「――ちょっと香代子! この着物繕っておいてって言ったのにできてないじゃない!」

 ほつれたままの椿柄の着物を、私・葛城小百合は目の前の姉・香代子へと投げつけた。
 昨晩、今日中に直すよう香代子に命じておいたのに、今見たら昨日の状態のままで頭にカッと血が上り、その足で香代子の部屋まで乗り込んだ次第だ。
 机に向かって勉強をしていたらしい彼女は、投げつけられた着物を手に取り顔から剥がすと、白い頬にかかった濡れ羽色の長い髪を手で耳に掛けなおす。大きな瞳は長いまつ毛に縁どられて頬に影を落として艶っぽさすら感じさせる。少しぽってりとした唇は、美しさの中に少女の名残を感じさせ、女の自分から見ても香代子は魅力的だった。むかつくほどに。
「小百合さん、ごめんなさい、これからやるつもりだったの……」
 彼女は眉を下げ、心底申し訳なさそうな顔をする。それを見て、私の中のいらいらが膨れ上がる。
「明日出掛けるときに着ていくやつなのよ! 必ず朝までに直しなさいよ!」
「ごめんなさい……直したらお部屋の前に置いておきますね」
「ったく、やることなすこと遅いんだから! この鈍間(のろま)!」

 ――この鈍間(のろま)

 叫んだ直後、自分で言い放った言葉が耳に突き刺さり、何度もこだまして頭の中に響いた。
 それが引き金になったかのように、途端に心臓が激しく拍動を打ち始めて、動悸にみまわれた。
「……うっ……」
 突然、頭を鈍器で殴られたような強い衝撃が走ったかと思えば、おびただしい数の映像や文字、感情が奔流となって頭になだれ込んできた。
 なに……これ……?
 ものすごいスピードで流れていく中には、知らない人や見たこともない物など、私の理解を超えるものばかりで、処理しきれない程の情報に混乱した私は、その場に膝から頽れる。
「さ、小百合さん⁉」

 ――小百合……? 誰それ……私は小百合じゃない……。

 激しさを増す頭痛と混濁する意識の中、最後に頭に浮かんだのは、そんなわけのわからない言葉だった。



 人の話し声に意識が引っ張り上げられて、私は重たい瞼を持ち上げる。すぐ側に白衣を着た中年の男性と母の姿があった。畳の上で正座した二人がこちらを見ながら話していたようで、すぐに男性が私に気づいた。
「おや、目を覚まされたようですよ」
「小百合!」
「お母さま」
 起き上がろうとする私の背を母が支え起こしてくれる。
「あなた急に倒れて丸一日も寝ていたのよ? 一体香代子と何があったの? あの子に聞いてもわからないの一点張りだし」
「奥さま、目が覚めたばかりですのでほどほどに」
「そ、それもそうですわね」
 医師に窘められ、母はすぐに女中を呼び食事の用意を言付ける。医師は私の脈を取り熱がないことを確認すると気休めの滋養強壮剤を置いて帰って行った。母は、私が食事を終えるまで待って口を開いた。
「それで、一体何があったの? まさか香代子になにかされたんじゃないでしょうね?」
「ち、違うわお母さま。香代子は……お姉さまは何も悪くないわ」
 私の言葉に母は目を瞠り、私の額に手を当てると「熱はないわね」と首を傾げる。
「あなたが香代子を姉呼ばわりするなんておかしいわ。やっぱり頭を打ったんじゃ」
「お母さま……」
 真剣に私の頭を心配する母に私は苦笑するしかなかった。母がそう言うのも無理はない。これまで私が香代子をお姉さまと呼んだことはおろか、いつだって呼び捨てか「アレ」呼ばわりだったのだから。
「と、とにかく、私はもう大丈夫! ちょっと寝不足だっただけ。でもぐっすり寝て今はもう元気よ」
「確かに……顔色はとてもいいわね……。念のため明日まではゆっくり休みなさい」
 若干訝しがりながらも母は部屋から出ていく。気配が遠ざかるのを確認してから、私は布団に顔を埋めた。
「はぁーっ」
 大きく息を吐いて、瞠目する。
「信じられない」
 この世界が、和風シンデレラストーリー『大正華恋(かれん)ロマンチカ ~次期公爵さまの運命の花嫁~』だということを。
 そして、ヒロインを虐げ、ヒーローとの恋仲を横恋慕した挙句、毒殺を図って破滅ルートを辿るヒロインの異母妹が私だということを――。

「お願いよ、誰かうそだと言って……」