爵家嫡男のヒーローと出会い愛され救われるシンデレラストーリー。そのヒロインが、葛城侯爵家の庶子である香代子であり、香代子を虐げるも破滅ルートを辿る異母妹の小百合が――この私だ。
「そんなあぁ……」
 決して信じたくないのに、それはもうまぎれもない事実だった。倒れるとき、大量に流れ込んできたのは自分の知らない記憶だった。テレビや自動車など、私の知るそれとは姿形の違うものばかりで混乱し、処理しきれずに意識を失ったのだと思う。そして、寝て起きてみれば、それらの記憶たちは整理され、驚くほどすんなりと私に馴染んで全く違和感のないものとなっていた。
 知らない記憶は、私が小百合になる前の人生――転生前の記憶。そう、現世の私はなんらかの理由で死んで『大正華恋ロマンチカ ~次期公爵さまの運命の花嫁~』の世界に転生してしまったのだろう。なぜ死んだのか、その辺りの記憶は曖昧なのだけれど、過ぎたことはもはや大したことではない。
 まさか自分が、転生するなんて……。
 流行りの転生ものを読んだことはあるけれど、いざ自分が経験してしまうとなんとも奇想天外な状況に戸惑うばかりだった。
「はぁ……どうせ転生するなら、香代子がよかった……破滅ルートまっしぐらなんて嫌!」
 整理された記憶の中には、今よりも先のストーリーの記憶もしっかりとあり、全身から血の気が引いていく。小百合は母と一緒に香代子をいじめ、ヒーローとの恋路を邪魔したが、それでも二人の関係を壊せなかったため、とうとう香代子を殺そうと事件を起こす。しかし、その罪を暴かれた小百合は、どこかの家に下女として奉公に出されるのだが、そこで奴隷同然の扱いを受けた末、病気にかかって死ぬ末路を辿る。それはそれは悲惨な最後だったからよく覚えている。

 ――この鈍間(のろま)

 その言葉は、小百合が奉公先の女中頭や屋敷の主たちからさんざん浴びせられた言葉だった。これまで「お嬢さま」と蝶よ花よと可愛がられ、箸より重たいものなど持ったこともない小百合が、下働きなど満足にできるはずもなく。その上食べるものも満足に与えられず、昼夜問わず働かされ、罵られる毎日に心身ともに疲弊していった。1年も絶たずして、体は痩せこけて今の面影など欠片もなく、小百合はみすぼらしく死んでいくのだ。それがこの先自分の身に降りかかるのだと考えた途端、おぞましい寒気に襲われて、震える体を抱きしめた。
「あんな死に方、絶対いや……」
 なんとしても破滅ルートだけは回避しなくては。
「大丈夫。私が事件を起こして罰を受けるまで、まだ数か月あるわ」
 そもそも、その事件を私が起こさなければ、奉公に出されることもないだろう。これ以上、ヒロインとヒーローに関わらなければ私はきっと平穏な日々を手に入れられるはず。
「これから先は、大人しく慎ましやかに過ごす。うん、そうしよう」
 新たな決意を胸に、私は拳をぐっと握りしめていると、なにやら襖の向こうが騒がしくなり、扉がノックされた。
「――小百合さん、入りますよ」
 乱れた浴衣の襟元を整えてから承諾の返事をすると、扉が開き母が姿を現す。そしてその後ろに見えた人物に私はぎょっとする。驚きすぎて声にならない声が喉を鳴らした。
「小百合さん! 志藤さまがお見舞いにいらしてくださったのよ!」
 嬉々として母は、志藤さま――『恋ロマ』のヒーロー・志藤亜蘭(あらん)を部屋へと促したのだった。
 ダークブラウンのスーツを着こなした長身のその人は、少し頭を下げて襖を潜るように入室すると、私に軽く頭を下げて母が用意した座布団に正座した。その洗練された動作に見惚れていた私は、こちらを向いた亜蘭さまと目がばっちりかち合ってしまい、パッと顔を反らす。
 ――うぅっ……やっぱり、かっこいい……!
 さすが完璧なるヒーロー。公爵家の嫡男というこの上ない身分だけでなく、容姿端麗、頭脳明晰の豪華三本立てだ。白磁のような、けれども健康的な白い肌に、きりりと男らしい二重の瞳は透けるような薄茶色で美しい。いつもこの目を向けられる度に、私の胸はドキドキと騒がしくなる。
 一目惚れだった。
 大学で教授をしている父が、24歳で助手を務める彼を私と香代子の家庭教師として連れてきたのが私たちの出会い。彼の端正な容姿に目を奪われ、そして会う回数を重ねれば重ねるほど温厚で物静かな人柄に惹かれていった。なのに、彼の目はいつだって姉の香代子しか映していなくて、私のことは形式的にしか構ってくれないのが悲しくて……。少しでも私を見てほしい一心で、彼にまとわりついていた。それが、どれだけ彼を煩わせているかなど、前世を思い出すまでつゆとも気付かずに。
 ただただ、幼かったのだ、小百合(わたし)は。我儘でこらえ性がなく、そして高慢で。相手の気持ちを慮る思慮深さを、誰も教えてくれなかったし学ぼうともしなかった。
「お加減はいかがですか。倒れたと聞いて、驚きました」
 母が出ていき、襖が閉まるのを待って、亜蘭さまが静かに言葉を放った。そろりと顔をあげると、こちらをまっすぐに見る薄茶色の瞳と目が合い、ときが止まったかのように見入ってしまう。
 彼が見舞いに来たのは、恩師の娘が倒れたから義理を通して仕方なくのことであるのは自明の理。なのに、この場に香代子がいなくて、彼が私だけを見てくれているのが、たまらなく胸をときめかせた。
 それと同時に、同じくらい……いや、それ以上の切なさが押し寄せてきた。

 あぁ、そうか。
 私は、この初恋に自ら終止符を打たねばならないのか……。

 大丈夫よ小百合。と私は自分に言い聞かせる。生きていれば、いつかまた恋だってできるから。
「――、小百合さん……、やはりまだお加減がすぐれないのでは……」
 亜蘭さまの息を呑む気配と、少し焦ったような声に意識を戻すも、彼の顔がぼやけてはっきり見えなかった。
 ぽた、ぽた。
 正座した膝の上で重ねていた手の甲に雫が落ちて跳ねてようやく自分が泣いていることに気付いた。
「あ……、やだ……」
 濡れた頬を指で拭うも、つぎからつぎへと涙が零れてしまって意味をなさない。
「すみませ……、こんな、みっともない……」
 こんな風に涙を見せたら、亜蘭さまを煩わせてしまう……。泣き顔を見られたくなくて、俯いて涙を拭っていると、視界の端に紺色のハンカチーフが差し出された。
「使ってください。擦ると腫れてしまいますよ」
「い、いえ……汚してしまいますので」
「差し上げますから、そのまま処分してくださって構いません」
 そう言われても、と躊躇っている私の手に、亜蘭さまは半ば無理やりハンカチーフを握らせた。
「ありがとうございます……」
「まだ万全ではみたいなので、私はこれで失礼します」
「あ、亜ら……、志藤さま、今日はお忙しい中、わざわざ私などの見舞いに来てくださってありがとうございました」
 感謝を伝えると、彼はほんの少し目を瞠った後、立ち上がる。
「葛城教授もとても心配されていました。早く治して元気になってください」
 一礼して部屋から出ていく彼の背中を見送り、襖が閉じられた後も耳を澄ましていたけれど、遠くで母の甲高い声が聞こえるだけで亜蘭さまの声を聞くことは叶わなかった。